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第2話_東京都_浅草ベースボールスタジアム

 野球選手は女子アナウンサーと結婚する場合が多い。キャンプの際の取材やオフのイベントでのインタビュー等、野球選手は女子アナウンサーと言葉を交える機会が多い為である。だが、その機会に巡り合えるのはチームの主力選手、最低でも1軍で名を知られている選手に限られる。万年2軍暮らしの菓子名には関係のない話であった。

 とは言え、2軍選手だからといって1年中女性日照りという訳ではない。先輩野球選手の中には野球と同じくらい、或いは本業以上に夜の世界に詳しい者もいた。2軍とは言えプロ野球選手。その肩書きを用いた飲み会は数多くセッティングされていたし、遠征中ともなれば仲間達と一緒にネオンの中に消えていくこともざらであった。菓子名自身人並み程には夜の世界で遊んできたという自覚はある。

「女性との会話は楽しい。楽しまない手はないからね」

 そのような考えを抱きつつも、プロ入り以降、菓子名は特定の女性と深い関係を持ったことはなかった。

「恋愛と野球を両立できる程、器用な人間じゃないんだよね」

 野球であれば野球に。恋愛であれば恋愛に。2つ以上の事柄を上手くこなせる程、菓子名は要領のいい男ではなかった。中学、高校と彼女がいた時期が短期間ながらあった。だが、その時の打撃成績がよかったとはお世辞にも言えなかった。彼女の応援を受けた打席にて、菓子名はバッティングフォームを崩してしまう傾向があった。必要以上にいい恰好を見せようとするあまり、自然体でバットを振れなくなった結果であった。

 ええ恰好しいで見栄っ張り。一度形成された性格はすぐに変えられるものではない。

 プロ野球選手時代、性格を変えなかった菓子名はライフスタイルを変えることにした。少なくともプロ野球選手である間は異性付き合いをしないという掟を課したのである。

 しかしながら、菓子名の心配は杞憂に終わることになった。

 2月14日のバレンタインデーになると、全国各地から各選手宛てのチョコレートが球団に届く。チョコをもらう機会は11回あったが、菓子名宛てのものは1つもなかった。自らで掟を定めていたものの、そもそも論として異性から見てあまりモテない菓子名にしてみれば杞憂以外の何ものでもなかった。野球選手時代は浮いた話の1つもなかった。結局、現在に至るまで13年間、色のない生活を送っている。

                    ※                         

 基本的に私服に対する菓子名の考えは0か100しかない。サンダルにポロシャツのようなラフな格好。もしくは、スーツにネクタイというビジネススタイルの2通りである。学生時代、プロ野球選手時代と野球漬けだったこともあり、いわゆる「おしゃれ」に対する意識が低くなった結果である。

 そんな菓子名であるが、今着用している服装は普段の考え方とは異なるものであった。艶のあるテーラードジャケットを羽織り、ボトムにはスキニータイプのデニムパンツ。履き潰したスニーカーの代わりに、高級感漂うレザーを用いた靴を履いていた。

 今日、菓子名は「おしゃれ」をしていた。しかもかなり気合を入れて。

 先日、茨城県に出向いた際の休日出勤分の代休を取った菓子名は浅草にやって来ていた。浅草駅近くの駐車場に車を停車させた菓子名は、紙袋を片手に歩き始めた。

 今日の目的地は駅からやや距離があるのだが、街をブラブラ歩きたいと思った菓子名は敢えて目的地から遠い位置に車を停めていた。

 浅草寺へと続く商店街は平日の昼間であるにもかかわらず人通りが多い。スーツ姿のビジネスマンの他、大学生らしき一行、修学旅行にやって来たと思われる学生服の一団、外国人観光客等、多種多様な人間がモザイク模様を形成している。

(マリンスタジアムの外野応援席の熱狂振りを思い出す。地元の夏祭りみたいなガヤガヤ感は、好きだな)

 浅草はいつ来ても賑やかである。縁日のような喜色に満ちた人混みを好む菓子名は、地域住民と観光客の活気溢れるこの街が好きであった。

 浅草寺周辺の商店街を抜けると人混みもやや落ち着きを見せる。住宅街へと続く路地を歩くこと数分、菓子名は目的地である古書店に到着した。木目調の外壁に「早坂古書店」の看板が吊り下げられている。

 窓に映る自分を確認した後、前髪を弄る。来店前の最後の確認である。

「よし」

 菓子名は早坂古書店の扉を潜った。古書独特の紙の香りが鼻孔を通り抜けていく。

 店内はそれ程広くない。奥のレジカウンターまで1本の細い通路が伸びている。身体を横にしなければ2人の人間は並べないだろう。巨大な本棚が左右に聳え立つ様は荘厳であり、さながら本の神殿と言った情景を現出させていた。

(あっ、いた)

 レジカウンターの奥で1人の女性が本を読んでいた。腰まで伸びる清楚感のある黒髪。瑠璃色を帯びた瞳からは静謐を感じ取ることができる。藍色のカーディガン越しでもわかる程の痩身であり、磁器を思わせる白く細い指が細身の印象を更に強めていた。

 女性の名前は早坂琴音。この古書店の店長の1人娘である。

「早坂さん……」

 声帯を急停止させる。早坂は文庫サイズの書籍に目を落としている。遠目に見ても集中しているのがわかる。このタイミングで意図的に声を掛けるのは気が引けた。

(集中しているみたいだし、邪魔しちゃ悪いよな。うーん……何かがきっかけで彼女が俺に気付いてくれればいいんだけど……)

 菓子名は不敵に白い歯を覗かせた。名案が思い付いたのである。

「集中しているみたいだし、邪魔しちゃ悪いよな。例えば、偶然何かが起きて彼女が俺に気付いてくれればいいんだけど」

 心中の呟きを発声した菓子名は反応を待った。

 待つこと数秒後、異変が起きた。レジカウンターの前にうず高く積まれていた本の内の1冊がカウンターテーブル上に落ちたのである。

 不意の落下音に早坂が本から顔を上げた。

「あ……」

 視線を空中で絡めた菓子名は笑顔を浮かべた。

「こんにちわ、早坂さん」

「菓子名さん。はい、ご無沙汰しています」

 早坂は手にした本をパタンと閉じ、小さく頭を垂れた。

「早坂さん。これ、兄から。新作のモンブランです」

「いつもありがとうございます」

 菓子名はケーキの入った箱をカウンターテーブルの上に置いた。

「今秋の味覚フェアで発売を予定しているモンブランです。栃木産の栗をふんだんに使用しています」

「ありがとうございます。父は栗が好きですからとても喜ぶと思います」

「それはよかった」

「いつもすいません。こうして無償でお菓子を提供していただいて」

「いやいやいや、気にしないでください。これはあくまで兄貴が……じゃなくて、我が兄、菓子名洋介が自らの意思で行っていることですから。だから、その、早坂さんが気にする必要はないんです。本当に」

 早坂古書店の店長、早坂宗次朗と菓子名洋介には10年来の付き合いがあった。洋介がフランスでパティシエ修業をしていた時代、海外書籍輸入の商談にやって来ていた宗次朗と出会ったのが最初だと言う。大学を中退し、ほとんど身一つでフランスに来ていた洋介は衣食住において、宗次朗の援助を受けていた時期があったらしい。

 自らの店を持った洋介は、フランス滞在時の恩返しの意味合いを込め、創作した新作スイーツを毎月無償で宗次朗に提供していた。

「本来であれば兄が自分で足を運びたいと言っていたんですが、何分多忙でして。そこで、弟である私が代役を務めさせていただいたという訳です」

 菓子名の説明は若干ニュアンスが異なる。確かに洋介は多忙であるが、実際のところ早坂古書店への届け出役を買って出たのは他ならぬ菓子名大地であった。その目的は早坂琴音に会う為である。

