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ラスト30分!!

掲載日:2026/04/07

空が、妙に澄んでいた。夕方でもないのに、青が薄く、輪郭だけが残っている。雲の縁がやけに白くて、まるで写真のハイライトを上げ過ぎたみたいだった。

 テレビはつけっぱなしになっている。画面の左上には赤い帯。「緊急特別番組 隕石衝突まで30分」。キャスターは汗を拭きながら、同じ言葉を丁寧に繰り返している。「落下予想地点は――」「半径――キロ圏内の皆さまは――」「可能な限り速やかに――」。その“可能な限り”が、どこか現実をぼかしているようで、僕は音量を二つ下げた。

 窓の外、いつもの住宅街は、いつもより静かだった。騒乱の気配はない。むしろ、休日の朝みたいに淡々としている。遠くで救急車のサイレンが一度鳴って、すぐに消えた。

 玄関のチャイムが鳴る。


「おーい、いるか。お前ら、まだ家なのか」


 ドアを開けると、隣の佐伯さんが立っていた。ジャージ姿に、妙にきれいな白い運動靴。手にはコンビニ袋と、缶ビールの六本パック。


「まだ、っていうか……」


「避難、しねえの?」


「うーん。する気が……今さらっていうか」


 僕が言い終える前に、佐伯さんは肩をすくめた。


「今さら、な。分かる。俺もだよ。ほら、これ。最後にうまいもんでも食おうと思ってさ」


 コンビニ袋の中には、唐揚げ、ポテトサラダ、紙パックの水、そして妙に高いプリンが二つ入っていた。佐伯さんはそれを誇らしげに掲げた。


「お前、プリン買ってんじゃん」


「笑うな。人生の最後は、甘いもので締めるって決めてたんだ」


 僕は笑ったつもりだった。喉が変に乾いていて、笑い声がうまく出ない。家の奥から足音がして、母が顔を出す。


「佐伯さん……。避難は?」


 母は丁寧に聞く。丁寧な人だ。最後の最後まで礼儀が残るタイプの人間。


「しません。っていうか、無理でしょう。車出したら渋滞で、途中で終わります。だったら、この家で」


 佐伯さんは“終わります”と言った。言い慣れない言葉を無理に口に押し込むみたいに。


「うち、電波まだ入る?」


 僕はスマホを掲げる。通知がいくつも溜まっている。「避難しろ」「冗談だろ」「政府は何してる」「祈れ」。誰かが笑い話にして、誰かが怒っていて、誰かが泣いている。画面の上にはタイマーみたいに「衝突まで 00:28:12」。


「入るな。……入るだけ、嫌になるな」


 佐伯さんはそう言いながら、リビングに上がり込んだ。母はためらいながらも、台所から紙皿を出してくる。僕は冷蔵庫を開け、ペットボトルを探す。いつもの動作が、いつもと同じ速度で続く。人間は、世界の終わりにも習慣で対抗するらしい。

 テレビの音が、背中で低く鳴っている。専門家が、確率、角度、速度を語る。数字は、恐怖を薄めてしまう効果がある。僕はそういう“現実逃避の知識”を、いつも持っていた。

 玄関がもう一度鳴った。今度は、少し遠慮のない押し方。


「おい! 開けろ! いるんだろ!」


 中学の同級生、野田だった。髪が風で乱れて、目の下が赤い。彼の背後には、同じように息を切らした人が二人。どちらも見覚えのある顔だ。町内会の人だろう。手には、避難所で配られるはずだった毛布が巻かれている。

「お前ら、ここにいたのか。……避難所、もうぐちゃぐちゃだぞ」

 野田は玄関で靴も脱がずに言う。家の中の整った空気が、その言葉で一気に崩れる気がした。


「ぐちゃぐちゃ?」


「信じてない奴が暴れてる。信じてる奴が怒鳴ってる。半信半疑の奴が政府を罵ってる。祈る奴がいる。笑ってる奴がいる。……あと、殴り合いもあった」


 野田は笑おうとして失敗した顔をした。


「お前は信じてるの?」


 僕が聞くと、野田は一瞬だけ黙った。


「信じてたら、ここに来ない。……でも、信じてないとも言えない」


 その言葉が、僕の胸の中に重く落ちた。“信じていない”は楽だ。強い。自分が現実を見抜いている、という優越感がある。けれど、“信じてないとも言えない”は、現実の重さをそのまま背負う言い方だ。

 野田の後ろの町内会の女性が、震える声で言う。


「ここ、落下予想地点の……真ん中ですよね」


 母がうなずく。テレビが、落下予想地点の地図を映す。赤い円の中心に、小さく僕たちの町がある。画面の中では、僕の家も佐伯さんの家も、等しく赤い。神様が描いた的みたいに。


「だから、避難するなら、さっきが最後だったと思う」


 佐伯さんは紙皿に唐揚げを乗せながら言った。唐揚げの匂いが、妙に生々しい。油の匂いは、終末にも普段通りだ。

 僕たちはリビングに集まった。五人。いつもの集まりなら、テレビはバラエティで、笑い声があって、誰かが仕事の愚痴を言って、母が「若いんだから」とたしなめる。今日は違う。テレビは赤い帯で、笑い声はなく、愚痴は世界に向けて発射されて、母のたしなめる相手は“現実”だ。

