(2)
「ここは空さえ濁っているんだな」
誰にでもない呟きを漏らし、時夜はグラスに注いだ酒を一気にあおる。
まるで戒めのように突如として、この世界に飛ばされて間もない時を、思い出すことがある。
何の救いもない悪夢の日々。
「壊したのにまだ思い出す。まだまだ足りないんだ」
町を一望できる、この場所で唯一原形を止めている建物から、濁る空と崩壊した建物の残骸が広がる枯れ果てた大地に、冷めた眼差しを向ける。
そこはかつて一つの集落だった。
自分を売りとばした男がいた場所。
力を手に入れた時、真っ先に壊した。
もともと荒くれどもが住む、罪人の集まりの町だった。
もとから見放されていたその土地は、静かに傀儡に浸食され滅んだ。
誰にも気づかれずに。
「カル、どういうつもりだ?」
時夜の背後には、片膝を折り、頭を垂れる美しい女性の姿がある。
「……」
無言を貫くカルを振り返り、再度口を開く。
「俺は優美を襲えなどと命令していない」
いつも従順であるカルが、自分の意向を無視するなど初めてのこと。
「あの少女は[ホープ]を秘めています。生かしておくのは危険です」
頭を上げることなく、抑揚のない声で答える。
「馬鹿馬鹿しい。そんなもの、俺には大した問題じゃない」
「……」
時夜の言葉に、カルは顔を上げる。
美しい人形のように整ったその顔からは、感情の一切が排除されている。
ただ、金色の瞳だけが鋭い光を宿し、生の伊吹を放つ。
「彼女に傷をつけたら、お前も壊してやるから」
この世界の者は等しく憎い。
それは自分に付き従う者であっても例外ではない。
「お前はただ俺の駒であればいい」
優しく愛を囁くように言葉を向ける。
「……はい。我が君」
再度頭を垂れ、その場から姿をかき消す。
「ふん。[ホープ]なんて、ただのお伽話だろ」
精霊すべてを身に宿し、この世で唯一傀儡を浄化できたという存在。
そんな不確かなものに縋るほど、この世界の住人は傀儡を畏怖している。
そして、自分がその存在であることが、心地よく笑えるほどに愉快で仕方がない。
けれど、ふとサガラに殴られ切れた口の端に触れ、苦々しく顔を歪める。
「あいつさえいなければ、すべてはうまくいっていたのにっ」
痛みこそないが、屈辱と怒りは、日に日に強くなる一方だ。
影獣王でもあるあの男を前にすると、普通の傀儡であれば、頭を垂れることしか出来ない。
だが、時夜の中にあるこの世界へ憎しみは、傀儡の本能さえ勝る。
「面白いじゃないか。傀儡である俺が、王であるあの男を殺すなんてさ」
殺して奪い取る。
この世界でたった一つの光。
「……あんな顔をさせたかったわけじゃない」
最後に見た、優美の泣き出しそうな顔を思い出す。
この腐りきった世界で奇跡のように出会った、
同じ世界の女の子。
出会ってすぐに分かった。
この子は、自分とまるっきり違う扱いを受けているのだと。
無邪気に話す、この世界の住人の話には、憎しみどころか愛情すら感じる。
それは失望に、そして渇望に変わる。
(この世界の住人に愛される資格なんてない。優美は、俺のモノになるべきなんだ)
この世界で常に付きまとう苛立ちが、優美が側にいると薄らぐ。
元の世界にいるかのような既視感。
彼女の側には絶対的な安らぎがあった。
自分の能力があれば、優美を手に入れることなど簡単だったはずだった。
けれど誤算が生じる。
ことのほか優美には暗示が効きづらかった。
そしてもっとも大きな誤算は影獣王の存在。
十数年に一度、その存在を現すという、傀儡の絶対的支配者。
サガラという名で人のフリをし、優美の側にいる男。
サガラは優美に惚れている。
そして、気づいてはいないが優美もまた……。
苛立ち手にしていたグラスを投げる。
しかし、グラスは壁にぶつかる前に粉々に砕け散り霧散する。
「あいつがいなくなれば、優美は俺のものになるんだ」
優美を手に入れ、この世界ごと壊して作りかえよう。
そんな夢想にふけり、愉快そうに笑い声を漏らす。
時夜は、元の世界に還る気などなくなっていた。
いや、忘れかけているのだ。
今はもう、“人間”であることよりも、“傀儡”である自覚の方が大きい。
「本当に愚かしい男……」
カルは先ほど出て来た部屋を振り返り、皮肉な笑みを浮かべ、時夜には届くことのない言葉を呟いた。
時夜は知らない。
自分が、パズルを完成させるための一つのピースにすぎないのだということを……