天使のふごぉ
電撃大賞応募作です。一次通過もしていないのは作品の質がその程度だということです。ぜひ読んでいただきたいのですが、そのために費やした時間の対価は保証できません。自己判断でお願いします。完読までには誤字脱字、解読不能な日本語など苦労と苦痛の連続が予想されます。そんな非人道的な仕掛けをを潜り抜けてコメントなどを残してくれる心優しい方がいれば、この上なく感謝します。
この中で何人にいるのだろうか。ふとそんなことを考えた。
昼時の店内には、サラリーマンやOL、屋外の作業に従事しているであろう茶色や黒色のくすんだ作業服の男たちが、棚の弁当や飲み物を物色していた。
レジは二台ある。一つのレジ台には五人ほどの列ができあがっている。菓子パンコーナーで商品補充をしていた中年女性の店員が、その行列に気がつき、急いでもう一つの空いたレジに戻った。レジ台に置かれた休止板を外し、すでに七人に増した列に向かって、こちらのレジにどうぞ、と朗らかな笑顔で移動を促している。
僕はお菓子コーナーに佇み、なんとなしに対照的な二人の店員の様子を見ていた。優しそうな笑顔で接客する中年女性に比べ、二十代前半だろうか、金髪に染めた長髪から覗く覇気のない表情の男性は、かったるそうに商品を捌いていた。仕事に無駄な労力をかけまいとする姿勢が窺えた。
やむを得ずこのコンビニのアルバイトに甘んじているのだろうか。それならこの無気力な接客態度にも納得がいくと僕は思った。
男性からは、「俺にはこんなくだらない仕事よりもやりたいことがあるんだ」とでも言いたげに不満そうだった。
列に並んだお客を片づけて、やれやれと無気力に棒立ちしていた。店内の客はまばらになっている。
僕は背中に担いでいたリュックサックを下ろし、しゃがみこんだ。チャックを開け、右手を中に入れた。
さらさらした布と、ごつごつした裏地のベースボールキャップが手に触れた。
さらにまさぐると、ひんやりとしたプラスチックの感覚がした。四角で真ん中に突起物が付いている。
取り出そうと力を込めたとき、後ろからがしっと右腕を掴まれた。
背筋をぴんと張りつめ、素早く手を引っこ抜いた。
恐る恐る後ろを振り返ると、大西亮太郎主任は、中腰で手を膝に付け、僕と口の開いたリュックサックを見下ろしていた。
「種島君、職権乱用はいけないよ。それはもう終わったから」と右腕から手を離した。ゆっくり諭すような口調だった。首と頭を後ろに捻ったまま「すみません」と、小さな声で謝った。
僕の目線には大西主任が持つカップ麺の容器があった。来週末ーー七月中旬に全国上映される大人気刑事シリーズの映画の宣伝パッケージが、カップ麺の蓋に賑やかに描かれていた。中央では若い女性から絶大な好感を受けている主役の男性俳優が拡声器を片手に険しい顔つきをしていた。
店内の客は僕と大西主任の二人だけになっていた。店内放送が流れ、商品と注目の若手歌手の曲を紹介する店内放送が妙に響いて聞こえた。
大西主任は僕の横を通り抜けて、すたすたとレジ台に向かい、気だるそうに構える男性店員のレジで会計を済ませた。
ボストンバッグに仕舞うと、店の入り口へと足を運んだ。ドア付近で立ち止まり、肩越しに顎をしゃくった。
リュックサックを慌てて背負い、大西主任の後を追った。ありがとっざしたぁ、と男性店員のやる気のない声を聞きながら、店を出た。
扉を開けると、もわっとした空気が頬を撫でた。不快な湿気が肌にまとわりつく。
腕時計の短針は午後二時を指していた。太陽は境界線のない灰色の雲に覆われ、空はどんよりとしていた。
僕は駐車所の軽ワゴンの助手席に乗り込んだ。エンジンをかけた大西主任は「暑いね」と呟き、冷房のつまみを弱から強に捻った。激しい冷気が吐き出され、社内を冷やし始めた。
駐車場の出入り口を横切って、公道に出た。車道の左右の古びた住宅やアパートが通り過ぎていく。
「さっき、なんであんなことをしたの?」
咎める口調ではない。運転席の大西主任は平然としていた。
僕はまだらな金髪の男性店員を思い出していた。
「彼を見ていたら変な胸騒ぎがしたんです。うまくはいえませんが……」
「種島君は何回か巡回をしたことあるよね」
「はい」
「じゃあ見たでしょ。さっきの鳴和店一丁目のコンビニは異常なしだってことを」
店内裏口から事務室に入った廊下で、中年女性とばったり会った。大西主任が事情を説明すると、明らかに顔をしかめて、じろじろとこちらの様子をうかがってきた。
怪しい格好はしていない。僕と大西主任は、半そでの白いシャツに黒のスラックスという、一見どこにでもいる普通のサラリーマンのような出で立ちだ。
別れたあとも後ろから視線を感じながら事務室に入った。
五畳ほどの小さな部屋はあちこちに書類が散乱しており、雑然としていた。
店長は奥にいた。
このコンビニは夫婦で営んでいる。さきほどの中年女性は店長の奥さんだ。妻が店内で慌ただしく仕事をするなか、夫は銀色のスチール製の事務机いっぱいに突っ伏していた。眠っているようだ。
大西主任は躊躇すること肩を揺すった。ゆっくりと上半身を起こした店長は眠そうな目を何回か擦った。前髪がおでこにくっついている。大西主任は慇懃に声を落として言った。
「お休みのところ失礼いたします。妄念取締隊です。弊店の従業員の――」
眠りを邪魔されたからか、それとも妄念取締隊と聞いたからなのかはわからない。だが眉間に皺が入ったのは確認できた。机の腕の上に顔を乗せ、元の態勢に戻った。
肩をすくめた大西主任は、店長が身体を預けている事務机の右側の棚を、上から順番に開け始めた。開くときに、ぎぎぎと眠りを妨げる滑車の回る音がしたが、お構いなしだ。
「あったあった」一番下の棚から書類の束を取り出した。履歴書だった。店長が占領中の事務机は使えないので、誰も寝ていない隣の事務机の上に置いた。
「さあ、始めようか」大西主任に促され、僕は事務机の空いたスペースに、担いでいたリュックサックを置いた。
背負っていたリュックを外したにしても身軽さは感じない。それは当たり前で、中には二つの物しか入っていない。
まずは、ベースボールキャップを取り出した。被ると頭皮にごつごつとしたものが当たった。僕の黒い毛髪だと、黒色に染まったキャップと髪の毛の境界線がわからなくなるのではないか。鏡で確認したくなったがふざけている場合じゃない。自分を諌めた。
次にリモコンを手に取った。グレー一色の本体の真ん中には、百円玉サイズの赤い色のボタン。アニメで悪党が押す爆破装置のような簡単な作りになっている。
今回で三度目だが、緊張は解けない。気持ちを引き締め、リモコンのボタンを押した。
履歴書の束から一枚捲った。手に取ったA4用紙には、真ん中にうっすらと折り目がついている。左ページ上部分に貼りついている高校生くらいの女性の写真をじっと見つめた。初めて証明写真を撮ったのだろう、顔が少し強張っている。
眺めることおよそ五秒。写真にはなんの変化も見られない。真横に目を向けると、大西主任が頷いた。
「はい、次」
切れのいい掛け声を受け、履歴書の束の横に置いた。その束からまた一枚取った。 履歴書の写真を見つめ、また置くという動作を繰り返した。紙の捲れる音とパソコンの駆動音、店長の寝息だけが狭い小部屋に居座っていた。
机の左側、すべての履歴書の束は右側に移った。何も問題がなかったことにほっと胸をなでおろし、引き出しに履歴書を仕舞う。くぼんだリモコンのボタンを押し戻し、キャップを外した。裏地の規則的に並んだ小さな丸い電極が見えた。
キャップとリモコンをリュックに入れた代わりに文字が連なった一枚の紙を取り出し、記入した。
「問題なし……、っと」
クーラーの冷風で汗がすうっと引いていく。かなり涼しくなったところで運転席から手が伸び、冷暖房のつまみが強から弱に切り替わった。
「写真からは何も確認されなかった。違うかな」
ハンドルを握る大西主任はそう言った。
「あの金髪の男性店員が気になってーー何か悪い予感がしたんです」
「そうなったときに対処すればいい。それは取り越し苦労だよ」
はあ、と僕は曖昧に返答するしかなかった。
「妄念装置には慣れた?」大西主任はにやりと口元を緩めた。
「慣れるのも何もまだ実感がないです」と、正直に吐露した。
妄念空間視覚化装置、略して妄念装置ーーあのなんの変哲もないキャップとリモコンのことだ。キャップの裏側には電極が取り付けてあり、リモコンのスイッチを押すことで電極から微量の電流が流れ、脳に特殊な電気信号が送られるという僕には全く理解できない仕組みになっている。身体に痛みが生じるわけではないが、通常とは違う身体の変化が無意識に起こっていることだけは辛うじて理解した。妄念装置は妄念取締隊すべての業務において不可欠なものだった。
妄念取締隊は国が設立した機関で、全国の都道府県に人口や犯罪、自殺件数に応じて支部の配置の数が決まる。地域ごとに独立している組織なので、中央機関である東京本部からの干渉は受けない。四月に妄念取締隊第十三期生として入隊した僕は、三か月に亘る座学の時間で学んだ、妄念取締隊設立に纏わる経緯を思い出していた。
コンビニの駐車場からしばらく大通りを走っていた軽ワゴンは、脇道に右折した。小道の正面を見上げると、金沢駅から東金沢駅にかけて延びる大きなコンクリートの高架線が連なっていた。少し直進した工場手前の道を右折すると、車二台がやっと通れるほどの車道が広がっていた。道路の左右には一軒家やアパートの家々が立ち並び、少し息苦しさを感じた。
「着いた」
路肩に停まり、大西主任が示した右手をガラス越しに見た。二階建ての木造住宅だった。僕と大西主任は車から降りた。
かなりの築年数が経っているようだ。壁面の木材は黒くすすけている。風に飛ばされたのだろうか、正面の屋根瓦は三枚欠落している。元々の黒色が薄くなっているものもある。玄関先と玄関扉は歩幅一歩分ほどだ。表札には道重とあった。表札にはそう書かれている玄関扉は曇りガラスの引き戸で、中の様子をぼんやりと映し出していた。だが判然とはしない。白昼にも関わらず家は薄暗かった。
「次は二丁目のこの家から巡回開始だ」と大西主任は口にした。
巡回とは妄念取締隊の業務の一環だ。範囲は、金沢市内やその周辺のコンビニ、スーパー、会社の事務所、個人の住宅までと広い。先ほど訪れたコンビニは鳴和町一丁目の最後の建物というわけだ。
隣の大西主任が僕の肩をとんとんと叩いた。誤って渋柿を口にしてしまったような表情を浮かべていた。
「すまん、急に……」
足元を見ると、小刻みに足踏みをしていた。用を足して戻って来るからと、急いで運転席に乗り込んだ。運転席側のガラスが下りた。
「昼飯はラーメンにしよう。近所のおいしい場所を知っているんだ」
一瞬うれしそうな表情を浮かべ、大西主任の顔は上がってきたガラスに反射する光で見えなくなった。白の軽ワゴンは走ってきた道を転回し、突きあたりを左折した。エンジンの音が徐々に遠ざかっていく。
ぐいと額の汗を拭った。手を伸ばせば届く距離に玄関のガラス戸がある。
首の傾斜をつけて二階を見上げた。こんな角度で見上げることは普段はない。少しだけ首に窮屈を伴ったが、あるものが気にかかり、窮屈な態勢のままでいた。
道路に面した部屋の窓に引かれたピンク色のカーテンだ。少し隙間が開いている。先ほど車体を下りて見上げたときは完全に閉まっていたのだが。
カーテンの変化に疑問を感じていると、ガラガラと引き戸を開ける音がして、頭を下げた。はっとした。
目と鼻の先に、開け放たれたガラス戸の縁を掴む小柄な少女が立っていた。はあはあと肩を上下して息を切らしている。一瞬の出来事に気は動転したが、逃げろという身体の的確な命令は瞬時に全身を巡った。しかし蛇に睨まれた蛙のように身を固くした僕は、ただその場で固まっていた。彼女の的を射抜くような視線の魔力に逃げる力を失ったのだ。
「ちょ、ちょっと――」声の上擦った問いを一切無視し、彼女は躊躇なくカッターシャツの襟元を掴んだ。首が圧迫され、息苦しさが襲ってきた。
身の危険を感じた僕は正気を取り戻し、必死の抵抗を試みた。小さな拳を剥がそうとするが両手は冷え固まったプラスチック樹脂のようにびくともしない。
「何するんだ。離せよ」
「いいから」
今度は綱引きをする要領で後ろ向きに身体を倒した。歩道側へ重心を傾け、両足に力を込めた。
だがカッターシャツ越しに拳で強く握る力が伝わり、身体はふわりと浮いた。前傾姿勢のまま丸ごと玄関の中に収まった。勢い余った僕は彼女にぶつかった。
「きゃっ」
彼女は短く叫んだが、決して僕を離さなかった。拘束され密着した背後の耳元では、彼女の乱れた呼吸が聞こえる。僕の綱引き理論は敗れ、身も心も得体の知れない馬鹿力によって完全に制圧されている。
すうーと息を吸い込み助けを叫ぼうとした口は、彼女の手のひらに覆われ、「ふごおっ」とくぐもった声が洩れ、掻き消えた。
引き戸をぴしゃりと閉められ、ガラス戸越しにぼやけた外の景色が見えた。土臭い物置のような民家独特の匂いが鼻をくすぐる。
身体の自由を奪われた僕は廊下を引きずられ、強引に階段を上らされた。渋々従いながらも、ときどき反対に力を加えてみたりした。握られたままの襟元に力が入り、首が締め付けられる。それ以上の抵抗は止めた。
「入って。そのまま前に進んで」
室内は6畳ほどの和室だった。鳴和一丁目のコンビニの事務室よりは広いが、それ以上に雑然としていた。床の畳みにはファッション雑誌や雑貨が散乱していて、足の踏み場もない。誤って踏みつけないように慎重に歩いた。入口の左に置かれた机には化粧道具がびっしりと並び、もはや机本来の機能を果たしていなかった。部屋には甘い柑橘系の香りが充満している。
窓際には、薄いピンクのカーテンが半開きになっている。写真立てが置いてあり、柔道姿の少女たちが眩しい笑顔を煌めかせていた。部活動の集合写真だろうか。
「そこに座って」
ガラクタを横にどかし、窓際の畳に腰を下ろした。彼女はガチャリとドアの鍵をかけた。僕には絶望の音に聞こえた。こちらへくるりと向き直り、
「で、家の前で何していたの?」
乱暴にものを踏みつけながらドアに近づいてきた。詰問するらしい。
彼女の問いには黙殺するしかなかった。
「黙ってないでなんか言いなさいよ」
彼女の視線には疑惑の色がありありと浮かんでいる。
クーラーが低い音で唸っているにも関わらず、背中からは嫌な汗が出てきた。僕の左側に見える布団に目をやった。掛け布団がはだけている。
遠くから車のエンジン音が近づいてきた。この家を通り過ぎることなく、ぴたりと停まり、アイドリングの重低音を鳴らしている。平日のしかも人通りが少ない路地で路肩に停める車は、怪力少女に拉致されたことなど露も知らず小用から戻ってきた大西主任に間違いなかった。ここが脱出の分かれ目だ。
「いえ、その決して怪しい者ではないので、そんな怖い目で見ないでくださいよ。私はですねーー」
適当な理由を述べて大げさに身振りを加えながら説明する。左手に彼女の意識を集中させる。怪しまれないようにして、空いた手をそーとズボンの右ポケットに入れた。業務中は自分の携帯電話は使えない。ポケットには金沢支部から支給されたそれが入っている。慎重にポケットから引き抜き、彼女には決して見えないように腰の後ろに持っていった。
口と左手はよくしゃべり軽快に動いていた。彼女は適当なアドリブに真剣に耳を傾けているようで、右手の動きには気づいていない。よし、大丈夫だ。ばれていないぞ。人間は追い込まれると思わぬ力を発揮するのかもしれない。ペテン師にもなれるのだ。 この日、大西主任と、自分用と業務用の電話番号の交換をしたばかりだった。大西主任は両方の携帯電話に短い着信を入れた。スマートフォンではないこの旧式の型なら着信履歴を見るのは簡単だ。右手に持つ携帯電話は見られないが、上ボタンを押せば着信履歴の画面が開く。次に真ん中の決定キーを押せば、一番新しい履歴、つまり大西主任に電話がかかる。
指が震えるのを堪え、上ボタンを押した。あともう少しだ。
そのとき、淀みない弁舌がぱたりと止まってしまった。方便の嘘を言いつくしてしまったのだ。部屋には沈黙が流れ、背中は嫌な汗でじっとりと濡れた。
一瞬の出来事だった。目の前の彼女が胡坐から立ち上がると、強い衝撃が胸を強打し、僕は仰向きで後ろの壁に激突した。両腕で後頭部の痛みを抱えた。
僕が悶絶している間に、彼女は床に転がった携帯電話を拾った。
「ばればれだよ。ちょっと泳がせてみた」 そう言って電源を切ると、半ズボンのジャージのポケットに放りこんだ。白地のTシャツの胸に書かれた〝ILOVENEWYORK"の赤文字が、仁王立ちで見下ろす彼女と相まって、威圧感を与えていた。
ばれていたのか。人を欺く才能に有頂天になった自分が恥ずかしくなった。
落胆する僕を尻目に、エンジン音は遠ざかっていった。
「あなた、面白いね。明らかに〝これはイケる〝って顔してたからあたしも笑いを堪えるのに必死だったんだよ」
「はいはい、そうですか。醜態を曝してどうもすいませんでした」
投げやりに返す僕の言葉に彼女が頬を緩ませた。息苦しさを感じた部屋に、太陽に暖められたような春風がふわっと流れた。
僕と大西主任が車で訪れたとき、彼女は布団で横になっていた。平日の昼間から車のエンジン音が家の前に停まるのは珍しいと思い、布団から飛び出したそうだ。
「あなたともう一人の男が家の前にいたの。二人とも同じ格好だったから少し変だなと思ったけど」
僕はもう一度、布団とカーテンを見た。掛け布団はまくれ上がったままだ。カーテンの隙間は覗き見ができる開き具合だった。
大西主任が去り、僕が一人になったところで、一階に駆け降りたのだと彼女は言った。
「ただ家を見上げていただけで家に引きずり込むのか」
彼女は逡巡する素振りを見せて、ぎこちなく言った。
「だっていかにも怪しいでしょ。普通の勤め人じゃない。何してるのか問い質そうと思ったの。でも二人じゃさすがに分が悪いなって」
「男一人なら訳無いって言い草だな」
「あなたが一人になったから。阿呆面で見上げていたからきっと大したことないって思ったの」
「違う、上を向くと誰でもそうなるんだ」
僕は弁解した。完全に馬鹿にされている。
「逃げようとするから手が出たの。その流れでこうなっちゃった」
どういう流れなのかがわからない。皮肉を込めてこう言った。
「小柄な身体のどこからそんな馬鹿力が出てくるんだ」
「中学と高校は柔道部だったから」
なるほど。あの強烈な引っ張る力の正体が掴めた。足を横にくずして座っている彼女の衣服から覗く二の腕は細く、足の甲は小さい。現役の女子高校生に見えなくもない。
「歳はいくつなんだ?」
「相手のことを訊ねるときはまず自分が名乗るもんでしょ」
その慣れ慣れしさに多少むっとしたが、仕方なく付き合った。
「僕は一八歳で、種島雄大って言うんだ。これでいいか」
「同じ歳じゃん。あたしは道重楓。よろしく」
柔道に限らず体育会系は、がっしりとした体格だという意識があった。小柄で華奢な彼女の外見からは彼女の柔道着姿を思い浮かべることができなかった。僕の想像力が不足しているせいではないだろう。
「なに、しげしげと見ているの」
彼女の発言に狼狽えた僕は、散らかった床へ視線を逸らした。
「柔道は重量制だからね。体格は関係ないんだ」
「なるほど」
「それに……」
道重は一呼吸置いて、こう言った。
「種島ぐらいの筋肉なさそうな男なら大したことないから」
ひらひらと手の平を泳がしている。完全に見下されているが、ここは辛抱だ。余計な行動をすればどこかで妄念取締隊のことがばれてしまうかもしれない。空中で翻るそれを穏便な気持ちで眺めた。
妄念取締隊は設立して十三年になるが、その存在はあまり知られていない。何をしているのかわからない怪しい組織というのが世間の本音ではないだろうか。ここに向かう途中、車中で唐突に話を切り出した大西主任の言葉を思い出す。
「コンビニの主人も奥さんも露骨に怪訝そうな顔をしていたね。巡回は断られることもあるけど気にしないで。そうじゃないと精神が持たないから」
妄念取締隊の先輩は世間の風あたりの強さが身に染みているようだった。そう話す横顔に厳しさは刻まれていない。彼の強さの裏返しなのかもしれなかった。
改めて道重の部屋を見回してみた。どうすればこんなにも散らかるのだろう。
雑誌は頁の両面が無造作に開き、上向きと下向きが入り乱れている。破り取ってある頁もあった。
「少しは部屋の中を片付けたらどうだ」
「はい」」
道重はぴしっと床を指して、そのあとで僕を見た。
お前がやれという意思表示の返答に、僕は言葉を失った。
立ち上がって、僕が彼女を見下ろした。
「雑誌、化粧品、用途不明の雑貨、いるものといらないものを分別。まずはそれからだ」
「それからってそれだけでいいじゃん」
「そのあとは掃除機をかける」
「えー」
道重が戸惑いの声をあげた。
僕は自分の部屋や身の回りを整理する教えを子どもの頃から受けてきたこともあり、この部屋の惨事は許せない、というより部屋にモノを散乱させたままで生活する人間の気が知れなかった。
「さあ、始めるぞ。ゴミ袋の準備から始めよう」
意気の上がらない道重を尻目に、僕は人差し指を突き出した。
つい夢中になってしまった。
こんこんと何かが当たる音が聞こえた。
掃除機のスイッチを切り、窓際に近づいた。開いたカーテンからは、雨雲が空一面に広がっている。日は落ち、どんよりと暗い。窓を開けると、むわっとした湿気が伝わった。見下ろすと、路地の道路にはまだらな染みが浮かんでいた。濃い灰色の空と家々が連なる景色の中に小さな雨粒が降り注いでいる。たった今降り始めたらしい。
窓を閉めて、向き直る。ごみがぱんぱんに詰まった三つのビニール袋が部屋の隅に置かれていた。その横には道重が体育座りをしている。背丈の関係でごみ袋が四つに見えないこともない。彼女は最初に布団の周辺を急いで片づけた以外は、ほとんど掃除に参加していなかった。
死物と化した雑貨、小さな人形の置物、雑誌の数々。化粧品で埋め尽くされていたガラス机もすっきりとした。
「すごいごみの量だね」
ごみ袋と同化している道重が隣のごみ袋を見ながらそう言った。
「お前が言うなよ。自分の部屋だろう」
道重は立ち上がると、天井が白く光るガラス机へ向かった。
「はい」
ガラス机に置かれたお盆から湯呑みを持ち上げた。掃除が終わる前に彼女が持ってきたのだった。僕は軽く会釈をして受け取った。
麦茶だった。喉を通る冷たい液体が、火照った身体からひんやりと熱を奪っていく。
半分ほど飲み終えたところで、腰を下ろし、畳みの上に湯呑を置いた。いやな沈黙が部屋を包んでいた。
「さっきから聞こえるこの音は?」
僕は苦し紛れに言葉を発した。
遠くから聞こえてくる咳き込む音はこの家に入ったときから聞こえていた。気にはなったが、あえて訊かなかったのだ。
うつむいていた顔を上げた細道の両眼は先ほどの馴れ馴れしさとは異なっていた。意思を堪えた黒目には照明の光が映っていた。
「お母さん」
それを口火に道重は訥々と話し始めた。
道重が幼い頃、彼女の両親は離婚した。彼女の母はスーパーとコンビニのアルバイトを掛け持ちし、女手一つで彼女を育てたらしい。元々身体が丈夫ではなかったが、身を粉にして働いた。
「愚痴を言うのを聞いたことがなかった。きっとあたしに余計な心配をかけたくないと思ったんだろうね。自慢のお母さんだったよ」
当時を懐かしむようにして、道重は目を細めてそう言った。
「柔道をやりたいと言ったのが中学に入学したとき。お母さんのアルバイトの収入だけじゃ学費が賄いきれなくて、学生奨学金を利用している身分だったから反対されると思った。でも、〝あなたがやりたいのならやりなさい。お母さんは応援するから〝って言ってくれたの」
大好きな柔道をしながら、中学、高校と学生生活を過ごしてきた。
道重が高校三年生となり、柔道部のキャプテンとして桜が満開になった体育館の柔道場で汗を流していたときだった。駆け付けた顧問に、アルバイト先のコンビニで母が倒れたと知らされた。
部活動を早退し、急いで市内の病院に駆けつけた。
病室に入ると、窓から差す夕日に横顔を照らされたベッドに横たわる母がいた。道重の姿を確認すると、優しくほほ笑んだ。道重はその取り繕うような微笑を見て、胸が締め付けられる思いがした。めまいや立ちくらみに悩まされる母をたびたび見かけていたからだ。こんなときにも道重に心配かけまいとする母の優しさが辛かった。
「部活動は部費や遠征費で、どうしても出費は掛かるし、あたしの柔道が過労の原因だと思うとどうしようもなくて。柔道を辞めちゃったんだ」
「そうだったのか」
「うん。でも後悔はしていない」
高校三年生といえば、最後の県大会が控えている。いわば部活動の成果を発揮する集大成の年だ。それを放棄することは耐えがたい苦痛に違いなかった。部活動の顧問、仲間、クラスメイト、母親でさえ説得したが、決心は変わらなかった。
