上.錦と黄金の益州
中国南西部の四川省、つまり蜀またの名を益州での採金はずっと昔から行われていた。青銅器に混じって黄金の出土品も存在する。現在、金は四川で産するが、後漢書地理志にも記されているように、2000年前からその存在は知られていた。
ここは鉄鉱も産したが、紀元前BC20世紀頃にはまだ鉄の加工技術はない。かなり早い時期に西南シルクロードから西アジアの鉄製品が伝来した形跡はあるが、技術そのものの移動は無かった。代わりに錫や鉛を多く産出したことから出土品には非常に精巧な青銅器が多くある。
古蜀はBC4世紀に、秦の攻撃を受けて滅んだ。
この頃、江東や山東では鉄器文明が始まっていた。偶然発見したのか、西アジアからの技術移入なのかは判らない。中国の鉄器文明は紀元前の文明の中では遅い方だし、江東の鉄器はそれまで無名だったにもかかわらず、急に高度なものが現れたから移入の可能性はあるように思う。しかし句践の剣のような埋葬特化の物品が戦闘用に使われたとは考えられない。何より出土品の多くが青銅であることから、古蜀を滅ぼした秦の主力武器は青銅だったともいわれる。
この二国に技術の優位性は無いと見る。かつて銅鉱脈の枯渇が都市国家の盛衰に関与していたというが、蜀にはそういった様子もない。これが意味するのは内情の弱体化である。華陽国志はその衰亡の理由として蜀王の兄弟争いを挙げている。
春秋戦国時代、蜀には巴国と蜀国があったが、巴は早くに弱体化して秦や楚の影響下に置かれていた。秦の恵文王の頃、蜀王の弟が巴に逃れたのを機に巴蜀の戦争が起きると、楚がちょうど無能の懐王の頃だったから、巴は秦に救援を求めた。恵文王は求めに応じて武将の司馬錯を派遣した。巴は蜀の東、そして秦は蜀の北だから挟み撃ちに遭うことになる。古蜀は滅ぼされ、巴は秦の属国となった後に消滅した。
炉の技術は秦の統一時代に伝わる。このとき華北から技術者の移住があったと史記にある。ただし実際の製鉄所遺構は漢代以降のものである。
漢代に鉄が国の専売品だったことは塩鉄論で知られている。前漢の武帝による拡張主義の賜物だ。製造品はみな官製だから実情に合わなかったともいわれるが、ともかく現地で奴婢によって採掘された鉄は郡県の中心地に運ばれてから、そこで同じく奴婢によって鋳造なり鍛造なりをされて農具や武器になった。その作業はすべて各地域に派遣された鉄官の管理下に置かれる。蜀には四箇所に鉄官が配された。特に成都西部、鉄を産出する越巂郡の辺りには三箇所も置かれていた。
金銀はというと権威の象徴であり、財貨の代わりであり、嗜好品だった。有名なところでは例えば印綬に用いられ、当時の日本にも贈られている。他にも後漢書輿服志によれば軍権に関わる鉞に使われたり、王侯の漆器や輿車などに金が用いられていたが、貨幣として利用されることは無かった。
金鉱からの採掘は蜀で、砂金の採取は山東で行われていた。そしてこれらの加工は、漢代において物資の集積地である郡県の中心地で行われる。金を産出する永昌郡の中心地は不韋県で、郡の南端に位置した。そこは蛮族の地である。漢代の頃はそこから河川を流通経路として使い、蜀郡や広漢郡で漆器に加工されたという。
金と並んで高い価値を持っていたのが錦であり、漢代においてその価値は万銭に相当している。褒賞の際には金銀と共に授与されることがあった。それは染色された絹織物で、漢代以降は蜀のものが特に優れていたと多くの資料に見られる。
現在、四川の工芸品になっている蜀江錦程には染色の幅は無かったが、節文解字によればそれでも十六色は有る。利用できる色の数は身分によって異なった。
生糸の生産技術は、数千年前から中国各地に分布していた。やはり労働力は奴婢によるが大規模な官営工場はなく、家庭内手工業として農村の土地所有者が所有する奴婢が用いられる。
しかし蜀の場合は大規模経営方式による絹織物生産が行われていた。この方式は資料によれば漆器にも見られることから、技術者を移住させることで生じた蜀地方の特性なのだろう。豪族に囲われた奴婢たちが、職工集団として斉一かつ上質な錦を作ったという。
そういった資源の輸出利益は後漢時代の経済的衰退および後漢末期の動乱によって失われる。
とりあえず前者の説明は省く。
劉焉伝によれば長安への道が塞がれていたという。劉焉の居た益州から首都の長安に行くには、漢中を通る必要がある。漢中といえば五斗米道の張魯だが、このときはその張魯を配下にして漢中太守の蘇固と戦っていた。戦いの最中に長安へ繋がる橋を切り落としたのだ。これが劉焉が反董卓連合として挙兵できなかった事情なのだが、蘇固と戦っていた理由についてはよく分からない。
その後、張魯が劉焉から離反して漢中に割拠した。険阻な地勢のほかに、五斗米道の教義に則り宿舎と食事を提供することで都を逃れてきた流民を味方につけて力を付けていった。
流民には長安からの者と、南陽からの者があった。彼らは平和な頃なら格安の労働力として、そして乱世の中では軍兵として利用される。ただし財貨を持ち、一族を引き連れる名望家はこれに当てはまらない。
劉焉の子の劉璋は流れてきた名士たちをたびたび登用していた。彼らが権威において蜀の豪族に対抗できるように縁戚関係を結ぶという入念な配慮が為された。また蜀の豪族に対しても積極的に登用し、危難の時には結束することができるほどになった。
