第7話 再会 ※顕仁
花森美玖。
高校三年生のときに三ヵ月だけ付き合った彼女。
フラれてから十年間、ずるずると忘れられずにいた彼女に再会した。
美玖、いや、花森が初めて予備校に来た日のことを覚えている。
なかなかお目にかかれないほどの美少女。
小柄な体を包むその辺りでは見かけないデザインの制服。
予備校なんてどこの駅にもいくつもあるのに、電車に乗ってわざわざ通ってくる不自然さはミステリアスで。
そんな花森に予備校中が騒めいた。
花森とは履修していたクラスがいくつか同じで、初めて見たときは俺も可愛い子だと思った。
でもそれだけ。
当時の俺は擦れていた。
旧財閥家の末っ子の肩書きのせいで、幼い頃から俺は「良家のご令嬢」とか「学校一可愛い」という女たちには取り囲まれた。
中学生になると、色を使って近づく女が増えた。
流石に義務教育の俺に対して力づくでくるようなことはなかったが、女たちの微笑む仮面の隙間からチラチラ見える醜悪な欲は気分が悪かった。
生活圏内にある予備校なので同じ高校の奴らもいたし、俺のことは直ぐ周りに知れた。
いいところも坊ちゃんで、女にモテるからとっかえひっかえ。
ある程度正しくもある噂は予備校でも俺の周りに女を集め、女たちは俺にその柔らかい体を押しつけて何かを強請った。
好きだからキスしてほしい。
好きだから抱いてほしい。
「好きだから」と無辜の願いみたいに言っているくせに、なんでか見返りに物品や彼女の座を強請られる。
それならと、彼女たちに欲しいものをあげて、俺も欲をはらした。
あまり褒められない女との付き合い方。
兄ちゃんたちには苦笑されたが、聞けば兄ちゃんたちも通ってきた道らしく男の嗜みをたっぷり渡された。
外見がどうであれ女。
一皮むけば醜悪な欲が見える。
どうせこの子も同じだろう。
そんな冷めた目で俺は花森を見ていた。
そんな目を向ける俺の高い鼻っ柱を折るように、花森のほうは俺を一切見なかった。
いや、時折見ることはあったか。
ただ動物園で大きな鳴き声がしたとき反射的にそっちを見るのと同じ。
見て、終わる。
一瞬だけ向けられる視線だった。
小柄だからか真面目だからか分からないが花森はいつも一番前の席に座っていて、一番後ろの席にいる俺から花森の背中はよく見えた。
同じ学校の友だちもいない予備校で一人。
たまに男たちが「一緒に」と話しかけるが全て断って一人。
ボッチという蔑称がつくくらい「一人」は劣等感を感じるものだと思ったが、花森は一人でいることがとても心地よさそうだった。
気づけば、俺はいつも花森を見ていた。
その背中を見る俺に気づかず、花森は淡々と前を向いていた。
そんな花森が好きだったのだと、馬鹿な俺はのちに気づくことになる。
俺を見ない女に惚れるなんて馬鹿な話。
いまのして思えば、彼女のことを欲深いと決めつけていた時点で惚れていたのだと思う。
そう、まさしく一目惚れ。
花森とは接点らしい接点もなく、俺たちは高校三年生になった。
そしてそのクラスで、馬鹿な賭けが行われた。
受験のストレスもあっただろうが、内容は最低なもの。
引いたクジに書かれた出席番号の女の子と付き合って、卒業までの進展で点数を競うというゲスな賭け。
クジには花森の番号が書かれたものもあった。
いや、この賭けの狙いはその「花森の番号が書かれたクジ」だった。
花森はよくあちこちで男たちに声をかけられていたが、みんな断られると素直に引いていた。
それは「公平であるためチャンスは一度だけ」という花森への接触に関する暗黙ルールがあったから。
抜け駆けするなと男たちは互いをけん制していた。
でもある程度の男たちが一巡して、誰も成功していないということから起きた賭け。
「花森の番号が書かれたクジ」をひいたのは俺だった。
その番号のとき心臓がはねてたのは、みんなが狙っているくじを引いたという高揚感だと思っていた。
「初めて見かけたときから可愛いと思っていたんだ。彼氏がいないなら、俺と付き合ってよ」
ドラマのセリフのような軽い告白は「ごめんなさい」という花森の怒りの籠る声でのお断りで終わった。
とても新鮮だった。
家族以外が俺に向けるものには全て見返りを求めていたから。
怒りでさえも「許してほしかったら」と見返りつきで向けられるのに、花森が俺に向けたのは見返りのない、譲歩の余地もない純然な怒りだった。
「どうして?」
あのときの俺、チャレンジャーだな。
よくそんなことを聞けたものだし、怒っている花森に対して「いつも一人だよね」と火に油を注いでいる。
「暇潰しにくれてやるファーストキスはない」
見た目は超絶美少女なのに、「馬鹿にすんな」と吐き捨てた口調は竹を割ったように清々しいものだった。
これに俺は完全に堕ちたが、鈍感な俺はそれに気づかなかった。
ただ何かは感じていて、謎を究明するかのように、思い出すと恥ずかしさで悶えたくなる鬱陶しさで俺は未玖に付きまとった。
付きまとったと言ってもストーカーのようなことはしていない。
ただジッと見ていた。
……十分に鬱陶しいな。
待ち伏せてたまに声をかけた。
……ストーカー予備軍だな。
花森が逃げて、俺が追いかける。
離れたところで見かければ、姿が見えなくなるまで目で追う。
そんな二週間を過ごしたあと、花森が逃げなくなった。
理由を聞けば「悪いことはしていない」と双方が納得できるものだった。
それからは俺が現れても「また来たのね」と近所の野良猫を見るような目を俺に向けるだけで、でも、そこに居続けた。
花森と過ごす時間は適度に放っておかれて心地よかった。
花森はほとんど読書で、たまに勉強。
読書が趣味じゃない俺はほとんど勉強で、たまに読書。
多分、リズムが似ていたんだと思う。
話しかけてくるタイミングがいつも丁度よくて、なんとなく会話をして、そしてまた互いの時間に戻った。
読書が趣味のミステリアスな美少女のイメージは、会話をすればするほど崩れていった。
夏休みでも毎日のように予備校か図書館にくる理由を問えば、「義父と祖父の干渉が鬱陶しい」とか「一人の時間がほしい」という十代後半のよくある悩みだった。
楚々とした見た目から詩集とか読んでいそうだが、推理小説が多めではあるものの何でも読むし、「大学に合格したらマンガ喫茶に三泊四日して漫画を読みまくる」という夢を持っていた。
マン喫に一泊はあっても三泊はないと思う。
あるのか?
