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スキアの心  作者: 缶詰
2/7

黒と影と

講義の度に移動するには面倒だが、ただ時間を潰すには狭すぎる。悠にとって、この大学の広さとはそのようなものである。日下は講義があったが、彼の講義はこの時間の講義を過ぎたあとだった。

「時間を上手く使うためには、『明日できることは、あえて今日しない』ことが大切なのです」

 どこかで聞いたそんな言葉が彼の頭に浮かんだ。つまり、何もしない時間を作らず生活することは必ずしも正しくないということだ。

 例えば、この時間を用いれば二日後に迫った課題提出期限のためにレポートを作成することができるだろう。しかし、この問題は必ずしも今解決する必要はない。明日それなりに頑張ればなんとか解決可能な問題である。ならばこの時間に無理に実行するよりも、この時間は暇な時間として楽しんでおいて、明日頑張れば良いということだ。

「それで明日やれる奴は、今日暇になんかしないよなぁ」

 宛もなく棟内をふらつきながら、悠は誰ともなく呟いた。すれ違う生徒たちはどのような考えで今日の時間を使っていくのだろう。自分のように楽しみを見いだせないことは先に伸ばし、たとえ今時間が余っていようとそのまま余らせておくのだろうか。

 いつの間にか悠は昨年に完成した比較的新しい教室棟を歩いていた。真新しい教室はほとんどが使用中だったが、上階に登るにつれて無人の教室が増えていった。この光景を見るたびに、作りすぎなのではないかと彼は考えるが、ほとんどの教室が埋まっている時間の方が、今のように教室を余らせている時間より多いということを彼は知らなかった。

 そうして歩いているうち、彼は教室の一つに変わったものが存在することに気がついた。それは上から下まで真っ黒であり、教壇にへばりついていた。よく見ればそれはゆったりしたペースで身動ぎを繰り返しており、生き物であるように見える。

「あ、これは運がいいな」

 誰もいない教室で眠る黒い生物。知らないわけではなかった。

 

 

 教壇に近づいて確認すると、やはりそれは人間である。彼が予想したとおりの人物ではあったが、予想外の部分もあった。

「これは……」

 話し相手になってくれるかもしれないと思っていたその人物はどう見ても熟睡しており、彼の退屈を何とかしてくれる様子ではなかった。

 そろそろこの教室は講義で使うかもしれないから、などと言い訳をしながら起こしてみるという発想が彼の中に芽生えたが、それは即座に却下された。無理矢理叩き起されることの理不尽さと苛立ちを、彼は身をもって知っているからだ。

「どうするかなぁ」

 この人物が目を覚ますまで待つ。待つこと自体が退屈なので、ほかに移動する。彼の選択は少々揺れた。しかし、最終的には態々睡眠の邪魔をすることもないだろうというところで落ち着いた。

 そうと決まればここにとどまる理由はない。伸びをすると、今日使用する教材やノートなどが入った鞄を抱え、時計を見て残り時間を確認してため息をつき、教室を後にしようとする。

「まぁまて、そう急ぐこともないだろう」

 振り返ると、先程まで完全に熟睡していたはずの人物がそのままの体制でこちらを手招きしていた。

鮟鱇あんこう?」

「別におびき寄せようとしていた訳じゃない。今起きた」

 その割には明瞭な発声だと訝りながらも、悠は退室するのをやめて近くの机に腰掛けた。

「さて、ここで会ったのも何かの縁だ。少し話し相手になってくれ」

「前も同じこと言ってた気がするな……」

 

 

 ようやくゆっくりと顔を上げたこの人物の名を黒雲御影くろくもみかげという。彼もあまり出会うことはないが、同じ学部学科の同級生である。しかし、この大学の学生の中で、彼女の顔と名前が一致する者はほとんどいない。必修の講義にすらあまり顔を出さず、いたとしても30分もすれば教室から消えている。しかし、単位を落としているわけではないらしく、毎学期何らかの形で講義には参加していた。

 ほとんど姿を見せない彼女ではあるが、悠は比較的彼女と出会う機会が多かった。校舎内で講義をサボっている時間に出会うことが多いことから、恐らくそういうことなのだろうと彼は予想している。

