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とある研究室の話。

作者: 田中カナタ

 この時期において、まったくもって上手くいかない。

 しかし悲しきかな、これが長瀬五郎の業というものであった。

 朝の研究室。

 銀紙で包まれていた培養シャーレの中から一枚のメンブランをピンセットで摘み取り、目の前にかざす。次いで、それをペラペラと揺らしてみる。だけれどもメンブランの白さに変化はない。当たり前ではあるけれども。

 (……駄目だ。いくらなんでも薄すぎる)

 染色度合の指標となるスポッティングのコントロール紙と比較してみても、この作業が失敗に終わったという事実は一目瞭然であった。コントロールの一万倍希釈濃度よりも、メンブランにぽつぽつと点在している斑点の濃度の方がはるかに薄いのだ。五枚用意しておいたメンブランの反応が全て同様の結果に終わってしまった。これでは使い物にならない。

 今回の作業では、ある特定の遺伝子を染色し、その領域の培地をピックアップすることを目的としていた。染色の濃度が濃ければ濃いほど、そこが目的遺伝子を含む領域である可能性が高くなる。

 しかし、こうも薄くてはどうしようもない。培養過程に問題があったのか。染色過程に問題があったのか。いや、はたまた――

(……こんちくしょー)

 後悔先に立たず。 

 長瀬は実験台の試薬棚に張ってあるカレンダー兼スケジュール表に目をやる。一月の頭から月末の昨日まで続く×印。そして、今日からちょうど二週間後の日付に書かれている星マーク。

 もう、猶予はない。

 星マークが付いている日には、修士課程の卒業論文の発表会がある。そして長瀬は修士課程の二年生である。つまり、彼にとってその日は結構な意味を持つ日であるのだ。

 長瀬はメンブランをシャーレの中に戻すと、両腕の肘を机につき、頭を抱えた。

「今日やり直すか……いや、どう考えても間に合わない。プラークハイブリで三日……ピックアップして培養、アルカリ処理にインサートチェック……PCRとシーケンス…………」

 M2長瀬は次々と作業工程を呟いていく。しかし、最終的に彼は机の上に崩れ落ちた。

「どーすりゃいいんだー」

「諦めたら?」

 ボソッと言って彼の後ろを通り過ぎていく三十路過ぎの女准教授。

 その容赦無い言葉にとうとう長瀬は泣き出す。

「ちくしょー、俺は腐ったミカンじゃねー」

 涙を流しながら、彼はそう喚くのだった。


/*/


 長瀬五郎は、要するに、「いい恰好したがり」なのである。

 そんなもんだから、今までにも幾つかの失敗をやらかしてきた。

 例えば、一昨年から去年に掛けての就職活動の際。

 就職口に一流企業の研究職ばかりを希望した結果、どれも惨敗。そのラインナップは、彼の既に社会人デビューが決定している後輩達に言わせれば――

「無謀すぎる」

「先輩の偏差値、七十もあるんすか?」

「人には分相応というものがありましてね……」

 軒並み連なる辛辣なコメントに、それはもう長瀬は心を痛めに痛めつけられた。なので、彼はもっと偉くなろうと心の中の綺羅星に誓った。いつか奴らを見返してやる、と。

 それが博士後期課程に進もうと決めた本当の理由である。周囲の人間には、取り敢えずの繕った決意表明をしているが。

 以上の道のりがあって、長瀬はこの研究室――分子遺伝学研究室に残ることになった。通過儀礼的な博士後期課程入試もパスした彼に残された、修士学位取得における最後の関門とは、この二年間の集大成である卒業研究であった。

