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婚約破棄された私、王宮の女官全員に有給休暇を出しました(短編版)

作者: 白川 透
掲載日:2026/10/25

「リディア様、開始が早まるそうです」


 女官のニナが、空の盆を胸に抱えたまま小走りで寄ってきた。広間の時計は、約束の刻限よりまだ四半刻も前を指している。


「どなたのご指示?」


「殿下です。まだお着きでない方が十人ほどいらっしゃいますけれど、どういたしましょう」


 私は入口の扉へ目をやった。婚礼まであと六日。王都に集まった縁者を招く、内輪の歓談会だ。遅れて着いた客が、自分の来る前に乾杯が済んでいたと知れば、気まずい思いをするのは客のほうになる。


「ニナ、盆は誰かに預けて入口に立ってちょうだい。遅れていらした方には、ちょうど今始まったところですとお伝えして、杯をお渡ししてから中へ。ご案内の順はあなたに任せます」


「はい」


 ニナが頷いて駆けていく。私は振り返り、話の途中で置いてきた子爵夫人のもとへ戻った。お孫さんの乳歯が抜けた話の続きを伺わなければならない。


 夫人が三本目の歯の話に差しかかったところで、広間の奥から杯を鳴らす音がした。


 アーヴェル殿下が壇の前に立っていた。金の髪を後ろへ撫でつけ、婚礼衣装の仮縫いで私が選んだものとは違う、見慣れない深緑の上着を着ている。その腕に、薄紅のドレスの令嬢が手を添えていた。伯爵家のミレナ嬢。先月の夜会で、殿下と三度踊っていた方だ。


「皆、聞いてほしい。私は今日ここで、リディア・アルヴェインとの婚約を破棄する」


 杯を持った手が、いくつも宙で止まった。子爵夫人が私の袖を、ほとんど無意識のように掴んだ。


 殿下は私を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。人垣が左右に割れる。こういうとき人は本当に道を空けるのだと、妙なところに感心している自分がいた。


「リディア、君はいつも仕事だ。私が話しかけても、次の予定、次の客、次の書類。婚礼の打ち合わせでさえ、君は私ではなく衣装の寸法表を見ていた」


 あの寸法表は、殿下が三度目に上着の意匠を変えたときのものだ。言葉が喉まで上がってきて、そこで止まった。


「ミレナは私の話を聞いてくれる。私が何を望んでいるか、尋ねてくれる。君は一度でも、私自身を見たことがあったか」


 ミレナ嬢は殿下の腕に寄り添ったまま、私と目を合わせなかった。伏せた横顔からは、申し訳なく思っているのか、それとも別の何かを隠しているのか、読み取れない。


 私は殿下の上着の深緑を見ていた。似合っている、と思った。私が選んだ色より、ずっと。


 十八の春に婚約が決まってから六年、私はこの人の隣に立つために働いてきた。公務の補助を覚え、女官の仕事を覚え、前の女官長が退いてからは代理として王宮の内向きを回してきた。忙しさの理由はいつも、この人の婚礼であり、この人の名誉だった。全部が片づいたら、殿下は振り返って、よくやってくれたと言ってくださる。そう思っていた。


 見返りなど求めないつもりでいたのに。


 言い返す材料ならいくらでもある。招待客を二度増やしたのは誰か。花の色を最後に変えたのは誰か。けれど、ここで帳簿を読み上げて勝ったところで、殿下が私を見るようになるわけではない。


「承知いたしました」


 声は思ったよりまっすぐ出た。


「婚約のことは、両家で改めてお話しいただくことになりましょう。本日はお客様がいらっしゃいますので、私は下がらせていただきます」


 一礼して背を向ける。殿下が何か言いかけた気配がしたけれど、続きは聞こえなかった。入口では、ニナが遅れて着いた男爵夫妻に杯を差し出しているところだった。私と目が合うと、彼女はその姿勢のまま固まった。


「ご苦労さま。そのまま続けて」


 それだけ言って、私は広間を出た。


 執務室の扉を閉めると、廊下のざわめきが遠くなった。


 机の上は、今朝出たときのままだった。右手には、婚礼の主卓を飾る背面装飾の確認書。王家の紋とアルヴェイン家の紋を一枚の布に織り合わせた結合紋の、糸の色見本が留めてある。金糸は三度染め直してもらった。殿下が、陽に透かしたときの色が気に入らないとおっしゃったから。


 色見本の端をつまんで、しばらくそのまま持っていた。もう誰も、この布の下には座らない。そう思った途端、怒りより先に、間の抜けた寂しさが来た。三度も染め直したのに、と。


 確認書を脇へ寄せると、その下から紐で綴じた束が出てきた。


 休暇申請書だ。


 王宮の女官四十九人、一人一件ずつ。どれも一度は提出され、私が「婚礼が済むまで」と頼んで保留にしてきたものだ。去年の秋に、久しぶりに母親の顔を見に帰りたいと出されたもの、春の祭りに合わせて出されたもの。書き直された日付の上に、また別の日付が重ねてある。いちばん上の一枚は古参のベアトリスのもので、日付の欄に三度、線が引いてあった。


 婚礼が済むまで。その婚礼が、もうなくなる。


 延期の理由は、一つ残らず消えることになる。


 私は椅子に腰を下ろし、束の紐をほどいた。今すぐ署名するわけにはいかない。婚約の解消は両家の協議で正式に決まるもので、殿下があの場で口にしただけでは、まだ何も決まっていない。決まるのはおそらく明日の朝だ。父のところには、もう知らせが届いているだろう。


 それでも、待つあいだにできることはある。


 四十九件を日付の古い順に重ね直す。本人に今の希望を確かめるための一覧を作る。オルド殿の手元にあるはずの、婚礼後に回すつもりだった交代案の写しを、今夜のうちに届けてもらうよう依頼状を書く。


 ペンを取って最初の行を書きかけたとき、指先が震えているのに気づいた。広間で泣かなかった分が、今になって手に来ているらしい。


 一度ペンを置き、震えが収まるのを待ってから、もう一度握り直した。


 明日の朝、婚約が終わる。そうしたら、この束を全部動かす。


*


 翌朝、両家の協議は一刻もかからずに終わった。


 婚約は解消。五日後に予定していた婚礼は中止。公爵家は復縁を求めず、婚礼にかかった費用の精算と、私の女官長代理の退任を求めた。退任は明日の夕刻と決まった。父は協議の席から戻ると、私の肩に一度だけ手を置き、何も言わずに書斎へ入っていった。


