episode1 孤独
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物心ついた時から、俺の世界にはキサラギしかいなかった。服も、食も、そして名も。すべてはキサラギが俺に与えてくれたものだ。
父と、そして母という言葉を知った。意味は何となくだが理解した。でもどうでもよかった。俺にとってそれはキサラギのことでしかなかった。
――ハルカ、強くなれ。
それがキサラギの口癖だった。俺の世界にはキサラギしかいなくて、そのキサラギが言うのだから、全てのことは是だった。それでよかった。
だけど、俺は知っていた。俺の世界にはキサラギしかいないけれど、キサラギの世界には俺以外のたくさんの人間がいる。俺の世界は狭くて、キサラギがいなくなったら何も残らないようなちっぽけな世界だということを。
何もなくて、しかし何もないなりに幸せだったのだと、今になってわかる。
人は俺をかわいそうだと言ったけれど、単純な俺の世界は、初めから何も持たない、欠けている世界で生きていた俺は、確かに幸せだった。
六歳の時だった。小学校へ通うようになった俺の世界は少しだけ広くなった。キサラギしかいなかった単純な俺の世界。そこに〝トモダチ〟と〝センセイ〟という存在が増えたのだ。
狭い世界から広い世界へ、一番はじめに俺の世界を開いてくれたのはマサキだった。
マサキは、俺にとって特別親しいと思えた初めての友達だった。
マサキの周りにはいつもたくさんの人間がいて、みんながマサキにどう思われるかを気にしていた。そんなマサキがどうして俺なんかと仲良くしてくれていたのかは分からない。
しかしマサキと一緒にいるうちに、俺の世界には少しずつ、少しずつ人が増えていった。
心地がいい感覚だった。幼いなりに友達が出来る喜びを、仲間が出来る喜びを感じていたのだと思う。同じ空間で同じ授業を受けて同じものを食べる。すべてが初めての体験だった。
キサラギが与えてくれた以外のものが初めて手に入り、世界が広く、大きくなった俺は気づくことが出来なかった。
広くなるということは、それだけ世界は複雑になるのだということを。
きっかけは些細なことで、今となっては覚えてすらいない。
学校という閉鎖空間では、大小にかかわらずいざこざが起こるのは当たり前だ。それはちょっとしたクラスメイト同士の衝突であったり、小さな喧嘩であったり、学年が低いうちは取っ組み合いになるなど身体的な争いが多いけれど、学年が上がるにつれて陰湿になっていく。陰口、そしていじめ。
感情の発達に伴う自我の目覚めによって、諍いのレベルは学年に比例して高くなる。
それは、そうした世界に染まった俺も例外ではなかった。
世界が広がり複雑化したことで、考えることが、考えなくてはいけない人間が多くなった。
周りに人が増えて、楽しいこと嬉しいこと、それだけじゃない。いやになることだって知った。
俺は自分が〝普通〟なのだと信じて疑わなかった。
確かに父親も母親も知らないけれど、キサラギにここまで育てられて、学校に通って、友達だって出来た。他のみんなとの大きな違いなんて、どこにもないじゃないか。
そう、思っていた。
「俺に触るな」
差し出した手を強く払われたこと、俺を見るマサキの目に恐怖の色が浮かんでいたこと、そこでようやく気付いた。自分がしてしまったことに。
俺が? 本当に?
体が震えた。自分の体なのに、誰か他人の体に入ってしまったかのようだった。
手も、足も、呼吸でさえも、思うようにコントロールすることが出来ない。何もわからない。どうして、何で。自分が怖くてたまらなかった。
「ハルカ!」
あぁ、と思った。キサラギだ。キサラギの声がする。体中の力が抜けた。俺はどうしちゃったの? 本当に俺がやったの?
わからない。何もわからない。
怖いよ、怖い、キサラギ――――――。
十歳の春。俺の世界は、再びキサラギだけになった。