 長瀬はとある遺伝子の研究を進めていた。ある程度は順調だった。

 しかし、年明けの出来事である。

「言おう言おうと思ってたんだけどさ。長瀬のやってる遺伝子、ファミリーあるんじゃない?」

 大きな学会帰りの三十路過ぎの女准教授は、横浜土産のラングドシャをかじりながら、唐突にそう言って来た。

「確か、三ヶ月くらい前だったかな……ちょっと待ってな」

 休憩室から出て行き、そしてしばらくして帰ってきた彼女が持っていたのは、一本のロール紙と何らかの写真。

「これはな、門野がやってた実験の結果なんだけどな――」

 かくがくしかじか。

 ちなみに、門野というのは長瀬と犬猿の仲にある同期の学生である。門野は長瀬と同じテーマの研究を別のアプローチで進めていた。

 門野はタンパク質から、長瀬は遺伝子から。

 そして、准教授が言うには。

「あいつ、ファミリーがあることを知ってたんだよ」

「南無三っ」

 ファミリーというのは、簡単に述べれば、似たような種類の一つの遺伝子群を意味する。

 門野は、ターゲットである遺伝子が、少なくとも三つのファミリーを持つことを確認していた。それに対して、長瀬は一種類の遺伝子しか研究を進めていなかったのだ。

 要するに、このまま研究を終えたとしても、「今後の研究に期待される」という尻切れトンボなテンプレートを張らざるを得なくなったのだ。ちなみに、「見なかったことにする」という選択肢は存在しない。門野はこの研究結果を嬉々として発表するに違いないからだ。全ては、見栄を人並み以上に張りたがる長瀬の悔しがる顔を見るために。

 相も変わらず、なんと厭らしい奴であろうか。

 しかし、ここで挫ける訳にもいかなかった。時間は幾らか残っている。一直線のしぶとさが、良い意味でも悪い意味でも長瀬五郎の特徴である。

 何とかして締まりの良い結果を得られるように、この日から長瀬の逆巻く怒涛のような一ヶ月が始まった。


/*/


 そして、現在に至る。

 長瀬は机に伏せながら、ここ一年間の出来事を思い返していた。まるで死に際の走馬灯を見るかのように。

 なんにせよ――彼の卒業研究は、本日でその進行を止めざるを得ない。これ以上の成果は見込めないからだ。

 二週間後の研究発表会までは、ゆっくり過ごすとしよう。のんびりとプレゼンテーション用の資料やスライドを作成し、ついでにサンプルや試薬の整理整頓をするのだ。恐らく、この研究は後輩の誰かが引き継ぐのだろうし、それまでにはデータ類もまとめておかなければならない。まあ、自分もここに残るんだし、いつでもいいのかもしれないけど。そうだ、三月に入ったら一人旅もしてみよう。TAで稼いだ金が結構ある。どこに行こうかな……。

 長瀬がそんな夢想モードに突入していると。

「お、おはようございます……」

 ひんやりとした朝の空気に馴染んで、そのまま消え入ってしまいそうな声が長瀬の背後から掛けられる。

 彼にとっては、今では聞くことが日課となった、お馴染みの声である。

「おはよう、水谷さん」

 水谷早苗は、とても可憐で、とても思慮深く、とても眼鏡とショートの黒髪が似合っている学部現3年生の可愛らしい女性である。去年の夏頃から長瀬の元で同じテーマの研究をしてきていた。時々作り話のようなポカをやらかすこともあるが、長瀬にとって、水谷は初めて「萌え」という感情というか表現いうか、取り合えずそんなものを植えつけてきた存在でもあった。

 何度彼女に助けて貰ってきたことか。彼女が放つ癒しのオーラは、数々の失敗を差し引いても十二分にお釣りがくるものだったと思っている。まあ、失敗なんて三回生の時分には付き物ではあるが。

 さて、今朝も彼女から一日を生きる活力を分けて貰うとしようか。

 長瀬は起きて振り返り、水谷の顔を見た。

(…………あれ?)

 用意していた水谷早苗のイメージと現実の彼女とが食い違う。

 水谷の様子は、いつもとどこか違っていたのだ。

 まず、目が泳いでいる。水谷が人の目を見て話すことがあまり得意ではないことは把握していたが、今の彼女は「何処に視線を置けば良いのか分からない」といった様子であった。それと同時に、彼女は口を強く締め、何かを決断したような様子でもあった。

 二人の間に、ぎくしゃくとした空気が沈滞する。

 良くないことでもあったのだろうか……いや、不良成分高含量の出来事が、相当の確率で起こったに違いない。

 何かを言うべきなのだろうか。

 色々とシミュレートした(その間五秒)結果に基づき、長瀬は意を決して口を開こうとする。

(み)

