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恋水恋歌  作者: 江藤樹里
25/33

6-2



 手を下ろし、絡新婦は和泉から鈴彦姫に向き直った。そして紫の着物に手をかけ、絡新婦は襟を下げる。輝きを放つ長い黒髪を右肩から前に動かし、うなじから腰までを絡新婦が和泉に見せた刹那、和泉が、うっと苦し気に声をもらし、蜘蛛達が歓声か、鉗を響かせた。

 その背に、女郎蜘蛛の刺青が、彫られていた。

 長い六対の歩脚は黒地に黄輪が走り、腹背には三本の緑黄色の横帯を有し、八つの単眼が全てを見透かす。それは元の姿か、着物の珍しい柄も彼女がそうだと物語っていた。


「ただの蜘蛛だったあたしにとって、妖になるまでの四百年は久遠のようだった。准妖になってからも姿は蜘蛛のまま何と生き抜くことが大変だったか。

 四百年が過ぎて人間の姿を得た時の喜びは、同じ者にしか解らない」


 着物を正した絡新婦が静かにもらした言葉は、恐らく本音なのだろうと鈴彦姫は思った。何処の集落にも入れず、独り生き抜く時間はどれだけ長かったことだろう。鈴彦姫の四百年は、決して独りではなかった。

 巫女と別れ、九十九神となり、慈聖に会うまでの僅かな時だけ独りきりだった。それ以降はずっと仲間と、慈聖と一緒だった。鈴彦姫に、絡新婦の気持ちを推し測ることはできない。


「……鈴彦姫、恋はまやかしよ。心在る者全てを狂わせる。あんただって狂わされて、あんな男の為に全てを失うの。

 人間の男を好いたって、何も得られない。ただ失うだけ」


 いつから、と絡新婦は呟くように言った。


「いつから、人間の男は弱くなったの? いつから、人間の女は浅ましくなったの? 女は不味すぎて口に合わない。柔らかいか、骨と皮ばかりの女は、女であることを捨ててしまった。そして男も、強くなることを止めてしまって、毎日机にかじりついて脳ばかりを肥大させていく。

 そんな人間の為に、あんたは命を失うの」


 絡新婦が、鈴彦姫に段々と近付いて行く。鋭い爪を見、彼女の瞳を見、鈴彦姫は満足に出せない声で小さく問うた。


「貴女も人間の男に……恋をしたの……?」


 伸ばされかけていた絡新婦の手が、ぴたり、と止まった。毒を含んだように赤い唇が自嘲に笑う。


「恋をしたこともあった。けれど人間に蔑まれて来たあたしに、人間を愛せる筈もなく、いつも憎悪に喰い殺してしまった」


 止まった手が再び伸ばされ、仰け反った鈴彦姫の首を固定した糸に触れる。それをいとも容易く取り除き、絡新婦は赤い、和泉が絞めて残した跡を傷付けぬよう爪でなぞる。


「あたしは気味が悪いとか、害虫だとか言われる為に生きて来たんじゃない。あんたみたく、たった九十九年で人間の姿になれる訳でもない。所詮、(まが)い物でも人の姿を手に入れたかったあたしは四百年、我慢して来たのよ」


 そして彼女が思う最高の女に、変化を許された時、妖となった。蜘蛛の姿の時は叩き潰そうとした人間も、艶なる美女の姿をした彼女を邪険には扱わなくなった。言い寄る男は星の数程もいたし、恋に落ちもしたが、蜘蛛について彼女が訊けば男は皆、必要とあらば殺生も厭わぬと豪語した。そして次の瞬間には愛も、男の命も、消えていた。

 絡新婦は、知ったのだ。人間は外見だけで全てを判断する。いくら彼女が美女に変化しようとも、正体を蜘蛛だと知れば人間は去って行くのだと。人間の姿でなければ、人間の男に恋をしても不毛でしかないと。


 そして絡新婦は食糧として人間を見るようになった。一皮剥けば白い骨と赤い血肉の同じ物で構成されているのにも関わらず、造形が良ければそれで良いと近付く者達を片っ端から喰らっていった。

 人間こそが低俗で害なす存在だと嘲りながら。


「あんたは好かれると思っているの? あの男は無理だったけれど、別の男なら、人間なら好いてくれると?

 あんたは綺麗よ。だけどあんたの元の姿は何? 鈴、ただの神楽鈴。あんたの()は美しい、だけど身は?」


 絡新婦の言葉に誘導されて鈴彦姫は元の姿を思い出した。四百年もの時を経た、古びた神楽鈴。九十九神としての魂を得た、人間の手で生じた器物。


「……人が、鈴を愛するものか。人は、人しか愛さない。

 だからあたしは人を呪う、人を憎む、人を喰う。あんたにも、解るでしょう?」


 ああ、と鈴彦姫は息をもらした。葛葉が進言して作った決まり事は、この事態を引き起こさない為の物だったかと思い至ったからだ。

 妖が人間に恋をして、結ばれたとしても、いずれは怪異で正体を見破られる。それでも良い、生涯を共に過ごそうと言う人間は皆無に等しい。遅かれ早かれ、やがては別れねばならない。

 幾度、人間に恋をしようとも添い遂げることはない。それを繰り返し、身も焦がれ(やつ)る恋を諦め失って来たとしたならば。


 妖とて、辛くない筈がない。愛する者に受け入れて貰えないことで、絡新婦のように人間を憎悪し喰い殺すことも起こり得ると、本気で人間を愛した葛葉は懸念したのだろう。


 だからそれまで鬼だ妖だと騒がれたのだ。決まり事が浸透するまでは悪鬼が跋扈した。それからは格段に妖が人間を見染める数も減り、現代ではほとんどなくなったのだ。善狐の代表と葛葉が言われる理由も其処にあるのだろう。

 だが独りで生きて来た絡新婦は決まり事を知る機会もなく、人間に恋をし、情が激化してしまった。故に絡新婦は人間を恨み、憎む。そして喰い殺してしまうのだ。


「貴女は……」


 恋慕した男を喰うということはしかし、腹に収めることで男の心を我が物にしようとする独占欲の表れなのではと気付いて、鈴彦姫は胸が締めつけられるような切なさに襲われた。


「人間に嫌われるのが、怖いんですね……?」


「――!」


 絡新婦のもう片方の手が伸びて、和泉が付けたのと同じ場所に手を置き、鈴彦姫の首を絞めた。瞠目し、力を込める絡新婦の手に圧迫されながら鈴彦姫は続ける。


「外見に惑わされない男性を探しては、絶望し、上部だけを……食べる。『私は外見なんて気にしない』と言うように、頭を残し……」


「……うるさい……」


「仲間の殺生を行う腕を……業を思い知らせるかのように別の人間に食べさせ……」


「……黙れ……っ」


「期待を裏切られたと、下肢を残す……」


「違う、違う、違う!」


 ぎり、と鈴彦姫の首に絡新婦の指が食い込む。逃れる為にもがくことも出来ず、鈴彦姫は入らない空気を求めて口を開く。狭い喉からは呻き声しかもれない。

 そして、と鈴彦姫は心の中で続けた。


 貴女は、泣いている――。





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