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聖域の自然にはいつも足がすくむが、燦々と陽光が木の葉の間から降り注ぐ霊木の根元で、長い脚を投げ出し白皙の顔を木洩れ日の下で安らかにする彼に、鈴彦姫はいつも微笑を零す。
遥かに歳は違う。だがこの集落にいる妖の中で一番年齢が近く、一番長く一緒にいた。彼の治める集落の、初めての民となったのが鈴彦姫なのだ。
──大丈夫?
初めて交わした、言葉だった。
──今、助けてあげるからね。
齢三百を越え、変化の技を修行し始めたばかりの幼い狐。彼は懸命に土砂に埋もれる鈴彦姫を口で引っ張り出してくれた。供養され、鈴彦姫が九十九神になった矢先の天災だった。
──良かった、何処も壊れてなくて。
泥だらけになって美しい毛皮を汚しても気にせず、彼はそう言って笑んだ。仙狐の祖父と父を持ち、自らもとうに善狐の上に昇り詰めた白狐である、彼が。
「……慈聖さま」
天之川かと見紛う銀に輝く髪は、蟻達でさえ一本一本を避けて歩いて行く。軽くかかった前髪の下で、漆黒の瞳がくすぐったそうに開かれた。乙女の如く赤い唇が薄く笑み、視線が鈴彦姫を捉える。
途端、少年のように笑い。
「おかえり、鈴彦姫」
「……ただいま戻りました、慈聖さま」
人の姿でいるのは彼の力を抑える為だと以前に鈴彦姫は耳にした。九尾になりかかっている彼の力は強大で、彼を戒める筈の自然が減った現代ではそうそう本来の姿に戻れないのだと。かつて見た白狐の姿は、例えようもなく美しかったと鈴彦姫は記憶している。楽の音の、具象の美が其処に存在していたから。
「また、持って来たの? 僕は何も要らないって言ってるのに……話し相手に来てくれればそれで良いんだよ。
僕はちゃんと、自然と対話して一日を生きる分だけ貰ってるんだから」
手の中のそれは、他の妖にあげてよと慈聖の名を持つ彼は微笑む。その名もまた、彼の力を縛る為のものだと鈴彦姫は聞いた。自らの集落を作り、治めるよう父に言われた彼は名という呪を受け、力を制限された。他の妖を自らの力で押し潰さない為に。
こっちにおいで、と手招きして慈聖はうつぶせに寝転ぶ。鈴彦姫もそれに倣って慈聖の隣に寝転んだ。土が香って慈聖が笑む。
目の前の平らな石を持ち上げて、慈聖は鈴彦姫にその下で暮らす生物を見せた。百足や団子虫といったそれらは、鈴彦姫の外見と同じ妙齢の娘ならば悲鳴をあげて逃げ出すであろうが、鈴彦姫は平気だ。
「こうやって、精一杯生きている。たまたま、虫に生まれ僕が狐に生まれたように。
毎日を必死で生きる彼らから、僕は命を繋ぐ為に命を貰う。どういうことか、解るかい、鈴彦姫」
柔らかい声を耳に、鈴彦姫は頷く。すぐ間近で慈聖が笑んだのが分かる。
「はい。慈聖さまが、森を守っていらっしゃいます」
もう森と言う程に広大ではないけどね、と慈聖は哀し気に笑う。それでもこれだけ残したのは慈聖の力だと鈴彦姫は思った。人に危害を加える野狐とは違い、慈聖は好き勝手に暴れられない。暴力でねじ伏せれば容易いが、善狐が人間を傷付け血を流せば森の神聖さは失われていただろう。
どうやったかは鈴彦姫には分からないが、慈聖は此処に住む多くの命を救ったのだ。長としては若くても、立派な長になれる資質は既にある。