 菓子名は早坂琴音に惚れていた。

 早坂琴音は23歳。都内の大学に通う文学部3年生である。1年生の時に母親の病気療養の為休学し、2年生の時に短期交換留学の為にもう1年休学。都合2年分大学を休んでいる為、23歳の年齢であってもまだ大学生であった。授業の日以外は古書店の店員として働いている。

 以前に新作スイーツを届ける際、菓子名は兄である洋介に同行したことがあった。その際に早坂に出会い、惚れた。

(俺のストライクゾーンど真ん中。このボールを見逃すようじゃあ野球人として恥ずかしいってもんだよね)

 落ち着きと静謐を湛えた言動。本質的な優しさを感じさせる物腰に菓子名は惹かれていた。

 早坂に会う為、菓子名は何かと理由を付けて早坂古書店に通っているのであった。

(プレイボールといきますか)

 静かに目を閉じ、深呼吸を行う。バットを握った自分自身を心中に思い浮かべる。場所は千葉マリンスタジアム。3万人を超す観客の視線が打席の菓子名に向けられている。

 マウンド上には早坂琴音。赤いユニフォームを身に纏い、少し大きめのキャップを被っている。

 脳内審判がプレイボールの声を上げた。

「そういえば……」

 努めて自然を装い、早坂に話し掛ける。

「以前早坂さんに貸してもらった小説、読み終わりました。いや、独創的でとてもおもしろかったです。そう、本のタイトルは確か……」

「7番通りのザッハトルテ」

 今日1番の声量で早坂の口より言葉が零れていた。

 瞳に艶が現れ、姿勢もやや前のめりになっている。

「読み終わったのですか?」

「ええ。昨晩に。私は普段恋愛小説をあまり読まないのですが、この1冊には感動しました。たまにはこうやって普段と異なるジャンルの本を読むのも面白いものですなぁ」

「5年前にオーストリアで出版された小説です。作者であるエルンスト・フォン・クレスは著明な哲学者であり、生涯で50を超える哲学書を残しています。その中で唯一遺した小説がこの本なんです。この恋愛小説は青年時代に菓子職人を目指していたクレス自身の体験談をベースに描かれたとも言われています」

 早坂の口から紡がれる言葉には淀みが一切ない。思考ではなく感情を起源とする言葉遣い特有の滑らかさがあった。

(やっぱりこの人は本が好きなんだなぁ)

 本の話題になると早坂琴音は饒舌になる。小説に限らず、絵本、図鑑、歴史本、ビジネス書籍等、本であれば何でもである。

 本のことになると目を輝かせる早坂を見るのが菓子名は好きであった。自分が夢中になっていることを語る人は見ていて気持ちがいい。

(可愛い笑顔だ。無理矢理でも小説を読破した甲斐があるってもんだよ)

 菓子名は昔から本を読まない。漫画であれば時より読むものの、活字にはとんと縁がない。恋愛小説に限って言えば生まれてこの方読み終えたのは、先日早坂から借りた「7番通りのザッハトルテ」だけである。小説の内容は、蜂蜜漬けした生クリームにシナモンと練乳を振り掛けたような甘い内容であった。正直、かなり胸焼けしたがそのまま正直に話すつもりはない。

(会話も野球も駆け引きだ。正直に本音をぶつけるだけじゃあ、相手投手からホームランを打つことはできない)

 闇雲にバットを振っても空振りするだけである。相手投手の持ち球、投球フォームの癖、配球パターンを読み取らなければ、ボールをジャストミートすることはできない。

 早坂の好きな本の話題でいい雰囲気を作る。今、会話のボールは早坂の手にある。そのボールを上手くジャストミートし、ホームランを打つことこそ、今日の来訪の最大の目的であった。

(この場面のホームランとはつまり、デートの約束を取り付けることだ)

 出会ってから暫く経つが、まだ店の中でしか会話を交えたことがない。次のステップは一緒の外出、つまりデートである。

 幸いにして「借りた本の感想」という共通の話題でいい雰囲気はできつつある。後は早坂の投げるボールをバットの芯で捉えるだけである。

 菓子名が元プロ野球選手であることを早坂は知っている。だが菓子名は、その話題を極力出さないようにしていた。これまでの話の中で、早坂はあまり野球に詳しくないことがわかっていた。それこそ、点が多いチームが勝つ。ホームランの場合はゆっくり歩いていいということくらいしか知らないのだ。そういう事情を既知としている以上、野球の話を持ち出すことは控えていた。

「見習いパティシエである主人公がお菓子作りと常連客であるヒロインとの恋に奔走する。この本で1番盛り上がるポイント、私、大好きなんです」

「1番盛り上がるポイント! アッハッハ、いやー偶然だなぁ、多分私も同じことを思っていました」

「本当ですか?」

 早坂が僅かに身を乗り出していた。

 早坂琴音という投手は会話というボールを放り投げていた。

 脳内でバットを構える。

(1番の名場面と言えば主人公がパティシエコンテストを放り出してヒロインの下へと向かうシーンだ。仕事と愛を天秤に掛け、最終的に愛を選ぶラストシーンこそ、この物語1番の山場だ)

 菓子名は確信と共にバットを振り抜いた。

「この小説で1番盛り上がる点。それは主人公のケーキ職人、ミュラーがザッハトルテに添える花をナスタチウムからリナリアへと変えた場面ですね」

「……はい?」

 バットが空を切る音を捉えた。

「それまで仕事一筋だったミュラーを表すのがこの添え花なんです。ナスタチウムは鮮やかな色の花弁が特徴の5弁花です。属名のTropaeolumはギリシャ語のトロフィーを由来としています。ナスタチウムの花言葉は勝利です。しかしながら、ヒロインと出会った後、ミュラーは自分が作ったザッハトルテにナスタチウムではなくリナリアを使用するようになりました。リナリアも花色が豊富な1年草ですが、その外見は繊細と称して差し支えない痩身を有しています。リナリアの花言葉は『私の恋を知ってください』です。添え花の変化は、主人公の心の変化を暗示しています。これまでコンテスト優勝の為に仕事一筋だった主人公が、ヒロインと出会うことで愛に目覚めていく……物語上の派手さはなくとも、1人の人間の心の変化という意味で大きな意味を持ちます。静かでありながらも、この物語で1番盛り上がる場所といっても過言ではありません」

「ア、アハハハ、そういう見方もあるんですね。私もまだまだ読解力がないみたいです。物語上の伏線がそんなところに隠されていたなんて知らなかったなー」

「いえ、この部分は文章として記述されていません」

「はい?」

「文面上から私が推測したんです。花言葉の意味を植物辞典で調べてみて、多分そうだろうと思って」

「あ……そうなんすか」

 取り繕わない地声が零れていた。

 いつの間にか店内に沈黙が落ちている。口を閉じた早坂が不安そうに菓子名を見上げている。

(まずい、空振りに気を取られている内に会話の流れを遮断してしまった)

 予想外の感想は落差の大きい変化球であった。バットを出した瞬間、ストンと地面に向かって落ちた。俄か作りの即席読書家が繰り出したバットは何もない空間を空しく薙いだだけであった。

 と、本棚から1冊の本が床に落ちた。

「あ……」

 早坂はカウンターテーブルの外に出た。床に落ちた本の埃を手で払い、元あった場所に戻す。

「変ですね……地震があった訳でもないのに」

 早坂は首を傾げている。

 本のタイトルが視界に入った。本には「なぜあなたの言葉は女性に響かないのか? モテない男の10の特徴」と書かれている。

 どうにも意図を感じる落下と本のタイトルに目を細めつつも、菓子名は気分を切り替えた。

 ファーストストライクを取られてしまった。だが、カウントはまだノーボール、ワンストライク。野球の打席はスリーストライクでアウトとなる。まだ後2回もバットを振れるチャンスが残されている。焦る必要はない。

