表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

契約の対価

作者: ダル

初投稿です。

1万字を超える長文となっていますが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。

男は頭を回転させていた。

今まで生きてきた中で、間違いなく最も頭を使っている。

もちろん、好き好んで、ではない。

―――このままでは間違いなく破滅するからだ。


男には300万ゼニーの借金があった。

その返済期限は、明日。

借金全額を明日までに耳を揃えて返すことができないと、男は身体で支払うことになる。


身体で支払うというのは、己が身体を所有する権利を他人に譲り渡すということだ。

己の命運を赤の他人に全て委ねる、ということだ。


身体の所有者は、自己の所有する身体を自由に使うことができる。

ならば、他人の身体をも所有しているのであれば、その他人の身体を自由にできるのは当然だ。

その身体を使い潰そうが、もっと細かい単位に分けて売り捌こうが、自由である。


300万ゼニーもの大金を借りたのは、ちょうど一年前。

仕事を失い、生活が苦しくなって、やむを得ずマンダン金融から借りることにしたのだ。

担保となる物を何も持っていなかったため、自らの身体を担保として差し出したのは当然の成り行きである。


男には、最初から返すあては無かった。

仕事を失ったばかりだったのだから。

なので、日雇い労働でお金を貯め、博打で一発当てにいくことにした。

10万ゼニーを貯めては、賭場に通い、一攫千金狙いの大勝負に打って出る。

外れても、次こそはっ…!と自らを奮い立たせ、10万ゼニーを貯めて再び賭場へ。


当たるはずもない。ツキに見放され、どん底を歩む者に、いまさらツキが来るはずがないのだ。

今日なけなしの14万ゼニーを全てポーカーでスってしまった男は、見事に無一文となっていた。


 ◇◇◇


「くそっ……!」


男は追い詰められていた。

300万ゼニーをまともな手段で返すことはもう不可能。

ならば、夜逃げするか。

もちろん出来るはずもない。


「やるしか……!やるしかねぇのかっ……!」


やる、というのは現金輸送馬車の襲撃、そして現金強奪である。

一週間前であれば人質目的の誘拐等も選択肢としてありえたのだろうが、期限の前日となった今となっては時間が足りない。

明日に襲うべき現金輸送馬車は決めている。というか、半年前から情報だけは集めていた。

行動に出る勇気が出ず、襲撃を決断できずにとうとう今日に至る。

問題を先送りしてきた結果が今の状況なのだ。


現金輸送馬車には、最低十人以上の警備がおり、

成功の可能性が限りなく低いのは男も分かっている。

それでも、すぐそばにまで迫っている破滅を思えば、わずかな可能性に縋りたくもなるのだ。


「くそっ……くそっ……っ!?」


――― コンッ、コンッ


そのとき、男の家の戸を叩く音がした。

男の目が驚愕で見開かれ、自然と視線が戸に吸い寄せられる。


――― コンッ、コンッ


不意をつかれ、思考が停止していた男の思考が、二度目のノックでようやく動きだす。


マンダン金融の者だろうか。

いや、それはない―――男は瞬時に考え直した。


この世界の常識として、金融屋は人を担保に取る場合、5人に1人の身柄を確保できたら元が取れる、といわれている。

なにせ、一度身体を手に入れれば、それを使えるだけ使い、その後はいろんな部位にバラして売り捌けばいいのだから。特に人の「肝」は、良薬の元になる、と人気がある。


さて、この常識が何を意味するか、というと、人を担保に取る場合、大体5人に1人か2人しか身柄を確保できない、ということだ。

追い詰められて犯罪に手を染めて自警団等に殺されるケースや、自殺するケースがそれなりに多いのだ。

そのため、金融屋は少なく見積もって5人に1人の身柄が確保できることを前提として、一人あたりに貸し出す上限金額を設定する。


そして、金融屋はそのような事情から、手広くお金を貸しているのであり、債務者1人に割ける人件費はあまりない。なにより「契約」しているのだから、債務者に逃げられる心配はない。