「大学も三年にもなれば、課題やら講義やら忙しくなってくるな。面倒なことだ。今回ももう少し時間をかけたかったが、いささか時間が足りなかった」

「今日の課題?」

「もう少し深みのある作品にしたかったが、駄目だな。表層的で無機的な、まるで湖面を揺蕩う木の葉のような覚束なさだ」

 いつも講義には顔を出さず、たまに見かければ暇そうにしているというのになぜ課題を制作する時間はないのか、という疑問を、彼は寸でのところで飲み込んだ。

 黒雲御影と話すには、少々コツがいると悠は考えている。彼女が話す言葉は一見するとこちらの意思をまるで無視した独り言のように聞こえるが、こちらの質問にはどことなく答えているのだ。知りたいと考えていることを、何を基準に察しているのかわからないが、先回りして答えてくれていることもある。こちらは一言二言口を挟むだけでしっかりと会話が成り立つのだから、これほど楽なことはない。

 しかし、その間に自分の主張を挟もうとすると、非常に面倒なことになる。途端に彼女は不機嫌になり、黙して語らなくなるか、凄まじい長さの説教とも薀蓄とも独り言とも取れない文言を休むことなく繰り出すようになる。彼はまさにそれを知っており、今は下手に沢山の言葉を使わないように努めていた。

「君はどうだ。満足のいくものが提出できたのか」

「まぁ、ぼちぼちかな」

 彼らの専攻する学科では、古い文芸作品の研究はもちろんだが、実際に小説を執筆する活動も行われている。今回の提出物というのがそれだった。提出されたものは雑誌にされて同じ講義を受講する学生の間に配られるが、その中で黒雲御影の作品はカルト的な人気を持っていた。ファンの一人である日下などは

「読んでると、寝てるような気分になってる」

 と、その作品を評価していた。彼も概ね同じ感想だった。素晴らしいとか面白いとかいう以前に、作品内に引き込む謎の吸引力があるのだろうと彼は考えていた。

 くくっと喉を鳴らしながら、彼女は話を続ける。

「ぼちぼちか。まぁ、君の作品を評するにこれほどふさわしい言葉はないだろうな。面白いとも楽しいとも言い難いが、下手かと言われればそうではない。何も考えずに書いているのかと思えば、ふと読まされる部分もある。どこにも寄らない、まさにぼちぼちの作品だな」

 これでも彼女は自分のことを評価してくれたのだということを、悠は最近理解できるようになってきた。というより、何を見ても面白いと評するのが彼女なのだ。

「評価は悪いけど」

 ため息をつきながら、彼が付け加えた。実際、この講義での彼の成績は毎回安定していない。

 少々真面目な顔になりながら、それでも口角を上げて薄く笑いながら、彼女は自説の講義を続ける。ほんの僅かに機嫌を損ねたことが、悠には感じられた。

「物語を考えるなんてことは、基本的にどの人間も自然に行うことだ。もし赤信号を無視したらどうなるか、もし好きな人物に愛を告げたらどうなるか、もし次の講義をフケたらどうなるか。全て実際にはない物語を想定する行為だ。自分たちが物語を書くなんてことは、その延長に過ぎない。楽しい物語を想定して楽しむもよし、そうあって欲しくない物語を想定して警笛を鳴らすもよし、ただそれが広く他人に受け入れられるかどうかの違いに過ぎない。古い文豪にもそんな人間がいただろう。つまりその評価は君が君自身に下す評価に比べれば、さしたる価値もない。私の評価も同じくらい軽い。君自身がどこかで納得すればいいさ」

 ここで一息をつくと、御影は椅子の背もたれに寄りかかった。これは、この話題はこれで終わりだという彼女の合図だ。自分で始めておきながらこの態度は少々どうかと彼は考えるが、この後無理にこの話題を続けようとすれば、先に示された失敗と同じ面倒が彼を襲うことになる。

 しかし、ここで話をやめればさぞ馬鹿にしたような彼女のため息を聞くことになる。こんなどうでもいいことで余計なストレスを貯めることを、悠はよしとは思わない。どれほど下らない事でも、彼女の語れる話題を提供しなければならない。

 御影と何度か言葉を交わすうちに、もう一つ彼が理解したことがある。会話とは、語るのがどちらであるかは別として、双方が絶対に話題を振らねばならないものだと彼女は考えているらしいということだ。

