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スキアの心  作者: 缶詰
6/7

正と解と

 いつもの夢だ。

 白い廊下と黒い壁。どちらも表面には僅かな凹凸すら存在せず、どのような材質なのかもわからない。それ以外には何もなく、無限の谷間がただ伸びているだけ。天井もなければ灯りもなく、空はただどこまでも続く黒。しかし、道標のように目の前は明るい。

 今回も案の定、視線は自分と同じ高さにある。格好はいつもと変わらず、銀の懐中時計を持った自分自身。

 目の前を見ると、永遠に続く通路を塞ぐように、黒と白の少女が立っていた。

 その表情は幾分不機嫌そうであり、それがこちらに向けられている不満だということはなんとなくわかる。

「貴方は、なぜ外側を見ているの」

 少女が問う。しかし、自分にはわからない。ただ、なぜわからないのか。それはこの夢を見た時点で分かっていた。

「まだ何とも言えないけど、多分、これの所為なんだとは思う」

 そう言って、懐中時計を示してみせる。蓋に描かれた時計の装飾は時を刻むように、ゆっくりと動いている。

 少女はしばらくその時計を見ていたが、やがて更に不機嫌な表情になった。まずいことをしたのだろうか。

「そんなに内側に行きたがっているのに」

 やはり、この時計は自分の心を示す何かであるらしい。しかし、内側が夢で外側がそれ以外だとすれば、自分はこちらにより関心があるということになる。だが、向いている方向は外側。どういうことなのだろう。

 考え事をしていると、いつの間にか少女がこちらの腕を引いていた。ちゃんと引っ張られる感覚があるということに、軽い感動を覚える。

「こっちに来て」

 言われるまま、腕を引かれた方向、即ち背後を振り返る。向き直るに連れて、黒一色の壁と空は色と形を変えていく。次第に世界が広がり、視界すべてを覆い尽くしていった。

 

 

 「リアリティなんてものは詰まるところ頭に映るかどうかだ」

 形の認識できない山間を眺めながら、再び友人の言葉を思い出した。

 なるほど、確かに不明瞭極まりない山間の風景はそれが山間だと認識できるために全く違和感を感じない。自分の立つ駅のホーム、立っているという感覚はどこまでも曖昧であるにもかかわらず、確かに立っているためにそこにいるのだという認識を確かなものとしている。

 リアルが見た、触れた、聞いた、感じたものを頭で総括したものであるならば、これは正にこのような世界であるというリアリティを持っていた。

 それを自分も共有できるということ、これは確かにここに存在するリアルだ。

「なるほど、ね」

 思っていたよりも、言葉は明瞭に発言された。つまり、この世界は言葉によって区切られることができるようデザインされているということだ。何も知らずに訪れたなら、これは確かに抜け出すことはできないだろう。

 自分の意志でこの世界に鑑賞することができないか。一応試してみたが、何も変わらない。つまり、親しい友人が言っていた危険とは、こういうことを言うのだろう。

 いつまでも感心しているわけには行かない。ここが自分と誰かの夢だとすれば、つまり眠り病の原因とはこの状態であるはずだ。いつの間にかいなくなってしまった少女を探し、事情を聞かなければならないだろう。

 改札口のない、屋根と運行表があるだけのバス停のような駅を出ると、街を見ることができた。そちらに向かって歩き出す。そうすることが正しいように感じられた。

 背景の曖昧さとは裏腹に、街は明確な形をとっていた。大小様々なビルが立ち並び、街を行き交う人々は皆日常と何も変わらない姿をしているように見える。

 違うところがあるとすれば、彼らの誰もが明確な目的を持って忙しいと感じているわけではないということだ。

 もう一つわかったことがある。

 彼らは全員が、夢の中だけに登場する想像の人物ではない。全員がこの夢に結線した人々だ。彼らと思考を共有しているというわけではないようだが、この街の認識については少なくとも共有しているらしい。

 懐中時計を見てみる。相変わらず壊れているが、どうやらどこかに惹かれているらしいことがわかる。

「あてもないしなぁ」

 その場所にあの少女がいるかどうかということはわからないが、まぁ、行ってみるしかない。恐らく、立ち止まっていては自分も病人たちの仲間入りをしてしまうのだろう。

 人のまばらなビル街を通り抜けていく。あの通路のように具体的な形をした建物だが、どの建物も基本的には白一色だ。形は違うが装飾はなく、看板も白で塗りつぶされている。塗装していないジオラマのようだ。その中にはいくつか、色と装飾を持ったものが存在する。恐らくは、個人的な領域を示しているのだろう。