返済期日直前の債務者に対して犯罪まがいの事をして、自らの身をヤバくする理由はないのだ。


そこで、男は返事をすることにした。


「……何の用だ」


数秒の静寂の後、再びノックの音が響いた。


「……チッ」


舌打ちとともに、ナイフを握り締めた後、そのまま玄関に向かう。

明日にも破滅するかも知れない身なれど、やはりわが身はかわいい。用心に越したことはない。


不測の事態に対応するため、身体の軸がぶれないように中腰となり、警戒心を最大限に高めたまま、男は右手でゆっくりと戸を開いた。


―――そこには、女が一人立っていた。


昏い目をした女だった。

美しい、のだろう。目鼻立ちは整っているし、薄く紅を塗った唇も、この女が持つ生来の妖艶さを存分に引き立てている。

だが、それにも増して陰気な雰囲気を漂わせた気味の悪い女であった。


女は、ナイフを握り締めた男の手をみつめ、軽く目を見開いていたが、数瞬の後には、男の目を感情の読めない瞳でじっと見つめていた。


「……何の用だ」


女がこんな夜遅くに一人でくるとも思えない。他に数名隠れている事も考慮に入れながら、女の一挙手一投足を見逃すまいと刺すような視線を女に向けつつ、男は再び問う。


しかし、女は男の瞳を見つめたまま、じっと動かない。

見つめあう事、数秒。

早くもじれた男は、ナイフを前に突き出しつつ、女に改めて問うた。


「何の用だ!!」


「……私を」

「……」

「私を買って頂けませんでしょうか?」

「……はぁ!?」


なんだそれは。

夜遅くに男の家を訪れて、私を買ってだと?

ただの気狂いか、はたまた娼館の新手の売り込みか。

どちらにせよ、まともに付き合うべきではない。


「意味がわからん!他所でやってくれ!」

「私は……私は貴方様が良いのです」


こんな女に見覚えもなければ、慕われる覚えもない。

やはり気狂いの類か。


「他所へ行ってくれ。これ以上は何も……」

「もしお手持ちがないのでしたら、無料でも構いません」

「……なんだと?」


男の言葉をさえぎった女に苛立ちもあったが、無料という言葉によって吹き飛ばされた。

いくらこの女が気狂いであっても、女は女だ。

それにもしかすると……。


そこまで考えを巡らせた男は、条件付きで了承することにした。


「ちょっとそこで待ってろ」


男は、自分の家に戻り、白紙の契約書を取り出して、契約事項を書き出した。


この世界では、契約は個人を完全に縛ることができる。

契約は「破ってはならないもの」ではない、「どうあがいても破ることのできないもの」なのだ。

契約事項を列挙する。契約当事者全員が本心からそれにサインする。

すると、その契約は当事者を縛る絶対のルールとなるのである。

契約に反する行動は一切取れない。破ろうとしても、その直前で必ず手が止まる。

そういうものなのである。


人のみを担保にする金貸しが成立するのも、実はこの点が大きい。

返済できず、身売りをしてしまった債務者は、契約によって禁止されていれば、もはや途中で自ら死を選ぶこともできないのだ。

死にたければ返済期日前に死ぬしかない。しかし、なかなか自ら死ぬ度胸のある人間は少ない。縋ってしまうのだ。わずかな生存の可能性に。


先ほどの男の思考で、夜逃げという選択肢がすぐ切って捨てられたのも、その反面として、金融屋が期日の前日であるにも関わらず、夜逃げ防止のために監視を立てていないのも同じ理由である。

金を借りる際の契約で夜逃げが禁止されているため、男の意思に関係なく、男が生きている限り、期日には自らの足で約束した支払い場所に行ってしまうのだ。


さて、男が書いているのは、簡易の契約書二通である。


一通目は、「女を無料で買い受ける」旨の契約書である。

もっとも、これに素直に女が同意するとは男も思っていない。

気狂いとなった者を見たことがあるが、あの女の目には、それに比して理性があるように見える。

だからこそ薄気味が悪いのだが。

おそらく無料というのは、家の中で交渉を始めるための口実にすぎないだろう。

それでも一応契約書を作っているのは、これで済めばいいな、という単なる願望に過ぎない。


二通目は、「女は一人で来たのか仲間と来たのかについて真実を話すことを約束し、男は女が一人で来たと答えた場合のみ、家の中に女を入れる」旨の契約書である。

家に女を入れたとしても、その後に追い出す事は契約で禁止していないため、男にさほどの不利益はないし、女を家に入れるのであれば、こちらが力関係で上じゃないと落ち着かない。