「いやァ、それにしても……」

 聳え立つ本の壁面に視線を向けた。

「これだけ数が多いと選ぶ側も大変ですよね。先日、私も恋愛小説を読み終えてしまいまして。新しい1冊が欲しいところですが……こうも多いと何を選んでいいやら……」

 本棚に顔を向けつつ、視線を早坂に向ける。

 早坂はしきりに両手を組み解いている。頻繁な視線の遷移はどう見ても落ち着きがない。

「早坂さんのお薦めの1冊とかあったら、よかったら教えてくれますかね?」

「いいんですか?」

 瞬時に両目が輝く。その言葉を待ってましたと言わんばかりの表情変化であった。

「何か読みたいジャンルの本はありますか? 小説とか、ビジネス本とか」

「そうですね……最近ちょっと疲れが抜けない日が多いんですよ。仕事のストレスからくる精神的な疲れだと思うんですけど。こういう心が疲れている時、何か気分をリフレッシュできる本ってありますからね?」

「……!……ちょっと待っていてください」

 早坂は小走りに店の奥へと消えていった。何やら思い当たる1冊があるのだろう。

 菓子名は小さく笑みを浮かべた。

(1球目は空振りを喫したが、2球目はそうはいかない。何せ、相手投手の投げる球が予想できるからね)

 プロ野球球団の中にはメンタルトレーナーを雇っている球団がある。選手達の心のケアから実践的なイメージトレーニングまでを司る心理面のプロである。また、選手によっては個人契約しているメンタルトレーナーもいた。そう言った人物との付き合いの中で、リフレッシュ方法に関する識が自然と溜まっていったのである。

(リフレッシュ方法に関する本ならそれとなく話題を合わせることができる。そうすれば会話だって弾んで……)

「菓子名さん、お待たせしました」

 店の奥から戻って来た早坂は、革張りの巨大な本を抱えていた。

『高等魔術における使役悪魔の選定方法。召喚から忠義の契約に至るまで・入門編』

 電話帳程の大きさと厚さを誇る本のタイトルが視界に映る。

「えっと、あの、これは?」

 重さ1キロを優に越えるであろう本がカウンターテーブル上に置かれる。

「最近では若い人達の間でタロットカードや可愛らしい天使、悪魔を象ったマスコットキャラクターが流行していると聞いています。古来より、天使や悪魔、魔術等は多様な解釈で人々の生活に大きな影響を与えてきました。人智を超えた力の象徴としての役割に『癒し』が存在した事実は歴史が証明しています」

「えっと、早坂さん?」

「この本は19世紀末に英国で記されたものです。作者であるアーサー・ストークスは王室お抱えの天文学者であり、現代に生きる魔術師の異名を持っていました。『悪魔』がイコール『人の負の部分』という式が通念化していた当時のヨーロッパにおいて、彼は悪魔とは人間の心を写す鏡であると主張したんです。悪魔とはどんな人間の心にも住む寡黙な同居人であり、『ついつい仕事中にお酒を飲みたくなるような感情』のようなものだと生活観溢れる見解を述べたんです。だから、その人その人が内に宿す悪魔を知れば、人間の精神はより豊かになると。この本は日常生活の中でできる悪魔、つまり、人間の小さな欲望のセルフコントロールの術が書かれています。1世紀以上前のものですが、それ故、読む人の精神に訴え掛ける不思議なパワーに満ち溢れています。きっと菓子名さんも読み終えた時、心が軽くなっていると思います」

 早坂は予想通り変化球を投げた。だがその変化量と切れ味は菓子名の予想を遥かに超えていた。胸元を抉るようなシュートボールを前にバットは再度空を切った。

 早坂琴音。薄々感じてはいたが、彼女の本に対する感性はかなり独特である。

「この本、菓子名さんにお貸します。後で感想を聞かせてください」

「あ、ありがとうございます」

「この本の面白いところは、召還に至る際の詠唱文言が多数の言語パターンで収録されている点です。英語を始め、フランス語、ギリシャ語、古代ラテン語、面白いところではエノク語等もあります」

「あ、あぁ、知ってますよ。あれですよね、あー……」

 気を取り直して会話を継続しようとする。だが言葉が浮かんでこない。この話題を広げられる気がしなかった。

(全然自分のペースに持ち込めていない。このままじゃデートに誘うきっかけを失ってしまうぞ)

 2球連続の空振り。ノーボール、ツーストライク。

(まずい……追い込まれた)

 ボール球なしのカウント。投手側絶対有利のカウントである。

 脳内打席内の菓子名は手持ちのバットを短く持った。バットを短く持てば、その分速いスイングスピードでバットを振ることができる。長打性は犠牲になるが、落差の大きい変化球にも対応できるようになる。

 最早なりふり構っていられない。次の球を空振りすれば文字通りアウトである。

「あー、悪魔の話題で思い出したんですが、今日は……いい天気ですねぇ」

「え? あ、はい。私もそう思います」

 菓子名は無理矢理話題を変更した。

「最近は晴天の日が続きますなぁ。青空! 白い雲! こういう天気が毎日続いてくれると嬉しいですよね」

「今朝の天気予報を見ました。予報によると当分は夏晴れの日が続くと」

「おぉ、それは好都合……じゃなくて、幸運ですね。8月の青空っていうのはいいですよねぇ。こう、空気もカラッとしていて気持ちいい。何だかこういう晴天の日にはどこかへ出掛けたくなりませんか?」

「え?」

 早坂の声には驚きの響きがあった。

「どうでしょう早坂さん。せっかく晴天の日も続くようですし。今度の休日、どこかに出掛けませんか?」

「私と……ですか?」

「そうです」

 早坂は僅かに口を開いた状態で驚きを表していた。何か言いた気に喉下が微動するが、唇間から言葉が零れることはない。内なる考えを発声することを躊躇っているように見えた。

(う……ちょっと強引過ぎたかな)

 話題転換に無理があったかもしれない。

「……はい」

「へ?」

 菓子名は鼓膜に肯定の単語を捉えた。

「私でご迷惑でなければ……一緒にその、よろしくお願いします」

 早坂は俯いたまま、両指を組み解いている。

「あの……実は私、その、1度いってみたい場所があるんです」

 菓子名は心中で指を鳴らした。

(よしっ!)

 デートの約束はほぼ取れた。後は相手の要望通りの答を返すだけで「ほぼ」の単語を取り去ることができるだろう。

 脳内バットを1回り短く持つ。

(さぁ、フォークでもカーブでもスライダーでも何でも来い!)

