02下.南征
資源権益に影響を与える事件は223年に起きる。この年、劉備が白帝城で失意のうちに死んだ。すると見計らったかのように大規模な反乱が起きる。
後主伝には反乱を起こした四つの郡とあるが、実際は益州、牂牁、越巂の三郡である。
蜀の主導権を与えられた諸葛亮は、これを対処しなくてはならない。反乱が起きたのはどこも南部の資源地帯だから無視はできないのだ。
すぐさま最古参の武将で五虎将軍最後の一人趙雲が征南将軍に任命されたが、実際の軍事行動は225年のことだった。その上、趙雲が出征したという記述も無い。演技ではそれを考えてか彼を病気にしてしまった。
空白の二年間は、国力の回復というよりはむしろ呉との和平工作に当てられている。223年、蜀は馬200匹に錦1000匹、および特産物を呉に送ったという。翌年には呉からの返礼として特産品が送られ、また再び蜀が使者を送る。
蜀呉同盟は成立した。その蜀の特産品というのには三国志方技伝にミョウガが、それ以外にも山椒や生姜のように辛いものが蜀都賦に挙げられる。甘味の果物も多く書かれているが、そういった果樹の原産は大抵華北のようだ。
国力を考えるとき大抵はGDPを使うが、近代以前のGDPには人口が大きく影響する。人口は農業に依存するのだが、蜀の農業についてはよく分かっていない。鉄製農具の使用と牛耕は始まっていた筈だが、中原とどの程度差が有ったのか分からない。
ただ人口については分かっていて、国内人口は劉備の即位したときの90万人から亡国までに94万人に増えたと史書に有る。戸数はその倍増えて、一戸当たりの人口は4.5人から3.3人にまで落ちている。後漢時代を通じて一戸家庭は平均5人だったのが大きく減った理由は明示されていないが、3人家族型の住居は史跡に有り、晋書のそれと違って安易に算出方法の問題と看做すことは出来ない。
呉蜀の和解が反乱の推移に影響する。益州郡で反乱を起こした雍ガイは、益州太守正昂を殺した後、呉と好を通じていた。益州郡の南には呉領の交州が有る。そこの交州刺史士燮の計略により、呉から永昌太守に封じられたのだ。このときついでに劉璋の息子の劉闡が益州太守にされているが、明らかに傀儡だから重要ではない。
以来、雍ガイは呉の支援を期待して、永昌郡を手に入れようと動き出した。永昌の北には越巂、東には益州がある。両方とも反乱が起きているし、南と西は蛮族の領土である。
しかし永昌では地元出身の官吏である呂凱が郡民を集めて抵抗していて、独力で落とす機会は得られなかったという。
さらに呉蜀の和睦が成立することで、雍ガイは呉を頼りにできなくなる。戦い続けることのできなくなった雍ガイが身を寄せたのは、彼と同時期に蜂起した異民族だった。
南中の異民族は、叟族或いは青羌といわれる。叟族について後漢書には呂布や劉焉が兵士として利用していたことが書かれている。
南中の領域は華陽国志にあり、庲降都督の統治下にある夷越の土地のことを示す。夷越は史記にある夜郎などの国家群のことだが、三国時代にはもう滅んでいる。
彼ら叟族の生活圏を現代のものにあてはめるとイ族の居住地が該当するが、当時はその類縁のナシ族と呼ばれる少数民族が住んでいた。資料によれば華陽国志にある叟の習俗は、現代のイ族の習俗にほぼ該当するという。もちろん彼らがジャングルに住んでるわけも無く、中国西南部の高原地帯で農耕生活を営んでいた。何処かにはタイ系と書かれているが、まあ別にどっちでもいい。
近くにテイ族の後継と思われるチャン族がいるが、彼らは羌族の類縁である。
蜀西部に居る彼らはかつて武都テイと呼ばれていた。成都に程近い汶山(汶川)周辺に住む多くの異民族部族の一つであり、諸葛亮の巧みな策で多くの土地を奪われたという逸話がある。また後の五胡十六国時代の一つ成漢に割拠した李特がこの出身であったと晋書に記されている。こちらの民族は半牧半農生活をしていて、強さを至上とするチベット系脳筋集団だった。
当時の漢族は土葬文化であり、羌族は火葬、どちらもその上に祠を建てる。于禁が降伏している様が描かれたのも祠であるから、今の曹操墓に見ることは出来ない。イ族は風化させてからの石棺葬である。
主食も異なり、順に米、高地向けのチンクー麦、稗だったという。漢代以前ならば漢族は南北で異なり、北は黍で、南は米だった。そして漢代になると華北では主に陸田を行い、江南では水田を行った。
南征の話に戻す。
李恢伝にはまず越巂に入ったとあるが、長江沿いに越巂へ行くにはまず朱提を通り、安上県に行く必要がある。それ以外の方法で越巂へ辿り着くことはできない。