この二通目が本命であり、女がこれすら飲めないようであれば、交渉の余地はないし、仲間と来ていた場合も交渉の余地はない。

雑な字で素早く二通の契約書を作り終え、自らの分のサインを済ませた男は、再び戸の前で立ち尽くす女の下へと向かう。


「遅くなった。ほら、お前もサインしろ」


そう言いながら、「女を無料で買い受ける」旨の契約書を差し出す。

女は契約書に視線を落とした後、すぐに男の顔を見つめ直す。

見つめ合う事、数秒。今度は女の側から口を開いた。


「申し訳ございませんが……」

「あぁ、いい、いい。お前は気狂いではないんだろうさ。残念ながらな」


女が馬鹿ではなかった事にやや落胆しながら、本命の契約書を女の前に出す。

契約書を受け取った女が、再び契約書に視線を落とす。


「承知いたしました」


そして、すぐに「諾」の結論を下す。

頭の回転が良いのか、やっぱり馬鹿なのか。

男が女についての評価に思い悩んでいる間に、女は契約書にサインをし終えた。


その瞬間、契約書が淡い光を放つ。

2、3秒の間、淡い光を纏った後、契約書はただの紙へと戻った。

契約成立である。


「私は一人でここに参りました。仲間もおりません」

「……そうか。入れ。」


女の言葉に対し、男はぶっきらぼうに家へ入るよう促した。

しかし、男の心の内は全く違った。

―――思わぬ天恵に浮き足立っていたのだ。

なにせ死を覚悟して現金強奪を企てるまでに追い詰められた心理状態である。いまさら脅迫や恐喝、そして強姦など恐れるはずもない。

それに……、それにひょっとしたらこの女を使って借金を一気に返す事ができるかもしれない!

この女を売ることができれば、おそらく1000万円は下らないだろう。

陰気な印象が先立つとはいえ、鼻筋の通った美貌の女である。細すぎるきらいはあるが、プロポーションも決して悪くない。


この女を男のものとして他人に確実に売るためには、女との契約によって、女を男のものにしてから売るしかない。

それは、かなり困難なハードルである。

しかし、絶望しかなかった状況に、希望が急に降って沸いたのだ。

浮き足立つな、という方が無理があるだろう。

男は心の内を悟られないように、極力顔に出さぬよう努めつつ、部屋へと女を先導した。

女は、感情の読めない瞳でそんな男の後ろ姿をじっと眺めながら、男の後をついていった。


 ◇◇◇


「……茶は?」

「……結構です。」


家に入って人心地ついた後、男は茶を勧めてみたが、すげなく断られた。

こんな家に睡眠作用のあるものや毒などあろうはずもないが、飲み物に何か入れられるのを警戒しているのだろうか。

男はそう思って苦笑しつつ、本題を切り出した。


「……で、無料ってのはどういうことだ?一体あんたが何をしてくれるんだ?

俺はあんたに見覚えなんてないんだが」


わずかに逡巡の様子を見せた後、女はとつとつと話し始めた。


「あの……警戒されるのも無理からぬ話とは思うのですが、私、実は、その、困っている方を見過ごせない、といいますか、苦しまれている方に奉仕したい、といいますか……

そのような願望がございまして……」


そこで、困ったように眉を下げる女の様子は、言葉の内容の荒唐無稽さとは対照的に、初めて人間味のあるものとして男には映った。


「それで、その……、貴方様がお困りになっているのであれば、是非お力に、と。」

「……ほう。」


訳の分からない願望について色々問いたいところではあるが、まず男が聞くべきことは一つだ。


「なぜ、俺が困っていると?」


女がマンダン金融の回しものであれば、交渉の余地などない。

何故、男の苦境を知っているのか。これは今、男が知るべき最重要事項である。


女は、確かに仲間はいない、と言った。

しかし、マンダン金融から依頼を受けた美人局か何かだとしたら、あの表現では嘘にはならないだろう。マンダン金融は、仲間ではない。依頼人だ。


男は、もう少し契約の表現を工夫すべきだった、と後悔した。

しかし、女がマンダン金融の回し者の可能性が低いことも、男は同時に理解している。

明日になれば労せずして男の身体は手に入るのに、マンダン金融がわざわざ小細工をする利がさほど思い浮かばないからだ。


「それは、その……。」

再び逡巡した後に、女が続ける。


「賭場で鬼気迫るお顔で、カードを見つめている貴方様が目に入ったもので……」

「……なるほど。」


破滅の空気を漂わせていた男を見つけ、後をつけてきた、と。

これに嘘はなさそうだ、と男は判断した。


「んじゃ、それは信じるとして、どうして俺なんだ?