「……ランド」

 消え入りそうな小声が鼓膜を震わせた。

「へ?」

「ダズニーランドに……いきたいです」

 早坂の両頬がうっすらと赤面していた。

 ダズニーランド。千葉県浦安市にある巨大テーマパーク。ネズミをモチーフとしたダズニーマウスが主役の、言わずとしれた夢の国。老若男女問わずの人気テーマパークであり、もちろんデートスポットとして利用されることも多い。というより、デートスポットとしては超が付く程のメジャースポットである。

 100パーセント変化球待ちの状態で突然直球を放られた。しかもストライクゾーンど真ん中に。

 完全に裏をかかれた形になった。腰砕けになったバッティングフォームから、滅茶苦茶なスイングが繰り出される。

「私、ダズニーランドにいったことがないんです。小学校の遠足もダズニーランドだったのですが、インンフルエンザで寝込んでしまって。1度いってみたいと思っていたのですが、1人でいくのは気が引けてしまって……」

「あぁ! あぁ! いいですよね! ダズニーランド! 私も久し振りにいきたいと思っていました!」

 心中のバットを短く持っていたことが幸いした。何とか会話のボールにバットを当てることができた。

「菓子名さんはお好きなんですか? ダズニーランド?」

「最近は足を運んでないですけど、昔からダズニーランドが好きでして」

 早坂と話を合わせる為、咄嗟に嘘を口にしていた。

(学生時代は野球漬けの日々だった。彼女がいれば違ったのかもしれないんだけど……どうにもその手のテーマパークとは縁がないんだよね)

 小学生時代に家族といった記憶はあるが、それも20年以上前のことである。この話題はこれ以上掘り下げず、早急にスケジュールの話に移るべきであろう。

「それじゃあ、予定はどうします? 来週の土曜日とかどうです? あ、でも早坂さんは大学生だから講義のスケジュールの問題もありますね。それを加味すると……」

「あ、あの菓子名さん……多分、無理だと思います」

「え?」

 やんわりとした拒否の言葉に目が点になる。

「あ、違います。菓子名さんと一緒にいくのが嫌とか……そういう訳じゃありません」

「そ、それじゃあどうして無理なんです?」

「多分、チケットが取れないと思います。今、ダズニーランドはサマーナイトパレードという大規模なイベントを開催しているらしいんです。今年は創立60周年記念ということで例年以上に大規模らしくて。チケットは1ヶ月以上前から完売状態だと聞いています」

「えぇー?」

 携帯電話でダズニーランドのホームページにアクセスした。チケット情報を見る。

「今月分のチケットは完売しました。お客様の安全とテーマパーク各種施設の円滑運営を考慮した結果、現在販売させていただくチケット枚数と18時以降の入場人数に制限を設けさせていただいております。お客様には何卒ご理解の程……」

 注意書きの文字を無機質に読み上げていく。

「残念ですけど、ダズニーランドはまた別の機会ですね……」

 早坂は残念そうに肩を落としていた。

 一方の菓子名は理不尽な現実を前に眉根に皺を寄せていた。

(夢の国なのに現実的なことを言ってくれるじゃないか)

 せっかくの初デートなのだ。相手女性が希望する場所にいきたいというのが本音である。

 何か手はないかと記憶の中に打開策を求める。

 1つの打開策が心中に芽生えた。

(そうだ……今挑戦せずにいつ挑戦するんだ)

 心に炎が灯った。成功確率は低いが、当てがある。ならば迷う必要はない。

「早坂さん、チケットの件、何とかなるかもしれません」

「本当ですか?」

「ええ。ちょっと当てがあるんで。それでですね、もしもチケットが手に入ったら、ダズニーランド、一緒にいってくれますか?」

「あ、はい。私でよければ」

 ちょっと言葉に詰まりつつ早坂は首を縦に振った。

 菓子名は心中で笑顔を浮かべた。確約とまではいかないが、暫定的な約束を取り付けることはできた。ホームランではないが、詰まりつつもライト前ポテンヒットを放つことができたと言えるだろう。

「それじゃあ早坂さん。ちょっと今から当ての人に会って来ますんで」

「あ、菓子名さん……」

 早坂から借りた分厚い本を抱えた菓子名に言葉が投げられた。

「どうしました?」

「あの……無理なさらないでくださいね」

 両の瞳には心配の色が湛えられていた。

 その瞳に気になるものを感じつつも、菓子名は笑顔で手を振り返していた。

「吉報を期待していてください」

                    ※

 善は急げ。

 早坂から借り受けた本を車に置いた菓子名は、浅草のとある場所にやって来ていた。

 その建物は奇妙な外観を有していた。水色の外壁と赤色の柱を有する2階建ての建造物。2階部分にはとてつもなく巨大な野球グローブとボールが取り付けられている。

「勝負だ。浅草ベースボールスタジアム」

 宣戦布告と共に菓子名は建物の中に入った。

 浅草ベースボールスタジアムは、筑波エクスプレス浅草駅の近くに店を構えるバッティングセンターである。自宅である飯田橋から比較的近距離にある為、菓子名が頻繁に訪れるバッティングセンターの1つでもあった。

 階段を上がった菓子名は入口のドアを開けた。奥行ある縦長の空間。入口から見てすぐ左に受付用のテーブルがある。店内には各種アーケードゲームの他、バスケットボール用フリースローマシンが設置されている。奥には硝子ケースがあり、中にはプロ野球選手のサイン色紙やボールが飾り立てられている。

「いらっしゃいませ……って、何だ。元プロさんじゃないか」

 顔見知りのアルバイト店員がカウンターテーブルの奥から出て来た。

「バイト君、今日は君だけかい?」

「そうだよ。社長は商工会の集まりで出掛けてる。元プロさんは今日はオフなの?」

「いや、俺の仕事はこれから始まるところさ」

 眼前のアルバイトの青年は大学生らしいが、それ以上の情報を菓子名は知らない。何と呼べば言いと以前尋ねた時、バイト君でいいよということで、以来バイト君と呼んでいる。

「バイト君、あれに挑戦させてくれ」

 あれという単語にバイト君の両目が細められた。

「へぇー、元プロさんもついにその気になったという訳か。1度きりのチャンスだよ。本当にいいの?」

「男に二言はない。それに、男には勝負時というものがある」

「今がその時なの?」

「そうさ」

「そこまで言うなら止めないよ」

 バイト君は肩を竦めた。

 店側の了解は得た。専用のバッティングカードを購入し、その場所へと向かう。

 浅草ベースボールスタジアムには5個のバッティングゲージが設置されている。投球マシーンはバーチャルであり、現役プロ野球投手の映像が映り出されている。

 1人目は仙台ワイバーンズの則木投手。もう一人は大阪サーベルタイガースの藤朗投手。両者共に速球派の先発完投型投手であり、若くしてチーム内のエースである。菓子名がプロ野球選手を引退した年のドラフト指名選手であり、実際に対戦したことはなかった。

 だが、菓子名の今日の目的地はバッティングゲージではなかった。ゲージの前を通り、目的地に続く硝子扉を開ける。

 菓子名はストラックアウト用のブルペンに足を踏み入れた。足元には投手用のプレートが埋め込まれている。前方には、1から9の数字が其々描かれた四角いパネルが正方形に配置されている。

「ふむ、魑魅魍魎の類を纏めた邪教本かと思ったが、中々どうして面白い内容じゃ。早坂琴音。面白い本を紹介するものじゃな」

 菓子名の横に音もなく千歳が現れた。その手には先程早坂から借りた本の姿がある。

「勝手に本を持ち出すなよ。誰かに見られたらどうするんだ」

「ふん、我がそんなヘマする訳なかろう。この本は今、我の身体の一部となるよう術を掛けておる。周りの者には我の姿同様見えてはおらぬわ」

 菓子名に取り憑いた地縛霊、久慈封千歳。いつものように、野球のユニフォームの上に袖の長い和服という奇妙な格好をしている。

(まぁ、千歳が見えているのは俺だけみたいなんだけどね)

 千歳が奇妙なのは恰好だけではない。千歳は霊体でありながら、現実世界に物理的に干渉できる不思議な力を有している。手にした本を周囲に見えない状態にさせているのもその力の応用らしい。

