後編
私が向かったのは、やはり国の外れにある大きな森だった。昨夜お前に語った敵国の魔法使いの話が、どうも本当にあるような気がしてならなかったのだ。誰にも知られずこっそり行きたいと思ったから、夜明け前にこっそりと部屋を抜け出して、厩の一番速い馬を拝借した。そして、夜が明ける頃には森に着いていた。
森には白い霧が出ていて、視界が悪かった。道が細かったから、馬を下りて、1人で歩いた。だが、少しも歩かないうちに、気分がすこぶる悪くなってきた。どうやら、霧は魔法で生んだものだったらしい。
私は木の根元に座り、体調が回復するのを待とうと思った。だが、その時、黒い格好の何かが、木々の向こうにひらひらと動いているのが見えた。
「あれは何だろう?」
どうしても気になった私は、よろめきながらも立ち上がり、その黒い何者かを追いかけた。ところが、そいつはあっちへひらひら、こっちへひらひらと行きつ戻りつしながらも遠ざかっていくではないか。追いかけるうちに、私は帰る道のしるしをつけることも忘れ、ずいぶん森の奥深くまで入り込んでしまった。
黒い衣の袖から、真っ白な手だけがのぞいていて、私に向かっておいでおいでをしていた。その時私ははっと気がついた。これは罠かもしれない。だが、黒い何かは私を待ち構えている。私は剣を抜き、ゆっくりと黒い何かに近づいた。
近づいてみると、そこにいたのは、黒いマントをかぶった若い女だった。顔立ちは美しいが、ぼろぼろの黒い衣といい、ぎらぎらと輝く瞳といい、ただ者とは思えなかった。
「何者だ?」
私が問いかけると、その女はにやりと笑った。私の周りの霧が濃くなり、息ができなくなった。
苦しみ動けない私を、女は木に縛りつけ、剣を奪い、木々の向こうに姿を消した。白い霧はじきに晴れて息ができるようになったが、獣のうなり声があちこちで聞こえ、気が気でなかった。
あの女は、何者なのか。黒い衣の他は、何も持っていなかった。だが、霧を自在に操るところといい、お前のような魔法使いであることは間違いない。女を追わねばと思い、私を縛る縄をなんとかゆるめようとした。その時、私に助けの手が差し出された。
現れたのは、森に住む隠者だった。彼は、異国から良くない者が入り込んだのだと私に告げ、あの女は湖に向かったと教えてくれた。彼に解放された私は、湖に走った。隠者が近道を教えてくれたおかげで、女より先に湖にたどり着くことができた。
湖は静まり返っていた。こんな朝早くに湖の住人を起こすには忍びなく、私は一人で女を待った。
いくばくもなく現れたのは、黒い大蛇だった。大蛇は口から猛毒をまき散らしながら、まっすぐに湖に向かってきた。あの毒を湖に入れられたら一大事だ。私は大蛇を通すまいと立ちはだかった。
だが、その時の私は丸腰だ。大蛇とどう戦えばいいのだろう。そう思った時、お前が前に聞かせてくれた魔法の呪文を思い出した。
私が唱えても効き目はないが、呪文を口に出すと、大蛇はひるんだ。私はそのすきに石を拾い、大蛇に投げつけた。ちっとも当たらなかったが、足止めにはなっただろう。そのうち大蛇は怒り、私を殺そうと牙を剥きだした。毒液の垂れる牙に、私は石や小枝で応戦した。ねずみと龍が戦うようなものだったがな。
近くにある石も少なくなり、いよいよ牙の餌食になることは避けられないと覚悟した時、湖から声がした。
それは、僕を呼ぶ声だった。僕がぱっと振り向くと、白銀に輝く剣と、それを持つ美しい手だけが湖面から突き出ていた。剣はその手から投げられ、僕の方に飛んできた。なんとかそれを受け止め、大蛇に切っ先を向けると、大蛇は怒り狂いうなり声を上げた。
新しい剣は扱いやすく、すぐに僕は有利になった。なんとか仕留められそうになった時、大蛇は白い霧に包まれ、あの黒い衣の女になった。
女は私に命乞いをした。こいつがおぞましい蛇でもあることは知っていたが、騎士たる者、無抵抗の女を殺すことはどうしてもできない。剣を下ろした瞬間、女はあっという間に黒い大蛇になり、私の体に巻きつき締め上げた。
意識が遠のく中で、隠者の叫び声が聞こえた。薄目をあけると、彼が私の前に忍び寄るのが見えた。蛇はまだ気がついていない。私は蛇を自分に引きつけ続けるために、命乞いをしてみせた。女__いや大蛇は勝ち誇り、国の秘密を残らず話せと迫った。
だが、彼女はもう終わりだった。彼女が蛇の姿であるうちに、隠者が斧で切りつけたのだ。私と隠者で何回も蛇の身を切ると、やがて女は地面に倒れ、蛇のままで死んだ。
蛇を地面に埋めた後、湖の妖精が湖上に姿を現し、私にある物をくれた。そして、もうじき私の子が生まれるから、城に帰るようにと告げた。それで、慌てて帰ってきたというわけさ。
全て聞き終えた魔法使いは、長いため息をついた。
「なんと危険なことを……あやうく、命を落とされるところだったのですよ」
「まあ、いいじゃないか。こうして助かって、お前の側にいるのだから」
「それで、妖精には何をいただいたのです?」
王が口を開きかけた時、王妃の部屋の赤ん坊が笑い声を上げた。
「おや! 僕の子どもだな」
王は魔法使いと共に王妃の部屋に入って行った。そして、王妃にキスをして、差し出された赤ん坊を抱いた。
「すごく可愛いな。王妃にそっくりだ」
「お姫様でございます」
王は口笛を吹いた。
「そいつは素敵だなあ! きっと、美しい姫になるだろうな」
王は、ふところから、大粒のサファイヤのネックレスを取り出した。
「これは、湖の妖精にもらったんだ。お前にあげよう。成長したお前に、さぞかしよく似合うだろうな」
王妃は、自分が身につけているエメラルドのネックレスに触れながら、微笑んだ。かつて王が冒険の末に手に入れて、王妃に贈ったものだ。
魔法使いに向かって、王は言った。
「素晴らしい宝物が手に入ったから、私の冒険はもうおしまいだ。姫が大きくなったら、昔の私のように冒険に連れていってあげておくれ。いいね? 約束だぞ」