「結果はっ、どうでしたかっ」

 先制攻撃失敗。逆に水谷にそれを許してしまう。

 ノーガードで会話のパンチを喰らった長瀬は言葉に詰まってしまった。

「えと……」

 何の結果が、どうであったのか。

 長瀬は水谷の問いかけを反芻しながら、彼女の目を見た。そして、ギョッとする。先ほど彼女の口に表れていた決意が、そのまま彼女の視線に移っていたからだ。もちろん、その眼鏡越しの眼力に晒されているのは長瀬である。

 考える。考えろ。

(結果――結果――あ)

 脳内検索にヒットする案件が1つあった。それは、つい先ほどまで長瀬がピンセットで摘んで眺めていたトランスファーメンブランに関することである。

 これを用いたハイブリダイゼーションは、昨晩、長瀬が水谷とともに仕掛けておいた実験だった。なので、当然彼女にもその結果を知る道理があるのだ。

 しかし――二人の費やした時間が結実することはなかった。

 長瀬は、躊躇しながらも、銀紙に包まれたシャーレを水谷に渡す。彼女の顔を、今は見ることは出来ない。大事な時期に失敗を仕出かす自分が情けなかったからだ。

 彼女はそれを受け取り、長瀬の様子からある程度のことは勘付いたのか、おそろおそるといった感じで銀紙を開いた。

「あ……」

 中身の様子を確認してから、水谷は声を漏らした。

 彼女の眼から見ても、実験の結果は瞭然だったようで。

「うまく、いきませんでした……」

 水谷はか細い声で言った。

「……そうだね」

 長瀬も、気が回った言葉が見つからず、そう呟く。

 ……散々の体たらくだ。

 遺伝子ファミリーの存在にも気付けず。

 ここに来てレベルの高くない作業を失敗し。

 仕舞いには、徒労に付き合せてしまった後輩へ機転の利いた台詞も掛けれずに。

 本当に、情けない。

「ごめんね、水谷さん」

 結局、彼女に謝ることしか思いつかなかった。

「……研究は、今日でお終いだ」

「え……」

「もう、スケジュールが期日までに収まらないんだ。だから、ここで切り上げよう」

 淡々と言葉を並べる。

 そして、彼女の目を見て告げた。この流れで言えば、きっと楽だから。

「水谷さん。今日まで有難う」

「あ――」

 その途端であった。

 水谷の目から、一筋の涙が流れた。

(ウソん)

 長瀬は声も出せずに唖然とする。

 ぽろぽろぽろ。

 一筋、二筋と、数えている間にも次々に涙が。

 いや、数えてる場合じゃないのでは?

 分かっているんだけどそんなことは。

「うっ、うぅぅ」

 とうとう水谷の口から嗚咽が零れ出し始めた。

(いかん、いかんですよ)

 どうにかしようと両手を彼女に差し伸べる長瀬。

 しかし如何せん、長瀬にはこの手に関する経験が干拓並みに干上がっていて乏しい。故に前に出した手も行方が定まらずに揺らめくばかり。つまり全体的に彼はオロオロしていた。

 何で彼女は泣いているのだろう。

 原因には心当たりが数あり過ぎた。

 なので、特定不可能である。

「うぅ、うっ、ぐずっ」

 水谷は水谷で、両腕で顔を隠して泣き顔を晒さないように努めていたが、その様子が余計にいじらしさと不憫さを増していた。

「あ、あう」

「ふ、ふぅ、うえぇっ」

 どうにかしようとしてどうにもできない先輩と。

 どうにもならなくて抑えが効かなくなってしまった後輩と。

 その光景が余りにも不器用に映ったのか。

「女の子を泣かす男の価値は、物事をコンタミばかりさせる研究生に等しいわね」

 三十路過ぎの女准教授は、この場の全責任を長瀬に置き、ついでに「この無能が」という罵倒も込めつつ、向かいの実験台越しに言い放ってきたのだった。 


/*/


 長瀬は水谷の手を引き、休憩室へと移動した。

 この休憩室は縦長の間取りをとっており、決して広くはないが、当研究室に配属されている学生とっての憩いの部屋となっている。左右の壁に沿ってテーブルが設置されており、一人分のスペース毎にパソコンが並べられている。

