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スキアの心  作者: 缶詰
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夢と現と

いつもの夢だ。

 夢を見ている間は覚えている。

 白い廊下と黒い壁。どちらも表面には僅かな凹凸すら存在せず、どのような材質なのかもわからない。それ以外には何もなく、無限の谷間がただ伸びているだけ。天井もなければ灯りもなく、空はただどこまでも続く黒。しかし、道標のように目の前は明るい。

 確かなことはひとつだけ、自分は行かなければならないという使命感を持っているということ。だから今も先に進み、目的地を目指す。

 なぜ行かなければならないのか。それを考えたことがないわけではない。しかし、いつでもその答えは決まっている。

 行かなければならないからだ。

 考えたことが正解になってしまう。実に夢の中らしい。

 苦笑を浮かべたいが、歩く自分は眉ひとつ動かさない。これもまた、いつも通りだ。

 左手を覗き込むと、やはりいつも通りに時計を握っている。

 銀の懐中時計にはあまりに趣味の良い微細な細工が施され、裏には同じデザインの時計が描かれている。しかし、この時計は動いていない。壊れているからだ。

 時計の扱いによって深層心理を調べる方法があるのだという。ともすれば、時計とは心理を表すメタファーなのだろうか。それが正しいなら、止まった時計を持っている自分の心は止まっているのか。

 心に止まるという表現は当てはまらないだろう。考えることをやめることを止まるというのなら、それは死んだ時か。しかし自分は生きている。論理が破綻している。この予想は正しくないのだ。

 道標の明かりが薄れていく。

 いや、世界が白み、黒が晴れていく。

 これは夢が終わる予兆だ。

 このタイミングだ。

 決まって彼女が現れる。

 こちらに背を向けて立つ、小さな少女。

 光に包まれていく世界の中で、一つだけの黒。

 まるで夜が形をとったような、深い闇だ。

 彼女が向き直る。好奇とも愉快ともつかない紅の瞳が自分を捉える。

 夢が終わる。今回もここまでだ。

 瞼を閉じると世界は急速にリアリティを失い、視界すべてが光に包まれた。


                  *


 まず、ため息をついた。

 深呼吸というよりは、ため息なのだ。

 気がつけば、目が覚めた時の習慣になっていた。

 一人で暮らし始めて二年になるが、彼にはなんとなく居心地が悪いのだった。

 五畳程の生活空間は整理の必要がないことから雑然と散らかっており、埃も舞っている。時折それがもとで肌を害することがあるたびに掃除をしようと決心するが、それがなされた試しはない。彼は面倒が嫌いだった。

 のそのそと布団から這い出してテーブルのノートパソコンに電気を入れる。今の時代のこの世代、ほとんど必需品と言える。起動しきったノートパソコンの画面右下に小さく表示された時計を見ると、どうやら10:30と映し出されている。彼の感覚からすれば、少々早すぎる目覚めだ。頭痛もする。高校時代からの偏頭痛は大学入学後から徐々に改善を見せているが、朝は相変わらず血圧が低いのだった。

 さて、今日はなにかすることがあっただろうか。

 時計の下に小さく表示されたカレンダーを見ていると、月曜日は九時ほどから講義があったことを思い出す。今日は月曜日だった。目覚ましをかけ忘れた割に早く目が覚めた理由に、彼は合点がいった。

 より意識をはっきりさせるために、彼は前週の講義の内容を思い出してみた。目を開けたまま寝ていたような気がする。いや、文章を読むことが好きな自分が寝ているような講義なのだ。恐らくさして意味のないつまらないものだったのだろう。彼は一人納得する。彼は文学を専攻しているが、真面目な方ではなかった。

 次の講義は十一時ほどから始まる。今から大学に向かえば間に合わないことはない。その講義の内容に関しては、彼は考えないことにした。つまらないというより、あまりよい思い出がないのだ。しかし、こちらはサボるというわけにはいかない。単純に、出席日数に余裕がないのだ。加えて必修でもある。

 面倒くさい、加えてだるい。

 そんなことを考えるでもなく考えながら台所に向かい、冷蔵庫を開くと二リットル入りのジュースだけが収められていた。どうやら朝食は食べられそうにない。

 ため息がもれるが、買い物を怠った自分の責任である。仕方なしに、彼はそのまま準備を整えて家を出た。




 

 どうせ下宿するのなら、近いほうがいいだろう。そんな理由から遠野悠とおのゆうの住んでいるアパートは、彼の通う大学のすぐ近くにあった。その大学自体、比較的静かな場所に建っているということもあり、彼のアパートも静かな住宅街の中にひっそりと佇んでいる。

 文系私大というと悠には正直あまり頭の良さそうな印象はなかったが、予想通り、その大学の偏差値は高いとは言えないものだった。実際成績のあまりよくなかった悠は、消去法的にその大学を受験して合格した。