朱提郡は銀の産地である。この郡の孟エンはその地で漢族からも信頼を得ている蛮族だった。成都西部のこの地域にはイ族もテイ族も居たから、どちらかは分からない。
ここでは特に反乱が起きたという話は無かった。
さらに進むと越巂郡に到達する。ここはイ族の居住地で銅と鉄を産出した。現代の地図では、塩辺とか塩源などの名称があるので塩もありそうな気はするが、当時は名称が違ったようだ。それに蜀の塩は成都南西部の平地で塩井を掘ることで生産されていた。
採掘業は殷周の頃は露天掘りだったが、遅くとも春秋時代から縦穴式炭鉱を掘るようになる。採掘は鉄器使用と汲み上げ機の発明によってかなり効率化されていた。
越巂の反乱者は叟族の高定元。郡の蛮族王であり、越巂太守の焦コウを殺して、反乱のきっかけを作ったという。前述したように、高定元の反乱は二度目である。
越巂太守は馬謖が任官されていた時期もあるから、このために李厳と比較されて、馬謖の失態が取り沙汰されることも多い。
しかし少なくとも二度目の反乱が起きたとき彼は既に越巂太守から参軍に移って入朝していたし、南征のとき諸葛亮の参軍になっていたのは楊儀だが、参軍自体は複数人がなるものだった。
それにこの後、240年頃に張嶷がやってくるまで越巂郡は安定しなかったようだから、これを全て彼の責任にすることはできない。
さて、諸葛亮が越巂郡に入ったとき、馬忠は牂柯へ、李恢は益州へと向かっていた。両方とも朱提からの水路分岐で辿り付けるように見える。陸路で行けば厳しい山岳地帯が待ち受けているが、そう主張することもできる。一応西南シルクロードの道のりが存在していて、牂柯を経由して益州に繋がり、永昌からビルマやインドに辿り付く。
牂柯郡の反乱は、郡の丞或いは太守の朱褒が起こした。朱氏は朱提郡の名家だというから、彼はその類だろう。元々目立つ資源も無かったようだが、その理由は私情に満ちたものだというのは疑わざる得ない。
益州には先に敗北した高定元が逃れてきていた。そして永昌攻めを諦めた雍ガイと合流するのだが、そこで雍ガイは高定元の部下に殺されてしまう。事情はわからない。
それから彼の軍勢は益州南西の昆明までやってきた李恢を包囲したのだが、水経注葉榆河には朱褒の軍勢であると有る。朱褒は反乱を起こした後、彼らと合流したのだろう。李恢が偽降計を用いて包囲を破ると、高定元は戦いに敗れて、成都に強制移住させられたとか諸葛亮に斬られたとかいう。朱褒がどうなったかは判らない。
ここには銅があり、鉄があり、錫があり、銀があり、鉛があった。隣り合う永昌には黄金もある。雍ガイは元々益州の豪族だから、この利益を地元の叟族と共に所有していたのだろう。
テン池まで至って南征は終わった。テン池は益州郡だから、ここにいる孟獲と相対することが最後の任務だった。彼は地元で名声の有る夷人で、雍ガイに騙されて反乱を起こし、雍ガイが死んでから周りに担ぎ上げられて首謀者になったというが、信頼は置けない。益州郡は資源に恵まれた地だから、どんな事情であれ異民族は叩き潰す必要が有る。
このとき馬謖の献策で、彼らを捕らえては解き放つことを七度繰り返した。相手を心で屈服させるという割とコストのかかる計略で、どうして評価されたのか判らない。地元で彼らの信望を失わせた結果、郡が混乱に陥るといった不安要素が生じる可能性だって有る。
大体馬謖伝には南方でもう反乱が起きることはなかったというが、越巂の所有権は長く失われたというし、まだ諸葛亮が存命の233年に牂柯郡で反乱が起きているし、はては南夷の大酋長とかいうのまで現れてくる。
後に孟獲と孟エンは成都に招聘され、それぞれ御史大夫(三公の司空と同義)と輔漢將軍(三公に次ぐ・非常設)に任じられた。どちらも間違いなく名誉職なのだろうが、彼らは高い官位と俸禄によって服属したのだろう。
南征の後、蜀統治下の南中で賦役と調税が課され、雍ガイが孟獲に忠告したとおり、異民族は金銀から牛馬まで供出させられた。支配による搾取を合理的に行うために、南中の諸郡は分割再編される。おそらく各部族の勢力範囲に基づいて。
そして十分な資材を得た諸葛亮は北伐を決行する。異民族に対する平和と統制と収奪は、次世代の武将張嶷や馬忠が担うことになった。後の姜維の北伐の際にも彼ら異民族の資材は利用されたというし、国内の疲弊はある程度抑えられていたかもしれない。
蜀が滅亡したとき、後主伝によれば蔵に錦は20万ほども有ったにもかかわらず、金銀は各々2000斤しか残っていなかったという。
三国時代には発明家馬鈞によって綾機が改良されたために錦生産量は数倍に増加していたから、その分、錦の価値は落ちたかもしれない。金銀の量が比較的少ないのはそのためだろう。