第一章 神様、逃亡先でため息をつく
「……静かだ」
神様は、岩山にぽつんと建つ魔神の城のバルコニーで、深いため息をついた。
天界では一日に三百六十五回は鳴る緊急祈願ベルも、ここでは一度も鳴らない。
代わりに聞こえるのは、魔界特有のゴオォという地鳴りのような環境音と、遠くで魔物が何かに失敗して爆発した音だけだ。
「その顔、完全に燃え尽き症候群だな」
背後から声をかけてきたのは、この城の主――魔神である。
巨大な角に、いかにも悪そうなマント。しかし手には湯気の立つマグカップ。
「ミルク多め、砂糖二つ。天界式だろ?」
「……気が利くな」
神様はマグを受け取り、両手で包むようにして飲んだ。
「有給を取らなかった神の末路ってやつだな」
「有給という概念を作った覚えはないが……今後は必要だな」
神様は遠い目をした。
「毎日毎日……」
・雨を降らせるか否かの決裁
・恋愛成就の可否(しかも一方的)
・宝くじ当選のクレーム対応
・『昨日の晩ごはんがまずかったのは神の采配か』
「こんな投書ばかり……限界だ」
「最後のは完全に八つ当たりだろ」
魔神は肩をすくめた。
「で? これからどうするつもりだ?」
「とりあえず、何もしない」
「神が何もしないと、世界はどうなる?」
「案外、回る」
神様は即答した。
「人も天使も、私が決めるから考えなくなる。結果、また仕事が増える。完全な悪循環だ」
そのとき、城の門の方からドタドタと足音がした。
「魔神様ー! 大変ですー!」
現れたのは下級悪魔だった。
「どうした」
「天界から捜索依頼書が届きました!」
神様と魔神は顔を見合わせる。
「……もう来たか」
「仕事が早いのは、こういう時だけだな」
神様はマグを置き、立ち上がった。
「よし。では次の段階だ」
「まだ段階があるのか」
「あるとも。神様抜きで世界を回す社会実験だ」
魔神は、にやりと笑った。
「面白い。全面協力しよう。ただし条件がある」
「なんだ?」
「逃亡中は、肩書き禁止、奇跡禁止、敬語禁止。破ったら罰ゲームだ」
神様は少し考え、そして――吹き出した。
「……悪くない」
こうして、史上初の『無職の神様』による観察が始まったのであった。




