前と後と
いつもの夢だ。
白い廊下と黒い壁。どちらも表面には僅かな凹凸すら存在せず、どのような材質なのかもわからない。それ以外には何もなく、無限の谷間がただ伸びているだけ。天井もなければ灯りもなく、空はただどこまでも続く黒。しかし、道標のように目の前は明るい。
しかし、いつもと違うことがある。いつもならなんの理由もなしに歩き続けているだけの夢だが、今の自分は歩を進めてはいなかった。自分の支配権が自分にある。以前までのことを思い出すと、当然であるはずのそれが何かしらの進歩であるかのように感じられる。
格好はいつもと同じ。よくわからない時計を持った自分。壊れているということも変わらない。だが、直さなければならいという強迫観念はない。
自分が首をかしげた。
違うといえば、わかりやすい違いがもうひとつあった。
いつもは決まって最後に現れるはずの少女が、既に目の前にいた。
以前のように背を向けて立っているのではなく、最初からこちらを見つめている。こ首をかしげているのは、自分の真似をしているのだろうか。その様子は、今までの超然とした雰囲気とどこか違っている。
反対側に首を傾けてみる。彼女もそれに倣う。もう一度。これも同じ。お辞儀をしてみる。上目遣いに様子を伺ってみると、同じ姿勢で自分を見ている。
面白くなってきた。
スクワット運動を始める。これも彼女は倣おうとしたが、目論見通り五回も繰り返せばむこうはバテてしまった。自分の足にも確かに疲れが蓄積している。
「リアリティなんてものは詰まるところ頭に映るかどうかだ」
そう言い切った知り合いのことを思い出す。まぁ、確かに夢だと分かっていても、ここまではっきり感じられるとリアルと変わらないかもしれない。
「大丈夫?」
存外はっきりと声が出た。へたりこんでいる彼女に片膝をついて手を差し出すと、ふくれっ面をされた。随分わかりやすい。
「疲れた」
確かにそう聞こえた。あの少女の声か。
「無理にやってみなくてもいいのに」
「気になったから」
これは通じてるのかいないのか。変なデジャブを感じる。違うところといえば、セリフが短いところだろうか。
手持ち無沙汰となった腕を引っ込め、周りを見回す。体を動かし、少しくらい変わったかと思ったが、景色はいつも通り、一定の空間が続いている。
しかし、いざ自由意思を与えられてみると、ここには本当に何もない。せめて行動を考える基準になるようなものでもあればいいんだが。こういう時は何をするか。会話だ。
「話したのって、初めてだっけ」
我ながら当たり障り無い。
「そうかも」
この簡潔さで即答、どうやらこの話題は失敗だったようだ。というより、自分は自分の夢の中で一体何を考えているのか。これでは実際独り言と変わらない。少しふらつきながら、彼女が立ち上がった。
「なんで、外を見てるの」
外。その言葉の意味するところはなんとなくわかる。知り合いが言っていた通り、夢とは基本的に自分の想定内のことだからだ。
「えっと、君を見てるってことは外を見てるってことになるのかな」
どうやらその言葉はお気に召さなかったらしい。ふぅ、とわかりやく呆れ返り、彼女はそっぽを向いてしまった。
時計を見ると、相変わらず壊れている。描かれた時計の針は動いているが、蓋を開けると見える本物の時計は動いていない。どちらにも時間が描かれていないが、それは壊れていることと何も関係ないことは知っていた。
と、光が満ち始めた。
黒と白だった世界が急速に輪郭をぼやけさせていく。
これは夢の終わりだ。
「それじゃ、また」
言ってみるが、少女はふくれたままで、こちらと目を合わせようとしなかった。これはこれで寂しい。
やがて光が全てを覆い隠す。今回もここまでだ。
瞼を閉じると世界は急速にリアリティを失い、視界すべてが光に包まれた。
*
「さて、と……」
珍しく、彼は溜息をつかなかった。
彼は夢占いや予知夢といったオカルトにはあまり興味がなかった。語った本人が本人が妄想と言っていた言葉に関しても、感心はしたがそれ止まりである。