 王宮へ向かう馬車の窓から、婚礼の日に合わせて花綱を飾りはじめた店がいくつも見えた。あれは五日後には外されるのだろうか。外す手間を真っ先に考えてしまい、自分に呆れた。


 執務室には寄らず、束を抱えたまま女官の控え室へ行った。


 朝の交代の時刻で、部屋には二十人ほどがいた。私が入ると話し声が止み、全員が私の顔と、腕の中の束を順に見た。昨日のことは、もう誰もが知っている顔だった。


 長机の上に束を置き、紐をほどく。


「婚礼は中止になりました。それに伴って、保留にしていた休暇申請を、今日すべて承認します」


 誰も声を出さなかった。喜ぶより先に、言葉の意味を確かめているような沈黙だった。


 最初に口を開いたのは、窓際で帳面をつけていたベアトリスだった。


「すべて、というのは」


「四十九件、全員分です」


「去年の秋もそうおっしゃいました。結局、休めたのは三人でしたけれど」


 ベアトリスは帳面を閉じた。声を荒らげはしない。二十年以上この宮で勤めてきた人の、平らな声だった。


「春の祭りの前には、婚礼の準備が落ち着いたらと。夏には、招待客が決まったらと。そのたびにリディア様は申し訳なさそうな顔をなさって、申し訳なさそうな顔のまま、もう少しだけ、と」


 反論しようとして、できないことに気づいた。全部、私が言った言葉だった。私が我慢しているのだから、皆にももう少しだけ。そうやって私は、自分の忍耐の代金を、他人の休日で払わせてきた。


「そのとおりです。私が延ばしてきました。申し訳ありません」


 頭を下げると、ベアトリスの眉がわずかに動いた。けれど彼女は、それで表情をゆるめたりはしなかった。


「謝っていただくより、日付が欲しいです」


「はい。だから、日付を決めに来ました」


 私は束の上にもう一枚、紙を置いた。昨夜オルド殿から届いた写しだ。婚礼が済んだら実施するつもりで、オルド殿とベアトリスが前から組んでいた二班交代の案。


「この案を前倒しで使います。明後日から五日間はA班の三十人、その次の五日間はB班の十九人。昔の希望日ではなく、今どちらで休みたいかを一人ずつ確かめて班を決めます。どちらの期間も、残った人数で普段の仕事は回るように組んである。そうですね」


「組んだのは私ですから」


 ベアトリスは写しを手に取り、自分の筆跡を確かめるように眺めた。


「新しい行事を入れなければ、回ります」


「入れません。接遇の数を絞ることは、今朝、王妃様にご了承いただきました」


 私は束から元の申請書を抜いて一人ずつ本人へ返し、控え室の外にいた者も呼んで、今の希望を聞いていった。


 最初に署名したのは、二年前の冬に出された衣装係の一枚だった。本人は何のための休みだったか、もう覚えていなかった。少し考えてから、とにかく昼まで寝ていたいと言ったので、A班に入れた。


 ニナの番が来たのは昼前だった。彼女は自分の申請書を両手で持ったまま、机の前に立った。


「あの、私のは短くしていただいて構いません。五日も要りませんので。一日、いえ、半日でも」


「申請には五日とあるけれど」


「妹と市へ行く約束をしていたんです。でも、去年の話ですし、妹ももう覚えているかどうか。それに、今は人も足りませんし」


 昨日、入口で客を迎えていた手が、紙の端をきつく折っていた。休んでいいと言われても、本当に休めるとは思っていない顔だった。


「市はいつ?」


「え。三日後です。月に一度の大市で」


「A班なら明後日からの五日間に入るわね。妹さんと行けるわ」


 私は申請書を彼女の手から抜き取り、日付の欄に新しい期間を書き入れて署名した。五日間、一日も削らずに。


 ニナは紙を見て、私を見て、もう一度紙を見た。


「五日ある」


「五日申請したんでしょう」


「はい。はい、そうです」


 ニナの指が日付をなぞり、二日目のところで止まって、それから先へ進んだ。


「大市の日のほかに、まだ四日もある。じゃあ、妹に髪紐を選んで、その前に母さんのところにも顔を出して、それから」


 声がだんだん独り言になっていく。それを聞いていた隣の席の女官が、手元の申請書を差し出した。


「リディア様、私はB班のほうでいいでしょうか。弟の婚約者のご家族と会う日がありまして」


「私はA班で。実家の果樹園の収穫に間に合うんです」


「収穫なんて、手伝わされるだけじゃないの」


「手伝わされるのが楽しいのよ」


 控え室が急に騒がしくなった。休みの日に何をするかという話が、あちこちで始まっている。さっきまで疑い深い顔で並んでいた人たちが、自分の予定の話になった途端に声を高くする。私は申請書を一枚ずつ受け取り、日付を書き、署名していった。


 最後の一枚が、ベアトリスのものだった。


「B班でお願いします。休みの二日目に、娘が仕立て屋を開くんです。開店の日だけは、店にいてやりたいので」


「おめでとうございます」


「まだ開いていませんよ」


 そう言いながら、ベアトリスは私が署名するのを最後まで見ていた。インクが乾くのを待って申請書を受け取り、四つに折る。


「お礼は、休みが明けてから申し上げます。休めたら、ですけれど」


「休めます」


「でしたら」


 彼女は折った紙を胸元にしまった。


「先に、娘へ手紙を出してもよろしいでしょうか。午後の仕分けの前に、昼の郵便に間に合わせたいので」


 普段の私なら、午後の仕分けの担当表を確かめてから頷いていたはずだ。誰が代わりに入るか、手は足りているか。


「どうぞ。今すぐ行って」


 ベアトリスは一度だけ私の顔を見て、それから足早に出ていった。


 長机の上には、承認を終えた申請簿だけが残った。四十九件、全員分。


 五日後の私の婚礼がなくなったから、この人たちは休める。そう考えると、喉の奥が少し苦くなった。誰かの楽しみを取り戻すのに、私の結婚式がちょうどよい値段だったみたいで。


 それでも、ニナが日付をなぞっていた指を思い出すと、口元がゆるむのを止められなかった。


 申請簿を閉じたところで、控え室の戸が叩かれた。


 殿下の侍従だった。見知った顔が、気まずそうに私から目をそらす。


「殿下からのお言付けです。五日後、元の婚礼の日に、内輪の夜会を開かれるとのことで。お客様は四十人ほど。婚礼のために用意した支度をそのまま使えるよう、整えておくように、と」


