第六章 地上、死なない善人
地上では、もう一つの異変が静かに進行していた。
本来なら――
「これは助からない」
そう言われるはずの場面で、人が死ななくなった。
老医師は、カルテを見つめて首をひねる。
「理屈では説明できないが……生きている」
奇跡ではない。運でもない。
ただ、死ぬ理由が発動しなかった。
交通事故では、衝撃がわずかに足りない。重病では、致命的な悪化が一段遅れる。災害では、瓦礫がもう一枚ずれる。
「助かったのは、たまたまですか?」
誰かが聞く。
「いや」
医師は首を振った。
「この人は、普段から無茶をしない」「整備された道を歩く」「定期検診を受ける」
ちゃんと生きていた。
天界への道が、詰まっていた。
門前に滞留する善男善女。決裁待ちの魂。
――行き先が塞がれた結果、魂は、まだ体に留まった。
世界は、それを拒まなかった。
「最近、平均寿命が伸びている」
「しかも伸びているのは、善良層だ」
統計は、はっきりと示していた。
一方で、悪人は死ぬ。
無茶をし、賭けに出て、偶然に救われることを前提に生きてきた者たちは、その前提を失った。
「おかしい……運が良ければ助かるはずだった」
助からない。
天界が詰まると、地上は溢れる。
しかも溢れるのは、順番を守ってきた者たちだ。
その頃、魔界の城。
「地上、人口構成が歪み始めたぞ」
「善人が死なない世界か」
神様は、少しだけ目を伏せた。
「これは……想定外だ」
偶然を止めただけで、死のタイミングまで変わるとは。
「戻すか?」
魔神が問う。
神様は、すぐには答えなかった。
「まだだ」
そう言ってから、付け足す。
「だが―― このままでは、誰かが決断しなければならなくなる」
地上では今日も、本来なら終わっていたはずの一日が、静かに、続いていた。




