きよしこナイト
なんとなく、訳もなく心が躍りだす。街ゆく人は皆浮き足立ち、降り注ぐ光に包まれているように見える。老若男女が笑顔になる。そんな日は年に一度この日しかないだろう。
これが幸せなんだな、なんてことを考えることもなく、皆が幸せになれる。家族は食卓を囲みターキーを食べ、カップルはディナーを楽しみながらその後のプレゼント交換に期待を寄せる。
止むことなく注がれるイルミネーションは全ての哀しみを消し去ってくれる。今年もこの日がやってきたのだった。
だが、そんな日に物憂げない顔をして、俯く女がいた。
「あぁ、街行く人が皆幸せそうに見えるわ。羨ましいわ。私には何もないと言うのに。」
街行く人々を眺めながらそう呟いた。皆、今夜はきっと愛する人と過ごすのねと続けた。
A子には、ほんの少し前まで付き合っている男性がいた。そして、彼女は二人でこの日を過ごすことを心待ちにしていた。今年のプレゼントは何かしら、なんて考えるだけで笑顔が止まらなかった。
だが、そんな幸せは突如として終わりを迎えた。彼は、A子を捨ててもっと魅力的な女性の元へ行ってしまったのだった。恋愛は弱肉強食。そう分かっていても、傷ついた心は簡単に癒されるものではなかった。
「サンタさん、こんな哀れな私に愛をくださらないかしら。」
A子は、日が完全に登り始める前の、大きく広がる深い青空を見ながらぽつりと呟いた。そして、フっと微笑んだ。サンタさんを信じなくなって何年にもなるのに、こう言う時だけ祈るなんて、調子のいい人ねと。もちろん、祈ったところでどうにもならないことは理解していた。でも、今夜くらいは誰もが幸せになってもいいはずよ、そんな思いを吐き出すようにため息をついた。
クリスマスの今日は平日だった。大人は皆、クリスマスだろうとなんだろうと平日は仕事をしなければならなかった。それは彼女も例外ではなかった。鬱屈とした感情を抱えながら職場へと向かった。
「おはよう。あら、クリスマスの朝だって言うのにやけにメランコリックな表情ね。」
後ろから、聞き慣れた声が聞こえた。
「ほっといてよ。」
そう言いながらA子は、B子に彼氏がいないことを思い出した。
「ねぇ、B子。あなた、今夜は何か予定があるのかしら。」
なかったら淋しい女同士飲み明かしましょうよと、その言葉が出そうになりながら、喉元で止めた。これを言った時に、もし私だけ淋しい人になったら惨めすぎたからだ。
「ふふ、よく聞いてくれたわね。」
B子はニヤッとした。その瞬間、聞かなければよかったと後悔した。が既に遅かった。ここから先B子から出る言葉が自分を幸せにするものでは決してないと分かっていながらも、聞くしかなかった。
「今ね、すごくいい感じの人がいるのよ。先月街でナンパされてね。最初は遊びだと思ったの。だから、私も遊ばれてやろうと思ったんだけど、どうも彼本気みたいなの。それでねそれでね、先週クリスマスどうだいなんて誘われちゃって。ふふ、彼今日告白してくるかもって考えたら朝からドキドキが止まらないわ。で、どうしたの?」
A子はドキッとした。
「いえ。最近あなた浮き足立ってたから、もしかして何かあったんじゃないかなぁ…と。」
咄嗟に口からでまかせが出た。まさか、B子がそんな状況になっているなんて…と心底落ち込んだ。彼女は彼氏がいない期間が長く続いていたから、きっと今年もいないだろうと期待した分、精神的なダメージは重たかった。
「あら、さすがA子。私のことよくわかってるわね。と言うことで、今日は定時で上がるために頑張るわよ。あなたも定時で上がりたいでしょ?」
「あら、もちろんよ。今日は絶対に定時で上がるわ。」
A子はこれ以上ないくらいの作り笑いをしながら言った。この様子だと、オフィス内も皆浮き足立ってそうね…。彼女は憂鬱な心持ちでオフィスへ向かった。
オフィス内は既にクリスマスモードが漂っていた。
「やぁ、おはよう。今日はいい天気だね。」
いつもはしかめっ面の部長も今日ばかりは機嫌がいいみたい、忌々しいわ。そんな感情を表情に出さないように、満面の笑みでおはようございますと返した。まるで今夜、私も愛する人に会うのを心待ちにしている淑女なのよと言わんばかりに。