 私はすぐには返事をしなかった。


 まず申請簿の紐を結んだ。それから、棚の、承認済みの書類を置く段にそれを収めた。四十九件を、一枚も引き抜かずに。


 振り返ると、侍従はまだ戸口に立っていた。


「殿下にお伝えください。ご用件は明日、私から直接お伺いします、と」


*


 殿下の執務室を訪ねたのは、翌朝の九の鐘が鳴る前だった。


 殿下は窓辺の机に寄りかかり、昨日と同じ深緑の上着を着ていた。ミレナ嬢の姿はない。


「侍従から聞いたな。元の婚礼の日、四日後の夜会だ。婚礼のために揃えたものがあるだろう。花も、卓も、給仕の段取りも。あれをそのまま使えばいい。名目が変わるだけで、中身は同じだ」


 名目が変わるだけ。


「婚礼の支度は、二百人の式に合わせたものです。四十人の夜会にそのまま移すことはできません。どうしても開かれるのでしたら、日を延ばされるか、厨房に頼める範囲の小さな会食になさるのがよろしいかと存じます」


「だから、それを女官たちに組み直させればいい」


「女官は明日から交代で休暇に入ります。昨日、私が承認いたしました。残る者は普段の勤めで手いっぱいです。夜会の準備はお引き受けできません」


 殿下の眉が寄った。


「休暇? 全員か」


「全員です。一人も除いておりません」


 沈黙が落ちた。


 殿下は私を見ていた。いつもなら、ここで私が何か言う。では、手の空く者を一人だけ。では、私が夜に少し。殿下の不満が言葉になる前に、そうやって私が隙間を埋めてきた。


 今日の私は、膝の前で手を重ねたまま待った。窓の外で鳥が鳴いた。殿下の指が、机の縁を一度だけ叩いた。


「そうか。なら、いい。自分でやる。たかが四十人の夜会だ」


「左様でございますか」


 私はそれ以上、何も付け足さなかった。腕のいい仕出し屋の名も、厨房長の機嫌がいい時刻も。


 一礼して廊下に出ると、膝が少し笑っていた。六年間、一度も言わなかった返事をしたのだから、無理もない。


 数歩歩いたところで、口元が勝手にゆるんでいるのに気づき、私は廊下の角でそれを手で押さえた。


 昼からは、オルド殿の部屋で引継ぎをした。


 内務管理官のオルド殿は五十を過ぎた痩せた人で、書類をめくる指がいつも乾いている。私が持ち込んだ目録と日程表を、黙って一枚ずつ確かめていった。物品、日程、各部門への決裁の残り、婚礼のために借りた品の返却先。


「この背面装飾は」


「王家の所有ですが、アルヴェイン家の紋と一枚に織り込んであります。婚礼用の結合紋です。保管庫に入れたまま、使う予定はありません。もし誰かが使いたいと言ったら、そのことを必ず伝えてください」


「書いておきましょう」


 オルド殿は余白に短く書き込み、それから日程表の一か所に指を置いた。


「花屋への中止の連絡が、入っていません」


「え」


 覗き込むと、本当に抜けていた。婚礼の花は二軒に頼んでいて、一軒には昨日のうちに使いを出したのに、もう一軒を忘れていた。


「申し訳ありません。今書きます」


「今書いてください。昼の便にまだ間に合います」


 私は連絡状を書き上げ、封をして渡した。オルド殿はそれを、今日出す箱に入れた。


「休暇のあいだは、私が暫定で見ます。ただし女官の仕事の中身は、出勤している者に任せます。私に衣装の寸法は分かりませんので」


「それで十分です」


「殿下の夜会のことは」


「お断りしました。延期か、小さな会食をお勧めして」


 オルド殿は私の顔を一度見て、日程表に目を戻した。


「承知しました」


 夕刻、王妃様の侍女頭に鍵の束と職印を返した。


 送別の式はない。私がそう頼んだ。控え室では女官たちが、明日からの休暇に備えて引継ぎの札を書いていた。何人かが手を止めて頭を下げ、私も頭を下げ返した。ニナは札を三枚続けて書き損じ、隣の女官に笑われていた。


 侍女頭が職印を布に包んで箱へ収める。私は思わず手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。明日の朝、あれを押す書類はもう私のところへは来ない。


 身軽になった、と思った。同時に、私がいなくても控え室は明日の支度で騒がしく、誰も困った顔をしていないことが、少しだけ寂しかった。


 王宮の正門へ向かう回廊で、ルシアン・フェルツ殿と行き合った。


 隣国から駐在している外交官で、二年前から公務で何度も顔を合わせている。背が高く、いつも書類鞄を左手に提げている人だ。今日も提げていた。


「アルヴェイン嬢。お帰りですか」


「ええ。今日で女官長代理を退きました。お世話になりました」


「そうでしたか」


 ルシアン殿は、婚約のことにも退任の理由にも触れなかった。代わりに、少し考えるような間を置いて言った。


「では、明日からはお休みですか」


「休み」


 私は言葉を繰り返した。


「この二年、あなたにお会いするときは、いつも何かのお仕事の最中でしたので。休みの日のあなたというのが、どうも思い浮かばなくて」


「私にも思い浮かびません」


 正直に答えると、彼は意外そうに瞬きをして、それから笑った。笑うとずいぶん印象の変わる人だった。


 公爵邸に戻ると、夕食の前に手紙が届いていた。差出人はルシアン・フェルツ。


 明後日の昼、東通りの菓子店へ行かないか、という誘いだった。評判の揚げ菓子があるらしい。気晴らしになればと思うが、気が進まなければ遠慮なく断ってほしい。返事は急がない。用件はそれだけで、仕事の話は一行もなかった。


 断る理由を探しかけて、やめた。王宮と関係のない場所へ行ってみたかった。揚げ菓子も、正直に言えば気になった。


 父に行き先を告げると、父は少し眉を上げてから、侍女を一人付けると言った。昼間の菓子店に、侍女が一人。それなら妙な噂の種にもなりにくい。


 返事を書き終えてから、気づいた。明後日の予定は、それしかない。その前の明日には、何の予定もない。


 私は封をした返事を前に、明日をどう過ごせばいいのか、しばらく考えていた。


*


 朝の支度は、いつもどおりに済んだ。


 湯は適温で、シャツには糊がきいていて、朝食の卵は好みの固さだった。アーヴェルは食後の茶を飲みながら、やはり何も変わらないではないか、と思った。休暇だの交代だのと大げさに言っても、王宮は王宮だ。


 変わったのは、茶を飲み終えて、上着を替えようと思い立ったときだった。


 午後にはミレナが来る。せっかくなら、彼女の薄紅に合わせた礼装で迎えたい。春の式典で一度だけ着た白の上着が、衣装室のどこかにあったはずだ。揃いの飾り帯と手袋を出させて、袖丈を少し詰めさせれば間に合う。


