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春色ロケット

 途切れ途切れ。不規則な鼓動は爆音。眩暈のような浮遊感。これはもう病気みたいな、ざわつきに名前を付けるのなら。憧憬、だろうか。

 仄暗い教室で微かな光を集める、夜空にぶら下がる月のような、蒼白い横顔に憧れていた。誰よりも、何よりもただ憧れていた。眠そうな瞼に浮かぶ二重の線が、額から鼻筋までの完全な曲線が、細い顎の横で揺れる黒髪の毛先が、(べに)の全てが私の心臓にどっすり響くから。初めて紅を知った春の日からずっと、私はまるで病気なうるさい心臓を抱えている。

 ハナ、と紅が私の名前を呼んでくれたのは、散り損なった桜の花が居心地悪そうに風を待つ、四月の暖かな午後だった。花子なんて平凡な私の名前に、紅が色彩を与えた。そんなことを思うとなぜか泣きたいような笑い出したいような、心臓の隅っこが喚いた。変に歪んだ顔が恥ずかしくて紅から目を逸らし、教室の窓から見下ろした校庭で、桜の花びらがひとつ、枝を離れて飛んでいった。

 木造の古ぼけた校舎も、乾燥した空っぽの家も、座っていられる場所が何処にもなくたって構わない。他人も、そうじゃない人も、いらない。オゾン層も、大気圏も、呼吸もいらない。 だけど、紅とじゃないと嫌だ。

 教室の隅で、私たちはひとつの机によっつの肘をついて、額を合わせる。秘密の話をするみたいに、なんでもないことを小さな吐息で伝え合う。紅を知ってから、二度目の桜の季節だ。制服のスカートから出る紅の膝が、机の下、私の膝にこつりとぶつかった。

 ハナの膝小僧は、拗ねてるみたい。

 紅が言った言葉を思い出した。別に、と私は答えたのだったか。拗ねてなんかないよ。

 帰り道の公園は、真ん中に像の形をした滑り台があり、周りのぐるりは桜の木で囲まれている。尻尾が階段で、鼻が滑り台となっている象のお腹の部分が四角く切り取られ、潜り抜けられるようになっていて、私たちはそこに入り込むのがお気に入りだ。象のお腹の中、寄り添って座る。プリーツが広がったスカートから顔を出した、私の膝を紅はじっと見つめた。桜の木は薄桃色から鮮やかな青へと色を変えていた。

 ほら、赤い口を結んで、拗ねてるように見えない?

 私の膝を横切るカサブタをなぞり、紅は尚も言った。だから拗ねてなんかないって。言ったわたしの唇が、カサブタにそっくりな形で結ばれ、紅はからからと笑った。

 自転車でね、坂道を転がり落ちたの。

 追憶を止めて言うと、机の向こうの紅は小首をかしげた。真っ黒な瞳に、窓からの光が飲み込まれていく。

 膝の、カサブタ。

 指で小さく膝のある辺りを、机越しに指し示した。ああ、あの傷ね。紅がうっすらと微笑んだ。微かに漏れた笑い声に、始業のチャイムが重なる。紅は机の下の、私の膝小僧をたった一度、優しく撫でてから、立ち上がって踵を返した。僅かに残る紅の指先の感触が、私の心臓をとんとん叩く。教室の戸を出て行く紅の後姿を見送る。

 つい一ヶ月前までは、同じ教室にいられたのに。二年生なって、紅のいない新しいクラスはどうにも私に馴染まない。春風に巻き上げられた校庭の砂が薄く積もった床を、つま先で撫でてみる。ささやかな凹凸。鳥肌みたいだ。

 放課後、象のお腹の中。私たちはまるで羊水の中の双子のように、微かな鼓動を繋いで座っている。私の隣で紅は、私の知らない誰かの詩集を読みふける。伏せた睫毛が、冷たい蒼色の頬に灰色の影を落とす。お腹の中の小さな空間はひどく閉塞的で、公園の奥で錆びたブランコが揺れる音を、遥か遠くに聞いた。時折、紅と私の肩や肘がぶつかる。私たちのささやかな世界の外で、桜の花びらがぐらぐら空気に舞っていた。

 紅の真似をして、私も本を読もうと鞄を開け、詩集も小説も持ち合わせていないので、英和辞書を膝に乗せ、ページをめくる。風に乗せられて入り込んできた薄桃色の花びらが一枚、辞書のページに挟まった。

 lap 1 ひざ (スカートなどの)ひざの部分 2 たれ下がり へり 3 山間のくぼ地 くぼみ 4 (ふたつの物の)重なり合い 重なりの部分

 なんとなく開いた辞書のページの、なんとなく目についた単語を指でなぞり、スカートから顔を出した膝小僧に目を移した。すると紅がそこに手を伸ばし、カサブタの膝を、掌ですっぽり包んだ。

 ねえ、紅。心の中で呟く。それはどこか、祈りにも似ていた。ねえ、紅。このまま地球で最後の二人になりたいんだ。そしていつか、地球も壊しちゃって、宇宙の隅っこで二人きり、寂しくて泣きじゃくる。ねえ、ねえ。幸せな白昼夢だと、そう思わない?

