悪魔の誘惑
「あ、あくま……?」
俺はなんとか声を絞り出す。
すると少女は「いやだなぁ」とばかりに手を振った。
「さっき言ったじゃん。悪魔参上~って」
「ハ、ハロウィンのコスプレとかじゃなく?」
「今は八月だよ。ひょっとしておにいさん、寝ぼけてる?」
少女が俺の顔を覗き込むように近寄ってくる。
俺はそれと同じ距離だけ後ずさった。
あまりにもわけがわからなさ過ぎて、状況に理解が追い付いていない。
まさか先輩が落ち込んだ後輩のために女の子を手配してくれたとか?
いやいや、それにしては手が込み過ぎている。そもそもいくら面倒見が良いと言っても限度がある。さすがにこれはない。
「……っていうか、君はどこから入ってきたんだ?」
「うーん、入ってきたというか……こう、ぽんっとここに現れたって感じ?」
少女は言いながら小さく首を傾げた。
だめだ。意味がわからない。
俺はあらためて少女を見る。
服装こそ奇抜だが、見た目はいたって普通の少女だ。調和のとれた目鼻立ち。ぷっくらとした瑞々しい唇……どことなくポスターのアイドルに似ている気がしなくもない。
俺に観察されていることに気付いたのか、少女はノリノリになって色々とポーズを取り始めた。動く度に短いスカートから太ももがちらつくので、本来であれば目のやり場に困るはずなのに、俺はなぜか少女が『可愛い』と思えなかった。
理由はすぐにわかった。
目だ。黒い瞳が一切の光を反射していないのだ。
黒ではなく『無』。
しかも、どういうわけか少女と周囲の景色の境界面がぼやけて見えた。まるで空中に映像を映しているかのようで、現実感がない。
「どう? 堪能できた?」
少女は、今度は人差し指を唇に当て妖艶な笑みを浮かべる。
だが、俺にはそれが笑っているようには見えなかった。ギャルっぽい口調も、ポーズも、表情も、すべてがそういう演技をしているようにしか見えない。
間違いなく、この子は普通の人間じゃない。
人の姿形をした、まったく別のナニカ……。
「……あ、悪魔が俺にいったい何の用だ?」
カラカラになった口をなんとか動かして尋ねる。
「それもさっき言ったよ。おにいさんの願いをかなえるためだって」
「俺は悪魔なんて呼び出した覚えはない」
「そりゃ呼ばれてないもん」
「俺に悪魔に叶えてもらいたい願いなんてない」
「またまたぁ、悪魔に嘘は通じないんだから」
そう言うと、悪魔を自称する少女はいきなり手のひらを前に突き出した。
次の瞬間、何も持っていなかったはずの小さな手に一本の木製バットが握られていた。
「そ、それは……?」
「野球のバットだよ。見ればわかるじゃん」
「……そ、そのバットがなんだって言うんだ?」
たしかに俺みたいな個人スポンサーのつかない二軍選手にとって、バットは何本あっても困らない。が、今はそういう話じゃない。
「これはね、ただのバットじゃないよ。悪魔の力を宿したバット。具体的に言うと、『振ればどんなボールでも絶対にヒットにできる悪魔のバット』ってところかな」
「悪魔のバット……」
「おにいさん、けっこうヤバいんでしょ? このままだとプロ野球選手をクビになっちゃうかもしれないんでしょ? でも安心して。このバットを使ってばんばんヒットを打てば、クビどころかすぐに一流選手の仲間入り!」
少女はそう言うと、「はい、どうぞ」とバットを差し出してきた。お菓子食べる? くらいの軽いノリである。
「い、いらない」
俺は本能的な恐怖を覚え、後ずさった。
「え、なんで?」と首を傾げる少女。
「そんな怪しいもの、受け取るわけないだろ」
「そお? 超便利なのに」
言いながら少女は「ふんっ、ふんっ」と素振りの真似を始めた。
まるで腰が入っていないでたらめなスイングだが、そんなことはどうだっていい。
確実にヒットが打てるバット……。そんなものがあるはずがない。一流ピッチャーの球を打つのがどれだけ難しいか。この少女が理解しているとは到底思えなかった。
……だが、もし本当に実在するとしたら、まさに夢のバットだ。
「仮に……仮に、そのバットにそんな力があるとして、代償はなんだ? このバットを使ったら最後、俺は君に魂とか寿命とかを奪われるんじゃないのか?」
すると少女は素振りを止め、「あはは」と笑った。
「人間って必ずそれ聞いてくるよね~。その誤った認識って、いったい誰が最初に言い出したんだろうね? あのね、悪魔はそんなものに興味ないの」
「じゃあ、代償はないのか?」
「それはもちろんあるよ」
「どんな代償なんだ?」
「それは、ひ・み・つ」
「ふざけるな。代償がなにかもわからないで悪魔と取引なんてできるわけないだろう」
「まーそれはたしかにそうだよねぇ。うーん、言葉で説明するのは難しいなぁ。強いて言うなら、おにいさんを観察させてもらうこと、かな。それがこのバットを使うことの対価」
「観察? 本当にそれだけなのか?」
「うん」
「嘘だ。それだけのはずがない」
「人間のモノサシで決めつけないでほしいな。ウチら悪魔にとってはそれが超大事なことなんだから」
「……」
俺は胡散臭いと思いつつも、妙に納得してしまった。なにせ相手は人間ではない。悪魔とはそういう存在だ、と言われてしまえば否定できる根拠はなにもない。
「死んだら地獄に行くとか、そういうことは?」
「だからさ~、その誤った解釈はなんなの?」
少女はけたけたと笑う。
「本当に寿命を取られたりはしないんだな? 俺の周りが不幸になったりとかも」
「疑り深いなぁ。まぁ人間はみんなそうなんだけど。じゃあこうしよっか、初回サービスってことで一回目はタダで使わせてあげるよ。それで気に入らなかったら返してくれればいいし。もし気に入ったなら継続して使うってことで」
「……」
「ねぇ~、それならいいでしょ~?」
少女はおねだりするように上目づかいで再びバットを差し出してくる。
その瞳はやはり何も映していない虚無。
応じてはいけない。
理性はそう言っていた。
だが――。
俺ははっきりと拒むことができなかった。
このままシーズンを終えれば、俺は戦力外になる可能性が高い。よくても現役ドラフトかトレード要員だろう。どの道、残されたチャンスはもうほとんどない。
だが、もし本当に確実にヒットが打てるなら、今の状況なんて簡単にひっくり返せる。プロ野球選手で居続けられるのだ。
「だいじょぶだいじょぶ。別に持ってても使わなければいいだけだし」
耳元で囁く少女の声は、あまりにも甘美な響きを持っていた。
そう、持っていても使わなければいい。
いわばこれは保険みたいなものだ。
……気が付けば俺は『悪魔のバット』を少女から受け取っていた。