 どれほど歩いただろうか。様々な建物を見た。アミューズメントパークのような賑やかなもの、お菓子でできた幼いもの、膨大な知識だけを感じさせる近寄りがたいもの、暖かな陽気に照らされたどこか物悲しいもの、理由もなく忙しげな幸せそうなもの。

 そして多分、目の前にあるこのビルが、自分の夢。

 階層も重さもなく、空が広がっている。それ以外には何もない、空虚な世界。ただ、空虚な世界には安らぎが満ちている。

 懐中時計はここに向かおうとしていたらしい。描かれた針は今までよりも早く、時を刻

んでいる。

「貴方の世界」

 建物の前には、あの少女がいた。

「みんなの世界に、安らぎをくれる世界」

 彼女の笑顔は、期待に満ちていた。そして、少し理解できたことがあった。だから、心苦しくもあった。

「悪い」

 しっかりと紅い瞳を見返しながら発した言葉は、自分でも驚く程平坦なものだった。少女の顔が、驚きに染まる。

「見てわかった」

 懐中時計から、時を刻む手応えが伝わってきた。

「まだ、この夢は見るわけにいかないって、俺は思ってたんだと思う」

 また怒り出してしまうのではないかと不安になったが、以外にも彼女は興味深そうな瞳でこちらを覗き込んできた。

「ここに来たいって思ってたのに?」

 しゃがみこんで視線を合わせる。まるで現実のように少女の瞳はリアルな感情を訴えかけてきた。

「多分、そう思ってる自分とそれがダメだと思ってる自分がいるんだよ。まぁ、無意識なのに意識してるってのがそもそも矛盾だけど……」

 少女は唇に手を当てて思案顔になった。今までのように思い通りにいかなくて膨れるというのではなく、考えるという姿勢を見せたことは意外と言えば意外だった。

「みんなも?」

「それはわからないな……」

 また、彼女は思案を始めた。今度は顎に手を当ててやや下を向いている。

「わからない」

 少し不機嫌そうに、彼女は考えることをやめてしまった。

「時間をおいて、また考えてみるといいよ」

 そう言いながら、元来た道を振り返る。絵の具で描いたような曖昧な景色の中に、切り取られたかのようにはっきりと小さな駅が見える。

「うん」

「それじゃ」

 駅に向かって一歩を踏み出す度、ビルも、山間も、人々も、光に包まれていく。

 夢の終わり。

 どうやら、自分は病気にならずに済んだらしい。

  

                  *

 

 真新しい教室棟の廊下を歩きながら、悠は夢のことを思い出していた。

 案の定講義は全く手につかなかったが、それは問題ではない。今度は、わからないで済ますことはできそうにない。手がかりがあるとすれば、友人との与太話しかない。

 最近よく集まる教室の前に行くと、見知った黒い生物が彼の存在に気づき、手招きをしている。苦笑を浮かべつつ、悠も教室の中に入っていった。

「来たな。今回は待たせずに済んだか」

 彼が近くの机に座るのを待って、御影は手に持っていた本を机の上においた。

「まだちょっと時間あったと思ったけど」

「どうせ暇だったからな。昨日は待たせたようだし、今回は私の方が待ってやろうかと思ってね……ん、なにかあったのか?」

「いや、なんでもないよ」

 勘が鋭いのも考えものだ。そんなことを考えないでもない。彼女と話すとき、気を遣うことの一つでもある。

「まぁいい。この本についてだが、一応全てに目を通すことができた」

 言いながら、トントンと背表紙を小突いてみせる。

「情報の信ぴょう性はまぁいいとして、実に興味深いものではあったな」

「前わからなかった所とか、今回はどう?」

「大体の疑問には答えが出た、といった感じか」

 御影は本を手に取ると、ページをめくり始めた。

「まず、結線した状態の人間は基本的に同一の夢を見ている。限定的な支配権とはつまり、現実に対して自分が干渉できる程度の影響力をいうらしい。自由に歩ける、触れる、見える、動かせるという程度だな。夢を見ているという自覚があったとしても、その権限には夢から覚めるというものが含まれない。自覚があったとしても、夢を見せる深層意識はこの世界を現実だと理解してしまうからだそうだ。ここを普通の夢として捉えるには、概念的に自分の夢から距離を置いた人間である必要がある。まぁ、見ても朝には忘れている夢に多少は近いか。それでもその中で記憶と自我を持っていれば、この夢の中で正気を保てる可能性があるということらしい。そして筆者は偶然、それに近い要素を持って活動していた、そうだ」