 二人で初めてこの公園に来たとき、舞い散る桜をかきわけ歩く私に、紅は手を差し出してくれた。その手首をめぐる薄ら青い血管の模様も、鮮明に蘇らせることができる。繋いだ手は、私のほうが少しだけ高い体温で。ひやりと冷えた感触に心臓がざわめいた。

 手を繋ぐと、いつだって私の方が僅かに高い熱を持っているとわかる。だけど私の膝に被さった紅の掌は、不思議で仕方がないけれど、あたたかい。骨の飛び出た膝の形は、紅の柔らかい掌をうまく受け止めることが出来ずにいて、肌と肌の間に小さな隙間が闇となって存在していた。

 もっと、ちゃんと、隙間を埋めてよ。口を結んだ膝小僧が、拗ねてるような気がした。

 もう一度桜の季節が巡って来る頃には、きっと。もっと大きな隙間が出来てる。そしてさらにもう一度、桜が咲いて散る頃には、紅は何処かへ行ってしまうから。そしてその何処かで、私の知らない誰かを、好きになるから。

 だからせめて、今だけでも、ねえ。隙間なく埋めていてよ。

 紅の横顔を見る。詩の言葉ひとつひとつを、口の中で溶かすみたいにゆっくりと呟く、きれいな横顔から視線を外し、開いたままの辞書に目を落とした。

 5 (走路、泳路の)1周 ラップ 6 (糸、縄などの)一巻き

 -v. (lapped;lapping) 1 重ならせる 2 抱く、抱き締める 3 包む、まとう、巻く

 心臓が震える。うるさくて仕方がないのを、どうすればいいのだろう。隣にいる紅と、いつか何処かにいる紅は、違う人なのだろうか。鼓動を忘れるまでは、ずれた周波で私の心臓に鳴り響くのが、紅じゃなきゃ嫌だ。

 ここが象のお腹じゃなくて、ロケットだったらいいのに。

 掠れた声でそう呟くと、紅は詩集から意識を離し、私の顔を覗き込む。

 ロケットに乗って、何処へ行くの?

 何処でもいいよ。

 月でも、火星でも?

 うん。何処でも。此処でもいい。

 それじゃあロケットの意味ないね。そう言って、紅が笑った。勢いよく辞書を閉じる。外の世界に目をやると、やっぱりそこはただの地球で、桜の花びらがさらさら舞っていた。

 そろそろ行こうか、と紅は詩集を閉じて、身をかがめて象のお腹を這い出た。いつの間にか辺りに広がる夕闇の中で、紅の細く薄っぺらな肩の輪郭がぼやける。

 ハナ、と私の名前を呼んで、紅が手を差し出した。真っ白な掌をまっすぐ横切る感情線がやけにはっきり浮き出て見える。触れるとその手はいつもの馴染んだ冷たさをもって、私の手をしっかり握る。

 その肌に触れる度、この星で最後の二人になれたのだ、と。そんな気がする。

 隙間を埋めて。願うように手を繋ぐ。最後の二人に、行く当てなんてないから。ただ抱きしめ合って、寂しいのだと、泣きたいだけなのに。

 手を繋ぐ二人の影法師が、公園の細かい砂の上に伸びる。夕闇のせいでくすんだ花びらが、頼りなげに繋がる影の上に降る。

 季節なんてなくなってくれればいい。もうこれ以上、褪せてしまわないように。悲しくならないように。

 ハナのロケットに、私も乗せてよね。

 紅が言った。私は歩みを止め、半歩前で振り返る紅を、じっと見つめる。舞い降りてくる花びらで、その表情が遠く見えなくなりそうな、眩暈を起こした。

 だってハナは、いつか地球を捨ててしまいそうだから。

 紅の声が残響して、ぼんやりする。脈打つ心臓が、暴走気味で。私は病気なのだ、憧れて憧れておかしいくらいだ、そう叫びたくて、涙腺が痺れる。

 ハナ、と。紅が私の名前を呼び、微笑む。大気に滲みそうなほど平凡な、何もない私に、紅が色を差す。うるさい心臓を、真っ赤に染める。地球を捨てて、オゾン層を裂いて、成層圏を突破してみせたいけれど。永久に届かないのだとしても、疾走するその先で瞬く光、紅じゃないと嫌だ。どうしても、嫌だ。

 あーあ。大人になんてなりたくないな。

 空を仰いで言う。何それ、と紅が小さな笑みをこぼす。だから私も、少しだけ笑う。

 時を止めて。隙間を作る肌と肌さえ、離れてしまわないように。ずっとこうして、泣いてるみたいに笑えるように。


 

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