あそこは賭場だ。他にもいっぱいいただろう。」

「……それは、その、貴方様のお顔が最も悲しそうだったので……」


余計なお世話だクソが―――男は心の中で吐き捨てる。

だが、これが本当かは分からないが、瑣末な話だ。

ここで熱くなるのは得策ではない。


「で、あんたはなんで賭場なんかにいたんだ?偶然か?それとも俺みたいな可哀想な奴を探してたってのか?」

「……失礼ながら、貴方様のように沈んだ雰囲気の方を探しておりました……」


男は少し意外そうに眉を上げた。

意外なのは、この女の捻じ曲がった性癖が、ではない。

偶然という返答を想定していたが、その想定が外れたからだ。


この女はおそらく本当の事を言っている。

そう思った途端、男の猜疑心がやや薄れ、その代わりに、下に見られている事への怒りがぐんぐんとこみ上げてきた。


「で!あんたがそんな俺に何をしてくれるってんだ!」


思わず大声が出てしまった。

急な大声に、ひっ…!と身を竦める女を見て、少し溜飲が下がった男は、改めて問い直した。


「大声すまねぇな。で、あんたは何をしにここに来たんだ?」

「……は、はい。私の体を売りに参りました。」

「単刀直入に聞くぞ。それがお前の性癖ってことか?」

「……」


口ごもる女に、男が重ねて問う。


「可哀想な奴に一晩、体を委ねて、聖人の真似事か?それとも、そんな可哀想な奴に抱かれる可哀想な自分に陶酔するタイプか?」

「……」

「無料でもいいってんだから、つまりはそういうことだろ。なぁ、どうなんだよ?」


男は女を見据えたまま目線を逸らさない。

やがて観念したのか、女は小さくうなずいた。


男はそれを見て、腕を組み、思考に没頭する。

身体を売るってのは、やはり身体の所有権を渡すって意味じゃなくて、一晩寝るって意味だった。

しかし、それでは意味がない。

どうにか騙して身体の所有権を契約で渡してもらわなければならない。

どうすれば、どうすればいい?


「なぁ」

「……はい」

「一晩寝て、その後どうすんだ?」

「……え、と」

「用済みか?俺はまたお前にまで捨てられるのか?」


とりあえず少し同情を引く方向で話を進めてみる。

お前にまで、とは言っているが、別に男は過去誰に捨てられた訳でもない。

借金を作ったのも自業自得だ。

ただ、このように言っておいて、女が少しでも良心の呵責を覚えてくれれば御の字である。


「……いえ、いえ、そのようなことは……」


女の語尾が弱くなっていく。

女も分かっているのだろう。自らの行為が、人の気持ちを踏みにじり、人の痛みに塩を塗りこむような行為であることは。それでも自らの欲求に逆らえないのだ。


「お前が俺のために命を張れない、そんな事は分かってる。

わが身が一番かわいいだろうさ。俺だってそうだ。」


女の顔が悲しげに歪むのを見て、男は続ける。


「……はっ、俺だって最期くらい女と過ごしたいさ。こんな形でってのは……本当は嫌だけどな。」


男は、うめくように言う。

出来る限り、本音を吐露しているように見せ掛けて。

次の言葉に違和感をもたれないように。


「……せめて、せめてさ。借金の期限である明日の昼までは、お前を俺のものってことにしてくれないか?

