最期のゆびきり
——長くて美しい黒髪。
——純粋な瞳と優しい声音。
——強くてカッコいいその背中。
——温かさに満ちた無邪気な笑み。
——もう触ることも、見ることも、聞くこともできない。
懐かしい記憶。
一生忘れることはない永遠の記憶……。
「まま! みてみて!」
「おー? なにかななにかな?」
「むふ〜……じゃぁーん!」
諏訪原日夏(七歳)は無邪気な笑顔と共に、手に持っていた紙を母親に見せつけてきたのだった。その紙には大きく赤ペンで百点と書かれている。
「すごーい! 満点じゃない!」
「むふふっ〜〜〜」
目を見開いて驚く母親。日夏は期待通りの反応だったのか嬉しそうに頬を緩ませる。
「がんばったね〜ひーちゃんっ」
母親に頭を撫でられる日夏。
「うん!」
少し擽ったそうに口元を綻ばせている表情は、とても幸せそうに満ちていた。
「じー…………」
そんな二人をドアに隠れながら見つめる一人の少女。
「あら? 美緒もやって欲しいのかな〜?」
「っ〜! べ、べつにー」
見つかった美緒は、恥ずかしがっているようで顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。
しかし、チラッ、チラッと目だけは何度も母親の方へと動いている。
それを見た母親は思わず「ふふ、」と微笑を漏らすと。
「……ほら、こっちきなさい」
柔和な笑みを浮かべて手招きをした。
「ぅ、だから、そうゆう子供っぽいことは別にもういいの。……わたしだってもうすぐ中学生なんだから……」
「でも今は小学生でしょ?」
「…………うん」
美緒は一つ頷くと、どこか恥ずかしそうにしながらも、母親のもとへと歩み寄る。
「よしよし。ほら、なでなで」
「……ん」
美緒の頭にも優しく掌が乗せられた。
リビングの真ん中、母親は両手で娘たちの頭頂部を撫でていく。
明るくて優しい空間。三人の表情から温もりが家中に発せられていた。
「美緒、日夏、……いま幸せ?」
母親が二人に尋ねてきた。
その質問に美緒と日夏は、一瞬の躊躇もなく答える。
「「うん!」」
満面の笑みを浮かべた二人。
「——よかった」
その明るさに飲み込まれたように母親の口角も上がっていく。
幸せに満ちた空間に囲まれていた諏訪原一家。
しかし。
——ウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ——
突如。そんな空間を引き裂く不協和音が響き渡ってきた。
「——!」
その音を聞いた瞬間、母親は娘たちの頭から手を離した。
「なになに!?」
「……魔物がきた」
その場であたふたとする日夏に対して、美緒はどこか落ち着いた様子で現状を把握しているようだった。
「——美緒! 日夏と一緒に避難して!」
「……分かった」
母親は美緒にそう言い残すと、リビングを出て行こうとする。
しかし、その足は突然止まった。
「まって! まま、どこいくの!?」
日夏が母親の裾を握ってきたからである。
「……ままは、ちょっと遅れて行くから……」
娘たちに背中を見せたまま母親はそう言った。その声は苦虫を潰したかのようにくぐもっていた……。
しかし、日夏にその声の意図までは理解できていなかった。
「やだ! ままと一緒がいいっ!」
母親の足元にしがみついて声を上げる日夏。
「日夏、わがまま言わないで……」
「やだやだやだやだ!!」
美緒が引き離そうとするも、日夏は母親の足に顔を埋めて離れない。
「ひなっ——もういい加減にして! ママの邪魔しないの!」
「やだー! ままといっしょじゃなきゃやだ!」
「っ……もう、」
日夏を引っ張る美緒の表情は困惑に満ちていた。
「——二人ともストーップ!!」
「「っ!?」
母親の大号令に二人とも動きがピタリと止まる。
——瞬間、静寂。
「二人とも聞いてちょうだい」
裾を握っている日夏の手を母親はそっと離していく。
「ままは、日夏たちと一緒に避難することはできないの……ままにはやらないといけないことがあるから……」
「っ……」
「…………」
日夏は歯を食いしばり。美緒はただただ聞き入れている。
「でもね……絶対に二人を迎えに行くって約束するから。だから、今は自分のことを優先して欲しいの」
「……まま……ぜったいだよ?」
「うん、絶対。約束する」
母親はそう言うと、右手の小指を日夏に差し出した。
それを見た日夏も意図を感じとったのか同じように右手の小指を出して指を絡ませた。
「「やくそく」」
二人は、小指はゆっくりと離していく。
その感触を名残惜しむかのように……。
「美緒もする?」
母親は先ほどと打って変わり、優しく微笑みながら聞いてきた。
「……大丈夫」
だが、美緒は断った。
「……そう。……それじゃ、日夏を頼んだよ」
母親はどこか儚げな表情を浮かべているように見えた。
「…………うん」
美緒は自分でもなぜ断ったのか分からなかった。それでも、美緒の中でいま指切りを交わすことに少なからず、なにかを感じていたのは確かなのである。
不安。恐怖。つまりは良くない感情。
それら不確かなものが、自然と湧いてきたのだった。
「——じゃ、行ってくるから」
母親は改めて、リビングを後にしていった。
もうその足取りを止めるものはなにもなく。
美緒と日夏は、お互いに手を握り合いながら、玄関の向こうに母親の姿が消えるまで、視線を送り続けていた。
——後日、美緒と日夏の下に母親は迎えに来た。
——スーツを着こなした大人たちと一緒に。
——棺桶の中で眠りながら。
今でも諏訪原美緒は思う。
——あの時、指切りをしていれば。
良かったな、と。
次きから二章です。