花森は俺の知っている女とは違った。
彼女は俺に何も求めなかった。
棚の高い位置にある本を取ってほしいと言われて取れば、「ありがとう」の言葉と笑顔だけ。
それだけで、実に清々しい。
花森は「自分」を大事にしていた。
見返りで「自分」の一部でも俺に与える気はなかった。
俺は「自分」を大切にする花森を好ましく思う反面、夏が終わる頃には彼女が欲しくて堪らなくなった。
男の薄汚い欲の話。
花森の傍にいるだけで体に欲が燻り、その夜は夢の中で彼女の細い体を組み敷き欲のまま抱いた。
彼女以外に興味がなくなった。
夏休みだというのに夜七時には帰宅。
祖母ちゃんの作る夕飯を食べている俺の姿を一週間見続けた末兄ちゃんには、「アキ、枯れた?」と本気で心配された。
そんな末兄ちゃんに祖母ちゃんが「アキ、好きな子ができたみたいなの」と暴露した。
末兄ちゃんが驚いた二時間後、俺は末兄ちゃんを含む三人の兄ちゃんと、嫁いだはずの姉ちゃんに囲まれて、花森のことを根掘り葉掘り白状させられていた。
翌日の夕飯は祖母ちゃん手作りの赤飯。
その日は、姉兄たちではなく両親まで祖母ちゃんの家にきて、みんなに初恋を祝福された。
赤飯を食べた次の日、俺は花森に告白をした。
告白に成功して俺は浮かれていたに違いない。
冬が始まってしばらくした頃、俺は女に呼び出された。
クリスマスが近くなると告白が増える。
そのくらいの気持ちでいたのだが、女は花森に賭けのことをばらすと言った。
今までの俺だったら「好きにしろ」と素気なく流せた。
でも花森にどう思われるのか。
幻滅されるのではないか。
そんな恐怖が足枷になった。
「キスしてくれたら黙っていてあげる」
未玖と付き合い始めたことを妬んでいた賭け仲間が女に協力しているとも知らず、俺はその女とキスしているところを未玖に見られ――。
「こんの、クソ野郎!」
……さすが五歳から空手、合気道、あとなにかを習っていただけはある。
喧嘩経験もそれなりにあり、自分では強いほうだと思っていたけれど、俺は経験したことがない強さと勢いで殴り飛ばされた。
くらくらした頭が落ち着くときには花森はその場からいなくなっていて、急いで追いかけたけれどどこにもいなかった。
電話もSNSも拒否された。
彼女の家の最寄り駅は聞いていたから、何も考えずにきた電車に乗った。
当然だが彼女の姿を見つけられず、家がどこかも分からないためその日は家に帰った。
痣になった頬を祖母ちゃんに心配されたが、事情を話すと冷たい目を向けられ、黙って冷たい氷嚢を渡された。
なんと言って謝るかをシミュレーションして夜を明かした。
高校の授業が終わると予備校に急いだけれど、予備校に花森の姿はなかった。
今日は休みなだけだ。
そう言い聞かせても嫌な思いは拭えず、事務所に行くと偶然講師たちが花森の話をしていて、彼女が予備校を辞めたことを知った。
竹を割った性格は迷いがなく行動力もある。
感心と焦燥感で俺は姉ちゃんを頼り、姉ちゃんの力で花森の高校を突きとめたが、三年生は自由登校になっていて、俺は彼女を見つけることはできなかった。
「現代人はスマホに頼り過ぎね」
姉ちゃんの無情な感想に凹みつつも、俺は花森がこうまでして俺から逃げたことに歪んだ悦びを得ていた。
花森は俺から頑なに「自分」を守っていた。
キスをしているときも体を強張らせ、「自分」の周りに壁を築いて触れさせないようにした。
あれほどに守る「自分」を奪えたらこの女が手に入ると俺の本能が言っていた。
花森が逃げたという事実が、ほんの一部でも俺が花森の「自分」に触れ、あれを傷つけられたという証拠だった。
彼女に俺が刻まれている。
その歪んだ満足感は、俺の中に花森を刻んだ。
花森に操を立てて生きてきたわけではない。
でも、俺の中の一番明るくて温かいところにずっと花森がいた。
街行く人の中に、混雑した店の中に、俺はいつもあの真っ直ぐな背中を探していた。
その彼女にこうして再会したわけだが……。
タイミングが悪過ぎる。
別れ話に巻き込んで、怪我をさせて、警察沙汰。
最悪……。