仕事の時間は真っ赤なお鼻のトナカイに運ばれるようにイタズラに流れ去っていき、気がつけばもう定時の時間がやってきていた。オフィス内はバタバタとしながらも、皆が目の前に迫った幸せに対し、笑顔が絶えていない様子だった。ただ一人を除いて…。
「さぁ、もう定時だ。今日くらいは早く帰ろうじゃないか。いや、こう言う時は私から帰ったほうがいいんだったな。ハハハ。では、お先に失礼させてもらうよ。」
部長はそう言うと足早にオフィスのドアを開けてその向こうに消えていった。その流れに乗り遅れないようにと、部の人間が次々と扉の向こうに消えていった。
「さ、A子、帰りましょう。」
「え、ええ。」
仕事を理由に外の世界から逃げたい。ここにずっと閉じこもりたい。こんな日にオフィスに残りたいと思うなんて、皆からなんて狂っている人間なんだと言われそうだけど、その通り。私は今少しばかり狂っていると思う。
まだ午後六時前だが、空は既に薄暗く、一番星が光っていた。空の色は黄、赤、紫、青、黒と、昼の澄み切った青空の穏やかさが嘘のように、色々な表情を見せていた。
あっちの方からサンタさんが来るのかな、こっちの方からサンタさんが来るのかな、そんなことを母親に尋ねながらA子の前を過ぎ去っていく子供がいた。昔は何も考えずにあんな風に楽しめていたのにね。そんなことを考えながら、A子は少し優しそうに微笑んだ。
「じゃあ、今日は私こっちだから。A子も楽しんでね。メリークリスマス。」
「ええ、ありがとう。あなたもね。メリークリスマス。」
いつもと同じように電車に乗り、家に帰る。今日は明らかに車内の人間が少なかった。クリスマスの夜はこれからだと言う時間に郊外の家に帰るなんてことは誰もしないのだろう。クリスマスを楽しんでいるであろう顔も名前も知らない人達のことを勝手に想像し、また寂しくなっていた。
「もう、こんな落ち込んでばかりいられないわ。今日くらい、いいお酒と美味しいお摘みでも買って一人でクリスマスを楽しんでやろうじゃないの。」
電車を降りて、駅を出ると、郊外だがささやかなイルミネーションが飾られていた。空は黒の壁に飾り付けした小さな電球のように星が瞬いていた。新月の夜だから星が余計にキラキラと瞬いていた。
帰宅途中のスーパーで、買い物をし、鼻歌を口ずさむことなく帰路についた。
アパートメントの前に着くと自分の部屋であろう一室の窓から光が漏れ出ていたことに気がついた。
A子はよく電気を消し忘れることがあった。だから、さほど驚きはしなかった。鍵をかけた記憶もないけど、かけていない記憶もない。気になるのは、電気代が勿体無いと言うことだけだった。先月も高かったのに…。
ドアを開けようとすると鍵は掛かっていた。一気に安心感が増して、そのまま鍵を開けてドアを開いた。誰もいないはずの無人の空間にむかって小さくただいまと呟いた。
「やぁ、おかえり。待っていたよ。」
そこには、縁に雪が積もったような白いふわふわがついた真っ赤な帽子を被り、真っ赤な服を着た青年が腰に手をかけ立っていた。髭はなく清潔感と爽やかさに満ちており、一目で誰もが彼をハンサムだと思うような顔立ちだった。
「あなた、だれ。警察呼ぶわよ…。」
A子は敵対心をこれでもかと曝け出した。いくら相手がハンサムだと言っても、それとこれとは話が別だ。女の一人暮らしは危ないことはよく知っていた。A子は用心深く、防犯対策は完璧だった。咄嗟に鞄に手を入れて、サイレンを鳴らそうとした。
「ちょっと待っておくれよ。僕のことを知らないのかい。おかしいな。この姿をすれば誰でも一目で分かると親父が言っていたんだけど。あぁ、そうか髭がないからか。これは失敬。では、自己紹介をさせてもらうよ。僕はサンタ。一年に一度世の中に愛を届ける仕事をしているのさ。と言っても、今のところ本物は親父だけどね。僕は次の代を継ぐことになったから、サンタの練習をすることになったんだ。まぁ、いきなり子供にプレゼントを上げるなんて大仕事をできるわけがないだろうと言うことで、どうしようかと迷っている時に、ちょうど今日の朝空を散歩していたら君の祈りが聞こえたのさ。たまたまだけどね。哀れな私に愛をと。だからここに来た訳さ。」