 計算が嫌いで文字を読むのが好きだから。一応自分や周りの人間にはそう言い訳しておいたが、彼には正直、どうでもよかった。

 通勤通学のピークを過ぎていたこともあり、通学の近道である細い路地はほとんど人通りがない。快適には違いないが、彼にはそれが、自分が世界のあらゆる人間から置いていかれてしまったかのように感じられた。

「まぁ、なるようにするけどさ……」

 半ば口癖のようになった文句を口ずさみながら腕時計を眺めると、時針は10を、分針は四十五を指している。講義の開始は五十五分、ここから大学まではおよそ十分。

 間に合うか、どうか。少々の遅れに意味はあるのか、どうか。

 考えても仕方ない。なるようになるのだ。



                  *


「高校出たら、お前なにするんだ」

 今は連絡を取らなくなった友人が語る。地方の特徴として小学校から高校まで、常に彼の近くにあったこの友人も、この後大学進学を機に道を分かつこととなる。

「さぁ……。今のところ考えてないかな」

「考えてないって、それじゃ進学? 就職?」

「この学校は何する学校だ」

 答えはまさに中堅という言葉が正しい進学校である。

 言い回しが気に入ったのか、友人は小さく笑った。

「ま、そうだろうな」

 友人は早い段階から既に進学が決定していた。どこに、とは聞いていないが消防士を目指すのだという。であれば、それに準じた何かを学ぶのだろう。

「目星は付けてあるよ、とりあえずいけそうなところで言い訳のできそうなところ」

「なんだそりゃ」

 また友人は笑った。

「なんかやりたいこととか、勉強したいこととかないのかよ」

「生憎、今のところなんともいえないけど……」

 そして肩をすくめながら、彼は言うのだ。

「まぁ、なるようにするさ」


                  *


 肩に妙な感触を感じ、悠は目を覚ました。その方向を胡乱に見やると、ボールペンの蓋が自分の右肩を突いていた。

 次に彼は教室向かって右上の壁に掛かった時計を見やる。

「……後四十分」

 再び彼は前を向いたまま意識を投げ捨てた。

「いやいや、そろそろやばいって」

 その声には少しばかり焦燥が混じっている。

「なんだよ、ちゃんと聞いてるように見えるだろ」

「確かに見えるが、それでは私がなんと言ったか言ってみてもらえるかな」

 その声は、悠のすぐ左から聞こえてきた。そちらを見やると、初老の講師が笑顔で佇んでいる。満面の笑顔は所々引きつっており、そろそろマズいのであろうことが流石の彼にも読み取れた。早急に解決しなければならないだろう。何をすれば解決するのか。彼は必死に考えたが、何分情報が不足しており、最も安易な結論に至る以外の道はなかった。

「えーと、その、すみません」

 机と並行に頭を下げた。

 ボスンという間抜けな効果音と共に、悠の寝ぼけた頭に衝撃が伝わってきた。提出物の束、相当な枚数である。見ることもなくそれを読み取った自分の思考力に感謝しつつ、彼は自分の提出物を差し出した。運良く、忘れてくることはなかったらしい。

「次は十分前に返事をしなさい」

 そういって、初老の講師は教壇に戻っていった。どうやら自分が眠っているあいだに提出物の回収が行われていたのだろう。彼の頭はそれが理解できる程度には覚醒していた。


 

 講義は残り30分を残して終了した。今日はあまり機嫌が良くないから、と講師は言っていたが、それが彼のせいなのか何か要因があるのか、彼にもわからなかった。

「飯食いに行こうぜ。今なら学食空いてるだろうし」

「日下……なんでこうなるまで放置したんだ」

 日下白川くさかはくせんはこの大学に通い始めて以来の、遠野悠の友人である。明らかに時代がかった名前だが、名前の画数が極めて少なく簡明であるということから、日下本人はそれなりに気に入っていた。

「気づかないくらい自然に寝てるお前が悪いんだよ。とりあえず行こうぜ」

 もしや本当に周りには寝ているのが気づかれていなかったのかと気にはなったが、どうせこのいい加減な友人の言うことだろうと悠は考えないことにした。

「わかってるよ。そんなに急がなくてもいいだろ」


 

 彼らの予想通り、学生食堂の席は昼時に比べれば遥かに利用者が少なかった。直前の講義が終わる時間になると、この大教室程度のカフェテリアは座る場所のなくなった生徒が外部の教室に溢れていくことも多いが、彼らは問題なくカウンター近くの長机を利用することができた。

