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「こんにちは」
「やぁ、美鈴ちゃん」
鈴彦姫はあの日の翌日、遺体発見現場でまたあの男に会っていた。男は和泉正親と名乗り、鈴彦姫はすらすらと美鈴と名乗っている。鈴彦姫が買い物に出る間だけだが、会って話す間柄になった。
「どうですか? 何か新しく分かった事とかありますか?」
和泉は友人が巻き込まれた殺人事件を調べるようになり、鈴彦姫は彼の話を聞いている。常に立ち話だが、鈴彦姫はそれで構わなかった。
友人の死から、ほんの少しではあるが立ち直った和泉は、明るく笑うことのできる青年だ。年の頃は二十で、大学生であるが短期で仕事をしていると言う。しばらくは大学にも行けるような気分にはなれないと、和泉は鈴彦姫に打ち明けていた。
「何も。人通りもそんなにないし、発見もそんなに早くないから。俺と夜の十一時に電話で話してから六時間。携帯も見付かってない」
そうですか、と肩を落とす鈴彦姫の肩に手を置いて和泉は笑む。ありがとう、と言って嬉しそうに和泉が微笑めば、また懐かしい香がして、鈴彦姫は確信するのだ。
彼が、再会を願っていた人物なのだと。
「私も、噂話に耳を傾けてはいるのですけど……和泉さん以上に詳しく知っている方はいらっしゃらないみたいで」
傾き始める陽が橙色の光を投げかけている。長く伸びた影法師に、鈴彦姫は行かねばならぬと、短い逢瀬に別れを告げる刻だと知らされるのだ。
和泉も気付いたか、名残惜し気にそっと鈴彦姫の肩から手を離す。唇に刻んだ穏やかな笑みと寂し気な目が、鈴彦姫に後ろ髪を引かれる思いを喚起させる。
「また、明日、会えますか?」
堪えきれずに鈴彦姫が問えば、彼は満面に笑んで。
「勿論。また明日」
「はい。また明日お会いしましょう、和泉さん」
会釈をして、鈴彦姫は集落へと戻って行く。鈴彦姫は、もう彼の冥い瞳に何も感じなかった。
* * * *
「おかえり、鈴彦姫」
そう言って鈴彦姫を迎えた慈聖は膝に鵺を座らせていた。彼は別に何とも思っていないのだろうが、鵺が勝ち誇った表情でこちらを見て来るのが鈴彦姫は鼻持ちならない。
「ただいま戻りました、慈聖さま」
「ねぇねぇ慈聖さま、鵺ね、昨日ね、天帝少女と新しい遊びを考えたのっ。見て下さる?」
子どもっぽい嫉妬に鈴彦姫の挨拶は途中で邪魔され、最後まで慈聖に聞こえたかどうかは分からない。鈴彦姫は黙って鵺と慈聖が遊ぶのを眺める。
慈聖はとても齢七百を過ぎた白狐には見えない表情で、鵺の遊びに付き合っていた。白銀の髪がさらさらと揺れる度に、笑んだ柘榴の花の如き唇が白皙の頬に映える。神の使いと人間が伝えるのも解る気がする、と鈴彦姫は、ぼんやりと思った。
だがいずれ神格化する慈聖は綺麗すぎて九十九神には遠い。触れてはならぬ美を内面に秘めているのだ。鵺のように飛び込んでは行けない。
あははは、きゃはははと楽しそうに笑う慈聖と鵺の声に、何だ何だと妖達が寄って来る。そろそろと遠慮がちに九十九神も顔を覗かせた。
「どうしたの、鈴彦姫、何があったんだい?」
鎌鼬や彭侯、轆轤首が尋ねる。二人が遊んでるだけよと鈴彦姫は返すが、楽しそうな様子に面霊気や経凜々の九十九神達がはしゃぎ始めた。
それを見て慈聖が鈴彦姫を呼び、舞楽を頼んだ。楽器の九十九神達が集まって楽を奏で出す。鈴彦姫はつられる様にして舞い始め、その度に鈴が儚く鳴った。鈴彦姫はやんやの喝采を受け、宴となった夜は更けていった。
妖達の眠りにつく頃、宴会もようやく終わり、それぞれが寝床に戻って行く。慈聖の膝の上で眠ってしまった鵺を、天帝少女が連れて行くのを最後に見送り、鈴彦姫も帰ろうとした刹那、慈聖に呼び止められた。
「お疲れ様、鈴彦姫。とても素晴らしい舞だったよ。お前の舞はいつ見ても、四百年前に初めて見た時と同じくらい感動するんだ」
にこりと笑って慈聖は言う。鈴彦姫も笑んで礼をした。さらりと束ねた黒髪の先が揺れる。
「ありがとうございます、慈聖さま」
慈聖は色を失っていく月を見上げ、静まった聖域の中で囁くように口を開いた。
「一緒に寝ようか、鈴彦姫」
もう、と鈴彦姫は笑う。
「『僕はもう大人だからひとりで眠れるよ』と仰ったのは、慈聖さまですよ? 大人になられたなら生涯の伴侶さまが見付かるまでひとりでお眠り下さいな」
「大人になっても誰かと一緒にいたいものだって、僕はおじいちゃんに聞いたよ。ねぇ、鈴彦姫、昔はよく一緒に寝て色々話したじゃない」
ぽわわんと言う慈聖に、駄目なものは駄目ですよと鈴彦姫は優しくたしなめる。いい年をした大人なのだからと。
「生涯の伴侶さまに見られたらどう言い訳するのですか? 言っておきますけれど私とて女ですので、慈聖さまに味方するとは言い切れませんよ」
「……酷いなぁ、鈴彦姫」
くすくすと笑って鈴彦姫は昔そうしていたように、慈聖の額にそっと唇を落とす。母が子にするように。昔はこうしてから睡魔を迎えたものだと思い出しながら。
「これで我慢して下さいね、慈聖さま。おやすみなさい」
「……うん、ありがとう。おやすみ、鈴彦姫」
鈴彦姫は会釈をして聖域から去って行く。緋袴が見えなくなるまで目で追った慈聖は、ふぅ、と息をつき、その通り道だったのか前髪が浮いた。
ひとり巨大な霊木の根元に腰を下ろしたまま、慈聖は右手を鈴彦姫の唇が触れた髪に当てる。目を伏せれば白銀の睫に漆黒の瞳が隠れ、月に夜が抱かれる。その様を美しいと誉め称えたのは誰であったか。
「本当に酷いなぁ……鈴彦姫」
ぽつり、と慈聖は呟いた。
風をいたみ
岩打つ波の己のみ
砕けて物を思ふ頃かな