「柔道よりも何よりも大切だったのはお母さんだった。お母さんがいなければ、柔道をすることも、友達に囲まれて過ごすこともできなかった。だからこれ以上お母さんに負担を掛けたくなかったの」
道重の母は病院を退院したが、自宅では寝込みがちになった。当然、仕事などできる状態ではなかった。
道重は沈痛な面持ちだった。遠くからくぐもった咳の音が聞こえる。「
道重の母が倒れてから三か月が経ち、高校卒業後の進路希望調査票の提出があった。 進学もしくは就職――生徒の選択肢はこの二つのどちらかがほとんどだった。
「あたしは届に〝無職〝って書いたの。担任の先生はびっくりして、急遽個人面談を開いてくれた。『家の事情はわかっている。せめて就職にしなさい』って熱心に説得してきた。いい先生だね」
さほど感謝の籠もっていない冷めた口調だった。
「先生が生徒の進路を心配するのはもっともだよ。それで今は何をしているんだ」
「キャバクラ」
なるほど。そういうことか。内心で納得した。机に雑然と置かれた化粧道具や床に散らかったファッション雑誌がパズルのように結びついた。ただ小柄な体型と愛嬌のある顔立ちは、水商売というよりか、カジュアルな服装に身を包み、店内を動き回る書店員の方が似合っていた。
「なんでよりによってキャバクラって思ったでしょ」
どきりとした。自然に顔の筋肉が強張るのを感じた。
「そんなことはない」
「嘘なんかつかなくてもいいの。お母さんが倒れて、柔道を辞めて、あたしの何かが変わったんだよね」
細道がTシャツから伸びる細い腕をさすった。僕は手首に目線を移し、なんとか声が出そうになるのを堪えた。道重は顔を伏せていたので、僕の動揺には気が付かなかった。
「お母さんは前みたいに話さなくなった。その代わりに聞こえてくるのは咳きの音だけ。お母さんはどうすればいいのかわからないんだと思う。あたしを申し訳なさそうに見つめたり、隠れて泣いているのも知っている。でもあたしだって同じ。楽しかった日々が色彩が抜けたように味気ない毎日に換ってしまったの。気の置けない友達たちはあたしの変化に戸惑って、次第に避けられていることはわかったけれど、どうすることもできなかった。みんながあたしから離れていって、教室では一人ぼっちになった」
僕は道重から目線を反らした。これ以上何も言ってほしくなかったが、それを口にすることもできない。臆病な記憶が僕の行動力を奪っていた。
茶色い液体が半分残っている目の前の湯呑を眺めていた。
「それが本当のあたしだったの。お母さんにしがみついていた弱いあたし」
道重は表情を崩さない。口だけが器用に動いていた。
「お母さんが倒れてから、あたしにはなんでお父さんがいないんだろう、という問いが急に湧き上がってきたの」
「お父さんを探そうと思ったのか」
「そんな勇気なんてないよ」
細道の息が激しくなった。小さな肩を上下に揺らし、口は呼吸をすることに精いっぱいで、話すことを中断した。
浅い呼吸を何度か繰り返して言った。
「それに、お父さんの顔なんて見たくもなかった。お母さんとあたしを捨てた最低の男よ。顔も見たくない」
その目は照明の光を受け、余計に潤んで見える。
「それじゃあ、ぽっかり空いた心の穴はどうすればいいんだろう」
道重の母親が病に伏した。道重は愛情を失ってしまったと同時に、父親に代わる愛情を求めた。未知の虚像を探しにキャバクラに向かい、偽りの愛情に満たされていった。
「おかしいね。見ず知らずの他人を引き込んで、私のことを話してるなんて。馬鹿みたい」
手を口元に当てて、すすり泣く声がかすかに聞こてきた。両手を当てるが、嗚咽は小さな手のひらから漏れ出てくる。身を一層小さくして、判然としない声で呟いた。
「もう、こんな生活嫌だよ……」
瞼の許容量を超えて行き場を失った涙が、すーっと流れた。
僕は子どものように泣きじゃくる道重を呆然と眺めて、その場で直立した。
「僕が必ず……」
自然と声が小さくなってしまった。
「えっ」
顔を上げた道重の潤んだ瞳と対面し、少しどきまぎした。
頭が熱を帯びている。これ以上ここにいてはまずい。妄念取締隊のことを口走ってしまいそうだった。揺れる気持ちを抑えて、高らかに言い放った。
「僕が必ず君を救ってみせる」
道重は呆気にとられたように僕を見上げていた。
適切な反応に自分の気負った発言の恥ずかしさが込み上げてきた。僕の身体は極寒の雪山にいたとしても冷却できないほど熱くなっていた。
道重の真横を通り、一歩を踏み出した。彼女のぽかんとした表情が頭に残っている。
失敗作のロボットのように歩行する動きはぎこちなかった。何かがつま先に当たり、それが湯呑みだと気がついたときには、半分ほど残っていた麦茶は一滴も残らずカーペットの染みになっていた。
道重は何も声を発しなかった。僕は後方を一瞥することもなく、部屋の鍵を外し、逃げるように部屋を飛び出した。ドアを閉める余裕もない。急いで階段を駆け降りた。
一階まで降りると、ごほっごほっ、とくぐもった咳の音が聞こえた。道重の部屋よりは鮮明に耳に届き、人の気配を感じた。道重の母親であることは容易に推察できた。
乱雑に脱ぎ散らかされた自分の靴を穿き直し、玄関のガラス戸を引いた。
濁った曇り空からは小雨が降っていた。歩道に出るとシャツに雨がしみ込み、不快な気分にならざるを得ない。ポケットを探り、プライベート用の携帯電話を取り出した。大西主任にかけたが通じなかった。
軽く舌打ちしたあとで、僕ははっとした。目線を待ち受け画面の時刻表示に向ける。
「やばい」
雨に濡れるのもお構いなしに駆けだした。
巨大な鉄骨とガラスに覆われたもてなしドーム、その前の細長い木をねじ曲げて合わせた土台に置かれた木製の鉄板のような鳥居、通称鼓門はJR金沢駅のシンボルとなっている。辺りには、外資系ホテル、七階建ての商業施設ビルなどが林立している。
僕は駅前のコンコースを抜けて、横断歩道を走った。その先、金沢都ホテルの横に隣接しているのが、妄念取締隊金沢支部の四階建てビルだ。
一階は業務部、二階は戦闘部、三階は後方支援部のオフィスがあり、四階にはカウンセリング室が備わっている。
全身びしょ濡れで一階のエントランスを通った僕は、業務部からの視線を浴びた。息を切らしてエスカレーターまでたどり着き、ボタンを押した。
乗り込んだ箱から出て、少し歩き、大教室と書かれた扉の前で立ち止まった。
一度深呼吸してから扉を開けた。
そのとき目に飛び込んできたのは戦闘部三十名、後方支援部二〇名の壮観な後ろ姿だった。後ろで括ったポニーテール、肩までのショートカット、刈り上げ、坊主などの髪型。黒、茶色などの髪色が着席している。
ゆっくりとドアを閉めたのだが、がたんと予想以上の音を立てて、その拍子に教室中の視線を一斉に浴びることになった。
「ただいま戻りました」
「全体集会に遅れるとは何事だ」
一番前の壇上に立つ、妄念取締隊金沢支部本部長岩谷勝の張りのある声が響いた。岩谷本部長の顔色は伺えないが、長身の体躯は、遠目からでもはっきりとわかる。僕はたちまちうろたえた。
「ええと、その……」
少女に拘束されていたなどとは口が裂けても言えなかった。まごついていると、
「まあ、いい。早く座れ」と促され、軽く会釈した。
左右に机と椅子が並び、総勢五十名の妄念取締隊員たちが腰を落ち着けている。その中央がぽっかりと空いた花道のような通路を歩いた。座席の後ろで後方支援部の隊員たちのひそひそ声が聞こえた。
戦闘部最後列、通路の右から二番目の席にいる大西主任がこちらに軽く手を振った。左の座席が空いていた。
妄念取締隊の戦闘部、後方支援部集まっての集会は、この大教室で月に一回行われる。一人ひとりが各自担当している業務の進捗状況を述べる報告会のような催しだった。
僕は腰を落ち着けることもなく、静かに耳打ちをした。
目を見開いた大西主任は顎に手を当ててしばし考えた。
急に立ち上がり、僕を退けると、通路の花道を直進し、岩谷本部長の元へ駆け寄った。
何事かと場内では雑音が響いた。大西主任は岩谷本部長と何回か短い会話を交わした。
「おい、雄大。何があったんだよ」
大西主任の隣の座席から、細道和也が顔を覗かせた。彼は今年入隊した同期生の一人だった。
僕は身をかがめ、周囲に漏れ聞こえないように彼の耳元に口を近づけて、大西主任と同じような旨を言った。
「本当かよ……」
細道は絞り出すようにそう言った。無理もない。僕でさえ、まだ現実として受け止められないのだから。
大西主任は座席へ戻って来た。了承が取れたようだ。
「よし、早く行こう」と強引に僕の腕を掴む。
「ちょっと待ってください」
細道の声で場内の喧騒が一気に静まった。
「俺も連れて行ってください」
僕は細道に話したことを深く後悔した。この男ならそう言いかねないことを想定するべきだった。
大西主任はため息を吐くと、
「細道君は俺の担当じゃない。それに新入隊員を二人も連れていくなんて危険すぎる。君の積極性は評価するよ」
「でも」
「これは遊びじゃないんだ」
大西主任はぴしゃりと言い放った。続けて、「いっしょに来てくれ」と後ろの席に視線を向けた。
つられて見ると、照明に照らされた髪の毛の艶が一斉に映った。後方支援部は業務上の決まりで全員が女性なのだ。
大西主任の目線と合致した女性が、人差し指を自分の顔に向け、恐る恐る立ち上がった。三人は後ろの扉の前で合流した。。「ちょっと、どういうこと」
白のブラウスに黒のパンツで、後方支援部の制服を身に纏っている。彼女の顔には困惑がありありと浮かんでいた。
僕より身長が高い。それを象徴するようにすっと脚が伸びている。僕の視線の上から大西主任に怜悧な視線を浴びせていたが、大西主任は何も答えない。ふいに僕に向けられた。
「森里優香です。あなたは遅れてきた……」
「たねし――」
「自己紹介はあとにしてくれ。取りあえず時間がない。移動が先だよ」
大西主任は扉を開け、真っ先に飛び出した。背中のボストンバッグが激しく揺れていた。
「確かに、顔写真に映っていたんだね」
「はい」
軽ワゴンの運転席に座る大西主任は「そうか」と声の調子を落とした。
「それはわかったけれど、大西は種島君と一緒だったんじゃないの」
僕と軽く自己紹介を済ませた森里さんが助手席から疑問を投げかけた。
「そうだよ。鳴和地区一丁目の巡回をしてたんだ。異常なしで、変わった問題はなかった。ただ……」
「ただ……?」森里さんの語尾が上がる。
「俺がコンビニに用を足しに行って戻ってきたら、種島君はいなくなっていた」
「どういうこと」
「ターゲットに拉致監禁されてました」
僕は力なく言った。
森里さんが息を飲むのがわかった。
後部座席から大西主任の様子をちらりと伺う。目的地に向けハンドルをくるくると操作し、泰然自若の体である。
「どこにいるのかってメールと着信を送ったんだけど」
「携帯電話も強奪されました」
「そんなことだろうと思った。人間を拉致する強硬手段を取るくらいだからね」
続けて、「妄念取締隊のことはばれていないよね?」
僕に訊かれていることに気づかず、返答が少し遅れた。
「は、はい」
「それはよかった。妄念取締隊には根も葉もない噂や偏見がある。そんな怪しい団体とは誰でも関わりたくないのが普通だろうね。危険な精神状態のターゲットなら尚更だよ。動揺して事を荒立ててもらえば最悪な事態も想定される。しかも種島君を引きこみ監禁する道重という怪力少女はたちが悪い。俺たちの手に負えない」
森里さんは軽くため息をついた。
「なるほどね」
森里さんは事態を理解したらしい。
僕は窓ガラスから外の景色を見た。空はすでに薄暗くなっている。ワイパーが雨粒をはじく規則的な運動を繰り返している。路肩の街路灯が雨雲が広がる夜にうっすらと明かりを灯していた。
車道を右折して、すぐに左折すると、徐々に車が減速した。
大西主任が到着を知らせたのに少し遅れて、車が停車した。
森里さんの白く細い首越しに、古い木造住宅を見た。薄暗く、ぼんやりとしている。車から降りて、玄関口に向かった。誰も住んでいないかのようにひっそりとしていた。
しとしとと降り続く雨の音が耳に届く。玄関の庇が雨宿りの役割を果たし、幸いにも濡れることはなかったが、じめじめした蒸し暑い夜の空気が不愉快さを増長した。
森里さんと大西主任の二人は平然としている。妄念取締隊の経験の差だろうか。
森里さんは僕と大西主任に目配せをして、備え付けられた玄関チャイムのボタンを押した。
お馴染みの甲高い音が鳴る。
がたがたと階段を降りる人の気配がして、ガラス戸が開かれた。
玄関前に佇む僕たちを認めるや否や素早くガラス戸を閉じようとしたが、森里さんの手に遮られた。
「いきなり、ごめんなさい。ちょっと話を聞いてくれないかな」
「あんたら何者なの」
森里さんは少し逡巡したが静かにこう言った。「妄念取締隊です」
「あたしを精神病院に連れていく気ね」
大西主任の言ったとおりだ。妄念取締隊に対する一般的な認識はこんなものなのだろう。だが、落ち込んでいる暇はない。
大西主任はボストンバッグから取り出したキャップを頭に嵌め、続いて手に取ったリモコンのスイッチを押した。
森里さんの背中越しに道重と目が合った。その途端、狂犬のように噛みついてきた。
「種島、あんたがちくったのね。最低!」
言い終わるや否や僕をきっと睨め付けた。 言いたい放題の怪力少女に剥きになった僕は反論を試みようとしたが、そっと出された制止の手で正気に戻った。
「森里さん」
大西主任の掛け声に森里さんが振り返った。すでにキャップとリモコンを片づけていた。大西主任が目で頷くと、森里さんはその意図を読み取ったように頷き返した。
「この場は森里さんに任せておこう」大西主任はぼそりと呟いた。
森里さんと道重は対峙し、お互い目を離さなかった。
森里さんが話の口火を切った。
「単刀直入に言います。あなたは危険な状態にいます。早く対処しないと命を落とすかもしれない」
道重は心底呆れたように、首を傾げた。
「何の冗談? あたしを言いくるめてインチキな商品を買わせようとしても無駄。悪徳商法の詐欺なら他でやって」
「違うわ。そんなことはしない。今は何を言っているのかはわからないかもしれないけれど、言うとおりにしてほしいの」
突如、二人の押し問答が始まった。森里さんがガラス戸を引こうとすれば、道重が食い止める。森里さんが両手を使うと、両手で応戦する。
道重は僕たちを拒むガラス戸を開こうとはしなかった。森里さんの説得も無意味だった。道重のチーターのような獰猛さは威嚇と反抗の姿勢を崩さない。ガラス戸開閉における攻防戦は馬鹿力を有する道重に勝算があった。
どうやってこの難局を打開するのか。大西主任をちらりと見た。森里さんに太鼓判を押した彼は傍観して、静かに微笑んでいた。
「ちょっといいかな」
森里さんは少し息を上がらせていたが、冷静さは保っていた。細道は牙を剥いた豹のようだ。今にも飛びかからんばかりに構えている。
「何よ、いい加減に帰りなさ――」
「その右手首の傷は何?」
ガラス戸が一気に開け放たれた。顔と肩までしか見えなかった道重の左半身が薄暗い廊下を背景にして浮かんだ。
さっと後ろに右手を隠した道重に、森里さんは続けて言った。
「私たちはその傷は消すことはできない。でも、あなたがこれ以上その傷を増やすのを黙って見てはいられない。手荒な真似はしないわ」
道重の小さな手をぎゅっと握った。冷静沈着な声色の裏には確かな力が籠っていた。
道重は重ね合わさった森里の手を見つめたまま、呆然としていた。
「家の中に入ってもいいかな」
道重は何度か逡巡したのち、不詳不詳と言った風に首を縦に振った。
道重に続いて、森里さんが開け放されたガラス戸を通った。
「すごいですね」
圧倒的不利な流れを一瞬で覆した森里さんの機転に感心して、自然と口から漏れ出た。
「森里さんには相手の警戒を解くような不思議な力がある。燃えるような熱意ではなく、相手を包む込む優しさが彼女の持ち味だよ」
大西主任の弁舌はすらすらと淀みない。自分が褒められたかのように胸を張った。
僕と大西主任も玄関口を通り、女性二人に続いた。
大西主任の言っていることはあながち間違いではないと思った。
森里さんの透き通るような白い肌と整った顔立ちがその持ち味を支えていることは紛れもない事実だ。
森里さんの噂は新入隊員の耳にも届いた。実際に見に行った連中は自分に訪れるかもしれない淡い期待を抱き、撃沈して帰ってきたものだ。
細道もその一人だろう。メールアドレスを交換したとだけ言っていたが、その美貌に魅了されたに違いないと僕は踏んでいた。
森里さんが所属するカウンセリング部の主な業務は別にある。
なぜ森里さんが戦闘部と行動をともにしているのか。
戦闘部の業務を慎重に進めるためにはターゲットの協力が不可欠だが、業務の性質上、男性が主な人員を占めている。特に女性のターゲットが入室を拒否する例が少なからずあった。
女性から見ればこちらは入室許可を得ようとする怪しい男なのだ。警戒し、不審がるのも無理はない話だった。
ターゲットの例外的な説得業務を受け持つ前から、カウンセリング部も業務の性質上、全員が女性だった。
柔らかな物言いや相手に共感する女性の包容力でターゲットの警戒心を緩めることができるのではないか。
実験的に行ったその取り組みは功を奏し、女性ターゲットの入室同意が得られやすくなった。
こうして、女性ターゲットの場合は、必要に応じてカウンセリング部を同行することができる決まりが設けられた。それが今から三年前のことだ。
道重と森里さんが階段を上っているところで、「保護者の方はいないの」と大西主任は道重に訊いた。
彼女は無視して階段を上がっていく。
「すいませーん。保護者の方いらっしゃいませんか」と玄関口で大声を出す大西主任に僕は度肝を抜かれた。
すると、奥からがらがらと戸が開く声が聞こえた。薄暗い部屋から薄暗闇の廊下に人型が現れた。辛うじて女性だと判断できた。
髪は適当な長さで肩に広がり、猫背気味の身体には気力を感じなかった。ぶつぶつと何か呟いていたが、声帯を絞り切ったような声からは聞き取れなかった。ごほごほと手を当てて咳き込んだ。
急いで階段を駆け降りた道重の小柄な肩を、大西主任ががしっと掴んだ。
「ちょっと、離して」
「それはできない。未成年には保護者の許可が必要なんだ。森里さん」
大西主任が顎をしゃくると、森里さんは上っていた階段を降りて、道重の母の元に急いだ。道重は振りほどこうとしているが、大西主任に動きを封じられていた。
必死に抵抗している娘がいるのに彼女の母は微動だにしない。森里の説明をただ呆然と聞いているだけで、道重を見ることもしない。不気味に佇む道重の母を見て、僕はぞっとした。
許可を取り付けたらしく、森里さんはオーケーサインを作り、こちらに戻ってきた。 道重の母は娘にまるで関心がないように静かな足取りで部屋に入った。奥からまた咳き込む音が聞こえる。
「触るな、変態」道重が肩を振り払って大西主任から離れた。「変態で結構」と当人はいたって涼しげだ。
「大西っ」森里さんは棘のある声で咎め、道重に駆け寄った。道重は依然攻撃的な視線で睨みつけていた。
階段を上り、四人で道重の部屋に入った。
部屋が整理整頓されていることに、掃除をしておきながら違和感を持った。
森里さんは部屋の四方をぐるりと見回し、
僕はきょろきょろとあるものを探していた。
部屋の左隅にぽつねんと置かれた業務用の携帯電話を見つけ、駆け寄った。
画面がうつ伏せで転がっていた。道重にぶん投げられた成れの果てではないか、と推測した。
本体の外側に欠けた傷を発見し、それは確信に変わった。僕はぎりりと歯噛みしながらなんとか怒りを鎮めた。
振り向くと、森里さんと大西主任が部屋の中央で並んで座っていた。僕は大西主任の横に加わり、窓側に腰を落ち着けた道重と対面した。僕が監禁されたときとは逆の配置になった。
「あなたの、その傷はいつからなの」
無言で右腕を擦る道重を見て、森里さんは慌てた。
「ごめんなさい。変な質問だったかな」
「いいんだ」
道重は擦る動きを止め、真正面から見据えた。
「この傷は最近のもの。衝動的にやってしまうの。どうしても止められなくて」
僕は道重のか細い手首についた痛々しい複数の切り傷をさりげなく見た。自分の心臓が早い鼓動を打っていた。
「最初は怖くて、切り傷ぐらいしかできなかったけど、次第に少し血が出ても平気になって。どうしても止められなかった。歯を磨くみたいにリストカットが日常の一部になってた。そんな自分が怖い」
遠くのくぐもった咳の音が道重の話を中断させた。道重は何も聞こえていないようにやり過ごした。
「このままでいると、カッターで自分を傷つける日々が続いてしまうかもしれない。あなたの中にいるもう一人のあなたは簡単に悪い方向へ導く。死んでからでは遅いの」
道重は首肯した。
大西主任の言ったとおり、森里さんの説得は不思議な力を持っている。道重ならず僕でさえ圧倒されたくらいだ。
「私たちを信じて」
森里さんはトートバッグに手を入れた。
その動きにつられるように、大西主任と僕はそれぞれのバッグからそれを引っ張り出した。三つの黒いキャップがそれぞれの手元に置かれた。同じようにしてグレーのリモコンを取り出し、帽子の横に添えると、合計六つの妄念装置が目の前に現れた。
「これは何?」
道重が怪訝そうに畳に置かれた無機質な物体を指さした。
「これを使って、俺と彼が君を救うのさ」
大西主任は無機質な物体を指さし、その人差し指を僕に向けた。僕は心臓が飛び出そうになった。
「ちょっと待ってください」
「どうした」
「そんな話聞いていません」
「大丈夫だ。岩谷本部長とは話をつけてある」
大教室で二人が話していたのはそういうことか。だが素直に納得している場合ではなかった。
「僕じゃ無理です」
だが大西主任の目は真剣だった。どうやら本気らしい。
入隊してからの約三ヵ月間は、金沢支部内の教室で大西主任を始めとする先輩隊員たちの講義を受けた。
狭苦しい教室。新人隊員は机に座りっぱなしでカリカリとノートに筆記する義務教育さながらの光景だった。講義は念仏となり、突如襲ってくるだるさや眠気に屈した新人隊員たちは舟を漕いだり、机に突っ伏した。
見かねた大西主任は、「俺たちだって講義と業務を並行でやらなくちゃいけないから、大変なんだぞ」と注意のような愚痴をこぼしたりもした。
その三か月で得たものは、妄念取締隊の歴史、設立の経緯などの知識と、利き手の腱鞘炎だ。この痛みはその後一週間、僕を苦しめた。
狭苦しい教室から外に出たばかりで戦闘業務に移るなんて、いくら新人隊員の教育といえど、無茶苦茶だ。
「種島君、男を見せろ」
すでにキャップを頭に嵌め終えた大西主任は気休めにもならない言葉を投げかけた。
森里さんが手伝い、慣れないキャップをすっぽりと被った道重が不安そうに僕を見ていた。
唾液がすべて蒸発したように口の中はからからになっていた。息を吸うと緊張の空気も取りこんでいるようで、息苦しさが募った。
ここで躊躇すれば、道重の前で宣言した嘘になる。僕は腹を括り、キャップに手を伸ばした。
小さな吸盤のようなものが頭皮にぶつかる。被り心地はお世辞にも良いとは言えない。
大西主任は道重に寄り添う森里さんに向けて、親指を突きたてた。
道重はキャップを被った三人が一同に会する光景に当惑しているようだった。
森里さんは「大丈夫よ」「心配しないで」と背中を擦り、緊張を和らげている。できるなら僕にもしてほしい。
「僕と同じようにして」大西主任はリモコンを握った。表情はきりりと引き締まっている。
その姿はどこか勇ましい。兜をかぶり剣を携える武士に見えなくもない。
それから仰向けに寝そべった。
僕もそれに倣った
森里さんは子犬のように怯える道重に顔を寄せた。
「仰向けになって、目を閉じて。何も考えずにゆっくり呼吸して。だんだん眠くなってくるないけど心配しないで」
「うん」頭をこくりと揺らした小柄な少女は、僕と大西主任に軽く頭を下げた。横になり、ゆっくりと目を閉じた。僕は目配せをして応える余裕もなかった。その不安の目線を大西主任に向けた。
「俺も最初はそうだったよ。気楽にいこう」
大西主任の真剣な表情には余裕が滲み、余計な力みは抜けていた。僕もそのように表情を引き締めようとするが、顔の筋肉は強張るばかりだ。
「大西、しっかりね」
ここでのしっかりは、しっかり種島君を教育してきて、の意味であることは僕にも予想できた。森里さんは鞄からリモコンとストップウォッチを取り出した。
「任せて」大西主任はガキ大将のように誇らしげに胸をどんと叩き、続けて言った。
「じゃあ始めようか」
森里さんと大西主任と僕はリモコンのスイッチを押した。