「て言ってもなぁ」
しかし、同じ夢をこれだけ繰り返し見るというのは自然だというには度を越しすぎているように感じる。それに加えて、最近は世界観をそのままに、より具体的に変化を重ねている。さすがに彼も違和感を感じずにはいられなかった。
布団を除けて起き上がろうとすると、両足の筋肉に鈍い痛みが走った。見事に寝違えてしまったらしい。夢の中で慣れない運動などしてみたことが原因だろう。
目覚ましのかかっていない携帯電話を見ると、丁度正午を回ったところだった。
「どうしようか……」
時間は昼飯時だが、用事にはまだ早い。外に昼食を食べに行ってもどうせ暇つぶしのために戻ってくることになるだろう。二度手間は面倒である。だからといって、手元に食べ物はなかった。
ふと思いついて台所に向かう。そこで冷蔵庫ではなく、その上の冷凍庫を開けると、惣菜パンが二つ凍っていた。冷蔵庫ではカビが生えることがあるからという諫言を真に受けて、一週間前から冷凍庫に入れてしまっていたことを思い出す。
その二つをオーブントースターにかけると、彼はノートパソコンの電源を入れた。いつも通り起動には多少の時間を要したものの、つつがなくノートパソコンは起動した。
さて、何をして時間を潰そうか。差し当っては、凍ったパンを温め終わるまで。
「概ねいつも通り、かな」
特別な用事のない日に大学に向かう。考えてみれば、今までになかったことだと悠は思いついた。勉学を学ぶとことについても、面倒以上の考えはほとんど浮かばなかった彼である。部活、サークルにも同様の理由で参加を見送っていた。
「面倒くさい……」
言ってみるが、意外にも言葉通りの感情は薄かった。自分以外の予定で動かされることではあるが、自分自身それをあまり面倒とは感じていないらしい。それに気づいてみると、おかしな知り合いに付き合わされるというのも悪くないと感じた。
相変わらず大学までの通り道に通行人は少ない。個人経営の店舗などもほとんどない閑疎な通りだが、大通りに出れば様子は変わる。一気に空間が開け、行き交う人々や自動車は遥かに数が増す。
それらを通り過ぎ、また少し奥まった場所に入っていくと大学の門が見えてくる。いつも面倒だと思っていた道も考え事をしていれば意外と短い。これなら学食を食べに来るためだけに通うこともありかと悠は考えた。
日は傾き始めているが、まだ夕方というには少々早い時間である。いい加減な時間指定がどこからどこまでを指しているのかわからないため、彼はあえて早くに家を出たのだった。
校内は講義を受ける学生やその講師、それ以外の目的で集まった人々によっていつも通りに賑わっている。
どこに行けば呼び出した本人に会えるのだろうかと考えて、それすら指定されていなかったということに悠は気がついた。いい加減などという言葉では済まされないが、適当に話を聞いていたせいでそこまで気が回らなかった彼自身の失敗でもある。
仕方がない。溜息をつくと、彼は数棟建っている教室棟の一つに向かって歩きだした。
廊下を歩いている学生は悠が考えていたよりも存外少なかった。代わりに大半の教室が学生で埋まっており、講義を受講する声が聞こえる。最も講義が集中している時間帯が今程だということを、彼は今更に思い出した。
この棟は現在この大学で使用されている建物の中では古い方に入る。しかし設備を更新しながら未だにその機能を保っており、教室の使用率も高い。研究室などもいくつか備えており、たくさんの人間が常時出入りしている。
廊下の中ほどに設置された休憩場所の椅子に腰掛け、何をするでもなくそれらに耳を傾けてみる。この棟も地上五階が最上階であり、彼も今そこにいる。エレベーターは使わず、時間が過ぎるまで全ての棟を上から下まで歩き回ることが、一人だけの時の暇潰しになっていた。
「ここはこれで終わりっと……次はどこに行こうか」
校内が見える窓は教室の並んでいる側にあるため、ここの窓からは街を伺うことしかできない。