 長瀬は、紙コップにインスタントのミルクティーを淹れ、部屋の奥にある椅子に座った水谷にそれを渡した。

 彼女は俯いたまま、紙コップを両手で受け取る。

「落ち着いたかな?」

 そう長瀬が訊ねると、水谷は小さく肯いた。

 長瀬もミルクティーを取り、口を湿らせながら、事を切り開くタイミングを待った。

 静かに時間が流れる。

 その間に、自分の立ち位置を定める。

 きっと、自分に非がある。実験が失敗したことに、彼女の涙する理由があると思う。

 だから、まずは謝ろう。

 第一歩の踏み出し先を確認して、ようやく長瀬は心の平静を取り戻した。

 ――――と。

 水谷が初めてミルクティーに口を付けた。同時に彼女の眼鏡が曇る。

 彼女がそれを飲んだのを確認してから、長瀬は会話を切り出す。 

「あの……ごめんな。実験を失敗したのは、俺の技量不足だった。本当に、申し訳ない」

 言って、頭を下げる長瀬。

「そ、そんな、先輩が謝るなんて、頭を上げてください」

 水谷の許しが出たので、長瀬はゆっくりと頭を起こした。

 彼女は、少し曇った眼鏡を外し、服の袖で顔を拭った。そして、こちらを見て不器用に微笑む。

 少しだけ、心がざわついた。

 紙コップと眼鏡をテーブルの上に置くと、水谷は目蓋を閉じた。

 一秒、二秒、三秒――――

 長瀬は待った。今の時間の流れは彼女のものだ。だから、いつまでも待とう。実際、時間には余裕がたっぷりとあるのだから。 

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。五分くらいか。いや、一分も経過していないのかもしれない。ただ間違いないのは、そんなことは瑣末な問題に過ぎない、ということだ。

 そんな自然な時間の終わりに――彼女は口を開いた。

「私、ちょっと拍子抜けしちゃったんです」

 これは、つまり水谷の結論。

 彼女は物事の説明をするときに、まず結論から話の切り口を入れる癖があった。その程度の把握はしていた。

 彼女は、言葉を続ける。

「先輩、私の夢を覚えていますか?」

 ……ああ、そうだった。

 水谷と夢について語り合ったこともあった。

 長瀬は、小さく頷いて、答える。 

「先生、だったよな」

「……はい、そうです。学校の先生になることです」

 水谷は長瀬の目をしっかりと見つめて言った。

 彼女は、少々抜けたところがありながらも、他人のことには気が回る女性だ。それに、おそらくだが、後輩の面倒見も良いタイプなのだろう。

 きっと、君は良い先生になれるよ。

 そんな無責任な言葉を掛けたこともあった。

 そうだ。あったんじゃないか。

「去年の夏から研究室に通い出して――実験は大変だけど、ここでの時間はすごく楽しいんです。忙しくて、楽しくて……しばらくは教員採用試験の勉強をさぼっちゃってたんです。そして、年末頃から少しずつ焦り出したんですよね。勉強しなかった分、溜めてた知識が抜けていっていたのに気付いて……」

 徐々に俯きがちになる水谷。

「その……実は、お正月が過ぎたら、もう、実験を止めさせてもらおうと思ってたんです。勉強の方に集中しようと思って」

 その言葉を聞いて、長瀬は思わず彼女から顔を背けてしまう。

 なんてことだ。

(俺は……)

 水谷の告白は続く。

「でも、研究が慌しくなちゃって。先輩も凄い焦ってたし――止めるに、う、やめ、ら、れっ……ふ、うっ」

 そこまで聞いて、長瀬は咽び始めた水谷の頭に、できるだけ優しく、壊れ物を扱うように手を置いた。

 込み上げてくる情を抑え、彼女に「自分」が触れないようにして。

(俺は……最低な先輩だ)