大丈夫、自分ならできると根拠のない暗示を十回言い聞かせて、目を瞑った。。 道重の残像が瞼の裏にぼんやりと浮かび、消えた。頭の中の雑念が消えていき、何も考えられなくなった。クーラーの駆動音も、遠くの咳込む音も耳に入ってこない。
瞼の裏には遮蔽物が何もない白一色の世界がどこまでも続いていた。
頭の中が眩暈を起こしたようにくるくると回った。回転する真っ白いキャンバスに渦巻のように黒い色が混ざり始めた。完全な黒一色の世界が現れたとき、身体が撥ねるように一回だけびくんと動いた。身体というより魂が抜け出たような奇妙な感覚だった。
その日の座学の講義は大西主任が担当していた。大西主任の無駄のない進行はいつもどおりだった。ホワイトボードの文字を新入隊員は黙々と書き写していた。
僕の隣に座っていた細道がいきなり手を上げて言った。
「そのシャドーマンってのは何ですか」
僕はおやと思った。隊員の誰もが疑問を持っていたシャドーマンと言う聞き慣れぬホワイトボードの単語について大西主任は何も触れていなかったからだ。
もっともな質問に、滞りなく抗議を展開していた大西主任は暗雲が立ち込めたように顔をしかめた。「さてとそれについてだが……」と歯切れが悪く、訥々と話し始めた。
「凶悪犯罪や自傷行為をする不安定な心理状態のとき、人間の心にはある現象が起こる。これを視覚化したものを発見したのは、この国のある研究者だ。ゆらゆらと揺れる影のように見えることから、シャドーマンと命名された。今から二十年前のことだ」
「どうやって発見したんですか」
興味津々な細道に大西主任は頷いた。
「記録によると、別の実験中に偶然発見したらしい。詳しく解析すると、シャドーマンは思春期や青年期といった年代層の特に若者が発症しやすい傾向にある研究結果がわかった。つまり経験と年齢を重ねた大人は発症しづらい」
教室中はペンを走らせる音は聞こえない。大西主任の解説に誰もが聞き入っていたからだ。
「それを取り除くことで若者の犯罪や自殺を防ぐことができるのではないか、一人の研究者の発見によって、妄念装置の開発が始まった。直接人を見ることでシャドーマンの有無を確認していたが、改良が加えられ、顔写真の本人情報だけでもそれが可能になった」
あまりに現実離れした内容に新人隊員たちは閉口していた。細道は「ふむふむ」とまるで理解したような相づちを打っていたが、はったりを装っているに違いなかった。
現代科学では説明できない現象に僕と知った被る細道以外の新入隊員たちはホワイトボードに書かれた『シャドーマン』の文字を丁寧にノートに書き記していた。
ふう、と大西主任は息を整えた。説明する側も大変だ。
非現実的な講義はこれだけではなかった。 その講義内容は、説明を受ければ受けるほどその存在が遠のき、霞んでいった。
シャドーマン以上に現実離れした世界だった。ただの空想話で留めておきたいところだが、戦闘部はいずれ行かなければならない現実が横たわり、認めたくない気持ちの邪魔をした。万一認めてしまったとしても信じたくはなかった。
僕はその出鱈目な概念を、その奇妙な感覚と荒唐無稽な世界を身をもって体感したのだった。
目が覚めると、顔が圧迫されていた。畳の感触ではない。
頬に密着しているのはタイルだとわかった。透明なタイルの四方を囲む線は白い。手で触れようとして、声を呑んだ。
全面にタイルが貼られた床に寝そべっている僕の下には、底なしの白い闇が際限なく広がっていた。今にも身体が透明なタイルの床を貫通して落下してしまうのではないか。高所恐怖症の人間なら卒倒しているだろう。それでなくても怖い。
すり抜けることもなく、恐る恐る立ち上がった。
そのとき、黒い物体が目の前に飛び込んできた。
やり投げをぶん投げたような鋭い速さで眼前に現れた黒い物体。
とっさの出来事に、両手を盾にするだけの防御態勢しか取れなかった。ぺっぴり腰の無様な態勢で目を瞑った。
両手で受け止めるはずの衝撃はなく、そっと目を開けた。僕の前には見慣れぬ後ろ姿があった。
「大丈夫か、種島君」
その声には聞き覚えがあった。
剣道着を身にまとった男性は両手に竹刀を持ち、力を込めていた。黒い物体の侵入を防いでいるのだろう。篭手が小刻みに震えていた。腰からぶら下がる紺色の袴には、楷書体の黒字で苗字の刺繍がされていた。
おらっ、力強い掛け声とともに竹刀を振り抜いた。
太い鉛筆のように真っすぐに伸びていた黒い物体は、くねくねとした動きで空間に翻った。
「何をぼんやりとしているんだ」
大西主任に間違いないがどうしても確信が得られなかった。
なぜなら大西主任は、洋館に佇む騎士のような兜をかぶっていて顔が判別できないからだ。視界を確保して真横に隙間が空いていた。本来柔道で被るはずの面ではないのは突っ込んだほうがいいのか。
ちらりと窺えた真剣な眼差しは、決してふざけてなどいなかった。
黒い物体はコンセントを仕舞うようにしゅるしゅると収まっていった。
前方20メートルほどの距離にあるそれは掃除機ではなく、実体が推し量れないほど巨大で、ゆらゆらと蠢く影のような塊だった。
ハリウッド映画のCG以外でこのような映像を見るとは思わなかった。
大きな図体から大量に飛び出したものがこちらめがけて飛んできた。黒い物体は触手だとわかった。
「ひとまず逃げるぞ」
剣道着に西洋風の兜を組み合わせた大西主任は床を蹴った。
徒競争のビデオを三倍速で視聴するかのように脚が回転し、目にも止まらぬ速さで走り抜けていった。
あっという間にその姿が小さくなり、遠くで袴が靡いていた。
僕の目前には触手が不気味な勢いで迫ってきている。
両ふくらはぎに力を入れるため、そこに目線を移動した。自分の身体全体を捉えたとき、絶句したが、何とか動じず、床を強く押し出すことができた。
身体は真横に飛び出し、ふわりと浮いた。まだ力を制御できていないのだろう。くるりと反転させ、前傾姿勢を取り、前方に見える大西主任の後を追う。
後ろをちらりと振り返ると、さっきまで僕が佇んでいた後方に、触手の群れがなだれ込むのが見えた。もしあのまま突っ立っていたときを考えて、背筋がぞっとした。攻撃をし損ねた触手は僕に狙いを定め、再び追いかけてきた。
瞬間移動などではなく、自分の脚で、一足飛びで電信柱一本分の距離を跳躍していた。超人的な跳躍力に驚くのは後回しにして、触手から逃げるのが先決だ。僕は両足に力を送った。50メートル走を疾走するような身体には重力も風の抵抗もない。
それに何か大切なことを忘れている。
呼吸をしていない。
だが息苦しさは感じない。息を止め続けていられる。というよりか、呼吸のやり方を忘れてしまったように呼吸をする必要がないのだ。この不思議な感覚はどこかで体験したことがあった。
ぱりんとガラスの割れる音に振り向くと、黒い触手の群れが床に無数に置いてあるグラスをなぎ倒していた。ガラスの破片が散り、中の液体が漏れ、床は水浸しになっていた。僕は速度を上げた。
水を得た魚どころか、外敵のいない大海原を泳ぐトビウオのように力は漲っている。どこまでも駆け抜けていけそうだ。
戦闘部の隊員は業務の性質上、身体を鍛えることが義務付けられている。僕も例外なく金沢支部二階、戦闘部オフィスの横に設営されたトレーニング室での過酷な筋力トレーニングを課されていた。
バーベルを担いでスクワットをする太ももの強烈な張り、酸素不足による息切れ、ある意味では三か月の座学以上の辛さを一日で味わえる。専属のトレーナーがついているわけでもなく、義務といっても、鍛える意思は自己責任にかかってくる。
この場では息が上がることはなく、筋力トレーニングで身体に溜まった疲れなど嘘みたいに感じない。僕が百メートル走のオリンピック世界記録を軽く凌駕するであろう速度を維持して走っていることが信じられなかった。
西洋風の兜に柔道着姿の先達にやっと追いついた。これでも手を抜いて走ってくれたのだろう。
「妄念空間に慣れてきたようだね」
「なんとか」
「早く服を着なよ。そのままじゃ、恥ずかしいぜ」
大西主任の言うとおりだった。僕の身体は一切何も身に纏わず、生まれたままの姿で痩せっぽちの肉体を晒していた。
大西主任は、ぐいぐいとスピードを上げ、僕の横を通り抜けた。脚の回転の動きは早目で追えない早さだった。
僕は、裸のまま疾走する。幸いに走る風圧で身体が冷えることはなかった。これも妄念空間による効果だ。
一つ言えるのは、僕たちが住む現実世界とはまるで違うことだ。
妄念取締隊では、妄念装置を使い潜入したこの世界を妄念空間と呼ぶのに対し、僕たちが過ごす世界を現実世界と区別している。
現実世界では、呼吸をする必要がある。身体の倦怠感や疲れも感じる。重力を無視したような跳躍などできるはずもない。
妄念空間では、呼吸する必要はなく、息苦しさを感じない。
まるで夢の世界だ。現実世界で眠っている自分は呼吸をしているわけだが、夢の中では胸を上下させたり心臓が脈を打つ音が聞こえたりという生命活動ははっきりとは自覚しない。
夢の中でしばしば起こる強制的な場面転換や、人がふいに現れたり脈略のないストーリーに巻き込まれ、行動しなければならない制約もない。
某マンガ喫茶の自由空間という文字の紹介を思い出したが、ここが正真正銘の自由空間ではないか。
真っ白いこの空間の四方には、地平線がどこまでも続いている。いたるところにジョッキが置かれている。空中にはシャンデリアが浮かんでいる。
どこから電源を得ているのだろう。充電式のシャンデリアなんて聞いてことがない。だが電気が通っていようがいまいがシャンデリアは点灯する。妄念空間では現実世界の常識が通用しないことが常識だった。ジョッキの透明な液体がシャンデリアに照らされ、煌めていた。
触手の群れはシャドーマン本体から無数に延びている。僕を拉致した道重のような躍動的な動きを見せ、執拗に追ってくる。
妄念空間はターゲットの深層心理が色濃く反映される。アルコールが入ったグラスやシャンデリアは、キャバクラに勤めている彼女の生活の一部だ。
羽虫のように蠢くシャドーマンの中心には、二つの白い点がある。
不気味な黒い影の中で燦然と輝く白い光からは強い意志を感じた。この世界に足を踏み入れた部外者を排除する無言のメッセージを放っていた。
足元に触れそうなほど迫る触手から逃れようと必死で両足を動かす。触手の群れは進路上の酒のグラスを躊躇なく割り、ガラスの破片を散乱させている。こんな状況でリラックスなどできるわけがなかった。猛スピードで展開される逃走劇は、僕の袋だたきという終焉を迎えるのか。僕の素肌に距離を詰めてくる触手が嫌でも視界に入る。追いつかれるのは時間の問題かもしれない。
「リラックスして想像力を働かせるんだ」 前方の大西主任は余力を持って駆けている。竹刀の一振りでこの触手の群れを殲滅してくれればいいのに。
座学の講義でのことだ。大西主任ではない教官役の先輩隊員からからある指示が下った。
教室内の机と椅子を後ろに移動し、空いたスペースに新人隊員が円形に集まる。隣通しで手を繋ぎ、目を閉じて、心を落ち着かせる、というものだった。「
「これは瞑想と言って、妄念空間で大切になる能力を鍛えるために必要なんだ。真剣にやるように」と先輩隊員は釘を刺した。
講義が進むにつれ、実践性を帯びていった。
別の日、シャドーマンと戦っている自分の姿を想像するお題が出た。
教室内にはどよめきが走った。。シャドーマンは目にしたことがなく、架空の物体と戦っている自分などはこれっぽっちも浮かばない。新人隊員たちは要領を得ない様子で、戸惑っていた。
「妄念空間でシャドーマンと戦うためには、武装をしなければならない。うまく想像を働かせないと、武装はできないんだ」
先輩隊員の言葉で、僕は座学の瞑想の時間を思い出した。
僕は心が落ち着く想像を膨らませた。鳥のさえずり、朝の日差し、大きな入道雲、草原を走るそよ風……自分の両腕がじんわりと温かくなった。
「おー」という歓声を上げたのは、両隣の新入隊員たちだ。左右で握った隊員の手のぬくもりだと気が付いた。
僕が自分の手を確認すると、冬の風に晒したようなひんやりとした冷たさと、瞑想前となんら変わりはなかったことを実感せざるを得なかった。
他の新入隊員たちが手の温度の変化にはしゃいでいる中で、僕は取り繕った笑いを浮かべていた。
「どうしたんだよ、雄大」と、ひと際はしゃぐ細道が訊いてきた。触れてみると、こ太陽が宿っているかのような温かさだった。
冷え切った両掌は、想像力不足という妄念取締隊としての重大な欠損を僕に容赦なく突きつけた。
僕が先輩隊員に事情を説明すると、「想像力には個人差がある。慣れるしかない」という優しいようで、根本的な解決にはなっていない慰めを受けた。
何度も挑戦してみたが、掌に温もりが宿ることはなかった。妄念空間に潜入する前に進言しておけば良かったのだが、後の祭りだ。
触手の先端がつま先にかかり、バランスを崩した。失速した横腹に黒い鞭の拳が叩きこまれ、真横に吹き飛んだ。くるくると回転しながら煌々と輝くシャンデリアが一瞬目に入った。
二十メートル近く飛ばされただろう。かなりの衝撃が身体を貫いたが、不思議と痛みはない。
分厚い鉄板が身体を覆っていた。シャンデリアの光に反射した鉛色の板の凹みを見て、これが生身だったならどうなっていただろうと考えて、慄いた。
重さを感じない鋼鉄の板を身に纏い、上半身を起こした。
僕の周り三百六十度の全方位から触手の群れは狙いを定め、僕は追い詰められていた。このまま死ぬのか。想像していた袋叩きが再現されようとしている。悪い想像だけはうまく起こるものだな、と絶体絶命の場面の自分を嘲笑した。
そのとき、触手の群れの一部を叩き割って大西主任が背後についた。
触手は獲物に狙いを定めた肉食獣のように襲い掛かろうとしている。様子を見計らっているのか、すぐに動き出す気配はなかった。
「諦めるんじゃない。早く武装するんだ」
「何も思い浮かびません」
「心を落ち着かせて、その上で想像力を働かせるんだ。鉄板を出せたじゃないか。もう一息」
この状況ながらあまりに呑気な助言に少し呆れてしまった。大西主任は手を貸さないことを決めつけている。
絶体絶命のピンチには変わりはない。僕は前方に群がる触手に震える両手を差し出した。
右手は親指と人差し指で輪を作るように折り曲げ、残りの指は適度に開く。上から被せるように半開きにした左手を、その上に少し離して置く。この形は身体が覚えていた。
遠い記憶が黒い触手に囲まれた景色を一変させた。
小さな公園にいた。雲梯、ブランコなどの遊具が雑草の残った芝生に立っている。
大きな電信柱がそびえ立ち、その電信柱には一枚の紙が貼りつけてあった。中央の小さな黒い円には100と書かれ、中心から円の外周に移るたびに点数は低くなり、白と黒の色が交互に重なりながら円の外周は長くなっていった。それらが合わさって一つの的を作っていた。
僕は触手を的に見立て、実際の的にはほとんど当たったことがない100を射抜くように狙いを定めた。
道重をリストカットの苦しみから解放する――触手の群れを前にした僕の恐怖は揺るぎなき決意に変わった。
半ば暴力的な力で監禁されたが、本当の彼女は小さな存在に過ぎなかった。
俯き、痛々しい悲しげな表情。
母親の愛情、父親の愛情、誰にも相談せずに自縄自縛に陥り、さまざまな感情が入り乱れた混乱からリストカットに走ってしまった。
道重はリストカットを止めることができなかった。彼女に宿ったシャドーマンが蠢き、その決意を鈍らせるからだ。
道重が抱えている苦しさは僕に勇気を与えた。
右手がじんわりと温かくなり、その熱が体中を巡る。
頭がぼうっと熱くなった瞬間、シャドーマンが獰猛に狙いを定めた触手で襲いかかってきた。
左手で素早くリロードし、右人差し指を何度も引いた。握り締めたエアガンの銃身はシャンデリアの照明を受けて黒光りしていた。表面についた傷は遊びつくした当時のままだ。目にも止まらぬ高速でトリガーを引き、銃身から6㍉BB弾を連射した。
発射した黄色の玉は、襲いかかる触手の表面に着弾した。
触手を貫き、ぽっかりと小さな銃痕が開いた。これ以上広がらないところまで侵食するように穴が開き切ると、勢いよく破裂した。
エアガンの出現、玉の軌道、触手が勢いよく破裂する様。想像どおり狂いなく再現され、あまりにも狙い通りに触手を撃退できたことには唖然とした。
弾を詰める場所――カートリッジには常に玉が充填して満たされている。玉切れを起こすことはない。一定数が準備され、一回リロードすれば、あとは打ち放題だ。
襲いかかる最後の触手へ玉を撃ち込み、その破裂を見届けた。
漂っていた触手の群れは跡形もなくなっていた。
目の前には白色の空間にシャンデリアの光線が差す官能的な光景が広がっていた。黒く残った残像はすうっと消えた。
肩越しに後ろを見ると、目に見えない速さで竹刀を振り下ろす最中だった。最後の一本の触手は豪快に凹み、床に倒れて動かなくなった。人間離れしたスピードにもはや驚かなかった。
「やっと武装できたね」
ゆっくりと竹刀を下ろした。目線を確保するため横に空いた部分から安堵の色が浮かんでいた。
「死ぬかと思いました」
「種島君は絶体絶命級のピンチにならないと武装できないのかもしれないなぁ」
シャドーマンと戦うたびに絶体絶命を体験しないといけないのなら命がいくつあっても足りない。
「服も着られてよかったね」
大西主任の語気には少しばかりのからかいが含まれていた。
僕は自分の身体を見た。妄念取締隊の制服を身に着けている。できれば、プロテクターを内蔵した動きやすい服装が好ましいが、そこまでの想像力は望めない。裸でいるよりはましか。
「大西主任のちぐはぐな格好は、武士道精神に違反しないのですか」
「だって、面だと視界が悪いじゃないか。それにこれは丈夫だから」
そう言って、竹刀でこんこんと兜を叩いた。
遠くでは、シャドーマンの黒い影の真ん中で、白い光が道重の鋭い眼差しのように僕を睨みつけていた。
シャドーマンと戦うためには武器が必要だ。妄念空間では現実世界の私物を持ち込むことができない。だからこそ、僕は裸に丸腰だったのだ。
ではどうすれば武器を手にすることができるのか。
想像力を発揮するのだ。
妄念空間では想像力を使うことで、例外的に物質を持ち込むことができる。色、形、感触などあるものの存在を頭に思い浮かべる。それをはっきりとした形で想起できる思い入れや強い記憶が必要となる。具体的に想像できるものである方が望ましい。
妄念空間に持ち込んだあと、使い方でも想像次第ではあらゆるものが武器になる。 例えば、何の変哲のない輪ゴム。指にひっかけて飛ばす遊びにしか使えない代物が、空気抵抗を受けず対象物を貫く弾丸に化ける。
ただし、輪ゴム鉄砲を知らない人がうまく飛ばせないように、ある程度の武器の用途を知らなければ、強力な武器にはならない。
妄念空間での大西主任は武装に剣道を選択した。竹刀の扱いからも剣道に精通し、強い思い入れがあるとわかる。素人にはまるで興味の湧かない剣道談義をまくし立てることがあるから注意しろ、とは他の先輩隊員の警告だ。僕とは経験の差もあるが、竹刀、小手、胴など剣道着一式を瞬間的に妄念空間に持ち込み、武装することができる。
息を切らさずにいられることも、高速で走ることができるのも、想像力の恩恵だ。 早く走る自分の姿を想像し、呼吸の意識を断ち切れば、それが実現する。
妄念空間を校庭のトラックだと想像すれば、乾いた土を巻き上げる風が吹くかもしれない。そう思っていたら、狙い澄ましたようにびゅうと控えめな音が耳で鳴った。 触手の群れから逃れるほど素早く走ることは多くの想像力を要する。武装では想像力を働かせながら集中力をも発揮しなければならない。想像力不足の妄念取締隊がいかに妄念空間では役に立たないことか。僕は致命的な欠陥を抱えていた。追い込まれると本来の実力を呼び覚ます特殊な体質のせいで遠回りしたが、エアガンを手にすることで、ひとまずシャドーマンと対等に戦うことができる。
「ここまでできれば上出来だよ。とどめは俺が差すから」
「妄念空間での身体の使い方はわかりました」
「おっと、慢心してはいけない。油断大敵」
大西主任は指揮棒のように竹刀を振った。重力を感じさせない軽やかさだった。
遠くからくぐもったような悲しげな声が僕の耳に届いた。聞き覚えがある。
聴覚が優れたコウモリの耳に変化させる想像力はない。僕は耳に意識を集中し、その音を拾おうとした。
迷子になった子どものように母親や父親を探す道重の悲痛の叫び声だった。
おかあさんと求める声は、かつて道重を心から愛してくれた母を取り戻したい訴えに聞こえた。
驚くべきは、あれほど忌避していた父親を渇望するように呼んでいることだ。
道重は父親を求めている。
母の病気により自分の脆さを知った道重。彼女の存在を肯定することができるのは、もう一人の肉親しかいなかったが、自分と母親を捨てた過去に憎しみを抱いていた。
だからキャバクラに勤めたのではないか。父親世代の男性なら父親の愛情を感じられる。
だが金と欲望で塗れた世界に、道重の求めるものはなかった。絶望しただろう。彼女はリストカットを繰り返すまで追い込まれた。
なんのために生まれてきたんだ――僕の頭の中で誰かが呟いた。道重ではない。声変わりが過ぎていない男の子の声だった。
床を蹴って飛び出していた。
やめろっ、大西主任の必死の制止を突き飛ばした。雄叫びをあげながらシャドーマンに突撃した。
巨大な影の中から触手の群れがうじゃうじゃと湧いて、進路の妨害をした。激しい鞭打ちが全身を叩く。
シャツの上から鉄板の鎧を身にまとい、現段階の最高速度でエアガンを構える。
放った玉は視界を妨げる触手の群れを破裂するが、それ以上にシャドーマンから触手が生まれるので埒が明かない。
触手の殴打により鉄板の鎧はひび割れ、剥れ落ちる。シャツは、ぼろぼろになり、破け、身体を包むことを放棄し、布切れとなり宙に舞った。
再び披露せざるを得なくなった痩せぎすな裸体を曝し、触手の森を掻き分け、玉をぶっ放し、シャドーマンとの距離は縮まっていった。
遠くでは陽炎のようにゆらゆらとしていたものが目前では黒煙となって、何十本もの触手の隙間から、ひときわ輝く白い二つの光が覗いた。
「止まるんだ。種島君」後ろで喚く大西主任は耳触りだ。耳の意識を遮断すると、大西主任の声は聞こえなくなった。
お父さん、お母さん、苦しい、助けて…と、道重の苦しむ声だけは僕の耳に反響していた。
道重を救いたい思いとは裏腹に速度は落ちていった。
胸にこみ上げる衝動を感じ、口を開くと、赤黒い液体が飛び出てきた。痛覚は遮断し、痛みはないのだが、身体の傷まで操ることはできない。吐血は身体の緊急事態だ。これ以上の量は死に直結する。
シャドーマンまであと数歩という距離で、立ち止まってしまった。玉を撃つどころか、エアガンを握る手にも力が入らない。
だらんと腕を下ろし、辛うじて握っている右腕の先では、エアガンが用途を失っていた。頭がふらふらする。想像力など働かなかった。
勢いをなくした僕に、シャドーマンがとどめを刺しにきた。
黒い触手が目の前の視界を覆った。脳裏に死の文字が浮かび、それ以外は何も考えられなかった。
何かが僕と触手の間にすっと潜り込んだ。
頭部には本来被るべきものを付けず、西洋風の兜を嵌めている。不釣り合いな上下の組合せは日本中どこを探してもいないだろう。妄念空間だけにしてほしい。
空中に竹刀を振り上げた勇ましい後ろ姿は、剣道ファンの女性ならずとも女性の黄色い声援を独占するに違いない。
人智を超えた一振りに、前方一メートルには超小型低気圧が到来した。暴風が吹き荒れ、袴はばたばたと激しく翻った。
蠢いていた大量の触手は雲散霧消し、シャドーマンまでの直線上には何の障害もなくなった。
「種島君は本当に無茶苦茶だな」
大西主任は苦笑した。
台風並みの衝撃波を平然と生み出す大西主任に言われる筋合いはないと思い、その言葉をそっくり返したかった。
「まずいな。急がないと」
竹刀で差したシャドーマンの表面からは、新たな触手の先端がのぞいている。戦う意志は挫けていないようだ。
大西主任は竹刀を構え、駆け出した。
僕は倒れながらも最後の力を振り絞り、声にならない叫びを上げていた。まだ聞こえる道重の声を掻き消すためかもしれないし、生命の危険を無意識に感じたのかもしれない。
似たような記憶を思い出した。
道重に家に引きずり込まされそうになり叫び損ねたあのときだ。
広大な草原で激突する両軍のような雄叫びが妄念空間に木霊する。大西主任は暴風を生み出し、シャドーマンに向けて、放った。
シャドーマンの黒い影は、妄念空間に馴染むようにして色を失い、跡形もなく消え去ってしまった。
このシャドーマンを駆除している間にも、誰かの心には、別のシャドーマンが宿っている。妄念取締隊とシャドーマンを取り巻くいたちごっこは永遠に続く。