寂しいじゃねぇか、最期の最期に訳のわかんねぇ女が来て、そいつとただ寝て終わり、だなんて……。

俺は昼まで一歩も家から出ねぇし、お前を他人に売ったりしねぇ。それも契約に入れていい。1日でいいから最期に俺の女でいてくれよ。お前がそれを飲めるなら、お前の望み、俺も聞けるかもしれねぇ」


違和感を持たれたら終わりだ。

「男の女」であることと、「男のもの」であることは当然全く違う。

男は、なるべく自嘲しているような雰囲気が、同情を買うような雰囲気が出るように必死に演技をしている。


本当は、借金の期限は、明日の夜だ。

だが、そんな事、女は知る由もない。

契約書には、「明日の昼までは、女を他人に売らない」という内容と共に、「『借金の期限まで』女は男の『もの』である」という内容を記載する。

すると、明日の昼から夜までの間に、男のものである女をどっかに売り飛ばせばいい、ということになる。


もちろんこの二つの項目を並べて記載すれば罠の存在がバレてしまう可能性が高いだろうから、この二つの項目は、契約書では離して記載する。

それだけで意外とバレないものである。

しかし、最初から相手に疑ってかかられた場合は、話が違う。まず間違いなくバレる。

なので、男は必死に演技をしているわけだ。


借金の期限が本当に明日の昼を意味するのか、そこに疑問を持たれたら終わりだ。

それに、そこに疑問を持たれなかったとしても、「もの」ではなく、「彼女」ではダメなのか、そこは突かれる可能性が高い。

男は、そこを突かれた場合は、疲れきった表情を作って、自分のものじゃねぇともう信じられねぇんだ……とひたすら偽りの過去を匂わせてダダをこね続けて懇願する方針を固めていた。


そんな男の涙ぐましい努力や決意を知ってか知らずか、机を挟んで男の真向かいに座っていた女は、男の左横にそっと座り直し、そっと男の左手の袖をつかんだ。


「……はい。承りました。」


女は、再び迷わず「諾」の返事を返した。

男は、内心狂喜乱舞したが、それを女に悟られては何の意味もない。

まだ第一段階を突破したにすぎない。

契約書にサインさせて、女を売り飛ばしてから存分に喜べばいい。

思わず緩みそうになる頬の内側を、血の出るほど噛み締めて、男はなんとかポーカーフェイスを保った。


「……そうか。それでお前の条件は?」

「……はい。私としては……」


そこで、女は男の左肩に頭を寄せる。

女の淡い香水の匂いが、心地よく男の鼻をつく。


「貴方様と一緒に一夜を共に過ごしたい。それは本当でございます。しかし、傷つけられるのは怖いのです。そこで、夜が明けるまで私を傷つけることを契約で禁止してくださいませんでしょうか。」

「……ん?それは構わないが、それだと……」

「……はい。貴方様のお情けを頂戴することは出来ないことになります。残念ですが。

その代わり、精一杯ご奉仕させて頂きますので、それでどうかご寛恕頂けませんでしょうか。」


男の思考が追いつかない。

つまり、どういうことだ。

自分が傷つくリスクも負いたくないし、本番をするなんてご免だが、聖女の真似事だけはさせてくれ、とそういうことだろうか。

男の心に、怒りが湧き上がるが、明日、女を売り払う時の愕然とした女の表情を想像することで、何とか怒りを沈める。


「……そうか」

「……そ、それと……」


女は少し恥じらったように、男の二の腕に顔をうずめた後、上目づかいで男を見ながら言った。


「貴方様のお情けを……この腕で頂けないでしょうか」


女が左腕を掴みながら、恥じらうように少し顔をうつむかせつつ、上目づかいでおねだりする。

なるほど、これは娼婦だ。それも上玉の。男は確信する。

媚を売ると決めてから、あっけに取られるような代わり身である。


男の手を道具のように使ってもいいか、そういうことである。

女が自らを鎮めるためだろう。奉仕するだけじゃ物足りない、と欲が出たのだ。


それに、この世界では、通常右腕というのは特別な意味を持つが、左腕というのは大した箇所ではない。

それを女も当然に理解しているのだろう。男はそのように理解して、やがて頷いた。


 ◇◇◇


そして、出来上がったのが、この契約書である。


「第1項 明日の夜明けまでの間、男は女を傷つけてはならない。

 第2項 前項に定める期間は、女が男に好きなだけ奉仕してよい。

 第3項 男の借金の期限までの間は、女は男のものとなる。

 第4項 明日の夜明けまでの間は、男の左腕は女のものとなる。

 第5項 男も女もこの家から相手の意に反して逃げてはならない。

 第6項 明日の昼まで、男は女を他人に売ってはならない。

 第7項 前項に定める期間は、男は家を出てはならない。」


男の最大限の工夫が詰まっている内容である。

本命は、もちろん第3項である。

そして、第3項と第6項とを照らし合わされる事を何としても避けたい。


そこで、男は二つの条項を引き離した。

のみならず、第3項は、第1項、第2項、第4項と同様に、「~間は、」という文言を加える事で統一感を出しているのに対し、第6項は、「~まで、」と表記することで、別の種類のものという印象を暗に植え付け、第3項と第6項を同列のものとして捉えがたいようになっている。

