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恋水恋歌  作者: 江藤樹里
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2-2



 * * * *



 〝外〟へ出るのは逢魔が時に近い時刻と決まっている。それより前では勘の鋭い人間は妖が出歩いていると気付くからだと言われているのだ。慈聖の祖父が定めた決まり事らしいが、鈴彦姫は常々思っている。

 誰も自分の事しか考えぬ現代の人間では、真っ昼間から百鬼〝夜〟行したとて気付かないのではと。


 他人を受け入れず、自らの都合の良いように同じ人間同士の隙を窺うその様は、さながら御伽噺にある狐狸の化かし合い。人間を揶揄したかと思う程にそっくりである。


 今日も鈴彦姫は人間にはしなびたようには見えない野菜と、海で生きを忘れて来た魚とを慈聖が呪をかけた木の葉で買っていた。店員は鈴彦姫とは一切目を合わさず、終始うつむいたままだ。まじまじと観察されるよりは楽だが、暖かみなど欠片もないと鈴彦姫は胸中で呟く。

 江戸の頃など、どの店の人間も猫であろうが妖であろうが売り物に手を付けるものは逃がしはせぬと目を光らせていたのにと思えば、今は木の葉一枚で何でも手に入るようになってしまった。

 鮮度が命だった以前は、売り残った物は必要な分だけ持ち帰り、後は猫でも妖でも欲しがればくれたものだ。だが、現在では腐らぬ限り売り続けている。

 どうしたことかと思いたくもなる、と鈴彦姫は店を出て呟いた。誰も鈴彦姫など気にもかけずに炎天下を死人(しびと)の如く歩いて行く。鈴彦姫は和泉が待つであろう道へ向かい足を出した。


「あれ、美鈴ちゃん?」


 聞き慣れた声に、ひとりしか呼ばぬその名に、鈴彦姫ははっと振り返る。其処には和泉が驚いた表情をして立っていた。


「和泉さん」


 鈴彦姫が笑えば、近付いた和泉の顔も和らぐ。懐かしい魂の香も鈴彦姫の鼻腔をくすぐる。


「暑いからかき氷食べに来たら美鈴ちゃんに会うなんて……偶然だね。いつもこの店で買い物してんの?」


「はい。少し遠いけれど、他のお店よりも安いんですよ」


 実際に出すのは木の葉だが、それらしい事を言っておこうと鈴彦姫は人間が話していた事をそのまま言った。ふぅん、と和泉は店内を覗き込む。


「俺、もっと安くてあの道に近い店知ってるよ。行く?」


 そんな場所があるのかと鈴彦姫は顔を輝かせる。値段はどうでも良い。近さだ。味が劣ればどうしようもないが、この店と同じかそれ以上に良い鮮度で近場なら和泉ともっと一緒にいられると思ったからだ。


「はい、教えて下さい」


「こっち」


 和泉が、鈴彦姫の手を取って歩き出した。からころと塗下駄が鳴って、手を繋ぐ和泉と鈴彦姫を街行く人々が物珍し気に振り返る。鈴彦姫は気恥ずかしくてうつむき、そっと和泉を見上げた。

 大きく広い背中と、好き勝手に飛び跳ねた髪、温かく包み込む手が鈴彦姫は愛しく感ぜられて、頬を染めて微笑する。懐かしい魂の香が、幸福だった。

 坂を下って和泉は鈴彦姫をとある商店街へ連れて行った。昔ながらの店を見て鈴彦姫は声をあげる。和泉が満足気に笑う。


「どう? 気に入った?」


「……とっても」


 鈴彦姫の笑顔に和泉も頬を緩めた。


 鮮度も、値段も程良くて鈴彦姫は明日からは此処で買おうと決めた。この場所ならばすぐに和泉に会いに行けるし、長く話ができる。早く、美鈴が鈴彦姫である事に気付いて貰いたい。気付かれずとも近くにいたい。ただそれだけを鈴彦姫は願っていた。


「気に入って貰えたんなら最高だ。俺、美鈴ちゃんに何もしてやれてないからさ、これくらいしかできないけど」


「そ、そんなことないです! 和泉さんには沢山、感謝してるんですよ」


「え、何で?」


 瞠目して和泉は鈴彦姫をじっと見つめたが、鈴彦姫はくすくすと笑うだけにして教えなかった。和泉は、教えてよと鈴彦姫に訊いたが、鈴彦姫は小袖の袖で口元を隠して笑うだけ。


「言えませんよ、恥ずかしいですもの」


「恥ずかしいことで俺に感謝してるのか。俺が恥ずかしい奴みたいだろ」


 ふふふふ、と笑って和泉と戯れながら鈴彦姫は隠した口元で、声に出さずに形作った。

 誰も私を見ないこの人間ばかりの〝外〟で、貴方だけが私に気付いてくれたから……。


 鈴彦姫のことを九十九神という妖なのだと、和泉が知らなくても、其処には意味がある。再会を願い、口約束ではなく現実に輪を巡って戻って来たこの魂が、鈴彦姫の存在を認めて言葉を交わす──そのことに意義があったのだ。


「和泉さん……本当に、ありがとうございます。貴方にお会いできて、良かったです」


 愛らしく笑む鈴彦姫に、和泉も重た気な黒髪を右手でくしゃりと掻き上げて頬を緩める。和泉が表情を和らげる度にする懐かしい香に、鈴彦姫は益々嬉しさが募った。


「何に対してかは、あえて訊かねぇよ。美鈴ちゃんにそんなに感謝される覚えは全然ないけど……喜んでるなら良いや。

 店から出て来た時、沈んでたからさ。元気になったか?」


 労りの言葉に、其処まで見られていたとは知らない鈴彦姫は恥じ入りながら照れ隠しに笑む。傾き始めた西日に頬を橙で染めた鈴彦姫は、早くも逢瀬の時刻も傾いたのだと悟った。砂時計の砂がこぼれ落ちて行く。


「……笑ってた方が美鈴ちゃんらしいし、可愛いよ」


 どきん、と鈴彦姫の一際高い動悸に鈴彦姫自身が驚駭した。和泉の言葉に、であろうかと自問するが返答はない。舞い上がってしまいそうだと鈴彦姫は自覚する。


「和泉さんも……素敵な方ですよ」


 何とかそれだけを返して鈴彦姫は和泉と別れた。和泉がどのような表情をしていたかは分からない──鈴彦姫が和泉を見られなかったからだ。

 自惚れてはならないと鈴彦姫は浮かれる自身に言い聞かせる。和泉にとっては何でもない言葉なのだ。今日の天気は良く晴れたと口にするのと同感覚程度だ。


 だが、それでも鈴彦姫は喜色を浮かべることが止められず、火照る頬を夕陽だけの仕業にはできなかった。

 足取り軽く鈴彦姫は集落へと帰る。その日は鵺の嫌がらせも天帝少女の悪戯も、何も気にならなかった。


「ご機嫌だね、鈴彦姫」



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