一つ伸びをして、椅子を立つ。降りるときはエレベーターを使う。運動することが目的なのではないのだ。古い棟らしく、エレベーターもスムーズとは言い難い。上がってくるのはほかのところに比べれば遅く、動作中も細かい振動が目立つ。
昇降ボタンを押してしばらくすると、誰も乗っていないエレベーターが上がってきた。特に感慨もなくそれに乗り込む。すると、もう一人エレベーターの中に入ってくる者があった。
その人物は非常に背が低く、平均的な体格と言える悠の胸ほどもない。少し興味を惹かれてそちらを見やると、自然と目が合った。
髪から服装に至るまで全てが黒で統一されており、その姿はよく知る友人とよく似ていた。しかし病的なまでに白い肌と真紅の瞳がこの世のものとも思えないアンバランスさを印象づける。
悠は階層指定のボタンを押すことすら忘れて、その姿に見入っていた。それは、確かに見知った少女の姿だった。
実際には数秒だっただろう。しかし、彼にはそれが永遠にも等しい時間であるように思われた。夢の中でしか出会ったことのない少女。今目の前にいる。ならばこれは夢か。いや、そんなはずはない。夢から覚めてここにいるはずなのだ。自分が依代とするリアリティが急速に薄れていくのを、彼は強く感じていた。
一定時間が経過したことにより、エレベーターの扉が自動的に閉まる。ガゴン、という不安を煽る派手な音と共に彼の意識は思考から現実に戻った。ハッとなってエレベーターの中を見回すが、つい先程まで目の前にいた少女の姿はどこにもなかった。
「気の所為、なのか?」
自分の腕を抓ってみる。鋭い痛みが走り、夢の中ではなく現実に身をおいているのだということを躰が訴えてきた。
「いやまぁ、夢の中だってないわけじゃないみたいだけどさ……」
首を捻っているうち、エレベーターが勝手に降下を始めた。下の階で誰かがエレベーターを呼んだのだろう。慌てて一階のボタンを叩きながら、彼は抓ったあとを眺めてみた。思わず強く摘んでしまったようで、未だに痛みを発するそこは赤く腫れていた。
教室棟の外に出たが、まだ夕方というには早い時間だった。さして広くもない教室棟を一つ歩き回ったところで、さしたる時間が過ぎるわけでもない。だが、これ以上ここを歩き回る気にもならなかった。
また歩き回っているうち、もう一度あの少女に出会ったとしたら、果たして自分は正気でいられるだろうか。正直、悠にはあまり自信がなかった。お化けや幽霊を怖がる心理とはこういうものか。と、理解の幅は広がったが、それは何の解決にもなっていない。
校庭のベンチに腰掛け、どうしたものかと思案していた悠の目に、見知った人影が写った。
それは先ほどの少女とよく似た黒ずくめの格好をしているが、背丈が不自然なほど低いわけではなく、アルビノめいた血色をしているわけでもない。黒雲御影である。
違うところがあるとすれば、ほかの女子学生と一緒にいるというところだろうか。彼の知る限り、誰かと一緒にいるところは一度も見たことがなかった。
やがて彼女は悠に気がつくと、話していた学生と別れ、彼の方に歩いてきた。
「待ったか?」
「ちょっとね……」
「それは悪かったな」
本当に悪かったと思っているのかいないのか、いつも通りの愉快そうな口調と表情からは読み取れなかった。しかし、今の彼には予想していたよりも早く彼女が現れたことに、むしろ感謝していた。
「昨日言ってたやつは少しくらい読めたの?」
「大体な。まぁ、読めなかったところはさっき友人に聞いてみたんだが」
そんなことを聞ける友人がいたということにまず驚きだ。そのセリフを飲み込みながら、彼はベンチを立った。
「それじゃ、どこで話そうか」
「そのへんの空き教室でいいだろう。新しいところの方が気分がいい」
そう言って彼女が指さしたのは、前と同じ最も新しい教室棟だった。また出会ってしまったりしないだろうかという不安がないわけではないが、隣に知った人間がいるというだけで随分楽に感じられた。