「衣装係を」


 侍従が出ていき、すぐに戻ってきた。


「担当の者は、王妃様の午前のご来客の支度に入っております。正午過ぎには戻るとのことです」


「では、別の者を」


 次に来た女官は、扉の前で一礼して言った。


「申し訳ございません、殿下。私は十の鐘から王女様のお稽古のお付きでございます。お衣装の件でしたら、正午過ぎに担当の者が伺います」


「礼装を一揃い出して、袖を少し直すだけだ」


「はい。正午過ぎに伺います」


 その次は、誰も来なかった。侍従によれば、今は手の空いている女官がいないのだという。今日から三十人が休みに入り、残った十九人にはそれぞれ朝から割り当てがある。アーヴェルが呼んだ回数は、その割り当ての順番を一つも動かさなかった。


 嫌がらせか、と言いかけて、やめた。女官たちは皆、申し訳なさそうな顔で、次に来られる時刻を正確に告げていく。正確すぎて、怒る隙がない。


 結局、侍従に手伝わせて、手近な上着に着替えた。白の上着がどの箱に眠っているのか、侍従は知らなかった。


 昼前、アーヴェルは夜会の件を片づけることにした。


 母上は昨夜、渋い顔をしながらも許した。私費で、今いる者の勤めを増やさず、内輪の会食の規模に収めるならば、と。延ばしてはどうかとも言われたが、延ばせば逃げたと思われる。元の婚礼の日に、新しい相手と堂々と客を迎えてこそ意味がある。客は四十人。母上の言う枠には収まっている。


 会場の管理係と給仕頭、楽師の取りまとめ役を呼び、アーヴェルは言った。


「三日後の夜、広間で四十人の夜会を開く。いつものように整えてくれ」


 一言で済むはずだった。


「卓はいくつ、どの向きに置きましょう。主卓は壇の上ですか、下ですか」


「開始は日暮れでしょうか、七の鐘でしょうか。皿数によって厨房への届けが変わりますので」


「楽はご入場の際にも入れますか。それとも、お食事のあいだだけで。殿下とお連れ様のご入場は、楽の合図に合わせますか」


 三人が順に尋ね、それぞれの答えを待つ顔で並んだ。アーヴェルは三人を見比べた。


「いつものように、と言ったのだが」


「いつもは、女官長代理様がまとめてお持ちくださいましたので」


 管理係が困ったように言い、ほかの二人も頷いた。


 呼ばれて来たオルドが、三人の質問を一枚の紙に書き出した。卓の数、開始の刻、皿数、楽の有無と入場の段取り。


「ここから先は、殿下がお決めになることです」


「おまえが決めればいい」


「卓の向きくらいは決められます。ですが、どなたをどこへお座らせになりたいか、どの曲でお入りになりたいかは、殿下のお望み次第ですので」


 オルドは紙を差し出したまま、引っ込めなかった。


 午後、アーヴェルは王都の仕出し業者を呼んだ。


 金で片がつくなら、それがいちばん早い。業者は手慣れていて、四十人なら卓は五つ、背後は無地の幕で十分、料理は五皿でいかがでしょうと、こちらが迷う前に案を並べた。楽師も同じ業者の伝手で揃った。オルドはその案に目を通し、この規模なら厨房と警備の手配に無理はないと言った。


 夕方、試食の皿が並んだ。鴨は柔らかく、ソースはしつこくなく、最後の焼き菓子はフォークを入れるとほろりと崩れた。


 悪くない。いや、十分だ。


 アーヴェルはフォークを置いて、満足の息をついた。半日で夜会が一つ形になった。結局のところ、調整役などというものは、金と決断さえあれば要らないのだ。リディアはあれほど時間をかけて、いったい何をしていたのだろう。


 ミレナが来たのは、試食の皿が下げられたあとだった。


 計画を聞かせると、彼女は手を叩いて喜んだ。それから少しためらうように、指先でアーヴェルの袖をつまんだ。


「ねえ、殿下。一つだけお願いがあるの。主卓の私の隣に、母を座らせてもらえないかしら。母はずっと、私がこういう場に立つ日を楽しみにしていたから」


「もちろんだ。君の片側は私、もう片側は母君だ」


「嬉しい」


 ミレナが腕に頬を寄せる。その温かさに、アーヴェルは自分の決断が正しかったと改めて思った。


 ただ、と彼は考えた。無地の幕に、五つの卓。悪くはないが、いかにも地味だ。破談の噂を聞いた連中は、この夜会がどれほどのものか確かめに来る。新しい恋の始まりを、ありきたりの会食で迎えさせては、ミレナに気の毒ではないか。


「もっと華やかにしよう」


 気づけば口に出していた。


「せっかくの祝いだ。君にふさわしい夜にしてみせる」


 ミレナが目を輝かせて頷く。アーヴェルは、ついさっき出来上がったばかりの計画書を、もう一度手元へ引き寄せた。


*


 約束の菓子店の扉には、紙が一枚貼られていた。


 本日、家族の祝い事のため休業いたします。


 私は扉の前で、手提げから折りたたんだ紙を取り出した。昨夜のうちに作った今日の順路表だ。菓子店に半刻、東通りの書店に四半刻、川沿いの公園で休憩、帰りの馬車は四の鐘に広場で。いちばん下には、店が混んでいた場合の代案が二つ書いてある。休業の場合は書いていなかった。


 それでも、二つ目の代案の店なら、ここから歩いて。


「アルヴェイン嬢」


 顔を上げると、ルシアン殿も上着の内側から紙を一枚出していた。私のものより一回り大きい。


「休業でしたか。では、こちらの二番目に」


 彼が広げた紙には、刻限がびっしりと並んでいた。菓子店、十二の鐘から。市場、一の鐘と四半刻から。休憩、二の鐘から二の鐘と四半刻まで。


「休憩の時間まで決めてあるんですか」


「お疲れにならないようにと思いまして」


「休憩が、四半刻単位で」


「そう言われると、あまり休憩らしくありませんね」


 彼は自分の紙を見下ろし、それから私の手元に目をやった。私の紙にも、書店に四半刻、と書いてある。


 二人で同時に、相手の紙と自分の紙を見比べた。休みの日に、二人とも勤務表を持ってきている。


 先に吹き出したのは私だった。ルシアン殿も口元を押さえたが、肩が揺れていた。少し離れて控えていた侍女が、何事かという顔でこちらを見た。


「しまいましょうか」


「しまいましょう」


 私たちは紙を畳んで、それぞれの懐へ戻した。


 行き先を決めずに歩くと、東通りの先の市場に出た。


 油の匂いのする屋台の前で、私は足を止めた。小麦の生地を揚げて、蜜と砂糖をたっぷり絡めた菓子。王宮の茶会には決して出ない、一つ銅貨二枚の品だ。


「お好きなんですか」


「子どもの頃、乳母がこっそり買ってきてくれたんです。それ以来、見かけると素通りできなくて」


 ルシアン殿も一つ買って、一口かじった。そして、ゆっくりと噛みながら黙った。


「甘すぎますか」


「正直に申し上げると、歯が溶けそうです」


 彼は残りを丁寧に紙に包み直し、隣の屋台で塩をふった焼き栗を買った。私に合わせて美味しいと言うこともできたはずなのに、そうしなかった。それがなぜだか気持ちよかった。