男はA子に間髪入れさせる隙を与えずに矢継ぎ早に話した。A子は普段なら絶対に信じなかったであろう男の言葉を、なぜか信じてしまっていた。これもサンタの為せる技なのか、それとも聖なる夜が彼女をそうさせたのか。理由はわからなかった。
「そう言うことだったのね。ふふ、確かにお願いしたわ。じゃあ、これから願いを叶えてくれるのかしら。」
「あぁ、もちろんさ。夜は長いからね。」
「初めて、本物のサンタを見たわ。まぁ見習いさんみたいだけど…。」
「サンタはサンタさ。もう何年かしたら僕がサンタになるからね。それよりも君が手に持っているそれはなんだい?」
「あぁこれね。今夜は寂しく一人で過ごす予定だったから…。思い切り奮発して美味しいお摘みといいお酒を買ってきたの。あなた、お酒は?」
「お酒ってなんだい。美味しいのかい。」
「あら、珍しい人。お酒を知らないなんて。サンタさんはそんなものなのかしら。美味しいわよ。一緒にこれを飲みながらクリスマスを祝いましょうよ。」
「それはいい提案だ、是非そのお酒と言うものを飲ませておくれ。」
A子が今日抱き続けていた鬱屈とした気持ちは一瞬のうちに何処かに消えていた。サンタが本当にいたことよりも、クリスマスの夜に一人きりではないことへの安堵と、これからハンサムな男性と二人きりで過ごす夜の訪れに対するドキドキに気を取られていた。
「じゃあ…。」
「メリークリスマス。」
グラスは鐘の音のような綺麗な音色を部屋中に響き渡らせた。ターキーやプレゼント交換、飾り付けなんかは無いけれど、サンタはユーモアがあり安心感を与えてくれて、幸せな時の流れを忘れさせた。こんな人が私の彼になってくれたらどれだけ幸せだろう、A子は潤んだ目で彼を見つめた。
「はは、なんだい。あまり見つめないでくれよ。」
「服や帽子だけじゃなくて、顔まで赤くなってきているわよ。」
「あぁ、なんだかこの飲み物は物凄くいい気分になれる飲み物のようだ。トナカイに乗って空を飛んでいないって言うのに、なんだかふわふわして今にも飛べそうだよ。」
「お酒はまだまだあるわよ。一人でのみ潰れてやるってたくさん買ってきたんだから。」
「本当かい。それは嬉しいな。なんだか僕がプレゼントを貰ったような気分だよ…。」
二人は一夜を共にした。サンタはA子の望み通り、彼女に愛を与えた。彼女にとってこの年のクリスマスは今までに無いほど幸せだったのは言うまでもなかった。
どこからか運ばれてきたジングルベルの音が二人を包み込み、夢の中へと誘った。
窓の外では、粉雪がちらほらと降り始め、聖なる夜はゆっくりと過ぎ去っていった。
あの夜からちょうど三年の月日が経った。あの頃と同じく、街には星の数よりも多いイルミネーションと、なんとなく幸せな雰囲気が街中を包み込んでいた。
「ママ。」
「どうしたの、坊や。」
「僕、今年いい子だったかな。サンタさんきてくれるかな。」
「あら、サンタさんはね、うちには必ずくるから、安心なさい。」
「本当?でも僕見たことないよ。」
「サンタさんは忙しいのよ、世界中の人達へプレゼントを渡さないといけないからね。だから坊やが眠った後に、そっときてくれるのよ。」
「そうなんだ。僕もサンタさんみたいにソリに乗って世界中を旅したいな。。」
「いつか、なれるわよ。」
今宵もそんな幸せな会話がどこかしこから聞こえて来る。ちらほら雪が舞い降りてきて、空は星と雪によって白く淡く彩られた。
「坊や、もう寝てしまったわ。きっと疲れたのね。とてもはしゃいでいたから…。」
彼女の横で坊やはスースーと寝息を立てて、大きな靴下を抱いたまま深い眠りに落ちていた。
間も無くして、どれ程素晴らしい楽器でも鳴らすことのできないような、シャンシャンシャンという不思議な音がこの家に近づいてきた。
「こんな時しか会えないものね。」
煙突のない家だったが、問題はなかった。あの時も今と同じようにこうやって入ってきたのね、そう考えながら窓に目をやった。窓は一人でに鍵を開けて、冷えたガラス戸をカラカラと引いた。そこには大きなソリの乗り物と、鼻の赤い大きなトナカイが浮いていた。そして、あの頃と変わらない帽子と服と…。
彼は言った。
「やぁ、メリークリスマス。今年のプレゼントも来年の養育費だよ。」