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『お兄ちゃん、オキロー!』『お兄ちゃん、オキロー!』
愛すべき妹の声。秋葉原で三千二百四十円で買った。
俺にはときどき『オキロー!』のところが『イキロー!』に聞こえる。
だから今日も生きなくてはならない。
頭の部分を叩いてやると、目覚まし時計は『おっはよ、お兄ちゃんのネボスケ☆』と言った。
ちなみにこの目覚まし時計は、ボタンを押さずに十五分経過するとヤンデレ妹モードが発動する。
時刻は八時を指していた。
あくびをしながら居間に向かうと、母が驚いた顔でこちらを振り向いた。
「あら、タカシ、今朝はずいぶんと早いじゃないの」
母は納豆を朝食にニュースを見ていたところだった。
《えー、本日は、十月一日、大企業では内定式のところが多く、駅にはスーツで身を固めた学生も見受けられます。さっそくインタビューしてみましょう。
――ちょっといいですか
――あ、はい、急いでるんですが
――まずは内定おめでとうございます。今日は内定式ですよね
――いえ、まだ未内定で、これから面接ですよ!
――こ、これは失礼しました!!》
おいおい、放送事故だろ、と思いながらテレビ画面に見入っていた。
いや、のんびりしてる場合じゃない。
「パンでいいよ。ほら、俺も 内定式」
母は少し青ざめて「あらぁ」と言った。
歯を磨いて顔を洗って、スーツに着替える。
カバンの中身は前日に用意してある。
玄関で靴紐を結んでいると、母がドタバタとやってきて「これでいいわね」と、チョコスナックパンを一本突き出す。
「サンキュ」と俺はチョコスナックパンを口に咥えた。
六本入りで百八円。コストパフォーマンスが良い。手を使わずに食べられるところも素晴らしい。
「いっへひはーふ」
「事故には気をつけるのよ」
「わーひ、ひほふひほふー」
内定に浮かれた気分で走り回っていた。
それが失敗だったのだろう。ちょうど曲がり角に差し掛かったところにて目撃したのは、秒速十ポイント四四メートルで全力疾走してくる女性だった。
正面衝突。
おでことおでこがぶつかり、頭に弾ける流星群。スナックパンは顔面に圧縮され空中に散り散りになって消滅した。
幸い、口に挟んでおいたチョコスナックパンが緩衝材となり、キスには至らない。俺は尻もちをつく程度の被害で済んだ。
「いっててて……」
「あのう、大丈夫ですかぁ」
リクルートスーツを着た女性は心配そうにかがみこむ。
俺もナニかを期待して覗きこもうとする。
刹那、彼女のハイヒールを中心点としてアスファルトに亀裂が走る。
なんだ、今のリアルな殺気は――。
「すみません、俺も急いでたんで。 内定式に行かないと」
「もしかして、○○カンパニーの内定式ですかぁ?」
「まさか、あなたも?」
女性はこくんと頷いた。
こうして俺と彼女は出会った。
予定通りの時刻の電車に間に合い、俺たちはほっと息をつく。
彼女は『マイ』と名乗った。名前なのか苗字なのか不明だ。恐らく後者だろう。
「わぁ、スーツの人いっぱいいますね。みんな内定式なのかな」
「そりゃあ、この時間帯なら通勤するサラリーマンで溢れますって」
東京都における満員電車は『いっぱい』という形容詞では不足する。
喩えるならばそれはまるで命懸けの押しくらまんじゅうであり、狂気狂乱のお祭りだ。乗車率200%を超える通勤ラッシュ時の電車はしばしば豚小屋に例えられる。肉用豚は実際に現代でも過密飼育されるが、ストレスで他の豚の尾に噛み付いてしまうため、子豚のうちから歯や尾を切り落としておくケースも多い。
人が不用意に他者を傷つけ、あるいは心がぽっかり欠落してしまうのは、過密がひとつの原因ではないのだろうか。
何百人もの人間が一両の閉鎖空間に密封されている。悲鳴もあげたい。にも関わらず、誰もが口を閉ざし、車内は不気味なほどに静かだ。
「わたし、ほんとに内定取ったんですよね。夢みたいです」
「夢かもしれませんね」
彼女、これからはマイと呼ぶことにしよう。
マイは浮かれている様子だった。きっと就職活動でとても苦労をしたのだろう。その苦労が将来報われますようにと、マイの未来を祈る。
といっても今は満員電車の中だ、会話は続かない。サラリーマンに四方八方にぎゅうぎゅうに押されながら、俺は目をつむって居世界ハーレムを妄想し、やり過ごした。
駅をやっと抜けた。
空気を吸うと生き返る気分だった。空は晴れやかだ。
まるで乾燥ワカメが水を吸ったような、冷凍マグロが解凍されたような、清々しい気持ち。
「うぅーん、今日は絶好の内定式日和ですね」
マイは気持ちよさそうに伸びをした。
会社は駅から徒歩十五分のところにある。到着したのは八時四十五分。
「わぁ、遅刻しなくて良かったー。昨日は卒論書いてたんですよ。うっかり夜更かしして寝坊しちゃって」
マイはビルを見上げてはしゃいでいた。
彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねる。そのたびハイヒールが地面に衝突し、アスファルトはひび割れてゆく。
これ以上やると街に甚大な被害が――。
「そうか、学生は大変ですね。ところで卒論のテーマは?」
話題を振ると、マイは飛び跳ねるのをやめたのでホッとした。
「日本現代文学におけるメタ・フィクション構造の在り方、ですよぉ」
エントランスで受付係に 内定式に出席しに来たことを伝える。係員は無言でエレベーターホールを指差した。
内定式は、企業ビル最上三十六階のイベントフロアで行われる。
黒いスーツの若者たちが吸い込まれるようにエレベーターへと入っていく。
俺とマイも一緒にエレベーターに乗り込む。
十二階、十三階とカウントアップするオレンジ色の電光表示。
ふと違和感が過る。
「十四階が無いな……」
階数を示すボタンにも、十四階だけがなかった。
「あ、知ってますよ。四は死を連想させるからって、あえて外すんです。オカルトですけど、言霊文化の日本らしいですよねぇ」
マイはしみじみと言った。
「でも十五階が無いのは珍しいですねぇ」と付け加えた。
そのとき、ゴホン、と後ろの男が咳払いをした。
「俺には十三階が無かったのだがな……」
男はボソッと声を漏らした。ん、何の話だ?
「あ、それは十三階段。絞首刑のときに囚人は十三段の階段を登るんですよぉ。でも、日本の処刑場に階段はありません。聖書の《最後の晩餐》でイエスと十二使徒とを合わせた数が十三人になることが由来なので、西洋の刑場だとほんとに十三段あったりするみたいです」
マイは雑学を披露する。嬉しそうで今にも飛び跳ねそうだった。
エレベーターの底が抜けて真っ逆さまみたいなオチはないよな。
俺は隣で、彼女の手のひらをそっと握った。緊張しなくて大丈夫ですよとマイは言った。
三十六階に到着する。安堵に胸を撫で下ろす。
スーツたちがぞろぞろと降りていく。
後ろにいた男も先に出て、去り際に「おまえらにはまだ未来があるさ」と呟いた。
俺とマイは顔を見合わせてポカーンとしていたが、エレベーターから出た頃には男の奇妙な台詞も忘れてしまった。