 なるほど、と頷きながら、悠は話の続きを目で促した。

「そして、この同一の夢というもの自体は、自然発生するものだが、それはそれほど秩序のあるものじゃない。これにリアリティーを持たせるように全体の管理権を持った者が現れた。それが、この本の著者が外でも出会った人物ということだ」

 これだ、と言って御影が差し出したページには挿絵がついていた。イラストではなく、世界と登場人物たちの相関図である。この程度ならば、悠にもなんとなく理解することができた。彼はその中に、現実の人物とは別の場所に一人だけ登場人物が描かれていることに気がついた。

「夢の中だけ?」

「そう、その人物は何らかの理由で結線した人々の夢の中に、自然に誕生したのだそうだ。ニューロンの仕組みと同じだな。単純でも、互いに情報を交換し合ううちにその中に意思と呼べる情報体が生じた……これは私の考えで、この本にここまで書いてあったわけじゃあないが。そして当然、その夢を管理しているのがこれなのだから、これをなんとかすることが解決に繋がると筆者は考えたようだ」

 それはそうだろう。悠もそれに関しては同意するが、なにか引っかかるものを感じた。今までの話の通りだとすると、結線そのものが危険な現象であり、その中で偶然その人物は生まれたことになるはずだ。これでは順番が逆だろう。

「まぁ、結局それは間違いだったということに気づくわけだが」

 にやりとして言ってみせる御影の表情は、お見通しだと言っているように見える。

「まぁ、細かい工程は省こう。あまり重要じゃあないからな。まぁ、眠り病の解決方法はいたってシンプルだ。つまり、その夢の住人と対話し、さらにそれが目を覚まさない人間と対話をした。それで終わりだ」

「セオリー通り?」

「結末は予想通りだったが、これは小説じゃないからな。そんな方法が解決策になるなど、リアルでは予想外だろう。患者たちの夢体験が載っているが、読んでみるか?」

「読めないよ。嫌味?」

「そうだったな、すまない。こんなものを小説ではなく実録だと言い張って本にしてしまうのだから、よほど真に迫った体験を、この筆者は体験してきたんだろう。現にこうして眠り病が発生している以上、この事件が発生して解決したということは事実である可能性が高い。とは言っても、解決方法が外から観測できない以上、一般人には妄言にしか見えないだろうがな」

 私にとってはこの上なく有意義だった。そう呟きながら、御影は本をカバンの中にしまった。この話はここで終了らしい。

「こんな話に毎回付き合ってもらって悪いな。あまりに面白かったものだから、わかりそうな話し相手が欲しくてね」

「いやいや、こっちも面白かったし」

「それとだ、私はあの小説大賞、応募してみようと思っている」

 それは悠にとって、意外なことではなかった。

「そうだろうとは思ってた」

「君はどうする。興味がないわけじゃないんだろう」

 面倒なことを覚えられていたと嘆息しながら、しかし存外抵抗もなく

「……うん。悪くないかもしれない」

 そんな言葉が彼の口をついて出た。

「あぁ、悪くない。この小説という娯楽は実際良く出来たものだ。示されるものは物語だけで、ほかには何もイメージを縛るものがない。無論、イラストがついたりすることはあるが、それすら描き手のイメージに過ぎない。同じ物語のはずが、読み手によって、また、読む回数によっても千変万化に変化して飽きさせない。私の書いた世界がどう読まれるか、楽しみだ」

 本当に楽しみなのだろう。いつもの悪そうな笑顔がそれを物語っている。ひとしきり喉を鳴らして笑ったあと、御影はおもむろに立ち上がって伸びをした。今日の話はこれで終わりということなのだと、悠は悟った。

「ここまでにしようか。この後少し予定がある」

「わかった。じゃ、また今度かな」

「そうだな、また機会があれば話でもしよう」

「わかりやすい所にいてくれると助かるけど……それじゃ」

「あぁ」

 話すことを話して満足したのだろう。御影の愉快そうな含み笑いを後に、悠は次の講義に向かった。彼もまた、語るべきことが見えてきた気がした。

 

 

 校内をフラフラと散策しながら、悠は人気のない場所を探した。時間はまだ夕方に差し掛かる前といったところであり、大学はたくさんの学生で溢れている。前に使ったテラスも幾人かの学生が利用しており、無人とはいかない。時間を潰してまた来るかとも考えたが、それなら今のこの作業がそもそも暇潰しにも当たるだろう。結局彼は散策を続けることにした。

 歩いているうち、この大学内で最も古い教室棟を彼は訪れた。取り壊しが決まっているという割にはまだ利用する講義は多く、少し前には彼もここで講義を受けていた。最上階まで移動しても、無人と言える場所はなかった。

