婚約破棄はいたしません
「婚約破棄?」
「ええ。そうです」
婚約破棄、のフレーズに、まん丸の目をさらに丸めてきょとんとしたのはメアリーの婚約者であるウィルで、にこやかに笑って頷いたのは、メアリーの兄──イースだ。
メアリーの前に仁王立ちをして勝手に婚約破棄を伝えた兄を、呆れたように見てその肩を掴む。
「退いてくださいませ、お兄様」
「あっ、ちょっと、やめなさいメアリー! この馬鹿力!」
「お口がお悪いようですわね」
ぎゅむ、と頬を強く掴む。
軽くしたつもりだったが、イースの顎はミシッと奇妙な音を立てた。
「あああああ」
「……メアリー、多分痛いと思う」
「あらやだ、ウィル、これでも兄はこのエイアド家の跡継ぎよ。このくらいの力で泣いて逃げ出すはずもありませんわ」
「泣いてるよ」
ウィルの優しい顔が悲しそうになったので、メアリーはパッと手を離した。
どしゃっとわざとらしく床に座り込む兄を見下ろす。
「お兄様、おやめくださいませ。みっともない」
イースは涙目で顔を擦っているが、メアリーは知っている。
身体も頑丈に生まれてくるこのエイアド家の長男であるイースが、軟弱者ではないことを。
常に「争いは嫌いなんですー」と訓練をすっぽかしているらしいが、毎年恒例の国王主催の剣舞大会では幼少の頃より一度たりとも地に手を付けたことがない、大人を相手に十二から一度も負けずにきた猛者である。
あと二年もすれば、やたら格式張った格好で城で務めることになるだろう。
メアリーはウィルに手を貸されて立ち上がる兄をじろりと見た。
「いい加減、私とウィルとの婚約を破棄なさろうとしないでくださいませ」
「……ふざけるんじゃありません。婚約など認めて──」
「お兄様に認めていただかなくて結構です」
キッパリと言いきったメアリーをショックを受けたように見る兄は、もしかしたら役者にでも転身したほうがいいかもしれない。迫真の演技でメアリーに噛みついていくる。
「だめだ、だめだだめだだめだ、婚約はすぐに破棄を!!」
「……駄目、なの……?」
「!」
「……そ、っかぁ……」
「いえいえいえ、ダメじゃないんですけどね?!」
ウィルがしょんぼりと項垂れると、イースはすぐさまぶんぶんと首を横に振った。
跪く勢いで「違う違う」と無駄に叫んでいる。
あまりにうるさいので、メアリーは「うるさくてよ」と低く呟いた。兄がピタリと止まる。
ウィルは困ったようにイースを見下ろした。
「僕はメアリーと今すぐに結婚したいくらい、彼女を愛してるんだ。どうか兄であるあなたにも認めていただきたい。どうしたらいい……?」
小首を傾げたウィルに、イースは「うっ」と何かがヒットしたように胸を抑えて力なく土下座をする。
メアリーは兄の背をそっと撫でた。
「お兄様……私を大切にしてくださっているのはわかりますが、いつか嫁ぐ身。それは変わりませんわ。ええ、確かに昔は〝お兄様と結婚したい〟と申しましたけれど……私はウィルと仲睦まじく一生を過ごして行きたいと思っていますの。私たちを祝福してくださいませ……」
「ウィル様!! あなたにこのような粗暴で馬鹿力で冷酷な妹など似合いません!! 痛っ!!!」
背中にドスッと鈍い音がして、イースが潰れる。
メアリーは「あらいやだ」と困ったように頬に手を当てた。
「お兄様ったらどうしたのかしら……」
「大丈夫? イース」
「……、ウィル様に心配していただけるなど……ありがたき幸、せ……」
「お兄様。起きてくださいませ。私達これから出かけますので、いつまでもそのように駄々をこねていらしても仕方ありませんわよ」
メアリーはそう告げると、ウィルに「行きましょう」と声を掛ける。
と、俊敏にイースが立ち上がった。
「どこへ行く!!」
「ちょっとそこまで、です」
「行ってくるね」
ウィルがにこりと笑うと、イースはすぐに出かける準備を始めたのだった。
◯
「いつまでああやって騙しているつもりなの?」
メアリーは馬車の中でウィルに話しかけた。
向かいに座る軟弱な青年に見える優しげな婚約者は、途端にニヤリと笑う。
「騙してるだなんてひどいな」
「あなた性格悪いのに、お兄様の前で猫を被りすぎよ」
「性格の悪さはお互い様だ、メアリー」
「あら。では性格の良さそうなお嬢様を紹介して差し上げましょうか?」
「結構だ。君のその性格の悪いところが気に入っている」
「愛していると仰ってくださってもよくてよ」
メアリーがにこりと笑うと、ウィルもにこりと笑った。
「愛しているよ、メアリー。君は?」
「お慕いしておりますわ、王太子殿下」
「……」
「……」
「さてと」
「ええ、作戦Aの決行をしましょうか。捻り潰してあげましてよ」
メアリーが拳を握ってみせると、ウィルに「そのポーズは洒落にならないからやめろ」と言われたのだった。
◯
「えっ、いえ、結構です。お気遣いなく!」
イースの声が慌てている。
メアリーとウィルはその声を一つ高い席から見下ろしていた。広々とした庭園で開催されている「お茶会」は大変賑わっており、イースは令嬢に囲まれている。