 揚げ菓子の屋台には、いつのまにか列ができていた。列は途中で折れて隣の果物屋の前を塞ぎ、果物屋の主人が渋い顔をしている。私は思わず列の端へ歩み寄り、こちらへ並んでいただければ、と口を開きかけて、止まった。


 私は客だ。


 振り返ると、ルシアン殿が焼き栗の袋を持ったまま、列の折れ目をじっと見ていた。


「あなたも、今」


「ええ。釜をもう一つ増やせば、半分の時間で捌けるのではと」


 私は笑いながら、指についた蜜を手巾で拭った。


 市場の奥に、輪投げの屋台があった。


 木の杭が九本立っていて、遠い杭ほど景品がいい。ルシアン殿はしばらく杭の並びを眺めてから、銅貨を払った。


「輪の重さと距離からすると、手首を使わず、腕全体で山なりに投げるのが」


 輪はきれいな山なりを描き、杭の手前で跳ねて転がった。


「理屈では入るはずでした」


「理屈が輪に伝わっていませんね」


 私は銅貨を払って輪を受け取った。


「こういうのは、腕ではなく目です。杭の根元ではなく、頭を見て」


 投げた輪は杭の頭をかすめ、隣の杭の足元に落ちた。


 ルシアン殿は何も言わなかった。言わないことが、何より雄弁だった。


「今のは練習です」


「では、私の今のも練習でした」


 そこから先は、二人とも本気だった。ルシアン殿は三投目で理屈を捨てて手首を使いはじめ、四投目で手前の杭を一本取った。私は五投目で二列目の杭に輪をかけ、屋台の主人から木彫りの小鳥を受け取った。


「私の勝ちですね」


「景品の格で言えば、そうなりますね」


 悔しさを隠そうともしない顔がおかしくて、私は小鳥を掌の上でくるりと回した。


「リディア様!」


 人混みの向こうから声がした。ニナだった。十歳くらいの女の子の手を引いている。女の子の三つ編みの先に、真新しい水色の髪紐が結んであった。


「こんなところで。あの、おとといの控え室なんですけど、オルド様が札の束を」


「お姉ちゃん、あっちで飴細工やってる!」


 女の子がニナの腕を引っ張った。ニナは私と妹を見比べて、困ったように笑った。


「すみません、また今度」


「ええ。楽しんで」


 ニナは一礼し、妹に引かれるまま人混みへ消えていった。水色の髪紐が、何度か人の肩のあいだに見え隠れした。


 王宮の話の続きを聞きそびれた、と思った。ほんの少しだけ、置いていかれた気がした。けれど、飴細工の屋台の前でニナが妹と並んでしゃがみこむのが見えて、その気持ちはすぐにどこかへ行ってしまった。