「ここも無理かな」

 諦めて引き返そうとしたとき、彼の目に非常階段の表示が見えた。階段は上にも続いている。非常階段に続くドアに手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。

 そこまでする必要があるのかという疑問が浮かんだが、それはすぐに消えた。むしろ、この状況にかこつけてこの大学のまだ見たことのない場所を見る機会を得たことの方が、彼の興味を惹いた。

 非常階段を上ると、やはりそこは屋上に続いていた。さすがにここならば人気はない。風はなく、頭上には傾きかけた日に照らされた青空が見えた。

「色々と、わかった気がする」

 壁に背を預けて空を見上げながら、少し戸惑いがちに語り始める。

「全部聞いた通りってわけじゃないんだろうけど」

 悠の隣には、同じように壁に背を預けながら空を見上げる少女の姿があった。

「そういえば聞いたことなかったけど、君の名前は?」

「わからない。誰も呼んでくれないから」

 まずいことを聞いてしまったかと彼は後悔したが、少女に気にした様子はなかった。少し安心しながら、話を続ける。

「多分、夢っていうのは、内側で共有する必要ってないと思うんだ」

 一言ずつ、言葉を探しながら話していく。彼は普段、あまり長く語る方ではなかった。

「俺だって、面倒くさいことは嫌いだし、嫌なことなんてない方がいいって思う。そんな世界に行けたらそりゃあ楽でいいと思うけどさ。でも、多分違うんだと思う」

「思ってばっかり」

「悪かったな。……まぁ、いいか。多分、その嫌なことっていうのは、なんかいいことの裏返しだと思う。だから、そのどっちかだけじゃ、どっちもないのと変わらないんじゃないかな。夢も、同じだと思う。その……なんだろうな」

 実にたどたどしい喋り方だが、少女にそれを咎める雰囲気はなかった。言葉の続きを、興味深げに待っている。

「外側で体験したことがないと、夢って作れないんだよな。俺だって、面倒なことが嫌いだから、面倒もなんにもない方がいい、なんて夢を見てたんだし。……見てなかったかもしれないけどさ」

「うん。貴方は夢を見てたけど、見ようとしてなかった。今までずっと同じ夢を見てたのに。貴方は外側と内側を区別して、ずっと近くに置いて見てた。だから、みんなと違って私を見てた」

 何を指して言っているのか悠は理解し損ねたが、すぐにわかった。彼が夢の中で常に持っていた時計のことだ。つまり、リアルの自分は夢に行きたがっていたが、潜在的な自分は逃げることを拒んでいたのだろう。彼はそう理解した。

「みんなを少し見てきた。戻らないといけないって、少しだけど思ってる人がいた」

「まぁ、そうだろうね……」

 少女の方に向き直る。非現実的な存在感。そこにそう在ると理解しているだけのリアル。しかし、それは紛れもないリアルでもあった。

「それじゃあ、私はみんなに迷惑をかけただけ?」

「そういうわけじゃない、と思う」

 少女も彼の目を見返した。あどけないとも見える紅の瞳は、ただ興味だけを感じさせる。変な気負いがない分、彼は少し安心した。

「君は、なんで皆を集めてみたのかな」

「私は見てるだけだったけど、みんなはこっちに来たがってた。だから、来てもらった。そうしたら、世界が楽しくなった。たくさん来たら、もっと楽しくなった。みんなも楽しそうだった。だから、呼んだの」

「疲れたら、休みたいって思う。でも、ただ休むのって結構難しいんだ。理由が必要なときだってたくさんある。君はみんなの手助けをしようとしたんだから、別にいいんじゃないかな」

 まぁ、とそこで言葉を区切る。

「休みすぎはよくないってだけのことで」

 彼自身いっていることがよくわからなかったが、きっとそういうことなのだろうと思うことにした。

「また呼んでも大丈夫なのかな」

「呼びたい?」

「何もない場所より、楽しい方がいいでしょう」

 少しむっとしながら、少女は答えた。よりによって自分にそれを言うのかと、悠は苦笑してしまった。そして、彼には少女がどうすればいいのかがおぼろげながらわかっていた。

「多分だけど、君の世界はみんないなくなっても元には戻らないと思う」

 彼を覗き込む瞳に、驚きの色が混じった。

「君はもう、こっちの見た外の世界も見たし、皆と同じところにいた。色々なことを考えた。多分、それって自分たちが夢を作ることと同じことだと思うんだ」

 ふと、少女の姿が消えた。また苦笑しながら、悠は彼女が戻ってくるのを待った。外れていたらなんと言われるのか、心配がないわけではなかったが、あまり不安は感じなかった。

