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恋水恋歌  作者: 江藤樹里
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3



「いらっしゃい、お嬢ちゃん。生きの良い魚ばかりだよ」


「こっちの野菜は農家直送、味も保証するよ」


 活気溢れる商店街は夕餉の買い出しに来た人間でごった返していた。今となっては見る機会も激減した光景に懐かしいと感慨に耽る暇もなく、鈴彦姫は和泉と一緒になって商品を選ぶ。

 適確に新鮮な物を手際良く見分ける鈴彦姫に感心しながら和泉は犬よろしく後ろを付いて来る。その様を可愛らしいと鈴彦姫は笑んだ。


「随分と沢山要るんだな。そういえば美鈴ちゃん、何処に住んでるんだ? どっかの屋敷とか?」


 和泉の何気ない問いに内心ぎくりとしながらも、鈴彦姫は淀なく嘘を答える。


「そんなに大きなお家ではないのですけど、とても楽しい場所で住み込みで働いています。皆さん沢山食べるのでこんなに量が必要なんですよ」


 へぇ、と疑う風もなく和泉は納得した様だ。ほっと胸を撫で下ろしたが、いつ襤褸が出るか分からない為、鈴彦姫はすぐに話題を移す。


「和泉さんは、ご家族と一緒に住んでいらっしゃるのですか?」


 ん、と和泉は鈴彦姫に苦笑をこぼした。その意味が分からず首を傾げる鈴彦姫に買い物の終了を確認し、行こうか、と言って和泉は夕陽に染まる道を歩いて行く。


「……昔気質の頭堅い親父と、子どもの教育に人生と金かけるお袋、良くできた嫌味な弟と、引きこもりの俺の四人家族。毎日毎日、飽きもせず部屋にこもってた俺を、金に物言わせて大学に入れてさ、厄介払いって訳だ。弟は一流大学に入って鼻高々。

 事件を追う俺を、上手くいけば何か警察に貢献して、運が悪くて犯人に殺されても本物の厄介払いができて得だとか思ってんだよ。被害者ぶって息子を返せ兄を返せって好きなだけ言える──死人に口なしって奴だな。

 俺を華々しく飾り立てて送り出し、家じゃ仏壇にも向かわねぇだろう、とっても大切で素敵で素晴らしい家族と暮らして来たよ。今月末まではあの部屋だけどな」


 苦々しく、憎悪に頬を橙の炎で染めて、和泉は告白した。聞いてはいけなかったかと、鈴彦姫はうつむく。


 子どもの帰宅する声もせず、自動車の排気される蒸気ばかりが騒音として響く現代で、人間の心も何と機械と同じく温度を失ったのであろう。家族でさえも余所余所しくなってしまおうとは、誰が考えただろう。

 四百年前に、この魂が予想し得たか?


「い、和泉さん……っ」


 立ち止まる鈴彦姫に呼ばれた和泉も足を止め、鈴彦姫を見つめた。潤沢を帯びる長い黒髪はさらさらと和装で隠される予想以上に華奢な肩を流れ、大きな栗色の双眸──潤んでいるのは涙か──で和泉を見上げる鈴彦姫は、紅牡丹色の唇を震わせる。小さな手が薄桃の衿前で動悸でも抑えるかのように握られている。少女らしい桜色の頬は夕陽で橙になっていた。


「きっと、貴方は、現在だからこそある痛みに耐えて来たのだと思います。誰もが格子越しに他人と接する現代だから、手が触れることは近付かない限りなくて……でも棘は通るから、傷付いて来たのだと」


 どう言えば伝わるだろうとそればかり考えて鈴彦姫は言葉を紡ぐ。妖の目で流れる時代を見て来た鈴彦姫と、人間として現代の渦中を生きて来た和泉とでは、捉え方も感じ方も違う。何と言えば、人間に届く?

 懐かしい香を漂わせる彼に、響く?


「格子越しにでは、触れ合えません。格子が自が身を守る役目を為さないのであれば、取り去って、手を伸ばしてみてはどうでしょうか。知らず知らずに行き違った想いもあるかもしれません。

 子を想わぬ親など、何処に居りましょう……っ?」


 和泉が瞠目した。冥い両眼が見開かれ、夕陽が射して僅か光が灯る。


「深く、容易くは越えられぬ溝があっても、両者が手を伸ばせば指先は届くかも分かりません。手を伸ばす子のそれを見捨てる親など、いる筈がないのです。自分も子であったが故にその切実さを、見て見ぬ振りなど決してできな……」


 鈴彦姫の視界が、鮮やかな青で染まった。それが和泉の身に付けていた衣服だと鈴彦姫が気付くまで数分を要した。懐かしい香が鈴彦姫を包んだ。

 縋るように掻き抱かれ息もできぬ程に密接し、鈴彦姫はそっと和泉の胸に握り締めていた手を添える。和泉の熱い息が耳をくすぐって鈴彦姫は彼が言葉を探していることに気付いた。


「もう、もう良いんだ……俺の為に其処まで言わなくて良い。其処まで言ってくれなくて良い。充分だ、美鈴ちゃん。

 驚いたよ……美鈴ちゃん、あいつと似たようなこと、言うからさ。あいつも俺に親と話せって、話してみたら誤解が解けるかもって言った」


 静かに、和泉が言葉を落としていく。囁きにも似た想いの形持ったそれは、鈴彦姫の中に入り込む。鈴彦姫は朧に霞む視界の中が、自分の嗚咽で揺れているのを感じた。抑え込み、止めるかのように和泉が力を強める。


「美鈴ちゃん、俺は諦めない。あいつの為にも、犯人を突き止める。しばらくあの情報を頼りに動いてみるつもりだ。

 あいつも、美鈴ちゃんも、そう言ってくれるけど俺と家族の間はもう埋められない所まで来ちまった。修復なんてできない。完全に崩壊したんだ」


 鈴彦姫は声が出せなかった。和泉の声は微塵も嘘を吐いていない。つまりは真実だと知ったから。


「家族に何とも思われないからこそ大胆に行動ができる。利点もあるんだ。俺自身はもう、気にしてないしな。

 だからもう泣くな。笑ってる方が可愛いって、言っただろ?」


 和泉は鈴彦姫が泣き止むまでそのままでいた。陽はとうに沈み、白銀の月と星が姿を現している。落ち着いた鈴彦姫の赤く腫れた目を優しく覗き込んで和泉は申し訳なさそうに笑った。


「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ。大丈夫?」


 鈴彦姫は頷く。そして和泉がそっと鈴彦姫を放した。離れる懐かしい香に鈴彦姫は目を伏せる。鳥が羽ばたく音がした。



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