 川沿いの公園の長椅子で、ひと休みした。侍女は少し離れた木陰で、ルシアン殿に分けてもらった焼き栗を食べている。


 揚げ菓子の包み紙を畳みながら、私は言った。


「明日、何をすればいいのか分からないんです」


 口に出してから、少し驚いた。言うつもりはなかった。


「朝起きても、行く場所がない。考えることもない。今日は楽しかったのに、明日も明後日もこうしていていいのか、よく分からなくて」


 ルシアン殿は少し考えてから、真面目な顔で言った。


「でしたら、来月、うちの公使館で両国の商人を招く催しがあります。調整役を探していて、あなたなら」


 言葉の途中で、自分の顔がこわばるのが分かった。


 悪気がないことは分かっている。今日一日、彼は書類鞄も持たずに、輪投げで本気で悔しがっていた。この外出が採用の面談だったとは思わない。


 それでも。


「ルシアン殿。今は、その話はつらいです」


 思っていたより、小さな声になった。


「仕事に戻れと言われているようで。悪い意味でないのは、分かっているんですけれど」


 ルシアン殿は口を開きかけた。いえ、そういうつもりでは、と続くのだろうと思った。


 けれど彼は、そのまま口を閉じた。しばらく川面を見て、それから私のほうへ向き直った。


「すみません。今のは、なしにしてください」


「正直に言うと、ここから先、どう過ごせばいいのか私にもよく分かりません。紙をしまってしまったので」


 私は思わず笑った。


「出しますか、紙」


「出しても、たぶん今日の役には立ちません。あなたは、どうしたいですか」


 どうしたいか。そう尋ねられたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。


 馬車は四の鐘に、広場で待っている。ここから広場へは、通りを抜ければすぐだ。川沿いを回れば、その倍はかかる。


「川沿いを歩いて戻りたいです」


 理由は言わなかった。遠回りだということは、二人とも分かっている。


「そうしましょう」


 ルシアン殿は立ち上がり、侍女に一声かけてから、私の歩幅に合わせて歩きはじめた。


 川沿いの道は、昼下がりの光で白っぽく見えた。


 話すことが途切れても、気まずくはなかった。水鳥が二羽、並んで流れていく。私はいつもより、ずっとゆっくり歩いていた。ルシアン殿も、そのことには何も言わなかった。


 広場の手前で、彼がふと言った。


「次は、輪投げで勝つつもりです」


「次も私が勝ちます」


「理屈を捨てれば入ると分かりましたので」


「理屈を捨てた三投目も、外れていましたけれど」


 ルシアン殿は反論しかけて、やめて、笑った。


 広場にはもう馬車が着いていて、刻限にはまだ少し余裕があった。侍女が先に乗り込む。私は踏み台に足をかけてから、一度だけ振り返った。


 ルシアン殿は、まだそこに立っていた。


 次がいつなのか、どちらも口にしなかった。馬車が動き出してからも、掌の中の木彫りの小鳥は、しばらく温かいままだった。


*


 広間の主卓の背後に、婚礼の幕が下がっていた。


 深い青の地に、金糸で二つの紋が織り出されている。王家の獅子と、アルヴェイン家の百合。一枚の布の中で、二つは寄り添うように並んでいた。


 昨日、無地の幕を前にして、アーヴェルは急に惜しくなったのだ。保管庫には、これほどの品が眠っている。使わずにしまっておくほうが、よほど無駄ではないか。


「アルヴェイン家の紋が、一体に織り込まれております」


 保管庫の錠を開けながら、オルドはそう言った。引継ぎの書類にも、同じことが書いてあると。


「王宮の品だ。使って何が悪い。灯りを落とせば、紋など誰も気にしない」


 アーヴェルはそう答えて、幕を広間へ運ばせた。


 席のことも、昨日のうちに決めた。


 ミレナの隣には母君を、と約束していた。だがその後、ハーゲン侯爵が招待に応じてくれた。北の領地を治める古株で、父王でさえ一目置いている。破談の噂を気にしている様子の侯爵に、アーヴェルは言った。ぜひ新しい女主人の隣で、話をしてやってほしい、と。


 業者の取りまとめ役が、席が重なっていると知らせてきたのは昨日の昼だった。


「侯爵を主卓に。母君には、別の卓の上座を用意しろ」


「ミレナ様には、どなたからお伝えしましょう」


「私から話す」


 そう言ったきり、話していない。昨日のミレナは衣装の仮合わせで忙しそうだったし、当日になれば、席くらいで騒ぎはしないだろう。この夜会の主役は彼女なのだから。


 日が暮れて、広間に灯が入った。


 仕出しの給仕たちが、銀の盆を手に壁際へ並んでいる。厨房からは、試食で食べたあの鴨の匂いが漂ってきた。楽師が弦を合わせる音が、高い天井に響く。花は業者が幕の色に合わせて揃え直した。


 客が一人、また一人と入ってくる。ハーゲン侯爵はすでに主卓の席に着き、背後の幕を見上げて、何か言いたげに顎を撫でていた。


 アーヴェルは広間を見渡した。どこにも手落ちはない。


 リディアがいなくても、夜会は開ける。


 ミレナが母君と腕を組んで入ってきたのは、それから間もなくだった。


 薄紅のドレスに、真珠の髪飾り。広間の何人かが振り向くのが分かった。アーヴェルは満足して、二人を迎えに歩み出た。


 案内役の給仕が、母君に一礼した。


「伯爵夫人様のお席は、こちらの卓でございます」


 手が示したのは、主卓から二つ離れた卓の上座だった。


 母君が戸惑ったようにミレナを見た。ミレナは主卓に目をやった。彼女の隣には、ハーゲン侯爵がもう座っている。


「殿下」


 ミレナの声は、まだ笑っていた。


「母の席が、違うみたい」


「ああ、それは」


 アーヴェルは声を落とした。


「ハーゲン侯爵が来てくださったんだ。今夜いちばん大事な客だよ。君の隣で話してもらえば、皆が君を認める。母君には、別の卓でいちばんいい席を用意した」


「私の隣は母だって、約束したわ」


「分かっている。だが、侯爵にも約束してしまった。今夜だけ、我慢してくれないか」


 ミレナは黙った。母君が、娘の袖にそっと手を添えた。


「母の席を戻して」


「今からそれをしたら、侯爵に恥をかかせる」


 自分が侯爵のところへ行って、事情を話して頭を下げれば済むことは、アーヴェルにも分かっていた。だが、新しい門出の夜に最初にすることが詫びだというのは、あまりに格好がつかない。


 ミレナは返事をしなかった。代わりに、主卓のほうを見上げていた。正確には、主卓の背後の幕を。


「殿下。あれは、何」


「婚礼の幕だ。王宮の品で、見事なものだろう」


「金の百合が見えるわ」


 ミレナの声から、笑いが消えていた。


「アルヴェイン家の紋でしょう。あの方との婚礼のために織らせたものでしょう。私は、あの下に座るの?」


「紋など誰も気にしない」


「私が気にするの」


 声は大きくなかった。けれど、近くの卓の客が何人か、杯を置いてこちらを見た。


「母との約束は勝手に変える。私には何も言わない。座る場所は、あの方のために用意したものの下。殿下、今夜は誰のための夜会なの?」


「君のためだ。だからこそ、皆の前で」


 アーヴェルは、ミレナの肘に手を添えた。


「頼む。客の前では、笑っていてくれ」


 ミレナはその手を見下ろした。それから、ゆっくりと肘を引いた。


「母を別の卓には座らせられません。私たち、帰ります」


 母君は何も言わなかった。娘と腕を組み直し、来たときと同じ扉へ歩きだした。薄紅のドレスの裾が、灯りの中を遠ざかっていく。楽師の弦が一つ、間の抜けた音を立てて止まった。


 アーヴェルは、その場に立ち尽くした。


 いつもなら、席を決める前に女官の誰かが、招待客の一人一人に望みを尋ねていた。そしてリディアが、重なった望みを両手に持って、どちらになさいますかと差し出しに来た。


「リ」


 口が勝手に動いた。その先の音を、アーヴェルは歯の裏で止めた。


 呼んでも来ない。もう、呼べる立場でもない。


 広間には、まだ三十人あまりの客がいた。料理はある。楽師もいる。今から侯爵に詫び、卓を一つずつ回って事情を話せば、夜会は普通の会食として続けられる。


 主役のいなくなった祝いの席で、自分が頭を下げて回る姿を、この人数に見せる。


「中止だ」


 声がかすれた。


「今夜は、これで終いにする」


 オルドがいつのまにか傍らに来ていた。何も言わずに頷き、給仕頭に短く指示を出すと、自ら扉の前に立ち、帰る客の一人一人に頭を下げはじめた。


 客たちは、来たときより静かに出ていった。祝いの言葉を口にする者は、一人もいなかった。ハーゲン侯爵は幕を一度だけ振り返り、アーヴェルには目礼だけを残して去った。


 その夜遅く、母上の居間で、オルドが報告を読み上げた。


 当初の外注の案には、無理がなかったこと。幕と席を変えたのは、殿下ご自身の指示であったこと。


 オルドの声は平らだった。誰を責める響きもなく、ただ順に並べていく。それが、どんな叱責よりもこたえた。


 母上は最後まで聞き、しばらく黙っていた。


「アーヴェル。外に頼んだ案は、通っていたのね」


「はい」


「通っていたものを、あなたが変えた」


 返す言葉がなかった。


 居間を辞して、暗い回廊を自室へ戻りながら、アーヴェルは考えていた。


 一度だけでいい。リディアが戻ってきてくれれば。ミレナへの詫びの手紙も、侯爵への取りなしも、リディアなら角の立たない形にまとめてくれる。


 いつものように。


*


 王妃様からの書状が届いたのは、元の婚礼の日の翌朝だった。


 その前日、私は一日じゅう公爵邸にいた。窓の外で鐘が鳴るたびに、今ごろは誓いの言葉、今ごろは祝宴の乾杯と、頭が勝手に数えはじめる。それを刺繍の針で黙らせて過ごした。