これは二人が主催した、若者の交流会──という名の婚活パーティーなのだが、そういうものに一切出てこなかったイースがいることで、ある種の興奮に包まれていた。
「王太子様主催のガーデンパーティーに、イース様がいらっしゃるなんて!」
「ラッキーだわ!」
「待って、わたくしが先に」
「あなた婚約者がいらっしゃるでしょう?!」
今にでも乱闘が始まりそうなところを見ていたメアリーは、やれやれと腰を浮かせる。
「待て」
表情は外用の「王子様」のままのウィルに止められ、メアリーは仕方なく文句を言いながら座り直した。
「ウィル、お兄様が真っ赤で慌てふためいていて見ていられませんわ。作戦Aは失敗のようね。いまだ婚約者のいないお兄様にお相手を、と思ったのですが」
「いいから見とけ、メアリー」
ちらりと視線を追いかけると、そこへやたら華やかな集団が参加し始めた。つまるところ、顔のいい貴族の息子たちだ。
途端に場がわっと華やぐ。
「多めに生贄を用意しておいた」
「まあ。素敵」
メアリーが手を合わせてその様子を見下ろす。令嬢たちは蜘蛛の子を散らすようにさあっとイースから身を引いた。
当のイースは何やら安堵しているらしく、乙女のように胸を撫で下ろしている。
「……けれどお兄様が今度は可哀想に見えますわね」
「いつもああだぞ。あいつは家柄も性格も問題ない品行方正な奴だというのに、女性が苦手で免疫がないからなあ」
「このままですと悪い方に騙されて舞い上がって転がされて、財産搾り取られてた挙げ句に雑巾のように捨てられるのが目に見えていますもの……どうにか私達が時間があるときに誰かとくっつけておかなければ、心配で心配で嫁げませんわ」
メアリーがそう言うと、ウィルは珍しく眉間に皺を寄せた。しかしメアリーは気づかない。
「……だからどうにか婚約者を探してるんだろうが」
「? どうかしまして?」
「なんでもないよ」
「私達はただの政略結婚ですけど、お兄様は私と違って図太くないですから、きちんとお兄様が恋に落ちるお相手を探しましょう」
「……ああ、そうだな……」
「あ」
「どうした」
メアリーは先程までイースがいたはずの場所を指さした。
まさかと思えば、全力ダッシュでこちらへ向かってくる兄が見える。
「これは文句を言われるかもしれませんわね……嵌めたのがバレてますわ、あの顔を見てくださいませ」
「愉快な顔をしているな」
「似てなくて心底安堵しております」
「そうか? よく似ているぞ」
「……」
「……」
「そろそろ猫を被ってはいかが?」
「あいつが来たらそうするよ」
「まあ」
二人で睨み合っていると、ガシャンと何かを落とす音が聞こえてきた。見てみると、どうやらイースがテーブルに衝突したらしく、弾みでどこかの令嬢に落ちたカップがぶつかったらしい。
「も、もうしわけ、ありません!」
「あらあら……お気になさらないでくださいませ。お怪我はございませんか?」
「ありません、そちらは──」
「わたくしは大丈夫ですわ。お気遣いどうもありがとうございます」
「いえ、ドレスに染みが……!」
「まあまあ、これくらい、どうにでもなりますわ。洗って落ちなければ、飾りをつけてしまえばいいのです。このドレスも何度も着ましたから、これを機に新しくレースを付け足そうかしら……? どう思います?」
おっとりとしたご令嬢は、必死で謝罪を考えていたであろうイースの表情を和らげた。
それでいて「このドレスならば、薄いレースで軽やかなフリルを足してはいかがでしょうか」と具体的なアドバイスをしたイースに「素敵……!」といたく感動している。とうとう熱いドレス談義が始まってしまった。
メアリーはウィルを見る。
「あの方は? 見たことありませんわ」
「従姉妹だ。隣国で育って、先週からこちらで預かっている」
「まさか……」
「ああ、本命に引っかかるとはな」
「彼女は大丈夫なの?」
「問題ない。後はあいつ次第だと思っていたが……」
二人で何気なくイースを見れば、とてつもなく恋する乙女の顔をした男がいた。
「……大丈夫そうだな」
「……そうね」
「じゃあ俺達は無事に結婚できるよな?」
「お兄様がまとまるまでは邪魔をされそうですわね……あれで奥手ですから」
「……」
「……」
「よし。行くぞ。どうにかしてでもくっつけてやる」
ウィルが美しく立ち上がる。
メアリーもそっと立つと、ウィルが差し出してきた腕を取った。
「はあ……本当にイースは世話が焼ける」
「お兄様ごとき、私たちで捻り潰して結婚させてしまいましょう」
「拳を握るんじゃない」
「ふふ。ではウィル。仲睦まじい婚約者とやらをいつものように演じましょうね」
「……ああ、そうだな……」
「婚約破棄なんて……今までしてきた努力が無駄になるじゃないの。そんなの嫌よ。血反吐吐くほど教養を叩き込まれて、人脈だって苦労して築いたのよ。政略結婚が何よ。ウィル、あなたは私では不満かもしれないけれど、ここは割り切って頂戴ね。適材適所だと思って」
「……お前たち兄妹は本当に厄介だな」
「? なあに?」
「なんでもないよ」
メアリーは気づいていない。
相当婚約者に愛されていることを。
彼女がそれに気づくまで、あと少し。