 戻ってくるまでに、時間はかからなかった。

「あった」

 少女は満面に喜色を浮かべながら、それだけを語った。なにがあったのか、彼にはすぐにわかった。

「これで、皆起きても大丈夫なんじゃないかな」

 大きく頷くと、少女は駆け去るように消えていった。

 

                  *

 

 肩に妙な感触を感じ、悠は目を覚ました。その方向を胡乱に見やると、ボールペンの蓋が自分の右肩を突いていた。

 次に彼は教室向かって右上の壁に掛かった時計を見やる。

「……後三十分」

 再び彼は前を向いたまま意識を投げ捨てた。

「だからやばいって」

 その声には少しばかり焦燥が混じっている。

「なんだよ、ちゃんと聞いてるように見えるだろ」

「確かに聞いていたように見えたな。折角だから今何をしているのか説明して見せてくれないかな」

 その声に、彼は妙なデジャブを感じた。嫌な予感が脳髄を駆け巡り、声の方向に向き直ることを身体が拒否した。実際、彼の予想通りの人物が予想通りの位置で予想通りの顔をしていた。

「えーと、その、すみません」

 ボスンという間抜けな効果音と共に、悠の寝ぼけた頭に衝撃が伝わってきた。筒状に巻かれた紙束。あまり重さはない。それが提出物の返却であると、彼は今回もなんとか気づくことができた。目を合わせないように受け取ると、初老の講師から溜め息が漏れた。

「次は二十分前に返事をしなさい」

 

 

「もっと早く起こしてくれればいいのに」

「起きないのが悪いんだろ。俺のせいにするなよ」

「よりによってお前が言うか。四日も寝てたくせに」

「あー、いや、それは病気なんだから仕方ないだろ」

 講義が終わったあと、悠は日下を伴って学食に移動した。例によって今回も提出物の返却が終わると同時に講義は終了し、比較的空いた時間に学食を利用することができた。

 謎の疾患、新型ナルコプレシー、眠り病。様々な呼ばれ方をしていた病気の患者は、一昨日から昨日にかけて、一斉に回復した。目を覚ました患者にはなんの異状も見受けられず、精々期間が長かった患者は筋力が若干低下していたことが確認された程度である。発症時期もバラバラな患者が一斉に回復したことについて、様々な説が提唱されたが、結局原因はわからないままだった。かくして、この騒動は始まりからその終わりまで、謎のままに過ぎていった。

 彼の予想通り、日下は自宅で目を覚まさなくなっていた。眠っている間のことは何も覚えていないらしく、目を覚ました時に初めてそれだけの時間が経過していたことに気づいたのだという。

 今回も悠はカレーライスを、日下はラーメンを注文した。

「しかしさ、三日ぶりの飯って旨いもんなんだな」

 ありがたみを噛み締めるように、食べる順番を遵守しながらラーメンを啜る。実際にそんな経験をしてしまったことを考えるとなんとも言えず、悠は少々複雑な心持ちがした。

 相変わらず天井から釣られた液晶画面には就職情報が流れている。相変わらず悠は興味がなかったが、理由は前と少し違っていた。

「あーやだやだ。目が覚めるのが三日後じゃなくて、十年前なら良かったのにな」

「そんなことばっかり考えてるから起きなくなるんだろ」

 相変わらずの日下に、思わず苦笑が溢れる。

「お前は相変わらず余裕だよなぁ。何か決めたのか?」

 少しからかうような調子で、日下が笑った。なにも決まっていないと知っているのだ。しかし、予想に反して悠は考え込むような調子で天井を見上げた。

「あー……目標くらいは、かな」

「なんだそりゃ」

「小説、出してみようかと思う」

 その言葉に一瞬日下は目を丸くしたが、すぐに元の笑顔を浮かべる。

「なんだよ。いつも寝てる割に意外と本気だったのか」

「一昨日から本気になった。まぁ、唐突に」

「そりゃ、唐突だな。んで、なんで急に思いついたんだよ」

 聞かれて改めて、悠はまだなにを書こうとしていたのか考えていなかったことに気がついた。しかし、少し考えるとその答えは意外にも簡単に見つけ出せた。

「起きてても、夢は見たいって思わないか?」

 日下は思わず吹き出してしまった。

「お前らしいなぁ。わけわかんない受け答えも。今どれくらい書いてんだよ」

「そっちが予想してるくらい、かね」

「そんなんで大丈夫なのか?」

 うーん、と彼は首を捻る。確かに前々から勉強していた人達と張り合うには気合が足りていないかもしれない。しかし、最終的にはこう答えることにした。

「まぁ、なるようにするさ」

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