 先の早坂古書店で早坂の注意を引く為に本を落下させたのも千歳である。

「惚れた異性の為に行動を起こすか。いやはや、菓子名大地も中々どうして熱情的な一面があるらしいのぅ」

「久し振りの恋愛感情なんだ。熱情的にもなるさ」

「初心な奴」

「ほっとけ」

「それで? 熱情的な行動とバッティングセンターがどうして結び付くのじゃ? 遊ぶより先に『だずにーらんど』とやらの入場許可証を手に入れるのが先じゃろうに」

 菓子名は壁面に貼り付けられたポスターを指差した。

『浅草ベースボールスタジアム特別企画! ストラックアウト完全パーフェクトでダズニーランドペアチケットプレゼント!』

 ダズニーランドの文字が強調される形のポスターであった。

「ここ、浅草ベースボールスタジアムではな。ストラックアウトでパーフェクトを取ると豪華賞品がもらえるのさ」

 ストラックアウトとは、ボールを12球使用して9枚のパネルを打ち抜く競技である。バッティングセンターは文字通りバッティングを行う場所であるが、最近ではピッチングを楽しむことができる設備がある場所も多い。ホームベース上に3×3枚、正方形状に計9枚のパネルが設置されており、打ち抜いたパネルの枚数に応じて賞品や賞金をもらうことができる。

 菓子名は以前に浅草ベースボールスタジアムに訪れた時、ストラックアウトの賞品がダズニーランドペアチケットであることを知ったのであった。

「なるほど、早坂に言っていた『当て』とはこれか」

「そう。このストラックアウトでパーフェクトを取ってダズニーランドのペアチケットを獲得しようって作戦さ。普通だったら何度でも挑戦できるけど、俺は元プロってことで1回しか挑戦できないっていうのが店との約束になってるんだ」

 その為、挑戦は本当に「いざ!」という場面の為に取っておいた。そして、その「いざ!」という場面がとうとう訪れたのである。

「そう簡単にいくかの? 確かに貴様はプロ野球選手であったが、それは野手でのこと。投手でない貴様が9分割の的を射抜けるとは思えん」

「俺は中学時代までは投手だったんだよ。比嘉南中の精密機械と呼ばれた実力を見せようじゃないか」

 菓子名はプレイ用カードを機械の投入口に入れた。

 機械音声が「プレイボール」と掛け声を上げた。

「4番」

 機械音声がパネル番号を無機質に告げる。最近のストラックアウトでは機械がランダムに数字を指定するタイプのマシーンが増えている。番号を指定したほうがよりゲーム性が生まれる為である。

 機械音声を聞き流した菓子名は、機械から放り投げられたボールを空中でキャッチした。

 ストラックアウト1回のゲームで投球可能なボール数は12球。パネルは全部で9枚の為、ミスできる遊び玉は3球となる。

 菓子名は野手モードから投手モードに精神スイッチを切り替えた。

(まずはいけるところまで自分のペースでいかせてもらうかね)

 軽く振り被った後、手にしたボールを放る。糸を引いたように真っすぐ飛んだ白球がど真ん中の5番パネルに打ち当たった。

「ストライーク!」

 機械音声が命中を告げる。

 2球目を手にした後、再度放り投げる。スピンの効いた直球が1番パネルを貫く。

 続いて、3球目、4球目、5球目と菓子名はボールを放り投げた。其々のボールは2番、3番、6番のパネルを貫く。

 都合5球で5枚のパネルを打ち抜いた。

 上々過ぎる結果であったが、菓子名の顔に笑顔はなかった。

「ここからじゃろ、難しいのは」

 千歳が小さく呟いた。

 実際その通りである。

 大きく振り被った後に投げられた6球目。直球はしかし、既に命中済みの5番パネルに打ち当たった。命中済みのパネルに再度ボールを当てても得点にはならない。ガンという虚しい音のみがブルペン内に響き渡った。

「どれ程コントロールが優れたプロ野球投手であっても、ストライクゾーンは4分割が限界じゃと言われておる。外角低め、外角高め、内角低め、内角高めの4分割じゃ。この手のゲームのように9分割でボールをコントロールできる投手等、野球史を紐解いてもおらんはずじゃ」

「ストライクゾーンの9分割投球。それができればリアルものの精密機械だよ。北別府も小宮山もびっくりってね」

「小山正明でもできたか怪しいのぅ」

 2人が例に出したプロ野球選手達は、其々が皆「投げる精密機械」の異名を誇った大投手達である。

(俺はボールを真ん中に集めることを意識して投げているだけだ)

 精密機械とはコントロールに優れた投手に与えられる敬称である。

 だが、菓子名の場合は趣が異なっていた。

 菓子名が投げるストレートは必ずといっていい程ストライクゾーンど真ん中に集まる特徴があった。思い切り投げようが、力を抜いて投げようが、打者にとって絶好の位置にボールが集まってしまう。

 菓子名にとっての精密機械の二つ名はつまるところ蔑称であった。

「それでも、やりようはあるんだよね」

 菓子名は機械から吐き出された白球をキャッチした。

「7番」と機械音声が無機質に目標を示した。

(残念ながら、次に狙うのはそこじゃないんだよ)

 床に埋め込まれたプレートから足を外した。プレートから右に2歩離れた位置で振り被り、ボールを投げる。

 イメージ通りのストレートが6番パネルに吸い込まれていった。

「ストライーク!」

 今度はプレートの後方3歩に陣取る。距離が離れた為、機械から放られたボールがワンバウンドの後、菓子名の手に収まった。先とまるっきり同じフォームでボールが投げ放たれる。マウンド後方からの投球の為、投げられたストレートはホームベース付近で少し威力を失った。下降線を描いた白球が右打者の内角低めに該当する9番パネルに打ち当たった。

「ストライーク」の掛け声を聞き終わるより先に、次の行動に移る。今度はプレートより若干前に位置を取った。機械から投げ渡されたボールをジャンプしてキャッチする。

(同じフォーム、同じスピード、同じ軌道で……)

 心中の呟きと同時にボールを投げる。プレートより前で投げられた為、ボールはプレート上で投げられた時よりも高い軌道を描き、高めに設置された3番パネルに打ち当たった。

「ストライーク!」

 都合3球で3枚のパネルを射抜いて見せた菓子名は得意気な笑みを浮かべた。

「ふっふっふ、バッティングセンターの投げる魔術師と呼んでくれたまえ」

 試合の場合、投手は投球の際にピッチングプレートを使用する。投球の際に足の一部がプレートに触れていなければならない旨が野球規則に定められている。少しでも足が離れていると審判に不正投球と判断される。

 しかし、バッティングセンターのマウンドに野球規則は適用されない。投球の際にプレートに足が触れていなくても問題ない。極端な話、踏み越え防止用のネットを越さなければどの位置から投げても構わないのである。

 菓子名は自らの球癖を利用した。投げた球がなぜかストライクゾーンど真ん中に集まってしまう悪癖。通常試合であれば役に立たない悪癖だが、バッティングセンターという野球規則に則らない場所では利用可能な武器となる。

 球の軌道ではなく投球位置を変えることでボールのいき先をコントロールする。

「名付けて、変幻自在の位置変え投球術。通常の試合ではお目に掛かれない芸当だよ」

「よくもまぁこんな狡い手を思い付くものよ」

 千歳は呆れたと言う風に肩を揺らしていた。

「ペテン師の諸行に近いのぅ」

「ケース・バイ・ケース。状況に応じて攻め方を変えるのは投手も野手も変わらない。都度変化する状況に対応してみせてこそ1流ってものさ」

「けーすばいけーすのぅ。じゃが、1流を気取るのは最後の1枚を打ち抜いてからにすることじゃ」

「当然。油断はしていないさ」

 小さく深呼吸した後、残り1枚だけとなったストラックアウトのパネルと正対する。

「7番」

 機械音声が最後の標的をアナウンスする。ここに来て初めてアナウンスと思惑が一致した。9枚あるパネルの内、7番を除く8枚のパネルはその光を失っている。唯一7番のパネルだけが最後の挑戦者を歓迎するかのように煌々と輝いている。

(7番パネル。右打者で言ったら外角低め一杯と言ったところか……)