 悠はカレーライスを、日下はラーメンを食べながら他愛ない話に花を咲かせていると、食堂の壁上方に釣られた液晶画面に就職情報が表示された。大学に直接話の来ている企業の情報から、「就活を甘く見るな」「今から始めなければ間に合わない」などの威圧的な文言や「積極的に本校学生支援を利用しましょう」などという勧誘までが一定間隔で表示されている。

「あーやだやだ、考えたくないねぇ」

 大げさに頭を抱えるふりをしながら日下が笑った。

「こんな学問専攻しちゃって、一体どこに雇われりゃいいんだか」

「まぁ、どうせ自分らはまだ少し先の話だけどね」

 それに対する悠の反応は極めて希薄なものである。まだ始まったばかりだというのに、その話はもういいよとでも言いたげである。

「そうなんだけど、ホントお前は無関心だよなぁ」

 笑い半分で発せられた言葉には、少しの呆れが含まれていた。

「これでも悩んでる。音楽家、プログラマー、詩人、何を選んだらいいんだろうな?」

「好きな奴でいいだろ。やれるんならだけどな」

 その言い回しが気に入ったのか、軽く笑ってから日下は食事を再開した。

 この友人は言動と見た目よりも真面目に将来のことを考えているということを、悠は知っていた。具体的な話を語ることはないが、この手の広告や雑誌などには意外なほどに良い食いつきを見せることがあるのである。具体的な話をしたがらないことについては、語らないのではなくまだ明確なビジョンが存在しないだけなのだろうと彼自身は考えていた。

「そういやまさか、この間の進路調査にもそれ書いたのか」

「まさか。流石にもっと当たり障りなく書いたに決まってるだろ。あとでなにか面倒くさいことになっても困るし」

「それならいいんだけどな」

「そっちこそなに書いたんだよ。文句言ってるばっかりで、自分はなんにも考えてませんってオチじゃないよな」

「いやいや、ちゃんと書いてるよ。作家、劇作家、作曲家、揃ってて語呂がいいだろ」

「ネタ被り」

「いいだろ別に。特許料が発生するわけじゃなし」

 ヘラヘラと笑う日下から食堂に視線を戻すと、いつの間にか生徒数が増えていることに気がついた。時計を見れば、すでにこの時間の講義が終わっている時間である。

「そんなことより、もう食い終わっただろ。邪魔になるし、移動しよう」

「お、そうだな」


 

 

「原因不明、謎の疾患犠牲者急増中」

 そんな記事が、携帯電話でネット掲示板のまとめサイトを閲覧していた悠の目にとまった。校庭のベンチに腰掛けて腹を休めている彼も、全く知らない話題ではなかった。

 その記事が正しいならば、その原因不明の疾患にかかった患者は、何をしても睡眠状態から目が覚めなくなるということだ。最初の症例が確認された時から一ヶ月が経過した現在、患者は五十人に達そうとしている。どのような検査を行っても脳や身体組織に異常は見られず、病原菌の痕跡も発見されない。共通して言えるのは、昏睡ではなく睡眠の状態により近いということだけである。

 現状は特異な性質を持ったナルコプレシー(睡眠障害)の一種なのではないかと言われているが、それだけではこの短い期間でこれほど多数の患者が発生したことの説明がつかず、今も調査が続いている。

 しかし、彼の抱く感想とは、近頃恐ろしい病気がはやっているらしい、くらいのものである。というより、直接関わった人間以外はほとんどが同じことを考えるだろう。

「あ、今考えたんだけどさ。お前のあの前見たまま眠るってやつ、これと関係あるんじゃないか」

「他人のケータイ覗くな。あと適当なこと言ってんじゃない」

 すまんすまんと笑いながら、肩に寄りかかっていた日下が頭を下げた。

「そういやお前って、まだケータイ使ってんのか」

「別に不自由してないからいいんだよ。開け閉めすんのも楽しいし」

 言いながら携帯電話の画面を閉じたり開いたりしてみせる。その度にカチッカチッと小気味良い音が鳴る。

「そういやiPhonとかスマフォにはそれが足りてないな。開閉機構はいいもんだ」

 この友人がどこまで本気で頷いているのか、彼には今ひとつ測りかねた。

「ま、その内買い換えると思うよ。そのうちだけど」

「そりゃ一体何十年を視野に入れたそのうちなんだ」

「百年計画」

「だろうな」

 日下の笑いに、学校全体に響く短い音楽が混ざった。この時間の講義が終わり、次の講義に向けて準備を開始せよという合図である。もっとも、今は昼休みであり、講義を受講していた学生はいない。

 そして、彼らにこの日の講義はもう存在しなかった。

「帰るか」

「そうだな、やることないし」

 やることない。ならばやりたいことは。そもそもなぜ自分はこの大学にいるのか。様々に言い訳はしたはずだが、果たして自分の意思でここで学ぶことを選んだのかどうかすら、彼にはわからなかった。

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