episode3 赤い悪魔
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赤。
一面に広がっていたのは、真っ赤な世界だった。
あか。アカ。赤。紅。朱。緋。絳。赫。
ちっぽけな自分なんて簡単に飲み込まれてしまいそうだった。叫び声を上げたいはずなのに、喉の奥から聞こえるのは掠れた自分自身の呼吸音だけ。
どうして。何で。
疑問の言葉が頭を廻るだけ、まだ冷静な部分があったのかもしれない。というよりも、目の前のこの状況をただ信じたくなかっただけだったのだと思う。
案山子のようにその場から動けない俺が目にしたのは、悪魔の姿だった。
真っ赤な悪魔。
誰よりも大好きで、尊敬してやまない男の姿がそこにはあった。
違和感なら、あったのだと思う。
いくら押しても反応のないインターホン。掛けても繋がらない電話。鍵のかかっていない玄関の扉。扉を開けた瞬間に漂ってきた異臭。
しっかりと目を開けていれば見逃すはずのない〝イワカン〟はそこら中に広がっていたのに。
昔から嫌な想像をすることが得意だった。得意というより、いつも最悪の状況を考えてしまうのが癖だった。スキー旅行に行った時は、もしかしたら雪崩に巻き込まれて死んでしまうのではないかというコンマ数パーセントの可能性に怯え、母親の帰りが遅い時は、事故にあったのではないか、誰かに捕まったのではないか、と心配する。フィクションを拗らせたような不安がいつも側にあった。
飲み会に行っただけだと分かっているのに、考えるのはいつも最悪の状況。そんな限りなく起こる確率の低いことを、馬鹿みたいに真剣に考えてしまう。想像してはお腹の奥がきゅうっとなって、玄関の扉の鍵が開く音がするまで寝つけないでいることが常だった。
――トワは心配性だな。
歳の離れた兄はそう言ってよく笑っていた。
そうやって俺を呼ぶ兄の声が、笑顔が、頭を撫でてくれる優しくて大きな手が大好きだった。
――トワはお兄ちゃん子ね。
確かにそうだった。俺の世界は兄を中心に回っていた。仕事で忙しい両親に代わって俺を育ててくれたのは間違いなく兄だったし、優しくて、かっこよくて、頭の良い兄は俺の憧れだった――だった、そう。
実際に最悪な状況に陥った時、人はその予兆に気づくことはない。いやな予感がしていたなどと語る人間は、事が起きてから尤もらしいことを語りたがっているに過ぎないのだ。
俺は気づくことが出来なかった。予兆など、どこにあったのだろう。〝それ〟は突然目の前に現れて、俺からすべてを奪って行った。
こんな話を聞いたことがないだろうか。悪魔に魂を売り渡す話。悪魔に魂を売れば、願いを何でも叶えてもらうことが出来る。
その望みが叶うまで悪魔は手となり足となり、力を与えてくれる。しかし望みが果たされれば、悪魔に魂を食われて死んでしまう。
輪廻転生という言葉があるが、悪魔に魂を売ったら最後、二度と生まれ変わって新しい生を宿すことはない。
この話を知った時、叶ったらすぐに死んでしまうだけの望みに何の価値があるのだろうかと思っていた。しかしそれは違う。
願いを叶えて欲しいのではなく、殺してほしいのだと、今になってわかる。
真っ赤な悪魔を見たとき、俺は魂を売ってもいいと思った。むしろ買って欲しくてそう願った。
悪魔は言った。それは出来ないと。
理由を問うた。悪魔は答えなかった。
俺が憎いか? 悪魔が聞いた。
俺は、俺はなんて答えたのだろう――――。