最後に見た二つの白い光には、その覚悟を問う力強い意思を感じた。
僕は仰向けに寝転んでいた。シャンデリアは傾き、視野は靄がかかったようにぼんやりとする。狭まる視界の端で大西主任が何かを言っているが何も聞こえない。
僕の記憶はそこでぷつりと途絶えた。
.第二章
第二章
目を開けると、白い空間があった。そこから不気味な何かが飛び出してくるんじゃないかと、跳ね起きた。
周りには白い天井と白い壁があり、自分がベッドにいることに気がついた。
「戻ってきたのか」と呟いて、どたんとベッドに倒れ伏した。良い寝心地とは言えないが、背中を包み込む柔らかさに手放しで安心した。
「おはようございまーす」間延びした声が聞こえた。
すいませんと声をかけると、ゆっくりとカーテンが開き、女性看護師が驚きの表情で僕を見つめた。
「種島さんですね。お体は大丈夫でしょうか。今、先生をおよびいたしますね」
「平気です。それより、ここはどこですか」
「金沢市民病院です。今は午前八時で、丸一日眠っておられました」
なんてことだ。妄念空間から脱出して、一回も目覚めることなくこうして朝を迎えたことになる。僕は猛煙取締隊の制服を着ていた。ベルトがベッドの布に引っかかり、腰が少し圧迫されている。寝返りを打たなかったのか背中の節々がずきずきと痛む。
室内は消毒液のような病院独特の匂いがする。廊下からはぱたぱたと歩くスリッパと、器具を動かす音が聞こえてくる。
室内には僕の他に三つのベッドがある。奥の二つはカーテンが開け放たれて誰もいない。隣はカーテンが閉まっていた。
長い長い夢から覚めたみたいだった。人が当たり前に生活している空間に新鮮さを感じる。伸びる黒い触手も、遠くまで白い広がる光景もここにはない。
シャツをまくる。わき腹には青あざも痛みもなかった。
先ほどの女性看護師が朝食プレートを載せたお盆を持ってきた。
慣れた手つきでベッドに備え付けられたテーブルを組み立て、その上に置いた。軽く会釈をして、カーテンを引き退室した。
スプーンにすくったスープを口に運んだ。とうもろこしの優しい味が口いっぱいに広がり、身体が生き返ったようだった。一日ぶりの食物を無我夢中で胃袋に押し込んだ。
昼過ぎ、扉のない病室のドアから現れた大西主任は、軽く右手を上げた。青色のポロシャツにベージュのチノパンを合わせている。
「体調の方はどうだい」
「戦場から死に物狂いで帰還した兵士の心境です」
「それだけ喋れるなら、大丈夫ね」
大西主任の後ろで森里さんがふふと笑った。涼しげな緑のキャミソールを羽織り、長くしなやかな脚はスキニージーンズに包まれていた。
森里さんは僕の視線に気がつくと、手に持った袋を少し持ち上げた。
「お見舞いよ。みんなで食べましょう」
大西主任は手ぶらだった。森里さんと比較するような視線を浴びせると、大いに慌てた。「森里さんと割り勘だよ。俺の気持ちももちろん入っている」と釈明をした。
「嘘つき。面倒だから、私に決めてくれって言ったのは誰だっけ」
「おい、それを言うなよ」
森里さんは口元に手を当てて笑った。空いた台に座り、提げていたバッグを下ろした。半透明の袋から桃を取り出した。
病室なので賑やかにするわけにもいかないのだが、二人が来たことで、幾分か場が和んだ。
「こんな事態になってすまなかった。種島君が武装できた段階で、すぐにシャドーマンを駆除すればよかった」
僕の暴走により大西主任は大量の始末書を書かされる羽目になったらしい。
「報告したときの岩谷本部長の剣幕ったらなかったな。眉間の皺が深くなり過ぎて顔に埋まるんじゃないかってくらい。でもえらく狼狽していた。あんな岩谷本部長も珍しい。てっきり叱られると身構えていたのになんだか拍子抜けしたら、いきなりでかい声で叱りつけるんだから。危うく鼓膜が破れかけたよ」
大西主任は耳に触れ、大げさに労わった。 僕は、頭に浮かべた強面をさらに険しくした岩谷本部長を急いでかき消した。心臓に悪い。
「すいませんでした。僕のせいです」
「種島君は悪くないよ。俺の監督力不足だ。それにしてもすごいスピードだったね。全力を出したけれど全く追いつけなかった。俺の見立てどおり、種島君はピンチに力を発揮するタイプなんだろうねぇ」
「大西主任の武装も斬新でしたね」
「でも妄念空間でしかその姿は見られないのよね」
森里さんはため息をついて、桃の皮むきを再開した。
「そうだね。もし森里さんが妄念空間に潜入したとしても、三十分は危険すぎるよ」
妄念空間では、現実世界の十分の一で時間が流れている。シャドーマンを駆除する時間を考慮すれば妄念空間にいることができるのは三十分と決められている。
現実世界の時間軸に照らすと、妄念空間には三時間滞在することになる。
「俺がシャドーマンを駆除したのが二十五分。現実世界に戻る五分間が長く感じたよ」
「全く覚えていないです」
「そりゃそうだよ。倒れたあとはうんともすんとも言わないんだから。呼吸と心臓は止まっていなかったから大丈夫だと思ったけれど」
大西主任はさり気なくそう言ったが、僕は身の毛がよだつ思いがした。一歩間違えれば、妄念空間から出られなかったかもしれないのだ。
妄念空間から現実世界へ戻るのには至極単純な方法が取られている。
妄年空間にいる間、身体は現実世界に、意識は妄年空間に移り、一種のレム睡眠状態となっている。
妄年空間に潜入するときには必ず誰か一人を現実世界に残さなければならない。時間が来れば、蹴るなり殴るなりして妄念空間から脱出させる。何らかの刺激を与える役目の人間が必要となる。
「画期的な発明品と言われる妄年装置の弱点は、自分の意思で妄年空間から現実世界に帰れないことにあるんだ」
大西主任は厳かに言った。
「その弱点は克服できないんでしょうか」
「現代の科学技術では改良は不可能だと言われているわ」
僕は黙って聞いていたが、ふと気になることがあって口を開いた。
「道重はどうなったんですか」
「別の病院に入院しているわ。体調は安定しているわ。大丈夫よ」
僕は安堵の息を漏らした。森里さんが微笑で応えた。
「妄念空間にいるときに彼女の声が聞こえたんです。早くシャドーマンを駆除しないと、彼女が取り返しのつかないことになりそうな気がして、頭がいっぱいで、気がついたら飛び出していました」
「俺にはそんな声は聞こえなかったけれど、確かに種島君は必死の形相だった」
予想外の大西主任の反応に、僕は内心首を傾げた。あれは幻聴だったのか。
「道重さんには何の異変もなかったわ」森里さんは不思議そうに僕を見た。「はい、どうぞ」剥き終わった桃が乗った皿を、組み立て式のテーブルの上に置いた。
口に運ぶと、桃の甘い果汁が口いっぱいに広がった。
「もし、妄念空間で呼吸が止まったとしても、俺が心臓マッサージと人工呼吸を施すから心配しないでいいよ」
大西主任の唇が自分に迫ることを想像して、桃を吐き出しそうになった。胃がきりきりする。これは吐き気か。
「そういうときは人工呼吸器とかAEDを想像力で持ち込めばいいでしょ。種島君ががかわいそう」
森里さんは辛辣ながらも妄念空間で呼吸が止まったときの対処の模範をさらりと示した。
二人の掛け合いは漫才のようだと思った。お互い気心が知れ、気兼ねというものがない。
ここでふと気になることを尋ねた。
「二人とも私服ですけど、デートですか」
大西主任はふふんと鼻息を荒くして、意味ありげににやりと笑った。
「なんで俺たちが付き合っているってわかったんだい」
「なんとなくです」
「前から気になっていた映画を見に行くの」
森里さんはそう言うと、何かに気が付いたように悪戯っぽい笑いを浮かべた。
「種島君が退院したらきっと驚くだろうな」
「えっ?」僕は素っ頓狂な声を上げた。
「新人隊員が妄念空間に潜入して大暴走するなんて妄念取締隊始まって以来の大事件らしいの。金沢支部はおろか、東京本部、全支部で話題になっている。みんな、びっくりしていたわ。あの種島が……って」
あの種島、とはどういうことだ。おそらく頼りない、気弱なという文言がしっくりくるのは自分で認めたくなかった。
森里さんは二つ目の桃を剥き終えた。大西主任はそれをフォークで指し、がぶりと食べ始めた。
「良かったじゃないか。種島君への期待値は急上昇だよ」
「良くないです。期待されても困ります。ただの自分勝手な行動ですよ」
「若気の至りってやつさ。経験を積んで少しずつ大人になっていくんだよ、少年」
僕より七年間多く生きた先輩の言葉は、含蓄のある説得力があった。
自分の発言に酔っているのか心なしか得意げな大西主任に、森里さんが涼しげに食って掛かった。
「偉そうなことを言って。大西がしっかりしてないから種島君が入院する羽目になったのよ」
金沢支部内一の美貌と利発で知的なイメージを覆す豪快な平手打ちを、無防備な大西主任の胸に放った。虚を突かれて、反動で吐き出されたものが、気持ち悪い感触で僕の肌に張り付いた。
そしてベッドの上にぽとりと落ちた。
僕は呆然として桃と唾の混じった固形物を見つめた。
ベッドの横で盛大に咳き込む大西主任と必死に笑いを堪える森里さんを見ながら、お似合いの恋人同士だなと思った。
二人が部屋を離れたあと、細道が僕の元を訪ねてきた。
「持ってきたぞ」細道はふて腐れていた。いつもどおりなのだが、この日のは明らかに性質の違うふて腐れ方だった。
手渡された旅行バッグには二、三日分の下着や着替え、漫画、雑誌、ゲーム機などが押しこまれていた。すべて僕の私物だ。
僕と細道は金沢駅の西、駅西本町の同じアパートの隣同士の部屋に住んでいる。妄念取締隊入隊をきっかけに、地元を離れたのだ。
携帯電話で連絡し、荷物を自宅アパートから届けてもらった。
感謝の言葉をかけたが、しげしげと僕を観察してきた。
「なんだよ」
「元気そうだな。心配して損した」と平然と言った。
こいつは……、素直に心配していたと言えないのだ。
「いい気になるなよ」
なるほど、彼の恨めしげな視線から少しだけ真意を掴めた。
「あのな。何か勘違いしていないか。僕だって危険を冒してまで、シャドーマンに突撃したりはしない。そんなことは百も承知だ」
細道は何かを考えるようにその切れ長の目で僕をじっと見つめ、ぷいと体の向きを変えた。
「約束のものは持ってきたから」
そう言って、すたすたと部屋から出て行ってしまった。
夜になると、携帯電話に着信が入った。表示板には父の文字があった。気乗りしないまま再生ボタンを押す。
「雄大。大丈夫なのか」発信者の声はどこか慌てていた。
矢継ぎ早の質問に、身体は大丈夫、二、見舞いも必要ないと言い、一方的に通話を切った。自然とため息が漏れた。
見上げると、金沢支部の四階建てビルが聳えていた。正面玄関の自動ドアを三日ぶりにくぐった。
総務部が併設された一階ロビーは戦闘部、カウンセリング部の隊員たちの往来が盛んだ。上部に取り付けられた嵌め殺しの窓からはひと雨降ってもおかしくない曇り空が覗いている。
エスカレーターで二階に上がった。
廊下を進み、その部屋に入った。戦闘部総勢三十名が集まる戦闘部オフィスだ。
事務机が並び、各自の手前にはデスクトップのパソコンが支給されている。
戦闘部の隊員はほとんど全員が揃っていた。入室して真っ先に頭を下げ、迷惑をかけた無礼を謝った。
先輩隊員や同期たちの反応は予想に反したものだった。あるものは肩を叩きながらからかい、またあるものは冗談めかして称賛したりした。
日本一に輝き、グランドに集結したプロ野球選手のように僕を取り囲んだ。森里さんが言っていたことは本当だった。自分がどれほどの大騒ぎを起こしたのかを改めて知った。
「みんな、そのぐらいにしておけよ。まだ退院したばかりなんだから」窓際に席を置く岩谷本部長が手をぱんぱんと叩いた。彼が機転を利かせてくれたことで、群衆はばらけ、僕は押しつぶされるような重圧から解放された。助かった。
命からがら定位置に腰を下ろすと、「まるで、スターだな」と大西主任がにやにやしていた。
隣を伺うと、僕が戦闘部オフィスに現れても身動き一つ取らずにいた細道が机に突っ伏していた。
背中を叩くと、むくりと起き上った。不機嫌が顔に滲み出ている。
「朝礼始まるぞ」僕は午前八時を差した自分の腕時計を指さした。
「毎日毎日、なんでこんな無意味な儀式を繰り返すのかね」
頬杖をつき、僕の顔を見ることもなく、特に見る必要もなさそうな電源の入っていないパソコンの画面に視線を向けた。
「ちやほやされていい身分だな」
一昨日病室に来たときと同じような態度でぼそりと呟いた。
「だからなんでお前がひねくれているんだよ」
「俺にだってその程度のことはたやすくできる」
僕の予想どおり、細道は名誉と不名誉をはき違えていた。
「ほっときなよ」
大西主任が茶々を入れ、「余計なことはするなよ」と僕も一応声をかけておいた。細道はそれらには反応を示さず、憮然としていた。
始めるぞ、岩谷本部長から朝礼の号令がかかり、全員が起立した。
岩谷本部長の指示で、他の戦闘部が巡回やシャドーマン駆除の通常業務をする中、戦闘部オフィスで書類の整理をしていた。一息ついたところで廊下に出ると、窓の外に午後の昼下がりの穏やかな陽射しはなく、生憎の雨模様だった。雨が途切れなく降り続けている。
廊下の先でチンと音が鳴ると、開いたエレベーターの扉からヒールの音が近づいてきた。
二階には戦闘部の男性隊員のみしかいないので、遠くからでも整った目鼻立ちの女性隊員の存在は一層際立った。白いブラウスと黒のパンツの対比が凛として映る。伸びた背筋は衣服越しにもわかる。廊下を出入りする他の男性隊員たちの目線が吸い寄せられるのも仕方がない。そんなことを気にも留めないように歩を進める。
「あら、種島君じゃない」
森里さんは僕に気づき、立ち止まった。
「先日はわざわざありがとうございます」
僕が会釈をすると、「いいの、いいの」と手をひらひらさせた。カウンセリング部にはない業務で使う資料を探しに戦闘部オフィスに来たらしい。
「戦闘部オフィスに女性が来ると目立ちますね」
「私は特に気にしてないかな。他人に見られるなんて大したことないよ」
気持ちがいいくらいさっぱりと言い切ったのは、他人に見られ慣れているからだ。そんな人間にしか使えないセリフだった。素直な感想か、自分への自信の表れなのか、できれば前者であってほしい。
「全く気にしないわけじゃないよ。この前みたいに男性と接する機会はあるから、多少は意識するかな」
あなたなら二度見でも三度見でも四度見でもされますよ、という言葉は飲み込んだ。
「それでも、私は自分の専門分野を活かす仕事に就くことができたから良かった」と、声を落とした。
森里さんは大学で心理学を学び、カウンセリング部に就職したらしい。シャドーマンを駆除したターゲットは患者と呼ばれ、カウンセリング部は彼らにカウンセリングを施すのが主な業務となっている。
心理学を活かせる職業は限られており、カウンセリング部の募集も少ない。森里さん曰く、大学の卒業生の同期でもカウンセリング部に就職できたものは少なく、森里さんに至っても何十社の企業を受けて内定をもらったのがこの仕事だそうだ。カウンセラーを志望することは、非常に狭き門をくぐり抜けねばならないことを意味していた。
就職活動は大変だったよ、と苦笑して胸に手を当てた。
「カウンセリングだけじゃなくてシャドーマン駆除を手伝わないといけない場合もあるし、大変だわ」
森里さんは少し俯いた。伏し目がちになった瞼を長い睫毛が覆っていた。
「ここに来る患者さんは苦しんでやってくるの。悩みを誰にも打ち明けられなかったり、反対にひとりでは抱えきれなくなった人たちなんだ。私たちのカウンセリングは患者様の根本的な悩みを解決することはできない」
「大変ですね」
「そう。何も話してくれずに殻にこもっていたり、号泣されたりすれば自分の力不足を痛感して辛くなる。でも患者様が前向きになって笑顔でここを離れたときにこの仕事をやっていて良かったなって思うの。誰かがそばにいてくれる。支えてくれるだけで、人は強くなれるんじゃないかな」
僕は森里さんの物静かな力説に圧倒された。
「ふふ、ちょっと真面目すぎたかな」
「いえいえ、そんなことはないですよ」
動揺を取り繕うのに精いっぱいだった。僕は話の接ぎ穂を探った。
「そういえば、この前のデートはどうでしたか。大西主任ははりきってましたよね」
そのとき、一瞬斜が入ったように表情を曇らせた森里さんの様子を僕は見逃さなかった。何かまずいことを言っただろうか。
「種島君のお見舞いに行った日、デートに行くって話をしたでしょ」
それは大西主任が言っていた。業務中には見たことがない締りのない表情をしていたことも思い出した。
「実は、そのとき些細なことで大ゲンカしちゃったんだよね。だからデートの途中で二人とも別れちゃったんだ。それからはお互い口も聞いていない」
予期していないカミングアウトに僕は狼狽した。
空気を読むのを最優先に考え、ケンカの詳細は訊かずにおこうとしたとき、森里さんがある俳優の名前を口ずさんだ。
アクション刑事ものの作品を中心に数々のヒット作の主演を務める国民的二枚目俳優の名だった。森里さんも世の女性たちに漏れず彼の大ファンらしく、出演するドラマや映画は欠かさず見るというのだ。
ここで、あることを思い出した。巡回で訪れた鳴和一丁目のコンビニ。無断で妄念装置を使用しようとして大西主任に咎められたとき、大西主任が持っていたカップ麺のパッケージには、映画の宣伝とあの俳優がでかでかと印刷されていた。
森里さんの世代に限らず、この国における人気をすでに確立していた。
「大西が彼に見えるっていって、怒らせてしまったの」
僕は耳を疑った。大西主任が街中で歩いていても彼と見間違われないことは明白だった。
僕の視線を感じ、森里さんは困ったように慌てて弁解した。「容姿のことじゃなくて……」
ターゲットからシャドーマンを駆除する勇敢な姿が、凶悪悪事件と戦う某俳優の姿に重なると言うのだ。演技と命がけの違いはあるが、確かに一理あると思った。
僕が無事に妄年空間から脱出できたのは、何よりも大西主任のおかげだった。
助言を与え、身を挺して窮地を救い、竹刀を握る後ろ姿には、孤高の武士の気高さがあった。相手を射すくめるような鋭い視線に同性だが一瞬惚れたことを密かに告白する。あのちぐはぐな格好でさえなければ完璧なのだがそれには目を逸らそう。
「仕事にかける熱意と、私の前だけで甘えてくる素のギャップがいいの」
恥ずかしがることなく、手放しで賞賛した。大西主任が聞けば、歓喜すること間違いなしだが、恥も外聞もない赤裸々な発言に僕はげんなりしてしまった。
「何も問題ないじゃないですか」
森里さんの表情にはやはり陰りが見えるが、何か考える素振りを見せたあと、決心したように一つ頷いた。
「変なことを言ってごめんなさい」
「いえ」
「そうだ、資料を探してるんだった」森里さんはぱっと目を開き、手を振り僕の横を通り抜けた。
僕はその優美な後姿を見送った。何か引っかかるものを感じ、窓の外に視線を移した。雨は相変わらず降り続けていた。
冷房の効いた店内にいると外の蒸し暑さを忘れる。仕事帰りの主婦や家族連れがレジ台の後ろに行列を作っている。商品ケースの上には、『水曜日、ポイント6倍』と書かれた紙が貼ってあった。
ビール缶を手に取りスーパーのカゴに入れる大西主任の動作を、僕は横に並んで眺めていた。
「お酒飲むんですか」
「そりゃそうさ。こういうのは盛大にやらなくちゃ」
「それにしては多い気がしますけど」
牛肉の入った発泡スチロールの容器、野菜、パックされたきのこがカゴで埋もれている。
「いいから、いいから」と、大西主任は相手にしなかった。
店の自動ドアをくぐると、雨は降ってはいないがお決まりのような曇り空が空一面を覆っていた。梅雨時期に限らずどの季節でも曇り空は珍しくはないこの地方には、゛弁当忘れても傘忘れるな゛という格言が昔から言い伝えられている。雨が降っていないだけまだましなのだ。
大西主任の1DKの自宅アパートを訪ねると、男一人の生活に相応しい風景が展開されていた。玄関には僕と大西主任の二足以外は履物が一つもない。フローリングの床はカーペットも敷いておらず、ざらざらした感触が足裏から伝わってくる。キッチンが清潔に見えるのは使っていないからだろう。
部屋の隅に、暗く沈んだ曇り空を反映する大きなガラス戸があった。そこから洗濯物を干すスペースの備わったベランダに通じる。
ガラス戸の手前に不自然な大きな段ボールが置いてあった。入退退室を邪魔しない程度にガラス戸との隙間を空けてある。六畳のダイニングの一角にある茶色の大きな箱は、テレビやベッド、本棚が並ぶ室内では明らかに前時代的な産物として浮いていた。昭和の香りに誘われる蜜蜂のように近づき、中のものを見て言葉を失ってしまった。
大西主任は冷蔵庫に食材を詰めながら言った。
「ああ、スーパーのお客様お持ち帰り用ダンボールのコーナーから持ってきたんだ。ちょうどいい大きさだろ」
段ボールの側面にはトイレットペーパーの商品名が記載されていた。
大西主任の口ぶりはお宝の金塊を披露するようだが、僕にはぎゅうぎゅうに押し込まれたカップ麺の塊にしか見えなかった。
食材を詰め終えたのか、冷蔵庫をばたんと閉めると、何やらを手に持ち、キッチンとダイニングを挟む境界に立った。
きれいな放物線を描き宙を舞ったそれは、大西主任が食材とは別会計で購入したカップ麺の複数の容器だ。商品棚から取り出したとき、パッケージに記載された新作の文字に大西主任は目を輝かせていた。
放り投げられた円形の容器はダンボールに入るたびにガサガサという音をたてて、大勢の塊の一部になった。
「すごい量ですね」率直な感想だった。
「そうなんだ。新しく買ったやつは下にやらないと、賞味期限の古いやつが下に追いやられて食べられなくなるんだ」
すたすたとダイニングと僕の前を横切ってダンボールに近づいた。片手を突っ込み、容器を下に押し込んだ。カップ麺の塊は威嚇するようにがさがさがさと鳴り、大西主任が手を抜くと、未練がましくがさっと鳴った。
カップ麺の隙間から、鳴和一丁目のコンビニで大西主任が購入したあのカップ麺を見つけた。
某俳優は森里さんや同世代の女性を虜にしてやまない凛々しい顔つきで拡声器を使い何かを叫んでいた。カップ麺の海から必死に助けを求めているようだった。
滑稽な彼を見ているうちに、森里さんと戦闘部オフィスの廊下で交わしたやり取りを思い出した。煮え切らないまま話し終えたが、気になったままだった。
この日は僕の退院祝いということで、大西主任が音頭を取り、焼肉パーティーが執り行われた。
二人に何があったのかを訊くには絶好のの状況ではあった。
煙が立ち上り、香ばしい肉の匂いが室内が鼻をくすぐる。一人暮らし用のテーブルの上には、一人暮らし用のホットプレートが置かれている。さらに二人の食器を置くと窮屈になるため、食材は仕方がなく床に置いている。
キャベツは水洗いし、ザルに盛り、下にはタオルを挟み、肉類は発泡スチロールに入っているので直接床に触れることはないが、衛生面ではなく、この量を食べ切ることができるかどうかの不安があった。
肉の焼ける音がする室内で黙々と肉汁とタレの共演に舌鼓を打っていたとき、
チャイムの音が鳴った。
「来た来た」
大西主任は箸をご飯茶わんの上に置き、そそくさと玄関に向かった。
時計の短針は夜の七時を指している。ベランダのガラス戸からは日が沈み、ぼんやりと月が見える。こんな時間に狭苦しい一人暮らしのアパートを訪れるのは、宅急便か何かの勧誘だろうか。だがそれにしても遅すぎる。
がちゃがちゃと靴を脱ぐ音が聞こえた。まさか入ってくるのか。突然の訪問者に、僕は箸を置き、警戒した。大西主任に丁寧に招き入れられるようにして彼の後ろから頭一つ抜け出した上背と、がっしりとした横幅に妄念取締隊の制服姿が現れた。
警戒が驚きに変わるや否や、僕はその場で立ち上がり居住まいを正した。来客を迎える体勢となった。
「座ったままでいいから」僕に気がついた岩谷本部長は右手を上げた。
妄念取締隊における階級は、上から本部長、部長、課長、係長、主任、隊員となっている。本部長は支部内で一番の権限を持つ。週に一回行われる大教室での集会では檀上に立ち、進行役を務めている。全体を統率する組織の要となる重要な職だ。同時に相応の責任も背負っている。
僕や他の隊員が業務を終えて、ホワイトボードの〝出勤〝から〝帰宅〝欄にマグネット磁石を移動するとき、岩谷本部長のマグネットは大概〝出勤〝欄にある。僕より先にマグネットが〝帰宅〝に置かれているのは見たことがない。
警戒、驚きと続き、僕の心理状態が最後に行き着いたところは心配だった。岩谷本部長は多忙を圧して、わざわざここにやって来たのだ。