 残り球は3。単純に計算して2球の遊び球がある。その事実があって尚、下腹部に重い感触を覚えずにはいられない。

「何だ、いい感じじゃないか」

 いつの間にか扉の向こうにバイト君がやって来ていた。

「さっきから1人でぶつぶつ喋っているから大丈夫かなって思っていたけど、後1枚でパーフェクトとはね。さすがは元プロさんってことかな」

「独り言は俺の精神統一方法なんだよ。それよりも、パーフェクトの賞品の準備、忘れないでよね」

「わかってるって。でも、7番パネルか。また厄介な場所のパネルを残したものだね」

 バイト君は大学で草野球サークルに入っていると以前に聞いたことがある。その経験から7番パネルにボールを当てることの難しさを知っているのだろう。

(外角低め一杯のストレート。ここにいいボールを投げられるか否かが、投手の実力を測る指標になる)

 右投げ投手が右打ち打者と対戦する際、外角低めのコースへの投球は最も神経をすり減らす。力を入れ過ぎればボール球になり、抜き過ぎるとボールがストライクど真ん中にいってしまう。投手にとって非常にコントロールが難しいコースなのである。

(外角低めにグイッと曲がるスライダー。打てた記憶がほとんどないな)

 スライダー等の横の変化球が外角低めに投げられた場合、右打者から見ればストライクゾーンからボールゾーンへと球が逃げていくように見える。打ち気に逸った右打者はボールゾーンへと逃げていく変化球に空振りを喫することになる。コース別の打率を見ても、外角低めを苦手とする右打者は多い。

 右打者が苦手とするコースである為、リードする捕手も積極的に活用する。だが、少しのコントロールミスが即痛打に繋がる危険なコースでもある。ある監督は、外角低めできっちりストライクが取れれば投手として飯が食えると言っていたが、決して大袈裟な表現ではないと菓子名は思っていた。

 プレートから見て左に3歩、後方に2歩下がった場所に陣取る。位置変え投球術を駆使すれば、この位置からでの投球で9番パネルを打ち抜ける計算となる。

 ピシュッという小気味よい音と共に白球が投げ放たれた。

 直球はしかし、既に打ち貫いた9番パネルに当たってしまった。狙った位置から30センチメートル近くずれてしまっている。

(落ち着け。残り球は2球ある。後1球ミスしてもいい計算だ)

 深呼吸した菓子名は続けてもう1球を投げた。先程よりもコースはましになったが、如何せんボールに伝達する力が強過ぎた。スピードが落ち切らなかったボールは、綺麗な直線軌道を維持したまま、1番パネルに打ち当たった。

 遊び球を使い果たした。

 後がなくなった。

 思わず舌打ちした。先入観の律儀な仕事振りに対する舌打ちである。

(まったくさ。先入観ってのは本当、投球フォームに対する癌だよね)

 投手を始めたばかりの小学生時代。右打者に対して外角低めに投じた1球が内角に入り、サヨナラホームランを打たれたことがある。その苦い記憶が「外角低めは苦手」という先入観となり、菓子名の投球フォームを僅かに狂わせていた。

 全身の筋肉がスムーズに連動するからこそ投手は狙ったコースにボールを投げることができる。身体の捻りと捩じりによって蓄積されたエネルギーが最終的に指先から白球に伝達される。伝達までのタイミングが少しでもずれると、蓄積されたエネルギーが分散してしまい、力強い球を投げることができなくなる。

 崩れた投球フォームを修正する為に投手は数多くの投げ込みを行う。自身の投球映像や鏡を用いてフォームチェックも行う。

 だが、今の菓子名には投球フォームを修正する時間がない。投げられるチャンスは後1球しか残されていない。

(9回裏2死満塁。スコアは3対3の同点。カウントはスリーボール、ツーストライク。ここでボール球を投げればその時点でサヨナラ負けという訳だ)

 絶対絶命の状況で菓子名は笑みを浮かべた。

「こりゃ駄目そうじゃのぅ」

 千歳が菓子名の顔を下から覗き込んだ。

「投手も打者も名選手と呼ばれる者は滅多に感情を顔に出さないものじゃ。特に投手は無死満塁のピンチでも動じない程の図太い神経がなけりゃ務まらん。その意味で菓子名は駄目じゃな。もう後がないというのにニヤニヤしおって」

「これは切り札を抱え持つ者の笑みだよ」

 プレート上で片膝を付く。左足にコンクリートの地面の冷たい感触を捉える。右手を前方に突き出し、人差し指の先に7番パネルが重なるように合わせる。

「小指……薬指の先……ん、この位置だな」

「何の儀式を始めるつもりじゃ?」

「切り札の下準備だよ」

 疑問に対し笑みを返す。

「千歳の言う通りだ。投手ってのは図太い神経がなきゃ務まらない。でもさ、投手ってのは不思議な生物でね。絶対に打者がバットを振らないっていう確信があれば、どれだけ危ないコースであっても思い切り腕を振ることができるんだよね」

「菓子名の仮定に意味はないの。野球とは投手と打者の戦いじゃ。打者が絶対にバットを振らないという状況等あり得ぬ。仮に打者がバットを出さない状況があったとしたら、それは投手がボール球を投げた時じゃ。じゃが、ボール球を何球投げても投手は打者に勝つことはできぬ」

「魔球がある」

「なんじゃと?」

「魔球だよ。絶対に打者が手を出せない魔球を俺は持っている」

 菓子名は人差し指を左右に振った。

「この魔球はストライクゾーンに入りながらも、あら不思議。絶対に打者はバットを出すことができない。打者は通過するボールを呆然と見送るだけさ」

「まさか。我も野球を見てきて1世紀以上になるが、そんな魔球は見たことない」

「だったら見せてあげようじゃないか。だけど、その魔球を投げる為には千歳の協力が必要なんだよね」

 菓子名は千歳の耳元に口を近付けた。

「後ろにバイト君が陣取っているだろ。俺が投球する時、何とかして彼の注意を逸らして欲しいんだ」

「また我に座敷童めいた真似をさせる気か?」

 腕を組んだ千歳は唇をへの字に曲げていた。

「頼むよ。バイト君が見ていると、ちょっと都合が悪いんだ」

「我は誇り高き久慈封家の生まれじゃ。そんな有象無象の妖怪のような真似、『はい、わかりました』と首肯できぬわ」

「アイスクリーム奢るからさ」

「お主、あいすくりんを奢れば我が何でもやると思ってないかの?」

「よしわかった。それじゃあ今回は特別にハーゲンダッズを奢るよ」

「はーげんだっず?」

 不可視の疑問符に対し菓子名は白い歯を向けた。

「そうかそうか。千歳はまだハーゲンダッズを食べたことがないのか。いやー、現世にせっかく蘇ったのにもったいないなぁー。ハーゲンダッズ! アメリカ生まれの高級アイスクリーム! パッケージから漂う高級感。肌理細やかな表面。フンワリと優しい舌触りが口内に広がり、心地よい冷たさとなって喉を流下していく感覚……1度食べたら病み付き間違いなしのアイスクリーム。それがハーゲンダッズさ」

「ほ、ほぅ」

 千歳の中で好奇心と食欲が揺れているのがわかった。視線が不規則に泳ぎ、どこか落ち着きがない。

 数秒の沈黙を挟んだ後、小振りな口元が微動を見せた。

「我は誇り高き久慈封家の生まれじゃ。高貴な出自の者は……時には自らの器の大きさを示す必要がある」

「ふむふむ、それで?」

「じゃから、菓子名の提案に乗ってやろうというのじゃ。これは我の矜持と照らし合わせて出した結論じゃ。我の名誉の為に言っておくが、決してはーげんだっずに後ろ髪引かれた訳じゃないからの」