加えて、「前項に定める期間は、」とあえて難しい言い回しをも併用することで、「夜明けまで」、「昼まで」、「借金の期限まで」という三種類のうち、「借金の期限まで」という表記が明らかに浮いている点を最大限カモフラージュしようとしている。


第5項は、万が一を考えて一応男が入れてみた条項である。女も当然、既に同意している。

無論、条項を増やして、罠がバレる可能性を減らそうという男の意図も当然ある。


男は、契約条項を書き上げると、ふうっ、とため息をついた。

これからが本番であり、かつ、最後の仕上げだ。

今は、契約書を書いてくる、と言い残し、女を先程までいた居間で待たせ、自らの寝室で、一人で契約条項を書いていたのだ。

契約書に自らのサインを終えると、寝室を出て、女のいる居間に戻った。


女は、男を見るや、蕩けたような笑顔を浮かべて、くっついてきた。

未だに暗い女である、との印象は残るが、薄気味が悪いという最初の印象はすっかり払拭されていた。

暗い女という印象も、女の美貌を思えば、陰のある女、ということで一夜限りの相手としては、むしろ魅力的だろう。

性癖といい、変わり身の早さといい、こいつもあまり良い人生を歩んでこなかったんだろうな。

そんな事を思いつつ、女に契約書を手渡した。


「ほらよ」


やはり、緊張する。心臓の音が痛い。

早鐘のように好き放題、ガンガン鳴っている。

これで人生の行く末が決まるんだ、そりゃ心臓がガンガン鳴るし、手汗も出る。


「…………」


流石に今回ばかりは、即断即決といかないのか、女は契約書を見つめ続けている。

男は早くしてくれ、と服に手を密着させて手汗がバレないようにしながら、祈るばかりである。


「…………」


沈黙が痛い。心臓も痛い。

こいつは今、何を考えているんだ。


「……はい、承知いたしました。」


よしっ……!

心の中で快哉を叫ぶ。

しかし、まだだ。


「じゃ、サインを」

「はい。」


あっさりと、至極あっさりと、

女がサインを書き終えた。

契約書が淡い光に包まれ、やがて光が消える。


人生の大逆転。こんなことがあるなんて!

男は思わず相好を崩す。頬が緩む。


「……いかがしましたか?」


唖然とした女の顔が目の前にあるが、関係ない。

頬がどんどん弛緩していく…!

最後に残っていた欠片ほどの理性が、ごまかすべきか、にやけ続けるべきかの選択を迫ってきた。

せっかくだ。最後までごまかすとしよう。

しかし、にやけがとまらない。


「……少し待っていてくれ」


時間を貰い、心を落ち着ける。

借金してから今に至るまで、一度も心が休まった事がなかった。

いや、それを言うなら仕事を失った時からか。

それが、どうだ。この解放感!


違う、そうじゃない。そうじゃないだろ。逆だ。

女をちゃんと売り払うまで何が起こるかわからない。

例えば、例えばそうだ。女が別の誰かと既に契約していて、この契約にも関わらず、女を売れないかもしれない。早いもの勝ちだからだ。

そうだ、まだ油断するのは早い。


―――そんな可能性などないことは、男も分かっている。

女が本当に自らの身を売ることに同意しない限り、契約は成立しないからだ。

そして、自らが既に誰かのものなのであれば、自らの身を再び売ることに女が本当に同意することは許されていない。なので、契約が有効に成立した以上、そんな可能性はありえない。