 タイマーは「00:22:40」。


「なあ」


 野田がプリンを見て言った。


「最後にプリンって、どういうセンスだよ」


「最高のセンスだろ」


 佐伯さんが言い返す。そこで、少しだけ笑いが起きた。喉の奥がつっかえるみたいな笑いだ。笑うと、泣きそうになる。泣くと、笑いそうになる。感情の境界が、薄い紙みたいになっていた。


「避難しない理由、ってさ」


 町内会の女性が、唐揚げを一つ手に取りながら言う。指先が震えて、唐揚げが揺れる。


「笑い話にしてたとか、信じてなかったとか……それだけ?」


 その問いは、僕たちの“言い訳”を剥がす。


「だって、さ」


 僕は口を開いた。言葉を探す。言葉が見つからない。代わりに、いつもの理屈が出そうになる。“確率が”“政府が”“情報が遅い”“人間はパニックを起こすから――”。それらは全部、学んだ言葉だ。守りのための言葉だ。

 でも、今この部屋には、守るべき未来がない。


「……信じたら、生活が壊れるから」


 僕は言った。自分でも驚くほど、素直な言葉だった。


「信じた瞬間に、全部が終わる。仕事も学校も、明日の予定も、冷蔵庫の中身も。信じたら、今までの積み重ねが意味を失う。だから、信じないふりをした」


 母が、ゆっくりと息を吐く。


「そうね」


 母は僕を見るのではなく、テーブルの木目を見て言った。


「私は、信じるのが怖かった。信じたら、あなたに“行きなさい”って言わなきゃいけないから。あなたを外に出して、ひとりで待つことになるから。だから……信じないふりをしてた」


 その告白は、痛かった。母の強さが、実は怖さの裏返しだったことを、僕は知ってしまった。


 佐伯さんはビールの缶を開けた。プシュ、という音が、やけに大きく響く。


「俺はな」


 佐伯さんは缶を見つめて言った。


「信じたところで、どうせ助からねえと思った。……昔からそういう癖がある。何かが来るって言われても、“どうせ”って言って、何もしない。転職の話も、健康診断も、奥さんとの話も。全部、“どうせ”で片づけた」


 野田が、苦笑いをした。


「その“どうせ”が、今日まで生きてきた理由でもあるんだろ」


「まあな。……皮肉だよ」


 タイマーは「00:16:05」。


 外で、犬が吠えた。普段なら誰かが「うるさいな」と言う。今日は誰も言わない。吠える犬が、世界の最後に抵抗しているみたいに聞こえた。

 テレビの映像が切り替わる。空を見上げる人々、スマホを掲げる人々、手を合わせる人々。インタビューの声がノイズ混じりに流れる。「信じていません」「政府の陰謀だ」「子どもだけでも助けて」「最後は笑って――」。笑って、と言った人の笑顔が、画面の外で崩れたように見えた。

 野田が立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。


「……見えるかな」


「見えないよ、まだ」


 僕は言った。言い切った。専門家が“肉眼で見えるのは衝突の数分前”と言っていたから。知識を盾にした。知識は最後まで僕の癖だ。

 町内会の女性が、スマホを握りしめて言う。


「娘に電話しても、繋がらない。避難したはずなのに。……避難したからこそ、混乱の中にいるのかもしれない」


 その言葉は、僕たちの“動かない選択”を揺らした。動かなかったことが正しかったのか、間違っていたのか。そんな評価は、もう意味がない。けれど、意味がないのに、僕たちは意味を探してしまう。


「ねえ」


 母が小さく言った。


「あなた、後悔してる?」


 僕はすぐに答えられなかった。後悔は、時間がある人間の贅沢だと思っていた。今は時間がない。なのに、後悔だけは濃くなる。


「……してる」


 僕は言った。喉が痛い。


「でも、もっと怖いのは……後悔しても、何も変わらないことだ」


 母はうなずいた。うなずき方が、いつもより遅い。


 タイマーは「00:10:30」。


 そのとき、遠くで、空が一瞬だけ白くなった。雷ではない。光の質が違う。太陽の反射とも違う。僕たちは同時に顔を上げた。テレビのキャスターが声を張り上げる。「各地で目視報告が――」。

 野田がカーテンを一気に開けた。


「……あれだ」


 空の端、星よりも大きい光が、そこにあった。動いている。確実に、こちらに向かっている。白い点が、わずかに尾を引いている。尾の色は、青でも赤でもなく、ただ“熱”の色だった。

 その瞬間、言い訳が崩れた。

 信じていない、という立場の安全が、剥がれ落ちた。笑い話にしていた軽さが、重さに変わった。半信半疑の逃げ道が、塞がった。

 現実が、こちら側に来た。

 町内会の女性が、口に手を当てる。


「……本当に……」


 佐伯さんが、ビールを飲むのを忘れて立ち尽くす。


「うそだろ」


 野田は、声が出ない。目だけが動く。僕は、呼吸の仕方を忘れる。肺が、酸素を拒否しているみたいに。

 テレビの音が一段上がった。キャスターが叫ぶ。「衝突まで――」。数字が変わる。


「00:07:12」。


 外で、何かが落ちる音がした。隣家の植木鉢だろうか。風が強くなった気がした。いや、風ではない。耳が、低い音を拾い始めた。遠い地鳴りの前触れみたいな、腹の底に響く音。


