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恋水恋歌  作者: 江藤樹里
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2-3



 慈聖は鈴彦姫を見るなり嬉しそうに笑んで口を開く。いつもより遅い時刻に鈴彦姫が訪れたことについては何も言わず、慈聖は霊木に寄り掛かって座っていた。月光に輝く天之川の髪がきらきらと星を瞬かせる。


「何か良いことでもあったの?」


 千里眼の才を見抜かれた漆黒の瞳が優しく細められた様を見て、鈴彦姫は自分が調子に乗って浮かれ過ぎていたことをようやく認識した。慈聖は〝外〟の出来事に敏感だ。〝外〟に出る鈴彦姫の一挙一動を毎日つぶさに観察しているに違いない。


「はい。とても懐かしい昔のような商店街を見付けたのです。鮮度も質も全て上回っていたので、明日からはより上質の物を買えます」


 慈聖は鈴彦姫に再会を願う魂があることを知っている。彼の人間が再び鈴彦姫の前に現れたと伝えても支障はないと思えたが、その人間に店を教えられたと知れば良い顔をしないのは想像に難くない。

 空狐の祖父が定めた決まり事を慈聖は頑に遵守する。それだけではなく、何処となく人間を憎悪する嫌いがあるのだ。かつて鵺を人間達の手から救い出した時も、何かがあったと鈴彦姫は思っている。

 鵺救出の際、慈聖は善狐の幾らかを引き連れ、集落から危険だからと単身で赴いた。其処で何があったかは知らないが、少々脅すくらいはしたのだろう、翌日から供物が置かれるようになったのだ。もっとも、それも時が経つにつれ忘れられたが、慈聖は気にしていない風だった。


 人間に幸福をもたらすものとされる白狐の慈聖も、人間好きという訳ではない。そんな慈聖に和泉の事など話せば眉根を寄せて〝外〟へ出るには妖をもうひとり付けると言い出すに決まっている。

 そう思うから鈴彦姫はさも自力で発見したとばかりに嘘でもなく本当のことでもない事実を言う。


「そう。鈴彦姫がそんなに嬉しそうに笑うなら、良い場所なんだろうね。

 遠いの?」


 千里眼を才によって慈聖が早く手にしていたならば、笑顔では訊くまい。鈴彦姫は罪悪感を覚えながらも微かに否定した。完全な嘘は、矢張この白狐の前では吐けない。


「多少、近くはなりますが歩きますので大差はありません。ですがこれから少しずつ気温は下がる筈ですから、大丈夫ですよ、慈聖さま」


 せめてもう少しだけ、と鈴彦姫は胸中で謝罪にも似た願いを祈る。和泉が鈴彦姫を思い出せぬと諦めがつくまで、傍にいさせて欲しいと。

 力になりたい。懐かしい魂の香にそう思わずにはいられないのだ。たとえ鈴彦姫を覚えていなくても、和泉の満足するまで一緒に事件を追い続けたい。


「うん。それだけご機嫌なら本当に大丈夫そうだね。鈴彦姫、君は僕と同じで本当に思っていることを口にできないから、たまに無理をしていないか心配なんだ。

 自分の手に負えないと思ったら、すぐに相談して良いんだからね。僕はその為の長だよ」


 白銀に縁取られた漆黒に微笑を返して、鈴彦姫は頷いた。慈聖の唇が淡く儚く笑む。憂き世に浮かび上がる美に、鈴彦姫はしばし目を奪われた。


「はい、ありがとうございます、慈聖さま」


 月虹の如き慈聖に会釈をして鈴彦姫は聖域から出て行く。聖域に吹く風が、二人の対称的な色彩の髪を揺らしていた。



 * * * *



「有力情報が入ったんだ」


 和泉はあの道で買い物へ行く鈴彦姫をずっと待っていたのか、鈴彦姫の手を掴み、真剣な面持ちで告げた。


「少し時間ある? 俺の家、すぐ近くなんだ。あいつの使ってた部屋を今月末までってことで貸して貰っててさ。もしかしたら、あいつが犯人を教えに化けて出て来てくれるかもって冗談半分で思ってな」


 家人が帰る筈だった、だが帰ることのなかった家。鈴彦姫も、もしかしたらと思った。人間には見えなくとも鈴彦姫には見える可能性がある。知らぬ場所で命を失った人間の魂は、自分の家に向かうことが多い。


「構いません」


「よし」


 鈴彦姫の了承を得た和泉は、鈴彦姫の手を握ったまま歩き出した。軽い既視感を覚えながらも、鈴彦姫は和泉が向かう先へついて行く。

 遺体発見現場となった電柱の先には左右に道路が分かれる。鈴彦姫はいつも右に曲がって森へ行くが、和泉は左へ曲がった。離れた街灯を三つ過ぎた所で古びた貸し間住宅が鈴彦姫の目に入る。


「あいつが住んでた『空木(うつぎ)荘』だ。家まで後少しだったのに事件に巻き込まれて、あんなにすぐ近くで遺棄された……そう思うとやりきれねぇよ」


 口惜しさと苛立ちを滲ませて和泉が呟く。初会時の和泉を思い出して、鈴彦姫は握った彼の手に力を込めた。は、と和泉が鈴彦姫を見やる。


「和泉さんが、そう思って下さると知ったならば、少しは報われるのではないでしょうか。貴方のような方がいて下されば、未練は僅かでも軽くなる筈です。

 私なら、それだけで、充分だと思います……」


 言ってから鈴彦姫はうつむいた。和泉の力にはなりたいが、首を突っ込み過ぎれば彼の身も危険ではないかと危惧したからだ。そして彼がまた冥い沼底を見てしまえば悪鬼につけこまれてしまう。


 四百年も待って再会したのに、こんなにすぐは別れたくないと鈴彦姫は強く思う。

 だがそれは、和泉が望む言葉ではない事を鈴彦姫は承知していた。彼は此処まで来て立ち止まりたくはない筈だ。まして、鈴彦姫から望まぬ死に抱き込まれた友の心情の推測など、小指の爪程も期待してはいない。


「……それは……だから、そう、言……のか……?」


 ぼそり、と和泉が何事か呟いたが鈴彦姫には聞き取れなかった。鈴彦姫が和泉を見上げて首を傾げると、彼はかぶりを振る。懐かしい魂の香が強く、した。


「いや、何でもない。美鈴ちゃん、俺は決めたんだ。あいつの為にも犯人を、せめて、失くなった体の一部でも良いから、見つけたいんだ。

 解ってくれるよな?」


 目を伏せて、切な気に鈴彦姫は頷く。ぎゅ、と和泉の手を強く握り、鈴彦姫の小さな手も握り返された。



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