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「やめてぇぇぇ!」
鈴彦姫の絶叫と髪留めの鈴が激しく響く。それに美女は手を止め、鈴彦姫を見つめた。じ、と鈴彦姫を見つめた目が残虐に笑う。
「この男にそれ程までに執着する理由があるの? 九十九神風情に、憑り殺せるとでも? そんなに好きなら、あんたが身代わりになる?」
弧を描く赤い唇に白い指を淫靡に這わせて言った美女の台詞に、鈴彦姫に限らず和泉の表情も変わった。しばし見つめ合う二人を交互に眺めて、美女は笑みを深める。
何かを訴えるように和泉は鈴彦姫を凝視し、鈴彦姫も和泉を見つめ返した。和泉の身代わりになることで鈴彦姫が命を落としても、和泉が助かるならば構わない。鈴彦姫の心は決まっている。
つい先刻残された首の跡は、未だ赤く刻印めいて鈴彦姫の白を侵しているが、同じ魂の為になら身を滅ぼしても厭いはしない。この命が、もしもこの時の為に生じていたならば、何を迷う必要があると言うのか。
そう思う鈴彦姫の目から大粒の涙が零れる。
長い沈黙に耐えかねたか、美女が和泉の髪を掴んで引っ張り上げた。苦痛に表情を歪め、声をもらす和泉の喉に、鋭い爪を宛てる。美女の爪は軽く滑らせただけで和泉の、人間の薄い皮膚を切り裂いた。
つ、と流れだす赤を和泉は見ることはできない。だが首筋を伝う生温い何かと、鈴彦姫の悲鳴を呑み込んだ表情で和泉にも予想はつく。
私が身代わりになります、和泉さんを放してと鈴彦姫が口にする前に、美女の吐息と自身の赤で混乱状態に陥った和泉が叫んだ。
「た、頼む! 俺の代わりになってくれ、美鈴ちゃん! さっきのことは謝るから、た、助けて……っ!」
見物していた蜘蛛達が沸いた。鉗脚を騒がしく鳴らし、転げ回っている蜘蛛もいる。哄笑のつもりだろうか。
「『助けて』だって、鈴彦姫。ご指名だよ、涙ながらのね」
美女が和泉の髪を放すと、和泉は床に伏した。だが腕を使って、ずるずると芋虫か何かのように、和泉は鈴彦姫に向かう。
恐怖から来る涙で顔を濡らし、和泉は辿り着いた鈴彦姫の足元から彼女を見上げた。緋袴の裾を握り、ゆっくりと上半身を起こし、鈴彦姫を仰け反るようにして見上げる和泉は哀れな幼子だった。
「頼むよ、美鈴ちゃん……俺のこと、好きなんだろ……?」
恐ろしさのあまりいかれたか、和泉はへらへらとだらしなく笑いながら鈴彦姫に助けを請う。鈴彦姫は言葉を忘れて、ただ和泉に見入った。
「俺の代わりに……死んでくれよ……」
「……っ」
蜘蛛の糸に絡め取られ身動きの取れない鈴彦姫に縋りついて和泉は懇願した。代わりに死んでくれと上言のように繰り返す和泉の体が、恐怖にわなわなと震えている。
「どうするの? 拒んでも良いのよ、鈴彦姫」
美女が楽しそうに和泉を甚振る。その言葉を鈴彦姫に受け入れさせてはならんとばかりに和泉が必死で助けを願う。二人の声に、鈴彦姫はどうすべきか分からなくなってしまった。
どちらも、本気だ。美女は喰うのがどちらであっても良いと思っているし、和泉も生きたいと叫んでいる。だが本当に、鈴彦姫の命を差し出して良いのか?
この命は何の為にある? 誰の為にある?
誰かを救う為と銘打って、投げ出しても良いものなのか?
遠くで艶然と笑む美女、近くで涙顔を上げる和泉の双方を順番に見やって、鈴彦姫は伝染した震えに怯える唇で言葉を紡いだ。
「私が、和泉さんの身代わりになります……」
和泉の表情が明るくなった。感心するように美女が、ほぅ、と眉を上げる。
「……だから」
和泉さんを逃がして下さい、と鈴彦姫が言うより先に、鈴彦姫の足元から和泉が消えた。和泉は瞬時に美女の元に戻っており、和泉も不思議そうな表情を浮かべる。美女が糸を繭部分に付着させ、引き寄せたのだと鈴彦姫は察した。
美女は和泉に唇を寄せて囁く。
「良かったわねぇ……友達がどんな風に食べられていったか見てから自分も同じ死に方ができるわよ」
鈴彦姫と和泉の表情が驚愕に硬張った。美女は、和泉も喰うつもりなのだろうか。それでは鈴彦姫は何の為の身代わりなのか。
「少しだけ、生きている時間が長引いたわね」
にこりと笑う美女に、鈴彦姫が叫んだ。鈴がまたも狂ったように鳴り、倉庫内に似つかわしくない澄んだ音が響く。
「私が身代わりになったら、和泉さんは放す筈じゃ……っ」
「何を言っているの? あたしは一言も『放す』とか『見逃す』とか、言ってないわ。あたしはあんたに、『身代わりになって最初に食べられる?』って訊いたつもりよ?」
そんな、と愕然とする和泉の首から流れる細い血を舐め取って美女は笑んだまま鈴彦姫を見る。憤然として鈴彦姫は美女に掴みかかろうと糸から逃れる為に暴れた。しかし粘着質で頑丈な糸は鈴彦姫に纏わりついたまま離れない。
「酷い! どうしてこんな事するの! 騙すなんて、こんな……っ」
「あら、騙し合い化かし合いはあたし達の専売特許よ。あんただってこの男に騙されたじゃないの。所詮は人間の手で生まれた九十九神だから、仕方ないことかしらね」
放心している和泉が自分を騙していたことを思い出して、鈴彦姫は言葉に詰まった。そうだ、彼は自分を騙した。心の中で嫌悪しながら彼は、表面上は好い顔をして、鈴彦姫を探っていた。本当は、微塵も好意など存在していないのかもしれない。
思考が其処に行き着きながらも、かぶりを振って鈴彦姫は反論する。
「でも、でも、こんなの……こんなの酷い……っ! 私の和泉さんへの懸想を利用するなんて……っ!」
「うるさい!」
美女の袖から蜘蛛の糸が飛び出る。糸は鈴彦姫の首を打ち、鈴彦姫は仰け反って壁に更に固定された。
「恋だとか愛だとか、そんな物は全てまやかしよ。あたし達には本能しかない。人間の男に恋をしたところで、一体何を得られるの?」
鈴彦姫は喉を圧迫されて呻き声しか出せない。和泉が美女を凝視して呟いた。
「あんた……一体、何なんだ……」
怯えてぶるぶると震える和泉を一瞥し、美女はまた袖から糸を出して和泉を鈴彦姫とは反対の壁に張り付けた。鈴彦姫のように大きな巣を張り巡らせてあった訳ではないので、したたかに背を打って和泉は息を詰まらせる。
「あたしは絡新婦。四百年の時を経てやっと人間の姿を手に入れた、妖怪よ」