「交渉成立という訳だ」

 ハイタッチの後、千歳は霧のように姿を消した。

「1人で何やってるの?」

 見えない空間に手を伸ばす菓子名に対してバイト君は首を傾げている。

「いや、後1球でパーフェクトだと思うと緊張しちゃってな。ちょっと挙動不審になってただけだよ。パーフェクトの賞品を前にすると、さすがに緊張する」

「うちを贔屓にしてくれるのはありがたいと思うよ。でも、元プロさんは無職無収入って訳じゃないんだからさ。そこまで賞品にこだわる必要もないと思うけど」

「色々と事情があってね。どうしてもパーフェクトの賞品が必要なんだ」

「相変わらず野球が好きな人だね……うん?」

 異変に気付いたバイト君が店の入り口に顔を向けていた。

 ノックの音である。コンコンという規則的な音が店の入り口の方角から聞こえた。

「変な客だな。別に鍵はかかっていないんだけど……」

 首を傾げつつもバイト君は店の入り口へと歩き去っていった。

(サンキュー千歳)

 7番パネルに正対する。

(実戦で試したことはないけど、練習なら何度も成功しているからね。このバッティングセンターならいけるはずだ)

 投手時代、どうしても外角低めにボールを投げられない菓子名は外角低めにボールをコントロールする為の方法を数多く試した。ボールのリリースタイミング、腕を振る角度、ステップ幅等、試行錯誤を繰り返した。

 魔球は試行錯誤の最中に偶然誕生した。ストライクゾーンに入りつつも絶対に打者がバットを振らないという魔球である。

 だが、この魔球は投球する場所を選ぶという欠点があった。場所によっては機能しない。駐車場や体育館内では問題ないが、屋外球場ではその威力を最大限に発揮できなった。その欠点もあり、実戦での使用経験はなかった。

(でも、ここは浅草ベースボールスタジアム。屋内のバッティングセンターだ、魔球が投げられる条件は揃っている)

 目を閉じる。小さく深呼吸し、集中力を高める。

 菓子名は千葉マリンスタジアムを思い浮かべた。マウンド上にはユニフォーム姿の菓子名。超満員の観客達からの歓声でスタジアムが揺れている。

 9回裏2死満塁。スコアは3対3の同点。カウントはスリーボール、ツーストライク。ボール球を1球でも投げようものならその時点で押し出しサヨナラ負け。投手として最も重圧の掛かるタイミングでの登板である。

 打席には青いユニフォーム姿の打者の姿がある。打者としてイメージされた顔はバイト君であった。

(浅草サンダー・ゲーツに在籍している内野手。広角に打ち分けるシュアなバッティングが売りの中距離バッター。元々は長距離砲として期待されたプルヒッターだったが、打撃フォームを変えてから打棒開眼。一気にチームの中心打者に成長する。外角低めのコースを苦手とするが、それ以外のコースの平均アベレージは3割を超える。選球眼がよく、四球数と出塁率は毎年リーグランキング上位に名を連ねている。今シーズンの成績は、打率3割3分6厘。本塁打15本。88打点……)

 背景設定を決めることで精神を落ち着かせる。

 斧を振り上げるかのような重厚さを纏いつつ、ワインドアップモーションの構えを取る。古傷に負担が掛からないよう最小限の高さで左足を上げ、軸足である右足に体重を乗せる。半瞬の停止の後、上半身を捻り込む。引き絞られた弓矢のようにピンと張った痩身が天に向かって聳え立つ。躍動は臀部から始まる。軸足を曲げることなく臀部を前方に動き出すヒップファーストの構え。平仮名の「く」の字を描いた身体が前方に流れていく。降ろされた左足が勢いよくマウンド上の大地を踏みしめた瞬間、捻りによって蓄えられたエネルギーが体内を駆け巡った。下半身に蓄えられたエネルギーが上半身に駆け上る。臀部から胸部、肩、上腕筋、二の腕、掌へと、其々の筋繊維と関節がダイナミックに噛み合うことで増幅したエネルギーが瞬時に指先に集まる。鞭のようにしなった右腕が大きな弧を描く形で振り下ろされた。

 最後の1球が手より放たれた。綺麗なバックスピンの掛かったストレートが大地を舐めるように飛ぶ。

 滑空機のように飛んだ白球はしかし、軌道が低空過ぎた。白球は目的地である7番パネルの遥か前の地面に落下した。

 軟球が地面に触れた瞬間、菓子名は白い歯を覗かせた。

(よしっ!)

 地面に触れたボールはその軌道を縦に変化させた。スピンの効いたボールがコンクリートに打ち当たり、その勢いで縦に跳ねたのである。

 跳ねたボールは最高高度に達するより先にパネルにぶつかり、強制的に停止した。

「ストライーク!」

 白球が力なくポトリと地に落ちた時、7番パネルの光は消え失せていた。

「パーフェクト!」

 一際高い声音の機械音声がゲームの終了と、菓子名の勝利を告げていた。

「打者が絶対に手を出せないボール。そりゃそうじゃ」

 いつの間にか戻って来た千歳が呆れの表情を浮かべていた。

「俺はストライクゾーンに入れると言った。ストライクを取るとは一言も口にしていないよ」

「いくらストライクゾーンに入った絶好球であっても、ワンバウンドすればボール球じゃからの。実戦じゃ使いものにならん」

「そういうこと。試合じゃ使いものにならないって欠点を克服できなかったんで、この魔球の採用は見送られた訳」

「何が魔球じゃ。こんなのは魔球じゃない。詐欺じゃ、詐欺球じゃ。わざわざ店員を遠ざける小細工までしよって」

「まぁ、ワンバウンドの命中だから店側からNG出されるかもしれないんでね。念の為ということで」

「よくも次から次へとそんな狡い手を思い付くものじゃな」

「そう言うけど、この球投げるのだって結構コツがいるんだぞ」

 コツはリリースの際の角度である。通常よりコンマ1秒遅れる感覚でボールをリリースする。肩膝を地面に付ける。前方に伸ばした手の薬指と小指の間目掛けて投げると、ボールがいい感じに地面に落ちる。低い進入角度で着地したボールはバウンドによる再上昇も最小限に抑えられ、目的の外角低めのコースへと飛翔する。

 この魔球は投球練習中に生まれた。どれ程投げても外角低めにボールをコントロールできない菓子名が投げたボールが、ワンバウンドした後、理想のコースで持ってキャッチャーミットに収まったのである。完璧なコースに収まったボールを見た当時のキャッチャーが、

「絶対に打者が手を出せない魔球だ」

 と笑いながら冗談を口にしたのが始まりであった。

 どういう訳かこの魔球の場合でのみ、菓子名は外角低めに素晴らしいボールを投げることができた。悪ふざけと冗談事に類稀なる集中力を発揮してしまうのは菓子名大地の救い難い性であった。

「それにさっきも言ったろ。状況に合わせた投球ができることが名投手が名投手たる由縁だって。例えワンバウンドのボールでも、バッティングセンターであればストライクがコールされる可能性はあるってこと。ふっふっふっ……魔球を温存しておいた甲斐があるってものさ。とにもかくにも、これでパーフェクト達成だ」