リビング入口側に腰を下ろし、僕と真正面の大西主任に挟まれるような形になった。
何か声を掛けようとしたが、そういえばほとんど面識がないことに気が付き、結局何も声を掛けられなかった。鉄板の肉や野菜を焼くことに集中した。
キッチンから両手に缶ビールを持ち、大西主任が戻ってきた。
「岩谷本部長もどうですか」
「おう、ありがとう」350mlのアルミ缶を受け取り、テーブルに置いた。大西主任も席に付いた。大柄の岩谷本部長の参加により、テーブルの窮屈さは増すばかりだった。
大西主任は、ごほんと大げさに咳払いをした。
缶ビールを持ち上げ、肩の辺りで止めた。「えー、先に食べてしまいましたが、改めて、種島君の退院祝いということで……」
未成年の僕は麦茶を注いだグラスの取っ手を掴んだ。
「乾杯」二つのアルミ缶とグラスがカチンと重なった。
大西主任はビールをぐいっと一口煽ると、「あー、うまいね」と息を吐きだした。
岩谷本部長はごくごくと喉を鳴らし、一息で一缶を空けてしまった。とんでもない酒豪だ。
豪快な飲みっぷりを見ていたところで、突然目が合った。
「種島、身体は大丈夫なのか」
鋭い一声に僕は身を固くした。
「は、はい。おかげさまで。この度は本当にご心配をおかけしました」
「すまなかった。大西を信頼しすぎた俺の判断が甘かった」
「そう言われると俺の立場がないのですが……」
大西主任は肉を焼く手を止めて、反論した。
「ターゲットの安全はともかく、新入隊員の安全も守れないようなら先輩隊員としてはまだまだ半人前だ」
「好きで種島君を危険な目に合わせたわけじゃありません。妄念空間で俺が追いつけない想像力で走るなんて、俺には想像もつかなかったって何回も言っているじゃないですか」
「何度も聞いたが、それは納得できないな。あらゆる事態を想定しておくことが、妄念空間で戦うことだ。今回の一件で身に染みて感じただろう」
金沢支部戦闘部の三十名という人数は決して多いとは言えなかった。即戦力で業務ができる人材を必要としていた。
二人は道重の件で、僕に妄念空間での経験を積んでもらいたいと考えていた。もちろん、大西主任は安全を第一に考えていただろうが、想定外の僕の行動により大西主任を混乱させてしまった。大西主任には何十枚の始末書が待ち構えているのだ。もう止めよう。終わったことはしょうがない。
それにしても、短く刈り上げた頭髪に、威厳のある低い声。
入社試験の面接で初めて顔を合わせたときの、強面な第一印象に恐れを抱いた記憶を鮮明に覚えている。
入隊試験から少し経った四月のことだ。
新入隊員の戦闘部、カウンセリング部の計五人が妄念取締隊金沢支部第十三期生として採用された。
金沢支部四階ビルの隣にある金沢都ホテルの廊下では、僕を含めた新人隊員全員が緊張の面持ちでその時が来るのを待っていた。初顔合わせということで、自己紹介し合ったりして緊張を解していた。そのなかには緊張とは無縁の泰然自若とした細道の姿もあった。欠伸を噛み殺す様子からこの式典に乗り気ではないことは明らかだった。
合図のように扉が開き、入場を迎えた。 四方から戦闘部、カウンセリング部、総務部の拍手を浴びながら、中央の花道を歩いた。ラッパのファンファーレが鳴り響いていた。
入社式は本来は本社で執り行われるものだが、妄念取締隊では入社式ではなく入隊式として各支部で行うことが習わしとなっていた。
新入隊員の列は、壇上に立つ岩谷本部長の前で立ち止まり、横一列に並んだ。
厳粛な空気がひしひしと伝わり、しばしの静寂が漂った。
岩谷本部長は僕たちを順繰りに見回し、柔らかな口調で言った。
「皆さん緊張しているようですが、何も今から順番に闘魂ビンタを食らわそうとしているわけではありません。安心してください」
会場内からどっと笑いが起こった。この強面からこんなジョークが飛び出してくるとは予想していなかった。僕は面喰ってしまった。入隊式は首尾よく始まった。
入隊するにあたっての心構えや各自己紹介を多少緊張の解れた新入隊員たちは無難にこなした。
最後に、岩谷本部長が順番に握手を交わし、一人ひとりに激励の言葉をかける締めくくりを迎えた。
岩谷本部長は壇上から降り、左端に移った。右端にいる僕の順番は最後になる。岩谷本部長との対面は入隊試験の面接以来二度目だった。
左にいた岩谷本部長が目の前に現れたとき、僕は息を呑んだ。
四人目までは朗らかだった額の眉間が僕と対面した途端に深い縦皺が刻まれたからだ。一瞬ではあったが、決して見間違いなどではなかった。先ほど緊張を解すジョークを発した人物と同一だとは思えなかった。
「よろしく。ぜひ頑張って下さい」
激励の言葉は他の隊員たちと変わらないが、どことなく声の調子が定まっていない気がした。
握手を交わしたとき、異変は起こった。
思いもよらぬ痛みが右手を襲ったのだ。ジョークの延長かと岩谷本部長を見たが、顔は笑っていない。むしろ真剣な表情から笑いを誘う意思は微塵も感じなかった。僕は痛みと動揺をやり過ごし、握手をし終えた。手はじんじんと痺れていた。
そのあとは立食パーティーの運びとなった。僕は賑やかな会場の外のベンチに座っていた新入隊員に声をかけた。
「来ないのか」
「腹が減っていない。それに行っても酒を注がされるだけだ」
細道は新人隊員らしからぬ反応を見せた。このままでは帰宅するかもしれなかった。それはさておき、僕はある疑問を伝えた。
「なんか変じゃなかったか」
細道は何を言っているんだとでも言いたげに僕を見返した。漠然とし過ぎたか。
「わかった。正直に言おう。岩谷本部長の様子がおかしくなかったか」
不機嫌というよりか何かと葛藤するような一瞬の表情の変化。握力検査ではないのに、六十キロあってもおかしくはない手の力み。
今度はうまく伝わったようで、細道は顎に手を当てて考え込んだ。
期待に反して、「どのあたりが」と返され、僕は答えに窮した。
細道はそれらを受けていないのだ。受けていないから異変には気が付くことはない。 後で彼以外の新入隊員に聞いても同じような反応だった。僕の単なる思い違いか。「すまん、変なことを聞いたな。忘れてくれ」
茶を濁し、嫌がる細道を連れて、立食パーティーへと戻った。
一体あれは何だったのか。入隊式のあとも、頭の片隅に残っていた。
僕は岩谷本部長に対して得体の知れない苦手意識を持っていた。至近距離で接するのは今回で三度目だ。
僕の右隣では体内にアルコールを蓄えた大西主任に薦められるまま、岩谷本部長が肉を焼いている。
気分が良くなった大西主任が急に岩谷本部長について語り出した。
「岩谷本部長が第一期生として金沢支部の戦闘部に入隊した当時は、隊員の数は今より少なかった。妄念取締隊設立への世間の反対意見も多く、妄念取締隊は逆境から始まったんだ。妄念空間での岩谷本部長の実力は折り紙付きで、シャドーマンを駆除したあとは現実世界の目安である三分のほとんどを待ちぼうけに使っていた伝説が実しやかに語り継がれている」
興奮してまくし立てる大西さんをよそに、当の本人は「まあ、昔のことだ」とにべもない。その様子からは過去のことはあまり語りたくないのかもしれなかった。
冷蔵庫から持ってきた新しいビール缶を床に並べ出してから突如として大西主任の剣道談義が始まった。テレビで流れるトークバラエティに負けず劣らずの饒舌さで、頬はほんのりと赤く染まっていた。
僕と岩谷本部長は肉と野菜を焼き、ご飯を口に運びながらそれらを聞いていた。何のための会なのかがさっぱりわからない。
「岩谷本部長は俺と種島君についてどういう評価を持っているんでしょうか。是非お聞きしたいです」
そう言って、大げさに敬礼した。
「大西主任、呑み過ぎですよ」僕は一言挟んでおいたが、気色を浮かべる本人の耳に届いているかは怪しい。
岩谷本部長はゆっくりと口を開いた。
「今から二年前になるか」頬どころか顔全体を赤く染めた大西主任を一瞥した。
「中途採用の面接で、何が何でも入隊したい熱い気持ちで私や面接官を驚かせたのは。二年目の中途採用ながら主任職を任せたのは、想像力を織り交ぜて放つ面打ちの破壊力で、シャドーマン駆除において申し分ない実力を発揮しているからだ。これからも想像力を磨きながら後輩の指導も頑張ってくれ」
「いやー」思いの他の高評価に照れを誤魔化すためか大西主任は頭を掻いた。
岩谷本部長は大西主任から奥に視線を移した。釣られて首をひねると、視線の先にはガラス戸の近くに鎮座する大きな茶色い箱があった。
「だがあんなものばかり食べているんじゃないだろうな」
岩谷本部長は窘めるようにして言った。
「朝、昼、晩は欠かさず食べています」
当然と言わんばかりに返答する大西主任に、岩谷本部長は口元を歪めた。
大西主任は戦闘部オフィスでにいつもカップラーメンを啜っている。というよりカップラーメン以外のものを食べる大西主任は見たことがなかった。
昼食時、いつもコンビニから買ってくると思われたものは、もしかしたら自宅から持ち込んできたのではないか。
その点で大西主任はカップラーメン好きではなかった。カップラーメンと一蓮托生をしているただのカップラーメンマニアだ。 カップラーメン小屋の主の言動からはオカズが主食になっている可能性が高い。
岩谷本部長の反応にも納得できた。ダンボール箱に入った度が過ぎた大量のカップラーメンを好意的に受け止める人は皆無だった。
「大西、しばらくは控えろ。いずれは身体が持たなくなる」
岩谷本部長が苦言を呈するのも無理はなかった。そのような食生活でシャドーマンと戦っていたのかと考えると、ある意味で大西主任に尊敬の念を抱いた。
もっともな指摘で、大西主任は地球最後の日を迎えた絶望に満ちたようにがっくりと肩を落とした。一緒になってだらんと下ろした腕にアルミ缶がぶつかり、からんからんと乾いた音を立てて転がった。
僕は転がってきたそれを拾い、テーブルに置いた。悄然とうつむく姿に努めて明るく投げかけた。
「二度と食べるなって話じゃないんですから。そうですよね」
「そうだ。何事もほどほどが肝心だということだ」
「はい」
よっぽどショックだったのだろう。威勢のいい快活さは鳴りをひそめ、さっきほどが幻だったかのように落ち込んだ。
シャドーマンと戦わなければならない戦闘部に所属していることで、体力面を配慮しての助言であることは届いているのだろうか。カップラーメンという主食源を失ったがために戦闘部の業務に支障が出れば本末転倒だ。
一段と小さくなった大西主任にシャドーマンの触手から僕の窮地を救った精悍な姿はなく、なんだか幼く見えた。
大西主任はばっと急に立ち上がった。
かと思うと、ゆらゆらと左右に揺れながら、真っ暗なキッチンに消えていった。
「ちょっと散歩してきます」
がちゃんと玄関の扉の閉まる音がして、家主に代わってテレビの音と映像が室内を支配した。
画面には、強盗殺人で刑務所に収容された犯罪者が、実は冤罪だったと判明し、その判決が下るまでの本人や家族の二十年の苦悩を綴ったドキュメンタリー番組が放送されていた。
大西主任が去り、テレビの音と映像が主役に躍り出た。内容は特に気に留めるものではなかったが、二人きりで沈黙を共有するよりはましだった。
ところが岩谷本部長は床のリモコンを取り、電源ボタンを押した。
特に見ていなかったのだが画面に名残惜しさを残し、室内に沈黙が訪れた。
プレートには肉と野菜が残っていた。満腹感と岩谷本部長との二人きりによる圧迫感で、黒く焦げた肉の欠片を見つめていた。
なぜ、テレビの電源を切ったのか。この気まずさの根本的原因は岩谷本部長にある。
「いつも遅くまでお仕事をされて。この日も無理して来なくても結構でしたが」
沈黙を取り繕うようにあたりさわりのないことを言った。
「ああ」岩谷本部長は赤点のテストを母親に見せる直前のように額を押さえて唸った。 目線が合い、思わず逸してしまった。動揺することなんて何もない。面接も入社式もただの思い違いだと、自分を鼓舞した。
「今日遅れたのは、他でもない細道のことでだ」
やはり、それか。
「細道がやってくれた」
どこか不貞腐れたような目つき、非協力的な言動、組織をはみ出すために生まれてきたような男は兼ねてからの岩谷本部長の悩みの種だったらしい。
僕の暴走が妄念取締隊の本部及び各支部へ知れ渡り、金沢支部に泥を塗ったのは事実だ。新人隊員が妄念空間で危険行為をすることを原則禁止とする条文が決定した。
退院してから数日経って目にした実物の文書を見て、とんでもないことをしてしまった驚きを骨の髄から味わった。
岩谷本部長が本社の東京支部に直接出向いて陳謝したり、そもそも僕の暴走を迅速に伝達した対応により、金沢支部の面目は一応保たれ、前代未聞の珍事件に終止符が打たれるはずだった。
その思惑が音を立てて崩れ落ちる電話が戦闘部オフィスで鳴った。電話を取り上げた先輩隊員はえっ、と驚きの声を洩らしたあと、デスクにいた岩谷本部長に取り次いだ。
地の底を這うような大西主任の叱責に、戦闘部オフィス内は一瞬凍りついたように静かになった。それから急に慌ただしくなった。
戦闘部の新人隊員は先輩隊員に付いてャドーマン駆除の業務を行っている。
道重の緊急性はあったにせよ、僕は新入隊員の中で一番最初に妄念空間に潜入した。 細道は新たな規則、朝礼での岩谷本部長の念押し、妄念空間の先輩隊員の制止、それらすべてを振り切って、シャドーマン駆除の暴挙に走ったのだ。
僕の件で再発防止を誓った金沢支部の信用は失墜し、近々本部から注意勧告の視察が入ることとなった。
元々の犯罪件数が少ない地域だったことから、金沢支部は職務怠慢支部と揶揄されていた。細道が築いた新たな汚点により、職務怠慢暴走支部として悪名を轟かす羽目に至った。
「あいつは協調性がないんですよ」
僕も決して関わっていないとは言い切れなかったので、歯切れが悪くなった。
「全くだ。似たもの親子め」
僕が首を傾げると、岩谷本部長は一つ咳払いした。
「事情を聞くために問い質したが、本人はどこ吹く風でけろりとしている。反省の色が見えないどころか、悪いことなどしていないと喰ってかかる。呆れてしまったよ」 眉根を寄せ、顔の彫を一層深めた。
自分勝手な振る舞いで決まった規則を破ることはいけない。組織に属する人間としての常識だ。人の生命や運命を左右する妄念取締隊では特に慎重な行動が求められる。 だが、大胆不敵で常識が通用しない人間であることは妄念取締隊の戦闘部なら誰もがわかっていた。
「細道も悪気があって規則を破ったわけではないと思います。きっとそれなりの理由があるはずです」
「種島は優しいな」
「えっ」
頬を弛めるようにして目を細めた岩谷本部長の強面とのギャップを感じ、思わず訊き返してしまった。
慌てて表情を元に戻した。「とにかく、妄年取締隊としては見過ごすわけにはいかないな。何らかの措置を考えておこう」
僕は細道に同情をすることはなかった。妥当な判断だと思ったからだ。細道に降りかかるであろう苦難に思いを馳せた。
「種島」
沈黙を切り裂くように大西主任が僕を呼んだ。
会話にはタイミングというものがある。気持ちの良い会話に持っていけるかどうかは話しかける側の最初の一声に左右されると言っても過言ではない。僕と岩谷本部長のようになんとなく息が詰まる相手同士では特にだ。
タイミングは難しい。上手くいけば、自然な流れで会話が始まる。
だがその絶妙の一瞬を逃すと、そのあとに展開される会話の鮮度が失われ、ぎこちなってしまうのだ。
会話は水物である。
岩谷本部長の会話のタイミングは最悪と言ってもよかった。
沈黙の間には息を整える息遣いが聞こえ、次に放つ言葉が「種島」であることは容易に予感することができた。
何度か躊躇していたので、僕は歩いている最中に身構えていた地面ではなく、唐突に電柱からにょきっと現れた「種島」で額を打った。
「はっ、はい」
再びしんとした沈黙が訪れた。
「いや、……なんでもない」と会話の権利を放棄してしまった。
気まずさの空気は最高潮を迎え、沈黙の剣は二人の身体を突き刺していた。
岩谷本部長は腕を組み、黙然としている。
僕は、早くこの沈黙が終わってくれと大西主任の帰還を願った。
時計の針の音だけが時を刻んでいた。
「あれっ、岩谷本部長は?」
ダイニングに顔を出した大西主任は呆けた声を上げた。顔の赤みはなくなり、酔いは完全に冷めていた。時計の時刻は夜の九時を指していた。
「帰りましたよ」
二人きりの無言の沈黙を過ごしたのち、重い腰を上げ、僕は玄関まで見送った。
玄関ドアが閉まると、助かったような何かから解放された安堵の息を漏らした。
「いくらかかったんだ」
帰り際、岩谷本部長は僕から焼肉パーティーの食費を訊くと、財布から紙幣を抜いて、僕に手渡した。全額を払ってもらうのは申し訳ないと、遠慮した。
「いいから」と半ば強引に握らされた。
大西主任が気まぐれに旅立ってから岩谷本部長との沈黙、帰宅、金銭授与。
さらに雑巾で拭いた机、ホットプレート、洗った食器、余った食材を冷蔵庫に片づけて来たときの部屋に戻した経緯を話した。
「きれいになっているね。ありがとう」
「ありがとうじゃないですよ。こんな思いをするのは道重のときで十分です。窒息しかけましたよ」
大西主任は油まみれだった机の上に置かれた紙幣を数え、ちょうど二等分した金額を受け取った。
「実は種島君の退院祝いを言ったのは俺じゃないんだよね」
意外なことに発起人は岩谷本部長らしいのだ。
僕は自分の耳を疑った。てっきり大西主任だと思っていたからだ。
だが、僕が入院したときにお土産を選ぶのをめんどくさがっていたように大西主任ならこのような催しを提案する性分ではなかった。
それがまさか岩谷本部長だとは。会話が全く弾まず、残業の身体を押してまで来た意味はあったのだろうか。
「種島君のことを心配していたんだろうね。入院のお見舞いに行けなかったことも悔やんでいたみたいだし。俺もまさか岩谷本部長がそんなこと言うとは思わなかったよ。俺はともかく新入隊員とはほとんど面識がないだろうから、そりゃ種島君だって萎縮しちゃうよな」
「僕はともかく、岩谷本部長の様子はどこかおかしくなかったでしょうか」
大西主任は、曖昧な笑いを浮かべ一つ頷いた。
「俺も岩谷本部長が到着してから気がついていたよ。不穏な空気を盛り上げようと酒量は増えるし、カップ麺は否定されてるし、正直散々だよ」
意地悪をされた子どものようにむくれた。
大西主任にとってはかなり堪える現場だったにちがいない。
「カップ麺については森里さんから禁止令が出ていた。岩谷本部長にも注意されたら、これからは何を食べていけばいいんだ」
大げさに肩を落とす大西主任を見ると、憐憫の情が湧き上がってくるのだが、僕も二人の意見に同意見なのでかける言葉が見つからなかった。
大西主任はばっと顔を上げ、困惑はどこへやら、真剣な面持ちで見つめてきた。少し怖い。
「そうだ。森里さんついでに相談したいことがある」
すっかり忘れていた。二人きりなら酒の魔力により訊けたものの、秘密裡に登場した岩谷本部長により叶わなかった。それにそのあとの無言の沈黙で頭がいっぱいになって、引っかかっていた森里さんへの疑問は心の奥で放置されていた。
「この前のデートで何かあったんじゃないですか」
「ああ」
何かを思い出すように再び頭を抱えた。 図星らしい。
「森里さんが俺のことをあいつに見えると言ったんだ。――」
「よかったじゃないですか」
「全然よくない。どうしてあんなのと俺が比べられなければならないんだ。俺は森里さんの彼氏であってあいつではない」
「それはそうですけど。彼に似ているぐらい大西主任のことが好きなんですよ」
大西主任はため息をついた。何か悪いことを言っただろうか。
「本気で疑っているんだ」
「疑うってなにをですか」
「浮気だよ」
僕は身体を強張らせて身構えた。
「彼女には前科がある。僕に内緒で戦闘部の人間と付き合っていたんだ」
それを聞いて僕は言葉を失った。
大西主任は声を震わせていた。
「森里さんを、もう彼女を失いたくないんだ」
表情は重大な覚悟を秘めたように真剣だった。決して冗談などではなかった。
大西主任の様子は正気の沙汰ではなく、目は精気を失っていた。
居た堪れなくなった僕は退室の礼を言って、そそくさと玄関に向かった。ドアノブを捻りドアを閉めるまで大西主任の顔は一度も見なかった。とてもじゃないが見ることはできなかった。
傘が必要ない漆黒の空には、雨雲が白くぼんやりと浮かんでいた。
頬を撫でる生暖かい夜風に、僕は身震いした。
.第三章
第三章
金沢駅近くの商業ビルの七階、店内のテーブルは平日の夜とあってまばらだった。
目の前で湯気を上げるトンカツ定食の横には、僕の財布と伝票が置かれている。
ひと切れを箸でつまみ、口の中に入れた。衣の香ばしい食感に続いてカツの肉汁が訪れた。
ちらりと細道を窺った。僕と同じく妄年取締隊の制服姿で、腕を組みながら一人で唸っている。
引き受けたものの、自分ひとりでは手に余る。大西主任には悪いが、大西主任と森里さんの現状を彼に話した。
「変態だぜ」
細道は確かにそう言った。
「おい、ちょっと待てよ」
あんなにも意気消沈していた大西主任にかける言葉として、これは暴言以外のなにものでもない。だが、細道は手で僕の反論を制した。
「違うんだ」
「なにが違うんだよ」
「雄大は大西主任を庇おうとしただろ」
「当たり前だ。大西主任がお前に変態と言われる筋合いはないだろう」
細道はやれやれと肩を竦ませた。そのしぐさが僕をいらつかせた。
僕が疑問を露わに細道を睨み付けると、細道は滔々と語り始めた。
「大西主任と森里さんは同じ大学の同級生だった。森里さんは心理学、大西主任は工学部に所属していたんだ」
「くわしいな」
「同じ大学で交際を続けてきた二人が、同じ職場で現在も交際を続けている。おかしいと思わないか」
「珍しくはないだろう。邪推する余地はない」
そこで、細道がにやりと汚物同然の不快さで口元を引き上げた。僕は胃に収めたものが逆流するのを堪えた。
細道は口元の冷笑を維持している。僕は手のひらをぞんざいに振って、中断した話の続きを促した。
「森里さんが一方的に攻められる話じゃない。俺はむしろ彼女に同情する」
そう言って、細道は鞄から一枚の写真を取り出した。
写真には振袖とスーツ姿の男女の集団が笑顔を向けていた。大きな正門には卒業式の文字が入っている。周りには桜の花びらが散っていた。
「これが大西主任でこれが森里さん」
とんとんと人差し指で示した。
森里さんは後ろで微笑み、大西主任は前列でピースサインを作っていた。二人とも今よりも若い。
「束縛武士」
細道が声を落として呟いた。その言葉は物騒な響きを持っていた。
「なんだそれ、巷の流行語か?」
細道は首を横に振る。
「大学の友人が付けた大西主任の影の呼び名だよ」
どういうことだ。意味がわからない。
混乱する僕をよそに、細道はゆっくりと口を開いた。
「一見したら仲睦まじげだけれど、実際は恐怖政治のような交際だったんだ。自分がいないところで男子と仲良くするな、肌を接触するな、携帯電話のアドレスを交換するなという制限を課していた。大学の友人たちはその歪んだ愛情を、所属していた剣道着姿に重ねて、そう名付けたんだ」
僕は箸を持ったままよく動く細道の口から出てくる言葉を黙って聞いていた。
「社会人となってからも二人の交際は続いていた。森里さんは妄念取締隊に、大西主任は商社に就職した。そこでだよ
森里さんの微笑を差していた人差し指が彼女から離れ、つーと移動していった。指の先を追っていくと、後列の男子学生で止まった。
「彼は田中さん。元金沢支部妄念取締隊の戦闘部だ」
色黒のがっちりとした体系は、色白で細身の大西主任とは正反対だった。
元金沢支部の戦闘部とはどういうことだ。得体の知れない胸騒ぎがした。
「森里さんがカウンセリング部に所属して一年目が経ったとき、同期で戦闘部に所属していた田中さんと付き合ってしまった。田中さんは大学時代から彼女に惚れていたらしい。森里さんが二股をしていたのは本当だ」
妄年取締隊は男性は戦闘部、女性はカウンセリング部と男女で部署ごとの役割が決められているが、業務内容では行動をともにすることがあり、接触の機会は免れなかった。
「森里さんは後ろめたさを感じていたんだろうね。彼女の不審な言動を詰問されて二人の関係を白状してしまったんだ」
怒り狂った大西主任は妄年取締隊戦闘部の入隊試験を受けにいった。人数が不足していることや剣道四段の腕前、森里さんを監視下に入れるための原動力を基礎とした無茶苦茶な熱意で合格してしまった。
そういえば岩谷本部長は、大西主任は中途採用だと話していたことを思い出した。
森里さんに二度と近づくな、と何者からの路地裏での闇討ちで、田中さんは病院送りとなった。今は建設現場で働いているらしい。
「田中さんに連絡を取って聞きに行ったんだ。謝礼はちゃんと払ったぜ」
「そういう問題じゃない」