 封を切ると、便箋が二枚入っていた。


 一枚目は、昨夜の夜会についての知らせだった。殿下が婚礼用の主卓装飾を用いて、私的な夜会を開かれたこと。招待客の前で同伴の令嬢が退席され、殿下のご判断で会は中止されたこと。今後、殿下が王宮で私的な行事を主催される際には内務の実施確認を要し、費用は殿下ご自身の裁量費から支払われること。


 婚礼用の主卓装飾。


 読んだ瞬間に、金糸の色見本が目に浮かんだ。三度染め直した、あの金色。あの下に、ミレナ嬢を座らせようとしたのだ。


 何があったのか、詳しくは書いていない。けれど、同伴の令嬢が退席されたという一行だけで、おおよその見当はついた。


 私は便箋を膝に置いて、天井を見上げた。口の端が上がってくるのを、今度は押さえなかった。ほんの少し、胸がすいた。


 それから、一枚目の終わりの数行に目を戻した。女官の勤務と給与、承認済みの休暇には、いずれも影響はない。夜会の給仕は外の業者が務め、休暇中の者が呼び出されたことはない。


 そこまで読んで、ようやく肩から力が抜けた。


 二枚目は、私宛ての申し出だった。


 女官長への正式な任用。代理ではなく。女官を増やすための予算。行事の受入れを判断する権限。週に一度、必ず休む日を設けること。


 読み進めるうちに、手のひらが熱くなった。


 増員の予算があれば、交代の班をもう一つ作れる。受入れを判断する権限があれば、無理な行事は最初から断れる。私が「婚礼が済んだら」と先送りにしてきたものが、全部ここに書いてある。王妃様は、こういうことを飾った言葉で書く方ではない。


 戻りたい、と思った。本気で。


 夕方、ベアトリスが訪ねてきた。


 勤めを終えたその足で来たらしく、女官の外套を着たままだった。腕に布包みを抱えている。


「控え室にお忘れのものです。明日から休みに入りますので、その前にお返ししておこうと思いまして」


 包みの中身は、私の膝掛けと茶碗が一つ、それに書き損じの手紙の束だった。どれも、置いてきたことすら忘れていた。


「わざわざ、ありがとう」


「帰り道のついでですから」


 ベアトリスは勧めた椅子に浅く腰かけ、外套の内側から紙を一枚出した。


「明日からの勤務表です。オルド様と組み直しました。ご覧になりますか」


 見るつもりはなかったのに、手が勝手に受け取っていた。


 B班が休みに入る明日からは、A班の三十人が戻る。その割り当てが、几帳面な字で埋まっていた。王妃様の来客、王女様のお稽古、衣装の手入れ。女官長代理の欄は空いたままで、空いたまま、どの時間にも穴がなかった。


「回るのね」


「回します。新しい行事を入れなければ」


 ベアトリスは勤務表を受け取り、外套にしまった。


「控え室には、リディア様に戻っていただきたいという者もおります。正式な女官長になられるなら話は別だ、と。今さら、と言う者もいます。私はどちらでもありません」


「どちらでもない?」


「私は明日から休みですので」


 そう言って、ベアトリスは立ち上がった。


「明後日は娘の店の開店です。朝から行って、看板を掛けるのを見ます。リディア様がお戻りになっても、ならなくても、それは変わりません」


 玄関まで見送ると、彼女は外套の襟を直し、振り返らずに帰っていった。


 その夜、自室の机で、もう一度二枚目の便箋を広げた。


 机の端には、輪投げの景品の木彫りの小鳥が置いてある。


 増員は何人まで可能か。予算の額から逆算すると八人。いや、厨房との兼ね合いを考えれば七人か。交代の班は三つにして、一班あたり。


 気づけばペンを取って、便箋の余白に数字を書き込んでいた。七人を、どの持ち場に何人ずつ。来月には大きな行事が二つあるから、その前に面接を済ませて、それから。


 来月の、予定。


 ペンの先が止まった。


 まだ戻るとも決めていないのに、私はもう来月を埋めはじめている。明日何をすればいいか分からないと言った私が、来月のことなら一晩で全部決められる。


 小鳥が、机の端からこちらを見ていた。


 私は余白の数字に線を引き、引き出しから新しい便箋を出した。


 翌日、王妃様の居間を訪ねた。


 王妃様は窓辺の椅子にかけて、私の差し出した返書を読んだ。読み終えても、しばらく便箋から目を上げなかった。


「お断り、なのね」


「はい。せっかくのお申し出を、申し訳ございません」


「謝るのは、こちらのほうです」


 王妃様は便箋を膝に置いた。


「延期の報告は受けていました。あなたが何とかしてくれるからと、増員も後任も婚礼のあとでいいと先送りにした。それは私の判断です」


 王妃様はそれ以上、言葉を重ねなかった。私も、いいえ、とは言わなかった。


「心残りは、ないのかしら」


「あります」


 正直に答えた。


「お申し出を読んで、本当に戻りたくなりました。昨夜は増員の配置まで考えていました。でも今戻ったら、私はきっと来月も再来月も、自分の時間で穴を埋めます。ですから、今は戻りません」


 王妃様は頷いた。


「増員の予算は、そのまま執行します。承認された休暇とオルドの暫定の体制も、変えません。後任は王宮の責任で探します。あなたに選ばせたりはしないから、安心なさい」


 最後の一言に、私は思わず笑ってしまった。王妃様も、少しだけ口元をゆるめた。


 居間を辞して回廊に出ると、殿下が立っていた。


 待っていたのだろう。深緑ではなく、地味な紺の上着を着ていた。


「リディア」


 私は足を止め、一礼した。


「すまなかった」


 目の下に、薄く影がある。


「夜会のことは聞いただろう。ミレナとの話も止まっている。君がいれば、ああはならなかった。いや、そういうことを言いたいんじゃない。君には、ひどいことをした」


 後悔は本物なのだと思った。この人がこんな顔をするのを、六年のあいだ見たことがなかった。


「それで、頼みがある。王宮に戻れとは言わない。ただ、前のように、ときどき相談に乗ってくれないか。ミレナへの手紙も、侯爵への取りなしも、どう書けばいいのか分からないんだ。君なら」