だが、男は危機感を無理やり煽ることで、なんとか頬の弛緩を止めた。

そして、女のもとへと向き直る。


「待たせた。自分でも驚いたのだが、この数年、娼館に行くような金もなくてな。女と触れ合うのが久しぶりなんだ。間抜けな姿を晒してしまったが、許してくれ」


女は少し目を丸くした後、蕩けるような笑みを再び浮かべて言った。


「そんな貴方様のお相手が出来るなんて、光栄です。気持ちよくなってくださいね。」


 ◇◇◇


―――男はまどろみの中、目を覚ます。


「んぅ?」


それを見て女がくつくつと笑う。見れば、腕に小さな歯形が残っている。

なるほど、熟睡していた俺に甘噛みして起こしたのか。


しかし……しかし、熟睡、か。

思えば、この数年熟睡できた事などなかった。

心が痩せ細り、眠りが浅くなっていたからだ。

それが、女に色々奉仕を受けながらでも、すぐに熟睡してしまう、とは。

心の状態一つでこうまで変わるのか、と男は苦笑いを浮かべた。


「さて、今は?」

「まだ夜明け前でございますよ、貴方様」


女は自らの上気した頬を男の二の腕にこすりつけている。

男は、そんな女の髪を撫でながら、ふと違和感を覚えた。

はて。


「もうすぐ朝か」

「まだ夜明け前でございますよ、貴方様」


ん?

背筋にぞくり、と冷たいものが走った。

そうか。どうして今起こされたのか。違和感の正体はこれだ。


変わらず女は、愛おしそうに、とても愛おしそうに男の左腕に自らの頬をこすりつけ、時に顔をうずめている。

男は、薄気味が悪くなり、冷や汗をかいているが、それでも女の髪を撫でるのを止められない。止めてしまえば、もし止めて女の顔を見てしまえば……。


「どうしたのですか、貴方様?」


っ……!

顔を上げてこちらを見上げる女を見て、男はすんでのところで悲鳴を上げるのを堪えた。

やはり……、やはり女の瞳は、最初に会った時と同じ、一切感情の読めない瞳になっていた。

なんだ、これは。どういう状況だ。


「お可哀想な貴方様、お辛いのですね、お苦しいのですね」


女はそういうと、左腕にキスの雨を降らせてくる。

男が混乱している中、女は続ける。


「私は嬉しかったのです。貴方様が、性癖だ、と見抜いてくださって。可哀想な人に抱かれる可哀想な私への自己陶酔。とても、とても近いご分析です。」


男は、女が今から何を言おうとしているのか、全く分からない。

ただ、ごくりと生唾を飲み込んで、女の言葉の続きを待っている。


「でも現に貴方様に抱かれていないのですから、少しだけ、ほんの少しだけ不正解です。正解は、可哀想な私は、可哀想な人の最期を見届けるのが、最期のぬくもりを感じるのが、たまらなく好きなのです。」

「なっ……、はぁっ?」


それは、男が可哀想な人、ということか。


「俺の、俺の最期が見たい、だからこの家に来た、そういうことか!?」

「……はい、貴方様」

「はっ……!」


薄気味が悪い。怖い。

だが、精一杯の虚勢を張って男は喚きたてる。


「それは残念だったな!俺はお前を明日の夜までに売り捌く!

お前は、俺に騙されたんだよ!最期が見たいたぁお笑い草だな、最期になるのはお前だよ!それに……」

「……貴方様」

「……なんだ!」

「貴方様、存じております。」

「……な、に!?」


男が驚きに目を見開く。今、この女はなんといった。


「存じておりますよ、貴方様。正確な日時までは知る由もございませんでしたが、貴方様の返済期日と、明日の昼、もう時間的には今日の昼ですか、とが時間的にずれているであろうことは、承知しておりました。」