この写真は田中さんの目を盗んでくすねてきたものらしい。僕は呆れた。
「他人の事情にお前が関わる必要なんてないんじゃないのか」
「妄念取締隊での森里さんの様子は気になっていた。見えない影に怯えているように俺には見えたんだ。メールアドレスを交換したのは、邪な思いじゃなくて、彼女の力になれないかと思ったからだ。それからは、森里さんから大西主任についての相談を受けていた。森里さんが過去の修羅場を俺に伝えるときは身を切るような思いだっただろう。田中さんには申し訳ないことをしたと自分を責めていた。森里さんのことを考えて、田中さんは大西主任のことを金沢支部の誰にも暴露せずに退いた。大西主任が彼女を束縛していること、三人の間にあった事件、妄念取締隊の連中はこれらの事実を知らないんだ」
「いくら大西主任が偏った独占欲を持っていたとしても、森里さんの浮気は許されることじゃないだろう」」
「違う」
細道はぴしゃりと言い放った。周りの席に座っている客が一斉にこちらに視線を浴びせてきた。怪訝そうな視線を細道に向けている。
こいつ、声がでかすぎるんだよ。僕は慌てて人差し指を唇に添えた。
僕とは対照的に動揺を見せない細道は、「これは俺の解釈だけど」と前置きして続けた。
「森里さんは大西主任のことは好きだ。それは変わらない。大学、社会人まで来て束縛を受けながら交際を絶たないのは、根底にその感情があるからだ」
見舞いに来てくれたときの夫婦漫才のような二人の掛け合いが蘇った。楽しそうな表情からは過去の事件のことなどは想像もできなかった。細道の声量が一段と増す。
「職場という物理的な距離で油断したんだろうな。そこに四年間片思いをしていた田中さんが現れた。彼女の境遇は知っていたから、彼が優しい態度に出るのは当然だった」
細道は客席の視線に構わずに、口角泡を飛ばした。
「卑しい気持ちで結びついたんじゃない。不自由に反発して、別の男性を知りたくなっただけなんじゃないか。あの分からず屋はそのことにも気がつかない」
そもそも二人が交際を続けているというのがおかしな話だと思うが、男女の恋愛とはそういうものなのだろう。蓼食う虫も好き好きという言葉もある。
僕は情けないほど押し黙っていた。僕と同じように細道もトンカツにはほとんど手をつけていなかった。
「大西主任も森里さんも過去に縛られすぎている。だが二人ともこの状況を変えたいと思っている。だから俺は二人の真相を知りたかったんだ。公平な立場で物事を考えなければ問題も解決できないからな」
妄念取締隊では孤立しているが、それでも出会った頃に比べれば多少は協調性が出てきたのかもしれない、と場違いなことを考えた。
そこで、と細道がトンカツをつまんだ。
「大西主任が森里さんの浮気を疑っていて、業務もなにも手に付かない症状、についてだが……」
口に放り込むと、細道はうーんとこめかみを押さえた。
店内で流れるミディアムテンポの洋楽が耳に入り込む。食器の触れる音や微かな話声が聞こえる。
すっかり冷めてしまったトンカツを口に入れ、もぐもぐと咀嚼している細道の口からアイデアが発せられるのを待っていた。
細道はばっと顔を上げた。
「そういえば、来週は森里さんの誕生日だ。まず大西主任がホテルのディナーを予約する。お互い納得ができるまで話し合って二人の溝を埋める。バースデーソングのサプライズ演出のあと、とどめにバラの花束を渡す。よし、完璧なプランだ。大西主任、このままじゃただの束縛変態野郎だぜ。汚名返上しなくっちゃ」
細道は自信に満ちた表情だった。突拍子もないプランは手放しでは賛成できないが、僕一人では丸一日考えて案の一つも浮かばなかったのだ。考えあぐねたからこそ細道を頼ったのだ。内容はともかくとして了承していおいた。
問題がひとまず解決して、ほっと気持ちが軽くなったせいか、下半身の緊張が解けた。席を立ち、トイレへ向った。
戻ってくると、細道がにやついていた。
「うんこだろ」
冷やかしを無視して、着席した。
声がでかいんだよ。周りの客に聞かれるだろうが。急いで机の上の携帯電話を財布にしまい、話を変えた。
「そういえば、お前は大変なことをしたな」
お返しとばかりに割り箸の先を向けた。
細道はなんのことかわからないようにとぼけている。きっと自覚がないのだろう。
「僕の事件があってから新入隊員は自分勝手な行動をしてはいけない決まりになったじゃないか」
「雄大だけ目立ってずるいじゃないか。俺だってシャドーマンを駆除する実力はあるんだ」 細道は口をすぼめて言い返してきた。ある程度の予想がつく反論に僕は大きなため息を吐いた。
「妄年取締隊は隊員同士が競争するゲームじゃないんだぞ。ターゲットのシャドーマンを駆除して、自殺や犯罪を防ぐことが第一の目的だ。お前の行為は常軌を逸している」
「俺は怒られて雄大は許されるのかよ」
細道は子どものような屁理屈を岩谷本部長にも説明したのだろう。
前後の違いはあるが、僕と細道の同じ行為に対する評価が異なるのは、行動が与える影響が少なからず関係している。
僕が人と接するときは、相手に気を配り、不穏な波風が立たないように努める。おそらく戦闘部の先輩や同僚から見れば、話しかけやすい後輩、同僚に落ち着いているだろう。
対する細道は巡回や集会、打ち合わせなど業務に関わる最低限のコミュニケーションには参加するが、それ以外で積極的に会話の輪に入ろうとしているのを見たことがない。
無口と勘違いされる寡黙さ、つかみどころのない超然とした振る舞い、相手を挑発するような切れ長の眼など彼を構成するすべてが孤立を深めていた。
岩谷本部長が協調性を持たせようとたびたび面談をするのも当然である。それは金沢支部妄年取締隊の総意でもあった。
「とにかく、規則を破ったお前が悪いんだよ」
当人は納得していないようで、頬をふくらましていた。
「それにしても、ターゲットの金髪のまだら模様はすごかったな。あれは一度見たら忘れられないぜ」
聞いてもいないのにシャドーマン駆除に至る経過を勝手に喋りだした。僕は聞くともなしに耳を傾けていたが、気になる言葉に思わず訊き返していた。
「えっ」
予想外の声の大きさで、気が付くと席についている客の目線が僕に集まっていた。細道が唇に人差し指を当てて、意地の悪い笑みを浮かべている。
人のことを言えないくせに、ここぞとばかりの細道の振る舞いには腹が立ったが、それどころじゃない。手が汗で湿っていた。
「もしかして巡回した地域って、鳴和一丁目のコンビニか」
「おお、そうだよ。よくわかったな」
やはり僕と大西主任で巡回をしたあのコンビニだ。奇抜で疎らに染まった金色の髪と不貞腐れた接客態度ははっきりと覚えている。
細道によると、事務室で突っ伏して寝ていた店長、商品を補充し、てきぱきと働いていた店長の妻、高校を退学した金髪まだら模様の息子の三人であのコンビニを経営していた。
「店長は息子に跡を継いでほしいってしつこく言っていたらしい。息子の方はミュージシャンになる夢があって、そのことで近所から騒音苦情が出てたくらい揉めていたんだ。何度説得しても両方は折れず、話は水に流れた。でも鬱憤が貯まってたんだろうな。そのことが引き金になってしまった。両親は俺と先輩隊員に泣きすがってきて困ったよ」
僕が巡回したとき、彼にはシャドーマンは確認できなかった。なぜこのたった数日でシャドーマンが出現したのだろう。細道にそのことを伝えた。
「それだけ人間は弱い生き物ってことさ。なにがきっかけでやつらに心を蝕まれるかわからない」
「もし、シャドーマンの駆除が遅れていたら……」
「自殺か犯罪に走っていただろうな」
細道は冷静にその悲劇の結末を口にした。 僕はかぶりを振った。そんな現実は認めたくなかったがシャドーマンが巣食うと、その二者一択を迫られる現実は変えようがなかった。
救われる人がいれば、救われない人もいる。妄念取締隊はシャドーマンに心を蝕まれた人たちを救うことを第一に活動している。支部や部署関係なく、命懸けで業務にあたっている。国は妄年取締隊の存在を公表していない。その情報を多くの人が知れば、全国からシャドーマン駆除の依頼が殺到し、とてもじゃないが現在の全国に配備されている妄年取締隊の数では対応できないパニックに陥るかもしれないからだ。コンビニでの店長の投げやりな態度、奥さんの怪訝な視線。「あたしを精神病院に連れていくつもりね」道重の言葉がよみがえる。設立から十三年経つが、妄年取締隊に対する世間の風当たりは冷たい。白い目で見られることには言いようのないやるせなさを感じる。
「妄年取締隊って本当に必要なのかなぁ」
本音が漏れ出てしまったことに、自分で驚いた。口に出してしまうと、何も言わないときに比べて何倍も気持ちが沈んでしまう。
「しょげるなよ。元気を出せ」
細道は腕で銃を構え、打つ真似をした。客がくすくすと笑うのにつられ、僕の口角も自然と上がった。
また細道に助けられた、と思った。僕は目の前で無邪気に笑う親友を眺めた。だが彼は僕を親友だと思ってくれるだろうか。僕は彼に告げることを未だに躊躇していた。
授業の終わるチャイムが鳴り、休み時間に入る。堰を切ったようにあちこちで喋り声が聞こえるなか、僕は自席で机に突っ伏していた。
さきほどの数学の授業の問題に苦戦して、頭を休めているわけではない。小学校の算数までならわりと得意な方だった。
僕の通っていた小学校は一つの教室に三十人で二クラスしかなく、三十人で四クラスもある隣町の小学校と比べると、規模が小さかった。
その二つの小学校が合わさって一つの中学校になる。中学に上がった全員は戸惑ったに違いない。すでに小学校の面子同士で仲良しグループが出来上がっていたからだ。
最初は縄張り争いのように小学校の各グループ同士でお互いいがみ合っていたけれど、一週間もすれば、そんな垣根は取り払われ、驚くほどに打ちとけあっていた。中学生は根が単純な生き物なのだ。
僕は腕で作った枕に顔をうずめている。顔の圧迫により腕の血液が滞り、微かにしびれる。休み時間中はタヌキ寝入りをして過ごす。僕がこの姿勢を取り始めたのは小学四年生の頃からだ。
いつもの教室。いつもの休み時間。いつものように自席にぽつねんと座り、斜めの視界から窓の外を眺めていた。
桜の木は十分咲きを誇るものや、満開を過ぎて、花びらを散らせたものもある。
窓から教室に視線を戻した拍子に、三人で固まっていた男子グループの一人と目が合った。彼は慌てて目線を反らし、最近流行りのお笑い番組について面白おかしく喋っていた声をひそひそ声に変えた。ちらりとこちらの様子を窺いながら僕には決して聞こえないように二人に耳打ちをした。あの二人は隣町の小学校出身者だろう。「まじかよ」「本当に?」と、僕と目を合わさずにちらちらと様子を伺っていた。目には好奇の色が宿っていた。
僕はそのように扱われることには慣れていたので、特に気にかけることもなかった。もう一度視線を窓の外に移した。
四月も一週間が過ぎた。中学二年生の新しい教室では、教室の交友関係が構築され、進級独特のぎこちなさはほぐれつつあった。後ろの席にいた僕は、相変わらず腕枕に頭を預けていた。
なんとなしに前の座席に目をやると、ある男子学生の姿が目に留まった。僕と同じようにぽつんと自席にいたからだ。僕との違いは、寝ているふりをせず、座っていることだった。休み時間を一人で過ごす生徒はこのクラスでは僕だけだろうと考えていて、意外だった。 目を見張ったのは彼の手元を見たときだ。背中越しになにか黒い物体が見え隠れした。
目を凝らすと、それは紛れもなく、エアガンだった。彼は机の下で何度も傾けたり裏返したりして眺めている。表情は伺い知れないが、本人は楽しんでいるのだろうと無言の背中から直感で思った。
休み時間の終わりを告げるチャイムが校舎に響き、彼は名残惜しそうにそれを仕舞った。 授業が始まると、電力を失ったロボットのように机に突っ伏し、ぴくりとも動くことはなかった。その体勢で授業をやり過ごすつもりらしい。
途中、教壇から先生の注意が飛んで、むくりと起き上るが、元の木阿弥だった。
彼のことを五十分間じっと眺めていた。自由民権運動を説明する声も、板垣退助と書かれた黒板の赤文字もどうでもよかった。僕は彼への興味で頭がいっぱいになっていた。
五月になり、一か月に一回の頻度で行われる始めての席替えをした。
回数の多さでは、年に一回きりの運動会や遠足などの恒例行事を凌ぐ隠れたお楽しみイベントとして生徒たちを盛り上げた。
先生が、静かにするように注意を促しても、くじによる座席と周囲の友人の分布との組み合わせに色めきたった歓声や落胆は止まなかった。
ガタガタと机と椅子と三十人の大移動が始まった。黒板には上下左右の線で区切られた座席が書かれ、ほぼ真ん中に種島、とあった。僕が新しい席にたどり着き、席に座ると、少ししてから前の席に新しい生徒がやってきた。僕は溢れんばかりの興奮を隠し、声をかけた。
「今日からよろしく」
学校で先生に質問を当てられる意外に声を出す機会はほとんどなかったので、喉の調子が外れたような声が出てしまった。
「ああ」相手の無愛想なくぐもった返答は生来の調子なのだろうか。親しくない僕からは図りかねたが、取り敢えず彼と言葉を交わしたことが第一歩だ。僕はクラス全員の名字が埋まった黒板を眺めた。僕の名字の前には細道と書いてあった。
先生の説明とチョークの音が静かな教室に響いている。
僕の風景の目の前には細道の後頭部がある。 休み時間も給食で席を合わせるときも授業で体育館にいるときも、僕は彼に接近することはできなかった。
彼は話しかけてくるなという無言のオーラを全身から発しており、話しかけようにも話しかけられなかった。席替えで一声掛けて以来、僕は彼の後頭部を眺めるだけの一方傍観な関係が続いていた。
そのまま一週間が過ぎた。細道と話したい思いは持続しているが、行き場のない気持ちをどこにぶつけていいかわからず、じれったさを持て余していた。
休み時間中、ぼんやりと細道の後ろ姿を眺めていた。この日はエアガンを取り出さなかった。
机に教科書を立てて読んでいる。クラスの中でそんなことをしているのは、言うまでもなく彼だけだ。というより、授業中は寝ているくせに休み時間に黙然と教科書を開く人間を見たことがなかった。なんのページを見ているのかが無性に気になり、彼にばれないようにそろりと首を伸ばした。
見慣れぬ難解な数式や図が目に飛び込んできた。太字で書かれた文字を見て、僕は思わず呟いた。「微分積分……四字熟語?」
そのとき、細道がばっと振り向いた。突然の動作に僕は固まった。なんとかしてごまかさなくては。だがただ挙動不審に目を動かすことしかできなかった。
細道は僕を直視しているだけかと思ったが、なにか様子がおかしかった。目線を下げると、口元がぴくぴくと震えていた。
「四字熟語って国語の教科書じゃないんだから」
細道は堪え切れずにぷっと吹き出した。
なにがおかしいのか。僕の疑問に答えるように教科書をこちらに向けた。
表紙には『数学Ⅲ』と書かれていた。
おかしい。授業で使っているのは『新しい数学2』の教科書のはずだが。
「これは書店で買った高校用の教科書。微分積分は高校三年生で習う数式だよ」
細道は教科書をひらひらと動かした。
「中学三年生で高校三年生の勉強をしているの」
「うん。だって面白いから」と細道は簡潔に返答し、微分積分の難解な解説を勝手に始めた。
関数F、X=Aなど外国語のように聞こえる説明をまくし立てる細道の表情はいきいきとしていた。エアガンを黙々と弄る彼とはまるで別人だった。
休み時間終了のチャイムに救われ、細道は不満げながら口を閉ざした。内心ほっとため息を吐く。細道には申し訳ないが、微分積分が大嫌いになった。
細道は教科書を仕舞うと、身体を前に向けたまま首をねじ曲げて訊いてきた。
「お前、名前なんていうの」
「細道……雄大だけど…」
「そうか、雄大。放課後付き合えよ」
僕の名前を知らなかったことに少しショックを受けたが、彼との距離が縮まった嬉しさで帳消しとなった。
放課後、学校から続く河川敷を二人で歩いていた。遠くの空で輝く夕日が、川面も町も鮮やかなオレンジ色に染めていた。僕の気持ちを反映しているようだった。
先頭を行く細道が足を止めたのはゲームセンターだった。外観や看板は黒く汚れており、年季を感じさせた。
自動ドアから店内に入った途端、けたたましい爆音が耳を聾した。派手な映像と音色を流す機械が所狭しと並び、たくさんの人が各ゲーム機に興じている。客の大半が自分たちと同じような中学生や、高校生の男子だった。
初めての刺激が溢れる空間に呆然とする僕を尻目に、細道は慣れた様子でさっさと前に進んだ。
アーケード型のゲームが並ぶ一角に入った。一つのゲーム台の椅子に座った。
財布から硬貨を取り出し、ゲーム機のスリット部分に入れた。画面が切り替わり、ゲームがスタートした。どうやら格闘ゲームらしい。
僕は後ろに立ち画面を見つめていた。画面から目を離さずに、ゲームの仕組みを細道が解説した。僕は周りの音にかき消されないように、細道に耳を近づけた。
「キャラクターを選び、CPUと対戦するんだ。上にあるのが体力ゲージであれを0にすれば一ラウンド勝利になる。三ラウンド先取したら勝者となって、次の対戦に進める。逆の場合はゲームオーバーだ。CPUは対戦を重ねるごとに強くなっていく。十勝すれば最終ボスと戦うことになる。ボスを倒せば、ゲームクリア」
細道がこのゲームに精通しているのは素人目から見ても明らかだった。攻撃が立ち所に決まり、CPUに攻撃させる隙を与えない。細道が選んだ女戦士のキャラクターは、体力ゲージをほとんど減らされることなく、挑戦を仕掛けてくるCPUを次々と撃破していった。
細道が順調にゲームを進めるなか、僕の横を男子高校生らしき連中が通った。三人はこちらを一瞥したあと、対面のゲーム台に回り、一人が椅子に座った。
対戦が中断し、画面が切り替わった。いきなりキャラクター選択画面が現れた。
「どういうこと?」
「対人戦だよ」
画面を見ながら細道はそう言った。
対面には同じ種類のゲーム機が設置されており、お金を入れれば、CPUではなく人間同士で対戦ができる仕組みになっている。
相手は迷うことなくキャラクターを選んだ。選択画面のキャラクターの位置をあらかじめ把握した無駄のない動きだった。細道と同様に相手もゲーム慣れしている。僕たちより一回り年上の男子高校生たちはやり込むだけの時間と経験、実際の腕っぷしの強さも備わっている。僕はなるべく目を合わせないようにして細道の画面に集中した。
対戦が始まった。プレイヤーではない僕は不安だったが、それは杞憂に過ぎなかった。
細道はコンボを連発し、対戦相手の体力ゲージをみるみる奪っていった。女戦士が精密な動きとともに高速の鉄拳を食らわし、相手キャラクターの狼男は空中に浮いたままで連続攻撃を受け続けた。
連続して攻撃が当たったことを示すコンボは30と表示されていた。KOの文字とともに、対戦が終わると、画面のステージ上では女戦士が高笑いを上げ、狼男は仰向けで地面にへたばっていた。
男子高校生三人組は交代しながら挑んだが、三回の対戦中、一ラウンドさえ取ることができなかった。実に九連敗である。立っている僕からは彼らの悔しそうな表情が確認できる。ざまあみろと心で毒づいた。
ところが四回目に入ると、女戦士が徐々に押されるようになった。動きが過去の三回と全く違う。何度も見たことで細道の必勝法パターンを理解しつつつつあった僕は首をひねった。
ついに三ラウンドを先取された。画面に突如現れたゲームオーバーの文字の下には、10、9、8と数字のカウントダウンが始まっていた。細道は無言でゲーム機から離れた。僕は慌ててそのあとを追った。
ゲームセンターの騒音に負けず劣らず喜ぶ男子高校生三人組の歓声が聞こえた。
「ちょっと、待ってよ。最後わざと負けただろ」
ゲームセンターから離れた場所でやっと細道に追いついた僕は少し不機嫌に言った。
「カウントダウンが尽きるまでにお金を入れれば、再戦できるんだろう」
男子高校生は細道に勝つために七百円を費やしたのだ。
細道は無言で歩を進めている。僕はさらに声を荒らげた。
「なんで再戦しなかったんだよ。細道なら絶対勝てたじゃないか」
「じゃあ再戦して勝ったときに目をつけられた俺らはどうなってたと思う?」
細道は真剣な表情で僕に問いかけた。僕は言葉を失った。
もし細道が彼らに再戦して勝利すれば、相手の立場はなくなる。体格や人数の分が悪いことからも、カツアゲや暴行などの実力行使に出てくることも考えられたかもしれない。
ゲームセンターから離れ、僕たちが歩く真横の国道では自動車が走っていた。
その風を切る音に紛れるように、「単純に相手が弱すぎて飽きたこともある。CPUの方が歯ごたえがある。余計な邪魔をしやがって」と、鼻で笑った。
その姿は同じ中学三年生とは思えないほど大人びていた。その日を境に、僕と細道の仲は急速に接近した。
家に帰ると、仕事から帰った父と母が居間にいた。
「おかえり」
交互に二人から発せられた言葉を無視して、僕は二階の自室に向かった。
階段を上りながら、四年前のあの出来事を思い出していた。僕の人生が大きく変わった岐路だった。それまでドッヂボールをしたり鬼ごっこをしたりしていっしょに笑いあっていた友達は、あの日を境に僕から離れていった。
それまでしていた友人と遊びその日あった楽しいことを両親に話す日課もぱたりと止めた。僕は父を疑いたくなかった。ありふれた家のありふれた家族、そう信じていたかった。だが、それは僕の願望に過ぎないものだった。 居場所がなく、セミの抜け殻のように毎日を過ごしていた。その白黒の景色に溶け込んだ毎日に細道が色を与えてくれた。
細道と下校しているとき、彼に連れられて公園に行った。広い敷地内には、雲梯やブランコなどの遊具が点在していた。入口近くには両手で抱きついても指先が触れられない太さの電信柱があった。
細道は鞄からセロハンテープと紙を取り出し、それに張り付けた。ついでにあるものを取り出した。
休み時間に弄んでいたあのエアガンだ。電信柱から離れ、慣れた手つきで構えた。的めがけてエアガンの玉を一発撃った。打ち込んだ玉は真ん中の100と書かれた黒丸に命中した。
僕は彼に貸してもらった別のエアガンで、黒と白の円が交互に重なる的の真ん中に照準を合わせた。トリガーを引くが、玉は逸れて的にさえも当たらなかった。
細道が狙った獲物は逃さない敏腕スナイパーのように100の小さな黒い円に連発する様を僕は唖然として見つめた。僕より歩幅三歩分ほど後退した彼を振り返ると、ふんと鼻で笑い、見下してきた。僕は地団駄を踏んだ。
公園には雑草がいたるところに生え、野放しになっていた。細道は雑草の間を跳躍するバッタを捕獲し、セロハンテープで壁に固定した。僕の抗議を無視して玉を打ち込んだ。飛び散った無残な残骸に気分が落ち込んだが、発砲した本人は楽しそうにけらけらと笑った。果たして人の血が流れているのだろうかと少し戦慄を覚えた。
またある日、その殺戮者はまたバッタを捕まえた。エアガンの餌食になると踏んだ僕は、今度こそ阻止しようと詰め寄った。だが彼は鞄を担いで、公園から出て行った。肩透かしを食らった僕はあとをついて行った。バッタを潰さない程度に手のひらに閉じ込め、すたすたと歩く後ろ姿に訊いた。
「どこに行くんだよ」
「俺んちだけど」
あらかじめ決められていたかのように細道は言った。
ゲームセンターのときもそうだが、彼は自分がしたいことを優先させ、周りの意見を顧みないところがあった。僕が何も反論しないからかもしれないが。
五分くらい歩いたところで、細道は一軒家の敷地にすーと入っていった。
玄関口でアンティーク調の木製のドアを開けると、奥からぱたぱたと一人の女性がやってきた。細道が帰る家を間違えたのだと僕が頭を下げようとしたとき、「お帰りなさい」と言う声を聞き、すぐに顔を上げた。
細道の母は息子とは正反対の優しげな雰囲気を纏っていた。聖母のような女性とひねくれた細道の血縁関係は傍目からは全く結びつかなかった。
「和也、お友達?」彼女は玄関に佇む僕に気が付き、驚きの表情を見せたが、それは一瞬で、すっと元の穏やかな微笑みに変わった。
「どうぞ上がってください」
一転して弾むような声の調子を不審に思ったが、会釈をして室内にお邪魔した。彼女は廊下の途中にある玉すだれのかかった部屋に入っていった。
靴脱ぎ場の右には靴を入れる棚がある。その上の花瓶には鮮やかな百合の花が活けられ、ほんのりと甘い香りが漂っていた。
階段を上がり、二階の部屋に入った。
六畳ほどの洋間だった。ベッドと床の隙間には透明の大きなプラスチックケースがあり、中からゲーム機のようなものが見える。ゲームセンターの対戦型アーケードゲームの腕前はこれで磨いたのだろう。
