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恋水恋歌  作者: 江藤樹里
29/33

7-2



「様はないわね、妖狐! たかが蜘蛛にやられちゃって!」


 絡新婦が喜々として言う。ぐりぐりと慈聖の右肩を刺し貫いた脚を回して傷を抉られ、慈聖は叫び声も出せない程に痙攣し呻き声をあげる。


「貴方の中身を吸い出した後は、頭も残さず食べてあげるわ。貴方の血も肉も骨も、全部あたし達で平らげてあげる」


「嫌ぁぁぁっ!」


 鈴彦姫の制止に、絡新婦があらと下方を向いた。


「心配しなくても、あんたも一緒に食べてあげるわよ、鈴彦姫」


 ばたばたと解けない糸の内側でもがく鈴彦姫は、滴り落ちる慈聖の血を見て泣いていた。それを見て絡新婦の嗜虐心に火が点かぬ内に、と慈聖が掠れる声で言葉を紡ぐ。


「絡新婦……お前が人間の男を恋慕したのは、まだ准妖にもならない普通の女郎蜘蛛だった頃じゃ、ないかい?」


 絡新婦が、慈聖を見る。慈聖は両肩から発する熱に汗を流し、乱れた呼吸ながらも何処か確信を持って言っているように見えた。


「四百年の昔、お前は恐らく民家付近で網を張った。と言っても江戸の都ではないだろうね、あそこは長屋なんかが密集していたから網は張り辛いよ。何処かの広々とした土地で、お前は生きていたね。そして其処で、人間の男に恋情を抱いたんだ」


 まるで見て来たかのような淀ない口振りだ。何を言うつもりかと誰もが慈聖を見つめる。その間も、赤が双方の傷口を流れて行く。


「何があって人間にそんな気持ちを抱いたかは知らない。網を壊されなかったか、言葉をかけられたか、女の子じゃないから僕には女の子が恋に落ちる理由は分からないけど。

 人間の男に恋をした。だからお前は、人間の女になりたかった。男を慕う心が、お前に妖となる道を選ばせ、支えたのだろうね」


 絡新婦は気付いているのか、と慈聖は痛みを我慢しながら思った。右肩に差し込んだ脚が、ふるふると細かく震えている。だが悟らせる訳にはいかない。慈聖は続けた。


「お前が准妖から妖になるまでは長過ぎる時間が必要だった。人間はやがてこの世を去り、お前は住む場所を変えなければならなくなったね。森へ行くこともできた、恐らくそうすればお前は独りではなかったよ。それでもお前は、町を離れられなかったんだね、男が、いつ輪を巡って戻って来るとも分からなかったから」


 は、と鈴彦姫が表情を変える。鈴彦姫も慈聖に会わなければ、あのまま土砂に埋もれながら待っていただろうことに思い至ったからだ。


「時代が移ろうにつれ、お前は何度も人間の手で殺されそうになっただろう。家の近くに網がかかっては嫌だと顔をしかめる人間もいただろう。お前はきっと、妖になる前に幾度も人間から酷い扱いを受けたね。

 四百年が過ぎて人間の姿に変化ができるようになって、お前は気付いてしまったんだ。人間が外見しか見ず、そして人間同士ですら偽り合い、心から愛を告げてくれる人間も少ないことに」


 絡新婦と慈聖の血が、血溜まりに落ちる音ですら聞こえそうな静寂だ。慈聖が言葉を切れば、微かな呼吸音すら響く。


「お前は、それでも外見だけを見ずに判断してくれる者もいる筈だと探したかもしれない。あの時に恋をした同じ魂なら受け入れてくれるのではと希望を抱いたかもしれない。けれどどれも、気に入らなかったね。

 お前の仲間を手にかけることを厭わない人間だったからかい? 違うよ、お前は怖れていたんだ、過去の扱いを思い出して蜘蛛だと知られるのが恐ろしくなった」


 蜘蛛について彼女が尋ねたのは、嫌悪されないか、殺されそうにならないか、それを確かめる為だった。誰かの為と言いながら彼女は、殺生も構わないと言われた刹那に怒りよりも哀しみよりも、恐怖で、男を先に殺していたのだ。


「お前が一番、自分の外見を気にしているよ」


「!」


 絡新婦が脚を突き出して慈聖の傷を抉った。堪え切れずに慈聖が苦痛を訴える。流れる血が、多くなった。


「違う、違う! あたしはそんな、そんな……っ」


「恐ろしかっただろう? どの人間の男も……受け入れてくれなければ……お前は恋をした最初の男にも……受け入れられないのではと、恐くなったね……?」


「違う!」


「だからお前は……先に男を喰ってしまうことにした……蜘蛛について訊くこともなく、有無を言わせずに……腹に収めて独占しようとした……」


「黙れ! あたしの為とほざいて仲間を殺す男を、好きになる訳がない!」


「やめて! もうやめて下さい! 慈聖さまにそんな酷いことしないで!」


 鈴彦姫が叫んで、慈聖が口をつぐむ。傷が痛むのか慈聖はうつむいて荒く呼吸を繰り返し、美しい白銀の髪は血で染まっていた。絡新婦も慈聖が黙ったので何も言わずに、肩で息をしている。


「あたしも、血を流し過ぎて限界よ。貴方を美味しく頂かせて貰うわ」


 絡新婦が慈聖に近付く。目を見開く鈴彦姫の目前で、絡新婦の上顎が、慈聖に食らい付こうとしていた。ふと、慈聖と鈴彦姫との視線が合った――切なそうに、慈聖が笑んで唇が動く。


「ごめんね、鈴彦姫」


 その瞬間、慈聖の呪が解けた。




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