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「い、和泉さんっ」
簪を握り締め、呼び鈴を鳴らそうとしていた鈴彦姫は途端開かれた扉の向こうに立っていた和泉に一瞬驚いたがすぐに声をかける。だが和泉は訝し気に鈴彦姫を見ている。
「美鈴ちゃん? その格好どうしたんだ?」
変化する力を抑える鈴彦姫は本来の姿であった。水干に緋袴と現代では滅多に見なくなった神職姿の鈴彦姫は、和泉から見れば異様だろう。
「これが本当の私の姿です」
懐かしい魂の香に襲われながら鈴彦姫は答える。和泉は素っ気なく、ふぅんと言ったきり口をつぐむ。気まずい沈黙の中、鈴彦姫は簪を和泉に見せ、礼を言った。
「ありがとうございました。本当に嬉しかったです」
鈴彦姫がそう言えば和泉が益々怪訝そうな顔をする。礼ならば贈った時に言われ、わざわざまた言いに来る程の物でもない。それより、と和泉は話題を変えた。
「昼間に美鈴ちゃんとこの雇い主だっていう男に会った。凄ぇ男前だったけど、酷い因縁つけられたよ。よく此処まで来られたな」
鈴彦姫の後ろからその男が追って来るのではとばかりに和泉が首を伸ばす。あながち否定もできないので曖昧に笑って誤魔化し、鈴彦姫は再び礼を言った。和泉からの贈り物というだけで充分に嬉しかった。
「姫百合に託された歌を思い出してしまいました。烏滸がましいですけど……その歌も一緒に贈られたと思っても、良い、ですか……?」
僅かに興味を覗かせた冥い瞳に、和泉が促したのだと思って鈴彦姫は小さな声で、だが周囲の静けさには響く声で言った。
「夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものを」
夏の野の茂みに咲いている姫百合の様に、人に知られないでいる恋は苦しいものだと詠まれた万葉集に収められたこの歌は、奈良時代に生きた女性の才能豊かな歌人、大伴坂上郎女のものだ。
彼の有名な三十六歌仙の一である大伴家持の叔母であり、穂積皇子、大伴宿奈麻呂に愛された恋多き女性である。彼女の残した恋歌は数多く、他にも万葉集に選ばれた。
誰にも言えない恋に、鈴彦姫自身にも共感する部分が多かったのだろう。だから姫百合の簪を贈られたと知った時に、この恋歌を思い出したのだ。葛葉もそうだったのか、歌のことを彼女が言った時に慈聖に持ち去られ、もう戻って来ないかもしれないかもしれないと諦めもした。だが手元に、戻って来た。
てっきり和泉もその想いを込めたとばかり鈴彦姫は考えていたが、伸ばされた和泉の男っぽい隆起した手に喉笛を掴まれ頭の中が真っ白になった。
勢い良く押された為に、鈴彦姫は地面に背を打ち付け痛みに表情を歪める。ぐいぐいと喰い込む凶器の手に圧迫されながら、鈴彦姫は何とか逃れようと足をばたつかせた。が、和泉に馬乗りにされ押さえ付けられ無意味だった。
困惑に揺らぐ鈴彦姫の目は、憎悪に燃える冥い和泉の目を見つめる。だが何処かで冷静さを保っている和泉に、鈴彦姫は戸惑う。
「な……っ、あ、んで……っ」
息苦しさよりも首にかかる力の方が痛くて、鈴彦姫は顔を歪めながら疑問を口にした。何故このような行動に和泉が出るのか、鈴彦姫には皆目解らない。
「……ようやく尻尾を出したな。俺はずっと、あんたが犯人だろうって思ってたんだ。目撃情報にあった髪の長い女――あんたには女としか言わなかったな――、あいつと電話していた時に聞いた歌」
それが姫百合の歌だった。僅かな情報を出し犯人が襤褸を出さないか待っていたのだろう。だが何故、それだけで鈴彦姫がそうだと言えるのだろうか。
「あいつを返せよ。俺の大事な友達だったんだ。俺の過去を知りながら友達でいてくれた、大切な友達なんだ。
どうしてあいつを殺した。何であいつじゃなきゃ駄目だった?」
和泉は鈴彦姫が答えられないでいるのを解りながら尚も問いかける。力は一層、強くなった。
「犯人は現場に戻って来るっていうのを、頼るしかない程に情報は少なかった。誰も最近続く連続殺人の犯人について知らない。だからあの日、ずっとあの場所に張り付いてたんだ……犯人が通るかもしれないだろう?
あんたは二度も通った。それも夜中に。疑われても仕方ないよな?」
友人を失い、平生ではない和泉が辿り着いた結論は支離滅裂だ。だがそれに固執する和泉は気付かない。それを盲信し、鈴彦姫を犯人と決め付ける。
「あんたの尻尾を掴む為に俺はあんたに良い顔をしたよ。騙されただろ? あんた、俺のあんな演技に舞い上がってさ、初心だよな。簪だってあんたから歌を言わせる為の小道具だ。歌に込めた想いなんて、知らねぇよ」
目を瞠る鈴彦姫に、へ、と笑って和泉は伸しかかる様にして鈴彦姫の首を絞める。鈴彦姫は抵抗を諦めていた。腕が力なく地面に伏す。
「あんたに、何回も会いに行ったよ。だけどあんたは何処にもいない。その格好は神社か何かの人間だからか? それとも趣味か?
何処の誰かも分からない女を、誰が好きになる? 俺が一度でも、あんたに『好きだ』なんて言ったかよ? 言ってないよな、あんたを欺く為に良い顔してただけだ」
自分の愚かさに、鈴彦姫は涙を流した。絞め上げられて出る涙もあるが、何よりも心が痛かった。
慈聖が心配したように、鈴彦姫は和泉に騙されていたのだ。懐かしい魂の香が強くしていることが、鈴彦姫を苦しめる。
私を傷付ける為に、あなたは、輪を巡ることを約束したの?
いつかまた、と彼の魂は約束をした。長い年月を一緒に過ごした巫女はただの神楽鈴を大切に扱い、元より良い職人の手で作られ魂が宿りかけていた鈴は准妖となっていた。丁寧に供養される時に、巫女は約束をしたのだ。
いつか、また、と。
そして鈴彦姫は九十九神となり、慈聖に出会った。初めての仲間だった。
彼の言葉を信じずに懐かしい魂の香を妄心し、彼を裏切って来た結果がこれかと思うと鈴彦姫の涙は止まらない。
後悔の念が溢れ、慈聖に謝罪もできないまま鈴彦姫の生が終わろうとしている。人間の手によって生じた命は、同じ人間の手によって止められるのか。それが九十九神として生きる理由ならば。
人に幻想を抱いていると、壊されるよと慈聖の言った意味が、鈴彦姫には理解できた気がした。
鈴彦姫の視界が霞む。いよいよ駄目かと思い、鈴彦姫は自嘲に笑む。
ごめんなさい。せめて貴方に謝りたかった。
「慈……聖……さ、ま……」