細道は部屋に入るなり真っ先に窓際へ向かった。カーテンのそばには何か小さな箱が置かれていた。
天板についたガラスの蓋を横に引き、拳を開いた。
長い間拳の中で閉じ込められたバッタはその中にぽとんと落ちると、ぐったりとした緑色の固まりとなり身動き一つ取らなかった。 待ち構えていたカマキリがものすごい速さで近づいてきて事態を悟ったときには二本の鎌にがっちりと掴まれ、餌となっていた。
僕は虫かごから目を逸らし、非難の声を上げた。
「かわいそうなことをするなよ」
「いつもはスーパーの生肉だからたまには生きた餌も与えないと」
細道は気にする素振りもない。虫かごに視線を移したが、僕は見る気にもなれなかった。
「自然界じゃ当たり前のことだよ。人間はそうじゃない。このバッタみたいに食われる心配がない。あっ、おいしそうに食べてるなあ。これを見ていると俺はつくづく人間でよかったと思う」と、殊勝なことを口にしたのでこちらは怒る気概を削がれてしまった。
「まあ人間に生まれたから幸せだとも言い切れないけれどな」
細道は虫かごをじっと見ながらそう言った。僕は思いきって訊いてみた。
「細道は僕と会う前から教室で一人きりだったのか?」
「うん。別にクラスの連中と話したいとは思わない。たかが席替え程度で馬鹿騒ぎして。あんな幼稚な連中とつるむぐらいなら一人でいたほうがいい」
僕とは違い、彼なりの考えから孤立していたらしい。細道らしいと思った。
「じゃあ僕といるのは?」
「俺は自分が興味を持った人間だけと関わっていたいんだ。基準は面白いかどうか。微分積分を四字熟語と発言する発想の人間はそうはいない」
得意げに言われても褒められているのか貶されているのかわからないが、彼なりの遠回しの褒め言葉と受け止めておこう。
「雄大こそどうなんだ。周りの生徒たちはお前を見てせせら笑ったり、腫れ物に触るような避けられ方を受けているじゃないか。胸糞が悪い」
隣町の小学校出身である細道は知らないのだろう。前述の孤立からその情報を得ることもなかったのだ。
他人に自分の心をさらけ出すのは勇気が必要だった。だが、彼になら打ち明けられると思った。僕は静かに話し始めた。
「僕が小学校四年生のとき、僕の父が殺人犯だったとクラスのある男子が言ったんだ。彼は、殺人犯の息子には近づくなと釘を刺した母親の言葉を鵜呑みにしたらしい。教室中は静まり返って、みんなが黙って僕を見ていた」
細道は息を呑んでいたが、あのときのクラスの連中のような軽蔑めいた視線ではなかった。
その日、走って下校し自宅に帰ると、父と母は居間にいた。息を切らせている僕に向かって、テレビを見ていた父は、「どうした。そんなに汗をかいて」と少し驚いていたがいつもと変わらず穏やかな口調だった。台所に立つ母は机に配膳を並べ、いつものように僕に声を掛けてくれた。父が殺人を犯したことなど微塵も感じさせない日常がそこにはあった。
二人の様子を見ると、暗雲が立ち込めた空模様のように沈んだ帰り道がばかばかしくなった。
冗談交じりにその日の出来事を話した。
二人の表情が固まり、一瞬であるが軽く目配せし合ったのを僕は見逃さなかった。
「友達の言ったことはただの冗談で、気にすることはない」
父は笑ってごまかしたが、いつもの朗らかで優しい物言いとはほど遠かった。発言とは裏腹に声が少し震えていた。僕を安心させようとする焦りが見え隠れしていた。母の笑いは狼狽を隠すようにしていたが、気味の悪い苦笑いに見えた。
僕は生まれてから両親と一緒に暮らし、離れて過ごしたことは一度もない。あれは僕をからかう悪い冗談だと信じる希望はあった。だが二人の様子から動揺していることは明らかだった。
父は過去の汚名を覆い隠したかったのか。息子に知られたくなかっただろうか。
ではそれを隠し続けていられると思ったのだろうか。親子の絆は隠し事で成り立つ関係だったのだろうか。
裏切られた絶望が押し寄せ、僕は両親を赤の他人として見下すようになった。途端に家の居心地が悪くなり、家では極力無言を貫いた。学校でも家でも根なし草のように心の居場所を落ち着けられないまま過ごしてきた。
口からは次々と言葉が溢れてきた。細道は僕の一言一句も漏らさないように真剣な眼差しで聞き、その眼差しを向けてこう言った。
「くだらないな。第一、そんな根も葉もない噂は真に受けない方がいいんだよ。父が殺人をしたからどうなるんだ。子どもにはなんの関係ないじゃないか。何事もなく振る舞っていればいいんだ。雄大もクラスの人たちもどうかしているよ」
全身に電流が走った。予想を超えた正論を寄こした細道は平然と続けた。
「俺の親父は自宅にたまにしか帰ってこない。せっかく帰ってきても実験がどうの研究がどうのって俺のことなんて眼中にないみたいなんだ。だからあいつのことは大嫌いだ。ゲームをしていた方が楽しい」
細道の悲しそうな顔を始めて見た。それから感情を消したようないつもの表情に戻った。「父親が元殺人犯? だからどうした? そんなことで離れていく友達なんて友達じゃない。こっちからお断りしたいくらいだね」
僕はよく動く彼の口を眺めていた。
それからは無為に時間を過ごすだけで、まともな会話もなかった。
部屋に入って十分しか経っていなかったが帰宅する旨を伝えた。僕のただならぬ気配を察知したのだろう。細道は呼び止めることはしなかった。
階段を降りて玄関に差し掛かったとき、「雄大君」という声に僕は虚を突かれた。部屋の入り口にかかる玉すだれから男性がひょいと顔を覗かせた。中をちらりと伺うと、居間らしかった。
「驚かせちゃった? おっさんが急に出てきて」
「あなたは」
と言いかけて止めた。細道の父親だとすぐわかったからだ。顔が細道とよく似ていた。「久しぶりに帰ってきたのに、和也は顔も見せずに相変わらずつれない態度だな」とぼやき、続いてふふふと気味の悪い笑い方をした。ころころと表情の変わるおじさんだった。
「妻は買い物に喜んで出ていったよ。和也が友達を家に招き入れにきたことはなかったからね」
「はあ」
細道の母が驚いたのにも納得した。
「ちょっと変わったところもなるけれど、これからも仲良くしてやってくれないか」
柔らかい口調に、僕は軽い会釈で返した。
「それにしても、雄大君は大変だったねえ」
いきなり僕の名前が出てきて面喰った。
僕の父はしばしば細道家を訪れていた仲で、細道の父とは昔からの懇意な間柄らしい。どうりで僕の名前も知っているわけだ。
「あれからはめっきり顔を見せなくなってしまって、私に連絡も寄越さない。お母さんとの二人暮しは大変だろう」
僕を見る細道の父の眼差しには疑問の色が宿っていた。
脂汗が噴き出し、僕の耳の横を流れる。嫌な予感がした。僕は何度か逡巡したのち、おそるおそる訊いた。
「すいません、もう一回言ってくれませんか。ちょっとよく聞こえなかったので」
細道の父は不審げではあったが、はっきりそっくり同じ台詞を言った。聞き間違いではなかった。
「ええ、本当に、母との二人暮しは大変です」
ははは、と本心を偽る笑いを浮かべた。笑いは引きつっているだろうが、これが精いっぱいだった。何がなんだかわからない。心臓の音がいやに近くで聞こえた。
最後に僕に労いの言葉を掛けて、細道の父は玉すだれの向こうに消えた。
靴脱ぎ場に下り、玄関の扉を閉めると、僕は全力で駆けだした。
頭はパンクしそうなほど状況処理が繰り返されていた。どうにか止めようとしたが、止まらない。自宅に着くまでの十分間を混乱したまま無我夢中で駆けていた。
父は居間の机に座っていた。母は夕食の準備をしていた。テーブルには豚汁、茄子の煮物などのおかずが並んでいた。熱々のご飯茶わんからは湯気が出ている。
いつかのように息を切らした僕を見て、母は目を丸くし、父は、子どもは元気があっていいなと呑気なことを言った。
僕は二人を睨みつけた。心の中はぐちゃぐちゃで黒い渦が渦巻いていた。自分がどこの何者なのかがわからない。息が整わないのも構わずに言った。
「あんたらは僕の両親じゃない」
父は手に持った茶碗を空中で止め、息をするのも忘れたように無言になった。
母にいたっては血の気が失せ、みるみる青白い顔になっていった。いや、もう父でも母ではないのか。
「黙ってないでなんとか言えよ」
僕は渾身の力で叫んだ。あまりの大声に喉が締め付けられ、咳込んだ。
なおも二人は沈黙を貫いている。それは僕の問いを肯定していることに他ならなかった。 僕は戦慄した。目に付いた机の上のリモコンを手に取り、思い切り投げつけた。がごんと何かに当たる音がしたが、軌道を見る余裕などなかった。
全身が火照り、なにか行動をしないと気が済まなかった。僕が取り返しのつかないことになると直感したときには、テーブルの上のコップや茶碗を、火が付いたように放り投げていった。食卓を囲っていたおかずが居間中に散乱し、大量の給食の残飯バケツをひっくり返したような有様になった。生臭い匂いが鼻を刺激した。
「止めるんだ。雄大」
「触るな」
暴れる僕を、後ろから男が覆い被さり、肩と腕が押さえつけられた。
女は顔に手を当てて泣いていた。泣きたいのはこっちだと思ったが、涙はこれっぽっちも出る気配がなかった。
「父さんは確かに殺人をした」
慌てるべき局面でありながら、男の動揺は少なかった。むしろ落ち着き払っていたといってもよかった。
殺人を犯したのにもこれだけの冷静さを保ているのは、当人がそのことを起こしてない何よりの証拠だった。
では、なぜこの男に殺人容疑が噂され、嘘を吐いてまで殺人の容疑の現実に甘んじているのか。この男と女は一体誰なのか。
僕は矢継ぎ早に問い質すが、二人は肝心なことには一切口を開かない。
女は口を開きかけたが、男に制され、再び口を閉じた。禁断の一線を超えてはならないように二人は何かを守っていた。僕は腹の虫が収まらなかった。
「雄大、決してお前を騙さそうとしていたわけじゃない。それは信じてくれ。俺も家内も愛情を注いで育ててきた」
「黙れ。他人のくせに」
「雄大から見たら他人かもしれない。だが俺たちにとってはただ一人の息子だ」
男は僕を後ろで押さえつけたまま、強く抱きしめた。女は何か言っているが涙声でうまく聞き取れなかった。
抱きしめたことで油断していたのだろう。 僕は強引に男の縛りを解くと、その唖然とした締りのない顔面を叩いた。拳にめり込む硬い骨や皮膚の感覚が気持ち悪かったがそのまま振り抜いた。
男は顔を押さえながら後ろに倒れた。
うう、と唸る男に駆け寄る女の、悲痛な忍び泣きが乱闘の荒野で流れた。
居間を出た僕は階段を上がり、ドアを乱暴に開閉して、自室に籠った。
無我夢中で目についたものを投げた。机の上のケースに立てかけた教科書、筆記用具、クローゼットの洋服……。
破けるものは破き、折れるものはへし折り、ただのガラクタにしていった。それでも心にのしかかる重圧は僕を苦しめた。気持ちを鎮めようとアーケードゲームの女戦士のように高笑いしてみたりしたが何の意味もなさなかった。
心の中で二つの何かが葛藤していた。僕は一方を支持し加担しようとするのだが、見えない透明の壁に遮られるように関与することはできず、その攻防をただ見守ることしかできなかった。
黒い感情が心を占拠していく。一定間隔の波打つ振動が身体に伝播し、僕を異世界の痛みの底へと誘った。床に横になったまま息を切らしていた。
どれくらい悶え苦しんだだろうか。
僕はむくりと起き上って窓に視線を移した。閉め切ったカーテンからは夜の暗闇が透けて見え、薄暗い部屋は不気味な巣窟と化していた。
もう一度高笑いした。新しい自分に出会ったような高揚感が身体を包んでいた。蒸発してしまうんじゃないかと感じるほど体中が熱い。
僕は部屋の真ん中に直立し、一つの恐ろしい姦計を思いついた。そのことを考えると、自然と唇が引き上がった。
突然、玄関のチャイムが鳴り、急かすように階段を上ってきた。複数の足音は僕の部屋に近づき、ドアの前で消えた。がちゃがちゃと何度かドアノブが回されたが、ドアは開かなかった。
一瞬の間のあと、金属の削られる音が響き、がちゃりとドアが開いた。カーテンを閉め切った真っ暗な部屋に廊下の光が差し込んだ。
僕は駅西本町にある自宅アパートまでの帰路を歩いていた。
うっすらと雲がかかる夜空は晴天ならば遠くで夕日が見えるだろう。梅雨明け間近の最後の力を振り絞り雨を降らせていた。念のため持ってきてよかった。水滴は傘に当たり、びしょ濡れにならずに済んでいる。
細道と食事をした商業施設のある金沢駅前からは離れ、前方には雨降る夜空にマンション群がそびえている。自宅アパートまではあと五分もかからないだろう。
なにかの前兆のように携帯の着信が鳴った。 足を止め、取り出した。
「どうしようかな」新着メールの文面を見て、独りごちた。少し思案してから決心した。
自宅アパートへ向かう足を目についた近くのベンチへ路線変更した。
腰を落ち着けると、帰宅時間のピークを過ぎ路線が極端に減ったバスの停留所は僕以外には誰もいなかった。
しばらくすると、車体の全面上部に電飾で目的地を表示した大型車両が、無人のベンチに横付けした。
再度目的地を確認した。車体横の扉から運転手だけが乗った車内へと足を踏み入れた。
目的のバス停に到着し、途中で一切誰も乗り合わせななかった車内から僕だけが降りた。 傘を広げて、車が水しぶきをあげて走る百万石通りの歩道を東に進んだ。すぐに広坂の交差点にぶつかり、足を止める。歩行者専用信号が青に点滅してから左に歩く。
間もなく見える広坂北の信号機を左に折れ、薄暗い細道に入る。この通りはお堀通りと呼ばれる。小さな小道の右側を占拠するいもり堀が暗く沈んだ水を湛えていた。雨粒で水面のあちこちがひっきりなしに撥ねている。
その奥には金沢城を囲う石垣の外壁と、その上に木々が覆いかぶさり、ひっそりと荘厳な風格を漂わせていた。道の先の奥では鬱蒼と生える楓の木々が林立している。それらを越す高さのマンションや商業ビルがさらに奥に控え、窓から漏れる照明の四角い光が、青葉を茂らせる夜の高木の群生と対比して、妙に煌めいて見えた。香林坊から流れる車の喧騒と石垣の奥に聳える金沢城が両立している現代に時代錯誤のおかしみを感じた。
この辺りだと思いながら、お堀通りをまっすぐ進んだ。
先ほどのメールの送信者は大西主任だった。『大事な話がある。直接君に話したいんだ』と、場所が記された文面が届いた。大方は森里さんについての件だろうと思った。わざわざ出向く必要はないのだが、森里さんの誕生日は今週末の土曜日で、二日後に迫っている。ホテルの予約などを考えれば早く当人に知らせるべきだった。細道の考え付いた荒唐無稽な案はメールではなく直接伝えるべきで、こちらとしても都合がよかった。
ぽつりと立つ電灯の下に、人影が佇んでいた。電灯から注ぐ頼りない光によってぼんやりと照らされていた。傘を差していて、顔は見えない。
その人物との距離が徐々に近づく。雨量の変化はないが、なにかの兆候を示すように傘に当たる雨音は騒がしくなった。
相手の傘がゆっくりと持ち上げられる。わざわざ呼び出されてまで、一方的な森里さんへの泣き言は断固聞き入れまい。こちらの要件をさっさと済まそう。
「大西主主任あのですね――」
声が喉に張り付いて、発することができなくなってしまった。さらに僕はしばし呼吸するのを止めた。
対象との距離が近づくこの数秒間、確かに妙な違和感はあった。
果たして大西主任はこんなにも長身だっただろうかということだ。
相手を覆っていた傘が完全に持ち上がった実際の姿は見間違いかと思った。目を凝らして見たが、特に意味はなかった。
「こ、こんばんわ」
声が上擦ったのも無理はない。目の前には、傘を差し佇む岩谷本部長がいた。無表情で僕を見つめている。激しい既視感に襲われた。
雨降る夜はあまり散歩には適さないが、それならば邂逅したのにも説明がつく。早く僕の横を通り過ぎてほしいが、岩谷本部長は立ち止まったまま動く気配はなかった。よく見ると、妄年取締隊の制服である。普通こんな格好で散歩しようとは思わない。
沈黙は雨の音にかき消され、一本の電灯が照らす薄暗闇の中で二人は立ち止まっている。
岩谷本部長が一歩を詰め、息がかかりそうな目と鼻の先で、長身とがっちりした体躯による威圧感を与えた。僕は狼狽した。
なんとかして僕に焦点を定めようと忙しなく動く目の奥には戸惑いと、決意に満ちた力強さが混じっていた。相反する二つの感情はこの混沌とした状況を表しているようだった。「こんな時間にどうしたんですか。体調が悪いのならご自宅に帰って休まれたほうが――」
そのとき、何かに身体を包まれ、発言の中止を余儀なくされた。むぐっと声が漏れ、身じろぎの一つも取れなかった。傘の柄は手から離れ、雨が容赦なく僕のシャツを濡らしていく。頬に衣服が密着する。僕の背中に回された腕は力んでいるが、不思議と息苦しさはない。気が付くと、岩谷本部長の優しい抱擁が、僕の身体を包み込んでいた。
鼻孔に年相応の加齢臭が入り込んだ。忌嫌するものではなく、僕は不思議とこの匂いを受け入れた。匂いは異なるが、同じ温もりをどこかで感じた覚えが頭の片隅に残っていた。
「本当にすまなかった」
拳を握り締めるように声を震わせていた。 抱きしめたままもう一度同じ台詞を呟いた。
抱擁から解放され、もう一度向き合った。 金沢支部で指揮、総括を取っている本部長としての威厳はなく、目の前には傘を手放し、雨で前髪が張り付かせた草臥れた表情の男性が立っていた。雨の音が耳元でざわついた。
「種島、いや雄大……お前の本当の父親は私なんだ」
金槌で殴られたような眩暈がして、平衡感覚を失いかけた。電灯の光が遠ざかり、漆黒の闇が視界を覆う。目に力を込めて、二本の足で地面に踏ん張った。なんとか正気を保った。
「雄大にも、伯父さんや叔母さんにも迷惑をかけてしまった」
「なにを言っているんですか」
僕の声が聞こえているのか、聞こえていないのか岩谷本部長はゆっくりと語り始めた。
「お前は私と妻、早苗の長男として生まれた。私が二八歳、彼女が二七歳のときだった。持病も、大きな怪我をすることもなく順調に育っていった」
岩谷本部長は少し顔をしかめ、苦いものを口にしたように言った。
「あの日から十八年が経つんだな」
僕がもうすぐ一歳の誕生日を迎えようというときだった。僕と両親の三人は片町商店街で買い物をしていた。二つの車道に挟まれるようにして伸びるその通りは、片町ストリートと呼ばれ、金沢市内はもとより県外からも観光客が訪れる有名な商店街だった。通路の左右にはファッションや飲食、雑貨を扱ったテナントが軒を連ね、休日となればカップルや家族連れ、若者たちで大いに賑わった。
岩谷本部長は、僕の乗ったベビーカーを引いた母の横に並んで歩いていた。
昼下がりの麗らかな日差しが降り注ぎ、桜の花が芽吹き始める季節だった。空はこの地方では珍しいといえる日本晴れが広がっていた。往路を行く人たちは皆が日常の平穏を味わっていた。
「アーケードの向こうから歩いてきた白いマスクと黒いキャップを被った男が急に私たちの前で立ち止まった。人で賑わっていたことでたまたま鉢合わせしてしまったのだろう。私が道を譲ろうとしたたとき、唐突に男が襲いかかってきた」
岩谷本部長はそう言うと、下あごを持ち上げた。記憶を探り、奥歯に力を入れているようだった。
辺りではどよめきと悲鳴が広がった。父は男の両手を捕まえた。その右手にはナイフが握られていた。
鮫のように鋭い目の男は、よくもうちの組の者を……、とドスを効かせて唸った。その言葉にぴんとくるものがあった。
警察官であった岩谷本部長が所属していた金沢中警察署が先日、金沢市内のある暴力団の一斉摘発を行った。暴力団が入店していたテナントビルは、麻薬取引の温床として管内では予ねてから問題視されていた。
「摘発は成功したが、名簿に記載されたある一人の男の姿が見当たらなかった。襲いかかってきた男は摘発を免れた残党だった。どうやって調べたのかは分からないが、私に恨みを抱いていた。だが私はその摘発の捜査のグループには加わっていなかった」
「じゃあ、復讐をする相手としては全くのお門違いだったんじゃないですか」
「私にも関係がなかったとはいえない。摘発を決めた組織に属する一人なんだからな。それに恨みを買うのは職業柄、日常茶飯事だ」
「一人の警察官に危害を加えたって、なにも解決しないじゃないですか」
「そのとおりだ。だがそんな理屈が通じる余裕はなかった」
男は憎しみに満ちた表情で、押さえつけられた両腕を解こうともがいていた。憎しみはによって増幅された力により、ナイフと岩谷本部長との距離をぐいぐいと縮まっていった。警察官としての体格、経験を習得していた岩谷本部長でも動きを封じることで精いっぱいだった。脂汗が顔じゅうから噴き出していた。
父と男の周りを取り囲むように少し離れ人の輪ができていた。恐怖心に少しの興味が混じった野次馬精神で事件の成り行きを傍観していた。
男は獰猛な目線を岩谷本部長から逸らした。その先には、恐怖により腰を抜かした母が逃げ遅れたままベビーカーの横で呆然と座り込んでいた。彼女に手を貸そうとする現場の取り巻きは誰もいなかった。
男は母を見て黄色く黄ばんだ歯を覗かせた。恨みを晴らす本来の目的を見失い、殺戮の狂気を求めていた。
男が母に気を取られたその一瞬の隙をついて、岩谷本部長は男の右手からナイフを奪おうと力を込めた。自分が倒れれば真っ先にナイフの刃先が向かうのは母と幼い息子に向かうと直感したからだ。
男は必死に抵抗した。岩谷本部長は拳の上から身体を覆い被せるようにして、抵抗に負けない力でナイフを捻った。
ずぶりと何かに沈み込む嫌な感触が岩谷本部長の手のひらに伝わった。
はっとして男を見ると、獰猛な鋭い目線は虚空を見つめたまま停止していた。人の輪は時間が止まったように固唾を呑んだ。
男はがくんと膝を地面につけ、横向けに倒れた。胸にはナイフが突き刺さり、ぴくりとも動かなかった。それを合図におびただしい数の野次馬の悲鳴やどよめきが蘇った。
「喧騒が飛び交う中で、後ろを振り返ると、床に座り込む妻がいた。その眼差しは安堵ではなく、まるで犯罪者を見るような軽蔑を備えていた。」
「そんな、正当防衛じゃないんですか」
「それを裁判で訴えても無駄だった。私は殺人罪で有罪となった。犯罪者の妻という烙印を押されることに耐えられなかったんだろう。妻は母親の権利を捨てて、家を出ていった」
一度の犯罪で簡単に手のひらを反す人間がいること、それが自分の実の母親であることに悲しみを通り越した深い失望が胸に宿った。
「私にも雄大を育てることはできなかった。そこで妻の姉夫婦にお前のことを引き取ってもらえないか相談したんだ。姉夫婦は過去に流産を経験しており子宝に恵まれなかった。すでに子どもは諦めていたらしい」
「二人はどんな反応でしたか」
訊ねながらすでに答えがわかっている問いかけをしたことに自分が馬鹿らしくなった。
「喜んで引き受けてくれたよ。叔父さんは血の繋がっていない赤の他人だったが、『義妹とあなたから生まれた子どもであっても関係ありません。息子同然に厳しく育てていきます』そう聞いて、安心して雄大を任せることができた」
僕は唇を噛んだ。真っ先に叔母夫婦に謝りたかった。僕が彼らから差別を受けたことは一度もなかった。幼い頃から特に身の回りの整理整頓については厳しく、部屋が散らかっていようものなら本当の息子同然に叱って接してくれた。
叔父と叔母は偽物の両親を演じ続けていたのだ。両親だと偽り、事実を告げられなかった心の痛みは想像もできなかった。
浅はかな暴力で殴りつけ、罵詈雑言を浴びせたあの日以来、避けるように口を聞かず、目も合わせなかった。高校卒業後、妄年取締隊入隊に託けて一人暮らしを始めたのは、彼らから早く離れたかったからだ。
後悔してもやり切れない鈍い痛みが心を締めつけた。
岩谷本部長は抱えていた心の荷物を下ろすように、慎重に言葉を紡いでいった。
「二人と約束をしたんだ」
「約束……」
「いつか私が雄大に本当のことを話すまでは、雄大の過去について、そして私については一切喋らないでほしい、と」
父の事件は僕の育った地元では知れ渡っており、殺人者の息子を引き取った叔母夫婦も奇異な視線を浴びせられたに違いなかった。二人は近所を一軒一軒廻り、丁寧に事情を説明して、僕の耳には決して触れないようにしていた、と岩谷本部長は言った。
「刑に服しているときにはさまざまな受刑者と会った。彼らのなかには生活のためにやむを得ずに犯罪に手を染めたり、ほんの一瞬魔が差してしまい取り返しのつかない過ちをしてしまった人たちも少なからずいた」
メリケンサックの扱い方はそのときの受刑者に教えてもらったという。説明する受刑者の目は犯罪者特有のものではなく、得意げに話す子供のような純粋さを秘めていたらしい。