 自分のことばかり考えていた。

 どうすれば上手くいくか。どうすれば早く結果が出るか。

 そうだ。思えば、年が明けてからも彼女がずっと傍に居てくれた。


「大丈夫ですよ」「きっと良い結果がでます」「では、今日もお疲れ様でした」「また明日、頑張りましょう」


 当たり前のように聞いていた彼女の言葉。それに癒されるのが自分の「日課」なんて位置付けにしていた。

 彼女の抱える不安にも気付かずに。

「……っそ、そしたら段々、全部のことが嫌いに思えてきちゃって」

 彼女の道を妨げて。

「先輩も、友達も、先生も、自分も、未来も、みんなみんな、好きになれなくなってきて」

 彼女の笑顔に隠された涙も知らず。

「わ、たし、わたし、すごく、辛くてぇっ」

 決壊。

 水谷の惨苦が溢れ出す。

「ごめん。ごめんな、水谷さん」

 最低な男の口からは、最低な言葉しか出てこない。こんな語彙では償いの意味は紡ぎ出せない。

 しばらく経って、再び水谷が語り始める。



「……もう駄目で、色々辛くて、今日こそ実験を止めようと思ってたんです」


「そしたら、さっき先輩が、今日で実験は終わり、なんて言うから」


「昨日、一日中悩んでた私の気持ちは何処へ行けばいいんだろうって」


「なんて思ったら、一瞬自分が解らなくなった。そしたら――どうしようもなくなって、泣いてしまいました。今もですけど。えへへ」


 

 水谷は、先ほどの涙の理由を、嗚咽で途切れさせつつも語った。

 そして、彼女は最後に「すみませんでした」と付け加えた。

「水谷さん……」

 どうしようもない。本当に、色々とどうしようもない。

 感情が移相した。こんなときに。いや、こんなときだからこそ、か。

 しかし、錯綜しているからといって、解り易いカタチにしていいとは限らない。そもそも、自分には資格がないのだから。

 間違えてしまう前に。

 修正が効かなくなってしまう前に。

 長瀬は、出来るだけ、在るだけの気持ちを込めて言った。


「ありがとう。俺は君に、救われていた」



/*/


 研究棟エントランスの外まで、長瀬は水谷の見送りに出ていた。

 寒さでお互いの呼気が白く染まる。

「じゃあ、その……無責任かもしれないけど。頑張ってね」

「……はいっ」

 今日限り――というか、教員採用の試験が終わるまで、水谷の研究は一旦休止となった。その間は試験勉強に打ち込むということだ。勿論、研究室責任者である三十路過ぎの女准教授から了承も得ている。

「あの」

 そう言いながら、水谷は右手を差し出してきた。

「握手をしましょう」

 照れくさそうな眼鏡っ娘の笑顔に、長瀬は目が眩んだ。

「うん」

 こちらからも右手を出して。

 握手をする。

 軽く二度上下させてから、どちらからともなく手がほどかれる。

「…………まあ、俺まだ研究室に残ってるし」

「そうですね。また、先輩とご一緒できますね」

 狙っているのか、そうでないのか、いちいち水谷の台詞は長瀬のクリティカルな部分を抉るものとなっていた。

 原因は、変質した長瀬の方にあるのだが。しかし彼は、そのことにはまだ気付こうとしない。

「では、また。あ、歓送会と卒業式には出ますんで」

「あいよ」

 水谷は一礼してから背を向けて歩き出した。

 少しだけその後ろ姿を見つめてから、長瀬も研究棟へと戻っていく。

 ――――と。

「よっ」

「げ」

 エントランスには、煙草を咥えた准教授が待ち構えていた。

 ニヤニヤとした表情がどうにも腹立たしい。

「何か用ですか」

 拗ねた感じで言う長瀬。

 しかし、そのような反応では彼女の嗜虐心を煽るのみである。

「つれないねぇ、駄目男さん」

「ほっといてください。それに、ここは禁煙ですよ」

「火はまだ点けてねーよ。ま、立ち話でもなんだし、外出ようか」

「話すことは何もないですし、今外から帰ってきたばかりなんで嫌です」

「まあまあまあ」

「って、ちょ、押さないで下さいって」

 准教授に押し出されて、長瀬は再び外へと戻されていく―――。


/*/


 次に研究室で会うときは、しっかりと君を支えられるように。

 その時は、きっと、また。


「握手をしましょう」



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[一言] あとひとひねりで、すごく好きな作品になりそうだと思いました。 「後輩を思いやる」という、当たり前だけど結構できていないことを、もっと深く描いて欲しかったです。 文章比喩がややしつこい印象を受…
2008/06/26 02:11 通りすがりの読み手
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