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後書きに変えて
茶の湯は幼少より教養として叩き込まれた。
中国茶もそれなりに識っている。
しかし、珈琲なる舶来品は、これらとは趣が違う。
朝夕せわしなく活動するこの身において、食後の眠気は目の上の厄介こぶであった。
珈琲はこれを和らげてくれる特効薬である。
うつらうつらとする時間はこぼれ落ちる砂金が如く。
しかしてかの御仁は口が達者で、私は茶を一杯ご相伴に預かった。
確かにこれは贅沢だ。
いわゆる「時間の無駄」。
しかし、その無には静かな拍動と確かな灯火のあるが故に正しくは有意義と言わざるを得ない。
私はすでに、あくせく働き続ける方が馬鹿なのか、まどろむ方が愚かなのか、別を見失っていた。
胡蝶だよ、と御仁が語る。
別が有ろうと無かろうと、心地好く在るならそれが自然だ、と。
私は、そんなに顔に出ていましたか、と問いかけたが、沈黙の笑みで返された。
私はくたびれ損の香りが強すぎて追及を止めた。解が知れたとてそれに意味はない。
そんな思考を辿る時点で、私は御仁の術中であろう。