 ガッツポーズで喜びを表現する。脳内観客がマウンド上の投手菓子名に対して万雷の拍手を送っていた。

「あぁ、成功したんだ。さすがは元プロ野球選手」

 店の入り口から戻って来たバイト君が小さな唸り声を上げていた。

「お客さんはどうだった?」

「いや、ノックはあったけどいなかった。多分、近所の子供の悪戯じゃないかな」

「そいつは不運だったね。それじゃあ賞品をもらっていいかな?」

「もちろん。はい、パーフェクトの賞品だよ」

 バイト君はカウンターテーブルの奥から持って来たのし袋を菓子名に手渡した。

「立派な袋じゃないか。如何にもパーフェクトの賞品って感じで実にいい」

 ウキウキ気分のまま、菓子名はのし袋を開けた。

 のし袋には2枚の紙が入っていた。

 それはいい。だが、紙に記述されていた文字を見て驚いた。

「……何これ?」

「何って、ストラックアウトのパーフェクト賞品だよ」

「バ、バッティング無料券って書かれているんだけど……」

 縦長の紙には「バッティング無料券」の文字が踊っている。

「パーフェクトの賞品はダズニーランドのペアチケットのはずでしょ」

「ペアチケットは『完全パーフェクト』の賞品だよ。ポスターにもそう書いている」

 改めてポスターを確認する。確かに、完全パーフェクト賞品『ダズニーランドペアチケット』と書かれている。どうやら詳細を見落としていたらしい。

 バイト君はポケットから取り出したプレイ用カードをストラックアウトの機材へと差し込んだ。「プレイボール!」の掛け声の後、機械音声が数字を告げた。

「3番」

 バイト君は光ったパネルを指差した。

「機械音声がパネル番号を言うでしょ。その指示通りのパネルを全部打ち落とすのが、完全パーフェクトの条件。元プロさんは指示に関係なく全部のパネルを打ち落としたから、普通のパーフェクトだね」

 数字を告げる機械音声は只の指標ではなかったらしい。

「完全パーフェクトの賞品がダズニーランドペアチケット。パーフェクトの賞品がバッティング2回無料券だよ」

「そんなぁ……いや、そもそもとして1位と2位の賞品グレードに差があり過ぎでしょ」

「それは店長に言ってよ。あ、店長で思い出した」

 バイト君は懐から2枚のチケットを取り出していた。

「これ、店長が俺にくれたんだけど、開催日が大学の補講日と重なっていけないんだ。だから元プロさんにあげるよ」

 なすがままに菓子名はチケットを受け取っていた。

『プロ野球ペナントレース 千葉マリンスタジアム-外野自由席 8月3日 千葉マリンズVS福岡ワイバーンズ』

 それは、かつて所属していたプロ野球チームの試合チケットであった。

                    ※

 浅草ベースボールスタジアムからの帰路。雷門近くの公園のベンチに菓子名は腰掛けていた。痩身を屈めて俯く様は、例え表情を見ずとも「がっかり」の単語を見る者に想起させるものであった。

「しけた顔しおって。我にはーげんだっずを奢るのがそんなに嫌なのか?」

「そんなんじゃないさ」

 菓子名の手には近くのコンビニで購入したカップタイプのハーゲンダッズが入った袋が握られている。

「それじゃ何をそんなに落ち込んでおる?」

「だってさ、ダズニーランドのチケットが手に入らなかったんだぞ」

 チケットを手に入れる当てが外れてしまった。しかも、勘違いに気付くまで1度は手に入れたと喜んでいたのだ。落胆も一入である。

「どうするか……ここは正攻法にチケットショップを巡ってみるか。いや、それよりもネットオークションに出回っているかを確認してみるのも……」

「妙なことを言う奴じゃな。ちけっとならさっきもらったじゃろうが」

「マリンズ対ワイバーンズのか?」

「そうじゃ」

「早坂さんがいきたいのはダズニーランドだぞ」

「あの娘はそうじゃろう。じゃが、お前はどうなのじゃ菓子名? お前はどこにいきたい?」

「俺? 俺は関係ないだろう」

 意外な疑問に言葉を返す。

「俺は早坂さんがいきたいと思ったところにいければいいんだから」

「お前さん野球のことは詳しい癖に女心はさっぱりじゃのう」

 千歳は大仰に肩を竦めて見せた。

「あの娘、お前さんが嘘吐いていることを見抜いておったぞ。本に興味がないことも。だずにーらんどに興味がないこともじゃ」

「え?」

「といっても、腹芸ができるタイプの人間には見えんかった。人の心情機微を捉える術を本質的に心得ているのじゃろうな」

 千歳は菓子名の隣に腰掛けた。

「顔色伺いに終始する男に何の魅力がある。ひたすら気を使われる逢引なぞ、楽しくも何ともないわ」

 千歳はハーゲンダッズのカップと木製のスプーンを袋から取り出した。スプーンの先端が菓子名に向けられる。

「さっきのバッティングセンターでお前は都度変化する状況に対応してみせてこそ1流の野球選手じゃと言った。確かに、じゃ。その言葉は正しい。じゃがのぅ、菓子名。貴様のプロ野球通算安打数は何本じゃ?」

「60本」

「苦手なものは?」

「変化球」

「そんな打者が1流かのぅ?」

「そりゃあ……違うわな」

「じゃろう。変化球が苦手な打者が、投げられた球全部に臨機応変に対応するなんて土台無理な話じゃ。いっそのこと、直球にヤマを張って堂々と空振り三振したほうが精神の健康上いいじゃろうて。駆け引きや打算ができる類の人間じゃなかろう、菓子名大地は」

 千歳は手にしたアイスクリームの表面にスプーンを立て、掬った一口を口元に運んだ。

「美味い! これがハーゲンダッズか。上品な味じゃ。ホームランバーも食べ易くて好きじゃが、たまにはこの手のかっぷあいすくりんも悪くないのぅ」

「千歳と話していてわかったことがある」

「なんじゃ?」

「誰かと会話するのは、自分の考えを整理するいいきっかけになる」

「またバッティングセンターの魔法に掛かっていたらしいの」

「どうやらそうみたい」

 いつの間にか自分が1流打者であると錯覚していたらしい。どんな変化球でも打ち返せると思っていた。どんな話題の会話であっても上手く言葉を返せると思っていた。

 慣れない打撃フォームでバットを振ってもヒットが打てる訳がない。

(ヤマを張れ……か)

 いい投手の直球も変化球も全て打ち返そう等、無理な話である。だったら自分の得意コースに絞ってバットを振り抜いたほうがいい。その方がヒットを打ち返せる可能性も上がるだろう。

 そして菓子名大地の得意コースは昔から1つしかなかった。

 菓子名は携帯電話を取り出した。早坂古書店の電話番号のボタンを押す。

「はい。早坂古書店です」

 早坂琴音が電話に出た。

「早坂さん。私……じゃなくて、俺です、俺。菓子名です」

「あ、菓子名さん」

「すいません。ダズニーランドのチケット、駄目でした。当てが外れちゃいまして」

「お気になさらないでください。私も無理を言ってしまって申し訳ありませんでした」

「だから俺と野球観戦デートいきませんか?」

「え?」

 驚きの短句が電話越しに聞こえた。

「俺は野球が好きなんです。野球を観るのも。野球をするのも。野球の話をするのも。だから今度は、自分が惚れた女性と野球観戦にいきたいって思うんです。チケットも2枚手に入ったんで。どうでしょう? 8月3日の日曜日?」

「え、えっと……」

 電話越しで早坂が困惑しているのがわかった。

「す、少し考えさせてください」

 その言葉を最後に電話が途切れた。

 電話をポケットにしまった菓子名はベンチに座って大きく伸びをした。

「どうじゃった?」

「多分駄目っぽい」

「その割にはすっきりとした表情をしておるのぅ」

「見逃し三振よりも空振り三振のほうが気分がいいからね」

 挑戦した結果のアウトであれば納得だってできるというものである。

 千歳はシシシとからかいの笑みを浮かべた。

「フラれ男の強がりじゃな」

「ほっとけ。何、機会があればまた会えるさ。それまでは借りた本をゆっくり読むとするよ」

 菓子名は借り受けた分厚い魔術本をベンチ上で読み始めた。

 早坂から承諾の電話が届いたのは翌日のことであった。

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