 さて、何を尋ねれば良いか。食事、勉学、課外活動、娯楽、振れそうな話題を考えているうち、彼の口は自然に言葉を語っていた。

「最近どんな夢見る?」

 彼自身、何を言っているのかよくわからなかった。彼女も一瞬キョトンとしてから、頬に手の甲を当て、喉を鳴らして笑った。黒一色の格好や声のトーンが少々低いということもあって、さながら悪巧みをしている悪の幹部といった風情である。

「また唐突だな」

「適当なこと言った。何か別のこと考える」

「いや、いい話題だ」

 そう言ってから、彼女は少々考える素振りを見せた。その様子はいつにも似合わず、妙に真剣なものに見えた。

「そうだな……。他人の夢をよく見る」

 その答えは、難解なものを予想していた悠にしてもよくわからないものだった。

「誰かが夢に出て来るってこと?」

「それは間違いじゃないが、正解とは違うな。そうだな、君は人がどうやって夢を見るのか考えたことはあるか」

「眠ってる間にも人は考え事してるってことかな」

「まぁ、その通りだ。何を考えるのか考えているわけではないが、動いていないあいだでも常に人の頭は何かを想定している。外部の感覚を遮断しているから、その想定のリアリティは起きている時の思考とは比べ物にならない。それこそ、それが想定なのか現実なのか区別もつかないほどだ。リアリティなんてものは詰まるところ頭に映るかどうかだ。ある意味、私たちが捉えるリアルに、夢も現実も存在しないと言えるかもしれないな」

 なるほど、と悠は相槌を打った。確かに夢の中でも見て感じることができるなら現実で見て感じることと差はないと言えるのかもしれない。しかし、彼にはまだわからなかった。

「それはわかるけど、他人の夢っていうのは?」

「夢は想定することだといっただろう。例えば君の想定の中に私がいたとする。しかし、それと全く同じ私を君の想定の中に想定している私が外部にはいる。この状態はすなわち、君の想定の中に私本人が存在し、同じ景色を共有していると見えるだろう」

 なるほど、と悠はまた相槌を打った。テレビゲームのネット対戦のようなものなのだと彼は納得した。

「私はそんな夢を見ることが好きだ。まず興味が尽きない。同じ精神性を持った二人の世界とは、繋がることはないものか、違う精神性を持った二人の世界とは、等化できないものか、とな」

 不意に、大学全体に短い音楽が流れた。この時間の講義が終わり、次の講義に向けて準備を開始せよという合図である。

「あ、つぎ講義あるんだ」

「残念だな。意義はないが、楽しい会話だった」

「それじゃ」

「あぁ」

 

 

 本来の必修科目ではない講義を聞き流しながら、悠は先に話したことを考えていた。これ以上考えるとループを始めてしまう小説のことはあえて無視し、その次に聞いた話のことを考えてみる。

 彼は、黒雲御影と話すことが嫌いではなかった。根拠もないことを自信に溢れて話す彼女ではあるが、その実興味深い話ではある。彼女の話は実に文系的であるが、精神世界に具体性を持たせることを念頭に置いて話しているということが何となく理解できる。

「ファンタジーと、リアリティー……」

 運良く電算室の講義であるのをいいことに、声に出して呟いてみる。目論見通り、彼の声は多数のデスクトップ型パソコンの発する稼動音に紛れて消えた。

 彼女の考えをそのままに受け取るなら、ファンタジーとリアリティの二つは相反するものではないということになる。本気でそんなことを吹聴して回ったら、中々危ない人間であると思われるであろう。

 思い描くものがリアルとして扱われる世界が夢なのであり、夢を定義的に共有することは可能なのであり、実践している、または実践してしまっているというのが彼女の状態だという。

「あの人って現実に存在してるのかイマイチわからないな……」

 正直を言ってしまえば、その感想に落ち着く。しかし、彼自身荒唐無稽なはずの彼女の長話を否定しきれないのも事実であった。むしろ、感慨のわかない現実の世界より、広がりを感じさせてくれる黒雲御影の語るリアルに興味を持っていた。

「他人の夢を観てみるか……」

 思わず苦笑が漏れた。どうやら自分も相当現実からの乖離が進んでいるらしい。そんな自嘲が浮かんでくる。

 現実は現実、夢は夢、現に今、望む望まざるにかかわらず、彼の目の前には残り十分で完成させなければならない課題がパソコンのデータという形で横たわっていた。

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