こうして漢中の張魯が独立して巴西郡を襲い始めたときに一致団結することができた。そして張魯が曹操に攻め込まれた211年、劉璋が曹操に好を通じようとしたことで以って、その結束は崩壊した。
ところで西南シルクロードの方は雲南からインドを目指す経路で、当時はビルマ都市国家群の商人たちによって支えられていた。しかし蜀漢が西方へと遣使しなかった点から、その権益を掌握することはなかったように思う。
ちょうどその頃、赤壁の敗北によって曹操が撤退したことを受けて、劉備は荊州に残った残党たちを降伏させ、人材集めを始めていた。
荊州の中心地は南陽である。シルクロードの基点となった町の一つで、当時は宛県と呼ばれていた。漢代には南部の中心都市で、織物業や治金業が盛んだったという。資料によれば近くに鉱山は無かったようだから河川を利用した物資の集積・拡散地点だろう。郡県の中心地に充てられる専売システムとしての役割だ。
後漢書地理志によれば郡の人口は約53万戸で人口は244万人(140年)。晋書郡国志では著しく数が落ちて数万戸(280年)になる。
これは大量に出た戦乱難民の影響だとか、田の配給制度が戸毎から個人単位に変わったせいだとか、徴税単位が人頭税から戸毎になったせいだとか、税金逃れ目当てで元屯田農民が江南豪族の小作人に納まったからとか、調査時期が統一間もなくで正確なデータが取れなかったとか、色々なことが言われているが、長くなるので省く。
とにかく沢山の人口を持つだけあって、この地から輩出された人材は何人もいた。魏の文聘、蜀の宋預、呉の趙咨ほか十人近く。特に蜀の臣に多く、高官に登る者も多かった。
蜀の豪族は上り調子の劉備に白羽の矢を立てる。法正は蜀全てを得るには孫権の力を借りてはならないと主張していた。これと同じように漢中全てを得たいがために、曹操に力を貸して張魯を討伐するような選択は為されなかったのだろう。
対する劉璋は、曹操に攻め込まれた孫権の救援のために兵を求める劉備に、その希望した数の半分も与えない上に張魯攻めを要求するといったように、曹操の味方をする態度である。
張松の口添えで劉備は蜀に入る。巴西は既に張魯の支配下にあったが、その張魯は曹操の派遣した夏侯淵らとの戦いに手一杯で、劉備の素通りを許した。
劉璋の客将となった劉備は、早速利害の一致のために豪族たちと謀議を企て始める。
劉備の蜀取りはこれより始まった。
212年、劉備は葭萌関で挙兵する。
蜀の郡守や城の守将には李厳や費詩のようにすぐ降伏する者もあれば、厳顔や黄権のように抵抗する者もあった。1年以上もラク城で抵抗していたのは劉禅の子の劉循で、ここはホウ統の死地だった。結局、制圧までに3年かかったが、とりあえず仔細は省く。
劉備は蜀を獲得すると、早速城に溜め込まれていた金銀を気前良く諸将に配った。後漢末期において1斤は当時224gだから、功労者である張飛、法正、諸葛亮、そして何とか荊州を守り通した関羽に対して授与された500斤の黄金は112kgであり、1000斤の銀は224kgになる。延べ棒でいうと9本。銀は比重で金の半分くらいだから、数は同じく9本くらいになる。
董卓が都で溜め込んだ金が20000~30000斤だったりするからその十分の一程度。地方財政としては特別に多いというようには見えない。
さらに褒賞として5000万銭、錦1000匹という。銭に関しては、当時貨幣経済が崩壊しているからあまり参考にはならない。
蜀における貨幣経済の安定化は、その後の劉巴の献策による。その策は高額貨幣を鋳造して安定化を図るものだから、つまりインフレ対策の一つである。元々銅が多く産出する場所だし、大規模経営方式が利用できるから、蜀に限れば貨幣の鋳造は容易だった。
錦については匹で数える。1匹は長さ4丈幅2尺2寸であり、メートル法で書くと長さ10m幅50cmほどだという。すると錦1000匹は相当な量にみえる。これは中二病患者の文帝曹丕が即位した年に諸侯王・将相から大将までの官それぞれに下賜した絹の量と同じ量だ。しかし漢代の最盛期の生産量が年間数百万に達していたので、天と地ほどの差がある。ただし前漢から後漢にかけて生産量は逐次減少していたのだが。
蜀書には私有の財貨を返還し、兵の略奪を禁じ、穀物と錦だけは蔵に戻したとある。しかし蔵から劉備が褒賞を与えるには問題ないし、溜め込まれていた蔵物も劉璋の私的財産ではなく、公共財産とみるべきだろう。
劉備に蜀攻めを決めさせるための第一の理由だけあって数多くの財宝を得られたが、それは魏に勝るほどではなかったように見える。
蜀を手に入れてから、劉備は塩府校尉を置いた。塩府校尉という官職は、塩と鉄とを管理する。漢代の鉄官と塩官を合わせたものだろう。
重要なのは塩原や鉱物資源が山岳地帯にある点だ。山岳地帯には異民族がいる。彼ら異民族は漢民族と交雑し、地域の豪族と関わりを持つ。つまり塩鉄の利権は劉璋ではなく豪族の手に有った。それ故、この権益を奪い取るためにしなければならないことがあった。
彼らの統御のため庲降都督に南郡出身のトウ方が任命され、南昌に置かれた。華陽国志にあるように彼の活躍があったとすれば、それは218年の越巂郡の蛮族高定元およびケン為郡の漢族反乱への対処である。ただしこれはケン為太守李厳によって手早く鎮圧された。しかし両方とも長江北岸の郡だし、もしかしたら実質的には庲降都督の管轄ではないのかもしれない。