 殿下は、その先を言わなかった。言わなくても分かった。六年間、何度も聞いてきた言葉の続きだった。


 引き受けることはできる。もう官職にないから、という理屈は、この頼みには使えない。手紙の下書きを一枚書くくらい、一刻もかからない。


「お断りいたします」


 殿下の顔から、表情が抜けた。


「ミレナ様へのお手紙は、殿下ご自身のお言葉でお書きになるのがよろしいと存じます。私の書いたものでは、あの方には届きませんから」


 それだけ言って、私はもう一度礼をした。


 殿下は何か言おうとして口を開き、それから閉じた。傷ついた顔をしていた。その顔を見ても、私は言葉を足さなかった。


 回廊を歩きながら、背中に視線を感じていた。振り返らなかった。


 公爵邸に戻ると、私は机に向かった。今度は勤務表でも返書でもない便箋を出した。


 宛名は、ルシアン・フェルツ殿。


 東通りの菓子店は、もう店を開けているはずです。五日後の昼は、いかがでしょう。


 日付を書き入れて封をし、使いに渡した。返事を待つあいだ、私は机の端の小鳥を指でつついていた。


*


 ベアトリスからの手紙が届いたのは、B班の休暇が明けた朝だった。


 娘の店は予定どおり開きました、とあった。看板は少し曲がって掛かったけれど、娘がそのままでいいと言うので、そのままにしたこと。開店の日に女官仲間が三人冷やかしに来て、一着ずつ注文していったこと。店に来た仲間の話では、ニナが妹の髪紐の話ばかりするので、控え室ではもう誰も聞いていないこと。今月から増員の募集が始まり、王宮で受ける行事には数の上限が設けられたこと。


 最後の一行は、こうだった。


 休めました。


 お礼の言葉は、どこにも書いていなかった。私は手紙を二度読んで、二度とも同じところで笑った。


 昼前、父が書斎から顔を出し、社交の筋から聞いた話だと前置きして教えてくれた。伯爵家のほうから、殿下との結婚の話はしばらく見合わせたいと申し入れがあったらしい。殿下の行事の制限と費用のことは、王妃様の書状にあったとおりだという。


 父はそれ以上の噂を口にしなかったし、私も尋ねなかった。


 机の上には、もう一通届いていた。以前に祝宴の運営を手伝ったことのある子爵家から、来春の催しの調整役をお願いできないかという打診だった。丁寧な文面で、条件もよかった。


 返事の期限は、来月の末とある。


 私は期限の日付を確かめてから、少しお時間をいただけますか、と返事を書いた。断るのでも、引き受けるのでもなく。封をしてしまっても、思っていたほど落ち着かなくはならなかった。


 菓子店の扉には、今日は何も貼られていなかった。


 中に入ると、焼いた生地と蜜の匂いがした。窓際の席に案内され、侍女は入口近くの離れた席に座った。


 品書きを見て、私は迷わず看板の揚げ菓子を選んだ。蜜に漬けた、いちばん甘いものだ。ルシアン殿は品書きの上で指を三往復させてから、何も塗らない焼き菓子を頼んだ。


「相変わらず、甘いものから逃げますね」


「前回の教訓です。歯は大事にしませんと」


 運ばれてきた揚げ菓子は市場のものより一回り大きく、蜜が皿にまで流れていた。私が一口かじると、ルシアン殿が少し身を引いた。


「見ているだけで甘い」


「美味しいですよ」


「それは疑っていません」


 彼は自分の焼き菓子を割りながら、ふと思い出したように言った。


「ところで、輪投げの件ですが」


「覚えていたんですか」


「忘れるはずがありません。あれから考えたのですが、私の敗因は、最初に理屈を語りすぎたことです。次は黙って投げます」


「黙っても、外れるときは外れますよ」


「では、次の外出で確かめましょう」


 次の外出。彼はそれを、当たり前のことのように口にした。


「ええ。確かめましょう」


 私も、当たり前のように答えた。


 皿が空になり、お茶が二杯目になったころ、私は言った。


「今日、お誘いしたのは」


 ルシアン殿が顔を上げる。


 用件を言おうとして、何もないことに気づいた。頼みたいことも、相談したいことも、報告すべきこともない。王妃様のことも殿下のことも、もう片づいている。


「用があったわけではないんです。ただ、お会いしたかったので」


 言ってしまってから、耳が熱くなった。


 ルシアン殿はしばらく黙っていた。それから茶碗を置いて、まっすぐに私を見た。


「私もです」


 低い声だった。


「二年前から、あなたを尊敬していました。でも、今はそれだけでは」


 彼は一度言葉を切り、茶碗の縁に指をかけて、また離した。


「あの日、帰ってからも、次はいつ会えるだろうと考えていました。紙を出して、日付を書きかけて、やめて。次の約束を、輪投げの再戦だけで終わらせたくありません。これからは、恋人として会っていただけませんか」


 答えるのに、予定表は要らなかった。


「はい」


 卓の上に、ルシアン殿の手が差し出されていた。少し迷ってから、私はその手を取った。大きくて、思っていたより温かかった。


「父には、そのうちご挨拶にいらしてください」


「そのうち、必ず」


 窓の外で、四の鐘が鳴った。


 馬車と約束した刻限だった。ルシアン殿が懐中時計を確かめ、そろそろ、と言いかける。


「もう少し、一緒にいたいです」


 ルシアン殿は、虚を突かれたような顔をした。


「お疲れになってはいけないと思って、早めに切り上げるつもりでいたのですが」


「疲れていません」


「でしたら、私のほうには、何の用事もありません」


 店を出て、広場で待っていた御者に、出発を四半刻ほど遅らせてもらえないかと尋ねた。御者は構いませんよと笑って、馬に水をやりに行った。侍女にも伝えると、彼女は心得た顔で、少し後ろを歩きますと言った。


 川沿いの道は、前に歩いたときより水かさが増していた。


 並んで歩きながら、次に会う日を決めた。輪投げの屋台が出る、次の市の日。ルシアン殿は懐から紙を出しかけて、私と目が合い、そのまま懐に戻した。私は笑って、日付は覚えておきます、と言った。


 広場の屋根が見えてきた。もう少しで、四半刻が終わる。


 私は少しだけ、歩く速さを落とした。ルシアン殿も何も言わずに、それに合わせた。

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女官長として戻ったら王子とミレナは悪気なく慢心して貶めてきそうだから、自分のためにも公爵家のためにも戻らないで正解。
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