「彼らと接するうちに犯罪者の中には少なくとも完全な極悪人ばかりがいるわけではないことに気がついた。彼らはなぜ犯罪をしてしまったのか。それを防ぐことができなかったのかと常に考えていた。そんなときに妄年取締隊のことを知った。私が出所したのは妄年取締隊が発足したちょうど一三年前のことだった。発足したばかりの妄念取締隊は隊員不足で、私は三三歳という年齢でありながら第一期生として採用された。そんなときに思いがけないことがあった。あれは、四年前のことか」
四年前と聞いて、嫌な予感がした
言わないでくれ――心の叫びは、制止を求めるが、声帯が固まったように声が出ない。香林坊から聞こえる喧騒が遠のく。
岩谷本部長は躊躇いながらもその一言を発した。
「妄年取締隊金沢支部で、雄大、お前を見たことだ」
錆びた鉄の苦味のような不快が口の中に広がり、僕は水浸しになった歩道のコンクリートをじっと見つめた。
聴覚が麻痺したかのように音が耳に入って来なかった。
代わりに暗闇の自室に篭った僕の耳に聞こえた、あの日の音が入ってきた。
ドアががちゃりと開かれた。廊下の光と三人の男性が部屋になだれ込んできた。暴れる僕を押さえつけ、手錠を嵌めると、鞄から取り出したキャップを僕の頭に被せた。
「怖がらないでください」「これから眠くなりますがそのまま安静にしてください」「落ち着いて、私たちはあなたの味方です」などと矢継ぎ早に言う男性三人は僕と同じキャップを嵌めていた。両親はドアの外に立って、心配そうに部屋の様子を見つめていた。
目を閉じるよう指示を受けたが、無理して睨みつけた。三人は目だけで黙認すると、がおもちゃのような作りのリモコンを一斉に取り出し、それぞれスイッチを押した。
途端に頭の思考が曖昧になった。凶暴な感情は睡魔に抗うことができず、眠りに入る穏やかな意識に変わり、瞼は自然に閉じられていった。
目を覚ますと、病院のベッドで仰向けになっていた。かなりの時間が経ったように思われたがどれぐらい経ったのかが実感がなかった。
ほどなくして病院から退院すると、車に乗せられ、金沢駅方面の大きなビルの前で降りた。四階に連れていかれ、そこでカウンセリングを受けた。
僕は心中に蟠った境遇や辛かったこと、苦しかったことを吐露した。担当についてくれたのは穏やかな印象の女性だった。頷いたり相槌を打ったりして僕の話を聞いてくれた。専門的なカウンセリングらしきことは施されなかったが、僕を肯定する優しい言葉は、僕の長年の心の傷を優しく包んでくれた。
学校に通いながら、シャドーマンを駆除してから一ヶ月ほどはカウンセリングのため金沢支部を訪れた。
担当の女性とは何でも話せる仲となり、最後のカウンセリングを終えたが、シャドーマンを駆除してあとに芽生えた小さなしこりは残ったままだった。決して犯罪や自殺の衝動には至らないが、心の片隅から離れることはなかった。
。目の前の白い天井を見ながら考えていた。
一体僕と細道は何が違うんだろう。
岩谷本部長は声の調子を落として言った。
「刑に服している間も出所後も雄大のことを忘れた日はない。患者様が一から人生をやり直す前向きな姿を見て勇気をもらったが、雄大に会う決心はつかないままだった。叔母夫婦と連絡を取り、近況を知りながら姿は見えないが心のなかで成長している雄大を思い描いていた。そうして調子のいい一端の父親気分を味わっていたんだ」
「岩谷本部長……」僕はなんとか声を絞り出した。
「ある日を境に雄大が口を閉ざすようになってしまったと、叔母さんから連絡を受けた。きっと私のことが関係しているだろうと確信した。そのときに対処しておけばシャドーマンが出現するほど雄大を苦しめることはなかったのかもしれない。取り返しのつかない事態になるとわかっていても、雄大が私のことを元殺人者だと軽蔑し、父親の縁を切られるんじゃないかと思うと、向かう足は動かなくなった。何度躊躇したかわからない。父親の縁を切られるかもしれない恐怖からなにも行動を起こせなかった」
岩谷本部長は涙声になり、平身低頭した。
「本当にすまなかった。最低の父親だ。いやそもそも父親と言う資格はないのかもしれない。金沢支部本部長なんて威厳のある肩書とは無縁の情けないほど弱い人間だ」
決意しては躊躇して打ちひしがれる痛みを何度も繰り返し、二十年以上もその重荷を背負って生きてきたのだ。僕は怒る気にも許す気にも到底なれなかった。
胸がきりきりして呼吸が苦しい。雨粒が追い討ちをかけるように僕の身体に打ちつける。
「細道には感謝している。雄大と過ごしてくれたこと、それと――」
先日とは打って変わって細道を擁護し、慌てて語尾を濁した。
心なしか少し穏やかな表情を見せる岩谷本部長とは対照的に、僕は黒々とした暗澹たる気持ちに全身を支配されていた。
彼の告白によって、ずっと隠し続けていた臆病な自分が顔を出し、対面せざるを得なくなった。細道という言葉に全身を緊張が走った。
僕は殺人犯の息子としての息苦しさを抱きながら信頼できるはずの両親に打ち明けず、居心地の悪さだけを募らせていた。
教室では一人ぼっちで、周りの憐れむような視線による恥ずかしさが少なからず僕を苦しめていた。五年間を無為に過ごし、これからもこうなのだと思っていた。
だが僕と同じように孤立していた細道は違った。エアガンを眺めたり、高校の数学の教科書を眺めたり、ゲームセンターで高校生を打ち負かしたり、公園でエアガンをぶっぱなしたりと、興味のあることには夢中で、何の邪心もなく自分の世界を確立していた。悪い噂を流したり誰かに危害を加えたわけではないのに彼は一人ぼっちだった。それでも細道にとってはどこ吹く風だった。
彼に抱いた羨望がゆっくりと嫉妬に変わっていったことを自覚せざるを得なかった。
自分が孤立していることについて、細道がくだらないと一蹴し、考えすぎだと戒めた発想を変えるための貴重な意見を、いい加減に突き放す厭味だと邪推した。
細道家の玄関前で出迎えてくれた彼の母。驚きを見せた表情には細道への愛情が溢れていた。父親について話す細道が見せた悲しそうな表情は、感情を滅多に出さない彼の意外な一面だったが、細道には本当の両親がいる。
僕は偽物の両親に裏切られた。その失意が引き金となった。
――細道を殺したい。
僕はふつふつと湧いてきた呪詛に満ちた恐ろしい心の声を自室で確かに聞いたのだ。
教室で、家庭で孤立していた僕に新しい世界を教えてくれた。そんな孤独な僕を救ってくれた彼に殺意を抱いてしまったのだ。
シャドーマンを抱いた僕は、妄念取締隊によって駆除されたが、それですべてが解決したわけではなかった。殺人や自殺の衝動が起こらない限りシャドーマンは出現しない。これは間違いないが、シャドーマンが出現しないからといって苦しまないことはない。他人には理解されない些細な悩みを誰もが抱いている。
シャドーマンの駆除から学校に復帰したとき、細道から僕は目を逸らしてしまった。彼は数日間の僕の不在を特に訊くこともなく、あっけらかんとしていた。
彼の態度を見ると、僕の決意はこの日常を壊すのを恐れ、急速にしぼんでいった。
なにを躊躇しているんだ、と自分を罵倒した。ただ一言謝ればいいだけなのに、その一言が喉元で引っかかり、何回数えたか分からない後悔を重ねていった。それでいいのかという自分への問いを無視し続けた。
出会ってからこれまで中学を卒業したあとも、後ろめたい気持ちなどおくびにも出さず、以前と変わりない親友として過ごしてきた。
あわよくばこのまま細道に殺意を抱いてしまった一切を告げず、親友の仮面を被ったままやり過ごそうとさえ考えていた。勇気のかけらさえない。とんだ卑怯者だ。
僕に比べ、岩谷本部長はどうだろう。彼もも僕と同じように苦しんでいた。真実を告げたいが叶わない。そのもどかしさは痛いほどわかる。
岩谷本部長はこの日、勇気を出して弱いもう一人の自分に立ち向かい、一歩を踏み出した。
もう恐れることはない――僕は過去の自分に手を振った。苦しみと後悔を抱えた自分は急速に遠ざかっていった。
耳に夜の繁華街の賑やかな喧騒が蘇ってきた。平日の夜は宴を満喫する酔客たちで賑っているだろう。
片町二丁目のスクランブル交差点は、車と人が押し合いへし合いし、交差点の各所には全身黒ずくめで髪を金髪に染め上げた若者やおじさんがいる。風俗店の呼び込みの話術に一人また一人と引っかかり路地裏に消えていく。
賑やかな夜の街は僕の知らない世界がある。
岩谷本部長を父と認める実感はまだない。だがいつかはその人ごみに紛れ、一緒に歩く日が来るのだろうか。腹を割って話す日が来るのだろうか。まだ想像もできないがこれまでの空白の時間を少しずつ埋めていきたい気持ちは確かにあった。僕のこと、父のこと、これからの二人のことを話したい。
雨に打たれ続けたことで熱が奪われ頭が冷えたからか、むくむくとある疑問が頭をもたげた。びしょ濡れの傘を拾い上げて、さりげなく訊いてみた。まだ父と呼ぶには躊躇してしまう。
「そういえば、岩谷本部長はどうしてここにいたんでしょうか」
「ん、それはまあ、たまたまここにいただけだよ。たまたまな」
僕に倣って傘を差した。落ち合ったときに比べれば幾分ぎこちなさは和らいでいたが、びしょ濡れの大男の自信が欠けたような回答は歯切れが悪かった。
何かがひっかかった。僕は何を見落としているんだ。
携帯電話を取り出し覗いてみた。メールの発信者は大西主任になっていた。
.第四章
第四章
土砂降りだった昨日とは打って変わって、雲ひとつない快晴が広がっている。天気予報どおりの梅雨明けの快晴となった。
通勤者でひしめくバス車内はぎゅうぎゅうで、吊皮に掴まるのも大変だった。窓越しに降り注ぐ明るい日差しに目を細め、僕は欠伸をかみ殺した。
「種島君がこんな時間に来るなんて珍しいね」
戦闘部オフィスで席に着くなり、正面の席の大西主任があいさつ代わりにあしらってきた。
壁時計を見ると、針は朝礼が始まる五分前を指していた。社会人としてだらしないと思ったが、昨夜自宅アパートに到着したのが深夜二時でそこからの睡眠時間を考慮すれば遅刻ぎりぎりの時間に出社したのも妥当ではないか、と思った。
「昨日、僕にメール送りましたよね。それに返信を無視しましたよね」」
「いや、送っていないよ。返信を無視した覚えもないしそもそも――」
「携帯電話を貸してもらってもいいですか」
「おいおい、一体何を慌てているんだい」
大西主任はいきなり身に覚えのない話をされて、虚を突かれたようだ。その目には確かな困惑の色がぼんやりと浮かんでいた。
「少しだけでいいですから」
僕が有無を言わせぬような態度を取ったからだろうか、大西主任は訝しがりながらも席を立ち、僕の隣の空席に腰を下ろし、プライベート用の携帯電話を手渡してくれた。
自分の携帯電話を取り出し、大西主任のアドレス宛にメールを送信してみた。僕の携帯電話には送信完了の文字が出た。
しばらく待っても大西主任の携帯電話はメールの受信を知らせる画面の変化はなく、無音のまま手の平に収まっていた。
「昨日は電源が入ってましたか」
僕は二つの携帯電話を何気なく見比べて、操作していた。
あっと声が漏れそうになるのをなんとか堪えたところで大西主任に携帯電話をもぎ取られた。
「一体どうしたんだよ。昨日、電源はちゃんとついてたし、種島君にメールも送っていないよ」と、一気にまくし立てた。
その眼差しは大真面目で、嘘を吐いてなどいなかった。
やはりかと、僕は疑いを確信へと変えた。
大西主任は僕に顔を近づけた。「それで例の件はどうなった?」と、少し声を潜めた。
大きな不安を抱えながら例の計画を伝えた。
「いいじゃないか」
大西主任は予想に反した喜色満面で応えた。
「本当ですか」
「うん、ありがとう。種島君に頼んで正解だったよ」
そう感謝の意を述べて、両手で僕の手を強引に握ってきた。ぐっと力が入っている。
こんな馬鹿げた発想のどこがいいのだろうか。受け入れる価値があるのかないのか判断できないが、当人が納得しているのならそれでいいのだろう。僕が手を貸せるのはここまでだ。一つの事業をやり遂げたようなため息が漏れた。
「朝礼を始めるぞ」
岩谷本部長の号令を追いかけるように戦闘部オフィス内で、はいという声が一斉に響いた。
奥の窓際のデスクに座る強面の表情には眠気もなく、何事もなかったかのように落ち着き払い、本部長の風格を漂わせていた。
朝礼が始まり大西主任が立ち去っても、僕の隣の席は空いたままだった。
玄関口の自動ドアをくぐり、金沢支部に戻ってきた。先輩隊員の指示に従い行動しているおかげで、暴走することなく午前中のシャドーマン駆除を終えた。
僕と同じように業務を終えた戦闘部がちらほらと見受けられた。人の間を抜けて、一階ロビーの目的地へと進んだ。
男子トイレに続く廊下はきらきらと光っていた。中では、バケツを傍らに置いて、せっせとモップで床を磨く献身的な細道がいた。
細道は僕の姿を認めると、とたんにげんなりした。
「規則を破ったペナルティーで管内のトイレ掃除だよ」
東京本部の視察が入るこの日、反省の誠意を見せつけるために丸一日行わなければならないらしい。朝礼の始まる前に出勤するように岩谷本部長に命じられたらしく、全くついていないよ、と当人は反省の欠片もなくぼやいた。
「自業自得だろうが」細道に慰めは無用だった。そんな言葉をかければ調子に乗って碌なことにならないのは目に見えていたからだ。「そういえば、昨日偶然お堀通りで岩谷本部長と会ったよ」
さり気なくそう言い、細道の様子を伺った。まるで聞こえていないように素知らぬ振りで、懸命にモップの連続運動を続けていた。あくまで白を切るつもりらしい。
「あのな」
僕が口調を荒らげて詰め寄ったとき、「暴力はよせ」と言い、さっと両手を前に出した。モップがからんと音を立ててタイルの床に倒れた。
きっかけは今朝、大西主任と僕の携帯電話のメールアドレスを見比べたときだった。大西主任の携帯電話に記載された彼のメールアドレスの頭には、oonishiとあった。 ところが僕の携帯電話のものは、メールアドレスの最初のoがaになっていたのだ。アオニシ主任では人違いにもほどがある。大西主任とは赤外線通信でメール交換をしていた。 間違って登録されるはずはない。誰かが意図してスペルを変更する以外にはありえなかった。
では、一体いつそれが行われたのか。
つい先日、僕が大西主任の件を相談するために、細道と金沢駅近くの商業施設で食事をしたときのことだ。僕がトイレから席に戻ってきたとき、机の上に載せておいた財布の横に携帯電話が置かれていた。細道にトイレの内容が大便であることを周りの客に聞こえそうな音量で茶化され焦ったことで、その異変に気がつかなかった。
僕は普段は財布の中にプライベート用の携帯電話を入れている。財布にすっぽりと入る収まりがいいのでそうしているだけだ。
細道が僕の携帯電話に入っている大西主任のメールアドレスを書き換えた手際の良さは見事だが、財布に戻し忘れた爪の甘さが、細道を裏付ける推理へと結びついた。
僕が秘密裏に遂行された暗躍を暴くと、目の前の清掃青年は肩をすくめ、破顔一笑した。
「おっしゃるとおり。五年間の付き合いなのに俺もうっかりしてたな」
細道の携帯電話には予め大西主任の偽のアドレスが用意されていたのだろう。そうでなければ大西主任の偽のアドレスに送ったメールはエラーとなり、細道も返信することができない。ということは単なる思いつきのいたずらではなく、計画的な犯行だったことになる。
「いや、本当は俺から話すつもりだったんだ」
ぺろりと舌を出し、得々として語った。
「二日前、親父が研究室から久しぶりに自宅に戻ってきたんだ」
細道の父が自宅に帰ってくることは滅多にないということは、以前に細道から聞いた。そんな父を見て、訝しんでいると、家の玄関を潜る彼の背後から岩谷本部長が姿を現した。予期せぬ訪問者に細道は首を捻った。
僕は細道と似た顔が玉すだれから出てきたあの衝撃を思い出していた。細道の父とはそのときに初めて会い、僕の父と細道の父が懇意の仲であることを知った。二人が会うことに別段の驚きはなかった。
規則違反により激しい叱責を受け、へそを曲げていた細道は岩谷本部長に一方的な恨みを抱いていた。書斎から漏れ聞こえてくる岩谷本部長の声の重い響きからして深刻な相談事だと踏んだ。
「ここで岩谷本部長の弱みを握っておけば、何かの折りに利用できるかもしれない、って思ってさ」
岩谷本部長に対しては相手が悪かった不運としか庇いようがなかった。
そのような道理外れの理屈で細道は書斎のドアに静かに耳を押し付けたのだ。
「うまく聞き取れなかったけれど、『雄大と二人きりになる機会があったのに結局切り出せなかった』と岩谷本部長が俺の父に言っていたやり取りは聞こえた。そこで俺の登場だよ」
細道は書斎の扉を勢いよく開けた。
「な、なんでお前がここにいるんだ」と、岩谷本部長が仰天する傍で細道の父は呵呵大笑して「俺の息子だよ」と言ったそうだ。
「二人は古くからの知り合いで、お互いの忙しさから、十五年ぶりに会ったらしい。岩谷本部長は後悔の堂々巡りで、親父も取り付く島がないと手をこまねいていた。だから岩谷本部長に代わって、岩谷本部長と雄大を二人きりで会わせる計画を親父から一任されたんだ」
「お前の親父に決定権はないだろ。親子揃ってなんていい加減なんだ」
へへっと人差し指で鼻を擦る細道を睨みつけた。
「しかも考えついたのがあれか。お前は偶然の再会の感動を狙ったのかもしれないけれど、あれじゃただのドッキリだ。こっちは大西主任にデートプランを提言しに行く心構えだったのに」
「それも俺のアイデアじゃないか」
「うるさい」
反論できないところを突かれて投げやりになってしまった。
「終わりよければすべてよしだよ」
うんうんと頷き、モップを拾おうと腰を下ろしたところで、僕が突っ込んだ。
「親父が研究室から、って言ったけれど、何かの研究をしているのか?」
細道は重い荷物を持つ前の気合の入ったような姿勢のままで、ぴたりと停止した。下半身を小刻みに震わせているのはその辛さからだけではなさそうだった。
「やばい」というような一瞬の苦悶の表情を僕は見逃さなかった。
その場を去ろうとした彼の肩に手をかけた。声を低くしてもう一度同じ設問を威圧的にした。
「話しに熱が入ってつい失念してしまったな」と言い訳がましく呟き、「これは一部の人間しか知らない国家級の機密事項なんだ。口外するべからず」と真剣に前置きした。
細道の父は科学者として、長年人々の潜在意識についての研究をしていた。彼が説いた発見や発明はどれもが世の中の役に立たない奇抜なものばかりで、研究者の間ではマッドサイエンティストと嘲笑されていた。そんな境遇にさらされながらも彼は自身の研究を推し進め、ある大発明をしたのだ。
それが妄年装置である。当時、上昇を続けていた青年少女の犯罪、自殺件数の増加に一役買えるのではないかと考えた細道の父は、専門チームを立ち上げた。
犯罪や自殺の衝動を起こすシャドーマンや妄念空間という深層心理に潜入できるまでに改良を加え、シャドーマンからターゲットを救う使命を司る妄念取締隊が設立するきっかけを生み出したのだ。
僕はあまりにも次元の大きすぎる非現実的な細道の言葉を呆然と聞いていた。
「俺は親父の開発した妄年装置をさらに進化させる。妄年空間での移動を音速にして、少しの想像力で素早く強力な武装ができるまでに改良したい。実際の妄念空間でいろいろな経験や知識を積まないと改善点がわからない。そのために妄念取締隊に入隊したんだ。将来は隊員もターゲットにも負担をかけずに安全にシャドーマンの駆除ができる未来を作っていきたい」
機密事項なのに細道がこれほどまでに饒舌なのは、僕の脅しを抜きにしても自分の信念を信じているからだろうか。荒唐無稽な理想でも彼が言ったことならなんでも実現できそうだ。力強さのこもったその姿に勇気をもらった気がした。
僕は決意が鈍る前に口を開いた。
「細道に謝らなければならないことがあるんだ」
細道は僕を見据えている。僕の視界は細道一点に絞られ、周りの背景が曖昧になった。
「僕が中学二年のときに学校を三日休んだことは憶えているか。じつは細道に殺意を抱いた感情からシャドーマンを抱いて、その駆除で入院していたんだ。ずっと言おうとして今まで隠してきたんだ。ごめん」
僕は頭を下げた。その数秒が何十秒にも感じられた。男子トイレ内は音の概念が消滅したように静かだった。顔を上げて、元の姿勢に戻った。
予想とは違い、細道は緊迫した場にそぐわないあっけらかんとした表情だった。
「俺は雄大に殴られたことも、刺されたこともない。謝る必要なんてないだろ」
僕は身体の芯が硬直したように、固まった。 心に沈んでいた重圧から解放され、身体が軽くなり、ついで鼻の奥が熱くなった。
彼の不器用な琴線が僕を鼓舞し、不思議なメロディーを奏でた。細道に気づかれないように背を向けて男子トイレを出た。手の甲で目元を拭った。
「種島君」
痕跡を急いで片付け、聞き覚えのある女性の声に俯いていた顔を上げた。
森里さんがこちらに歩いてきた。相変わらずスタイルがいい。
その横で、小さな少女がいた。道重だった。
シャドーマンを駆除する前に比べて血色は良くなり、体調も回復したように思われた。
様子を伺うように男子トイレの入り口から細道が出てきたところで、森里さんは道重から離れた。僕と目が合うと、ウインクをした。
偶然の遭遇の最初はお互いのぎこちない会釈から始まった。
「久しぶりだね」
「そうだな。もう身体は大丈夫なのか」
「うん。この日が最後の通院なんだ。あたし、キャバクラを辞めて、一から再出発するつもり」
そう言って、小さく笑みをこぼした。
「お母さんとも少しずつだけど前みたいな会話ができるようになってきて、身体の調子も日を追うごとによくなっているみたいなんだ」
うきうきするのを抑えられない別人のように道重はしゃいでいた。その姿が単純にうれしかった。
「それでね、私、お父さんに会おうと思ってるの」
道重の母は離れて住む元夫の住所を知っていた。隠していたというのではなく道重が知る必要はないと判断し、あえて明かさなかったのだ。
「そもそも時間が経ち過ぎたし、今更会ったところで何かが好転するわけじゃない。でも会って一度話をしなきゃいけないと思うの。不安もあるけどそれが私のけじめのつけ方だから」
「道重なら何があってもきっと大丈夫だよ」
「あたしがこうやって生きているのも種島や森里さんのおかげよ。あとあの悪魔のお兄さんもね」
小柄な柔道娘は優しい眼差しを向けてこう言った。
「私を救ってくれてありがとう」
涼しげな微笑みを堪えて、僕の元を離れた。
少し歩いたところで、何かを思い出したように身体ごとこちらに振り返った。
「ふごぉ」
手のひらで口元を覆い、そのあと茶目っ気たっぷりに照れ笑いをした。
くるりと反転し、往来がまばらになった一階ロビーの玄関の自動ドアに向けて再び歩を進める。
と、
長くじめじめとして鬱陶しい時期がようやく終わった。梅雨明けは清々しい。雨の多いこの地方では特にそうだ。
一階ロビー上部の嵌めこみの窓からは陽光が爛々と彼女に降り注いでいた。暗雲から脱した希望の光を受けた彼女の肩からは透明な羽が生えていた。
妄念空間で聞こえた道重の悲痛な声は、同じ境遇にいた魂のつながりが起こした偶然だったのかもしれない――どこまでも自由に羽ばたけるような彼女の後ろ姿を見て、そんなことを考えた。
「なんだあれ。変なの」
細道が横やりを入れてきて、僕はむっとした。森里さんはくすくすと口に手を当てて僕たち二人を見守っている。
「雄大は以前、妄年取締隊は本当に必要なのかと言ってたな。答えは簡単だ。俺も雄大も彼女も妄念取締隊に救われたじゃないか」
僕は身体が痺れるのを感じた。妄念取締隊に入隊したことは間違いなどではなかったのだ。
「東京本部から視察に来たやつらだ。場所を変えないと」
細道はそう言い残し、掃除用具一式を持ってそそくさとこの場を離れた。
突然、森里さんが肘で小突いてきて、僕は飛び上がりそうになった。
「どうしたの、ぼーとしちゃって……わかった。道重さんを好きになっちゃったんだな。直接会いに行きなよ」
「ち、違いますよ。勝手な解釈をしないでください」僕は毅然としてそう答えた。
まるで道重と入れ替わるようにして大西主任が自動ドアを通過してきた。
森里さんに気がつくと、「森里さーん」と恥も外聞もなく駆け寄ってきた。デートプランを早く伝えたくてたまらないのだろう。
「細道君から楽しみにしててくださいって言われたの。いい意味で二人の記憶に残る記念日になればいいな」
遠目からでもわかる弛緩した表情の大西主任を見て、呆れながらも森里さんは溌剌としていた。
「どうしたの、にやにやしちゃって」
「いえ、別に」
八面六臂の計画を企てた細道の作戦は成功するのか。
僕は水滴が反射する男子トイレへと首を捻り、小さく笑った。