「な……!それなのに、契約をした、と?」

「……はい」

「はったりだ!」


男は声を荒げる。男の心を支えているものはもはやこれしかない。

これを奪われてしまうと、男の心はもう立ち上がれない。


「いいえ、貴方様。はったりではございません。」


子供に言い含めるように。

左腕を優しく撫でながら、優しく優しく諭すように女は続ける。


「貴方様の感情の起伏も、その理由も全てつぶさに観察して分かっておりました。貴方様が、ただただとてもお可哀想で、狂おしい程に愛おしかったのです。」

「じゃあ、何故だ!何故契約書にサインした!」


女は、笑みを浮かべながら、優しく左腕をなでる。

怪訝な顔をした後、男の顔は驚愕に染まる。

―――女は、先程から左腕にしか触れていない。


「そんなっ……!まさか気づいていたとでも言うのか、いつだ!いつ気がついた!」

「貴方様に出会った時です。緊張を極限まで高めたら、人は最も自分にとって自然な姿勢を取ろうとします。そして、貴方様は左手にナイフを握り締め、右手で戸をお開けになっておりました。そしたら、左利きなのかな、と思います。そのような目で契約書のサインを見れば、ペンの力の入り方の角度で、左利きか右利きかなど、一目で分かります。」


契約は、利き腕でしか効力を発揮しない。

そして、一度固定された利き腕は、矯正不能である。契約内容に逆らうことのできぬように、矯正しようとしても、世界が矯正することを許さないのだ。

この世界においては、実に9割以上が右利きである。

だから、基本的にはこの世界では、右腕こそが重要なのである。

しかし、数少ない左利きの一人が、実はこの男だった。


男にとって、今までの人生において左利きである事は、一つの武器であった。

左利きが希少すぎて、本来は利き腕が大事ということが真理であるはずなのに、右腕が大事なものという常識が出来ているため、その常識の裏をつけるからだ。

そして男は左利きが武器である、という自らにのみ妥当する常識に従って、決して女の前では契約書を書かなかった。

しかし、その自らの常識に囚われていたからこそ、女が既に左利きを見抜いているという可能性をさして考慮することなく、女の真意を推し量ることなく、不用意にも左腕の所有権を与えてしまった。


「ふふ、夜明け前までまだ時間がございますよ、貴方様」


男の立場を知らしめるように女は繰り返す。

『第4項 明日の夜明けまでの間は、男の左腕は女のものとなる。』に従い、女はいくらでも新たな契約を結べるのだ。自分にとって都合の良い内容の契約を。今は女のものとなっている、男の左腕を使って。


「だが……俺だって、俺だって」


男がうわ言のようにいう。

しかし、男だって馬鹿じゃない。もう既に理解している。

男は、『第3項 男の借金の期限までの間は、女は男のものとなる。』に従い、女の腕を自由に使い、男に有利な契約をすることだって、男に不利な契約を阻むことだって出来る。

本来は。

しかし、『第1項 明日の夜明けまでの間、男は女を傷つけてはならない。』の制約があるため、夜明けまでは、女が抵抗すれば、男は手出しが出来ない。何も出来ない。

――― そして、夜明けは、まだだいぶ遠い


「貴方様……」


抜け殻のようになった男を見て、感極まったのか、女は男を抱きすくめる。

そして、男の感触をたっぷりと楽しんだ後、紅をひいた唇をそっと男の耳に近づけた。


「一つ言い忘れていた事がございました。

私、可哀想な人の最期を見ることよりも、可哀想な人の最期をこの手で作り出す方がずっとずぅ~っと好みですのよ」


呆然と、ガラス玉のようになった瞳を向ける男に対し、女はニィ~っと嗜虐的な笑みを浮かべた。


 ◇◇◇


約束の時間になっても男が来ないことを確認し、マンダン金融の部長はため息をついた。

返済期日になっても来ないのだ。

犯罪に手を染めて、返り討ちにあったのか、自死を選んだのかは知らないが、男は死んだのだろう。


「役立たずが……」


そう独りごちて、部下に、男の家に確認を取りに行くよう指示を出した。


――― 部下が、男のあまりにもあまりな状態に、えろえろと胃の中身をぶちまけたのは、ただの余談である。



いかがでしたでしょうか。

実は、初投稿どころか、初小説です。

伏線を張るという作業自体が、新鮮でとても楽しかったです。


矛盾点等があれば、感想等にて教えてくださいませ。

身の丈に合わぬ頭脳戦を書いてみましたが、

頭脳戦って作者の頭脳以上のものはおそらく出てきませんから、

矛盾点を探すのも読者の一つの醍醐味だと思っております。是非。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 文章が読みやすく、引き込まれる作品でした [気になる点] 直接関係ないですが、シナリオ背景がわかりやすいと、何をしてたのかがもっとわかりやすくなるのかなと思いました [一言] 名前の付いた…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