「ねえ」


 母が僕の袖を掴む。その力が強い。母の爪が、布越しに食い込む。


「あなた、怖い?」


 僕はうなずく。うなずくしかない。声を出したら、壊れてしまう気がした。


「ごめんね」


 母が言った。


「信じないふりを、一緒にしてしまって。あなたを守るつもりで、あなたから選ぶ機会を奪った」


 僕は首を振った。否定したい。母を責めたくない。責めたところで、何も変わらない。でも、否定の言葉が出ない。どの言葉も薄っぺらい。

 佐伯さんが、ふいに笑った。


「……プリン、食うか」


 笑いは、震えていた。泣き声の一歩手前の笑いだった。


「最後に、甘いの」


 母が言う。母も笑おうとして失敗する。

 僕たちはスプーンを手に取った。手が震えて、プリンの表面が波打つ。口に入れると、甘さが広がった。甘いのに、苦い。舌が、感情を処理できない。


 タイマーは「00:04:20」。


 空の光が大きくなる。点だったものが、円になる。円が、膨らむ。尾が太くなる。熱が、見える。世界が、明るくなっていく。昼間の明るさではない。照明の明るさでもない。破滅の明るさだ。

 遠くで、窓ガラスが一枚、割れる音がした。続いて、別の家でも。パリン、パリンと、連鎖のように。振動が来ている。まだ衝突していないのに、空気が押しつぶされている。


「……やばい」


 野田がやっと声を出した。声は掠れている。


「これ、やばい……」


 当たり前の言葉しか出ない。人間は極限で、語彙を失う。

 町内会の女性が、スマホを掲げる。画面は“圏外”。彼女は笑う。笑って、泣く。泣いて、笑う。


「娘に、言えなかった。最後まで、ちゃんと……」


 言葉が途切れる。泣き声が、代わりに出る。

 僕はその泣き声を聞いて、ようやく自分の中の“信じないふり”が、ただの怯えだったと理解した。知識でも理屈でもなく、怯え。怯えを正当化するために、“信じない”という態度を選んだ。それは強さではなかった。怖さを隠す技術だった。


 タイマーは「00:02:10」。


 リビングの照明が、いらなくなるほど明るい。影が薄くなる。窓の外が、白い。太陽が二つあるみたいだ。空が、燃えているように見える。いや、燃えているのは、大気だ。

 腹の底の音が、明確な轟音に変わった。音が近づく。近づくというより、世界そのものが音になって押し寄せてくる。

 母が僕の手を握った。指が冷たい。冷たいのに、汗で滑る。


「……あなた」


 母は僕の名前を呼ぼうとして、呼べなかった。名前は“未来”のための言葉だ。未来がない場所では、名前も行き場を失う。

 佐伯さんが、缶ビールを握りつぶした。アルミが潰れる音がする。その音が、なぜか人間らしくて、胸が詰まる。

 野田が、窓の方に歩いた。


「見たい」


 彼は言う。意地でも、最後を見届けたいという声だ。逃げない、というより、目を逸らさない。僕はその背中を、尊いと思ってしまった。


 タイマーは「00:00:58」。


 世界が、さらに明るくなる。白が、痛い。目を細めても痛い。窓ガラスが震える。家が、呼吸しているみたいに軋む。棚の上の写真立てが倒れる。床が揺れる。揺れの質が、地震と違う。もっと広く、もっと一方的だ。

 僕の胸の中で、何かが崩れる音がした。信じないことで守っていた自分の形が、崩れた。

 僕は、ようやく“信じる”という行為が、現実を受け入れることではなく、現実に対してどう生きるかを選ぶことだったのだと理解した。僕たちは、信じないことで選ぶことを放棄していた。選ぶことを放棄することで、責任から逃げていた。世界の終わりにさえ、責任から逃げる自分の小ささを、僕は見た。


 タイマーは「00:00:20」。


「……ごめん」


 僕は言った。誰に向けた言葉か分からない。母にか、野田にか、町内会の女性にか、佐伯さんにか、それとも、今までの自分にか。

 母が、強く握り返した。


「ううん」


 母は言った。声が震えている。


「最後に、あなたがここにいる。それだけでいい」


 タイマーは「00:00:08」。


 音が、世界を満たす。光が、世界を満たす。空気が、世界を満たす。

 僕は目を閉じた。閉じても、白い。まぶたの裏が白い。熱が近い。風が、肌を叩く。

 そのとき、僕は初めて、信じなかった自分を赦したいと思った。赦すことでしか、最後の一秒を自分のものにできないからだ。逃げた自分も、怯えた自分も、笑い話にした自分も、全部が僕だった。全部が、ここにいる。

 タイマーがゼロになる瞬間、僕は母の手の温度だけを覚えていようとした。

 そして――


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