四、自覚する
【前回までのあらすじ】
魔法学校の教師である魔法使い:獅子路陽介(ししろ・ようすけ)は、宇宙人と闘って死亡した。……はずなのに、見知らぬ家で目が覚めた。そこでとある姉妹(姉のトー、妹のカリン)から介抱を受けている。自分は別人の姿(赤毛の少年)になっていて、魔法も使えなくなっていた。
※この世界における「魔法」とは、体内エネルギーである「シン」をコントロールすることです。
初めてシンを実体化させたときのことは、今でもはっきり覚えている。あれは高校二年生の夏休みだった。夜、俺は自室で眠りにつこうとしていた。隣には兄の部屋がある。まどろみかけた頃に、壁をへだてた向こう側から兄のひとりごとが聞こえてきた。声の調子からして罵声のようだ。テレビゲームで思い通りに攻略できないとき、口汚い言葉で当り散らすのが兄の癖だった。「馬っ鹿じゃねえの」とか、「ふざけんな」とか。早朝だろうか深夜だろうがお構いなしだ。たいていの場合、俺は耳栓でこの状況を乗り越えてきた。しかしそのときは虫の居どころが悪かった。魔法の解説書にならってシンの実体化を試みるものの、一ヶ月経っても何の成果も得られなかったので、むしゃくしゃしていた。それでベッドから起き上がり、兄の部屋側にある壁を思いきり殴りつけた。瞬間、体に不思議な力が加わったような感じがして、俺の拳が壁を突き抜けた。直径三十センチほどの穴があいた。
もうもうとちりがただよう中、俺はぼう然とした。穴の向こうに兄が見えた。テレビの目の前で背を丸めた格好で床にあぐらをかき、前方に身を乗り出している。その姿勢のままでこちらに振り返ると、突然できあがった穴と俺とを交互に見て、あんぐりと口を開けた。飛び起きてきた父に、兄弟そろってしこたま怒られた。夜中だったので近くの家々にまで音が響き、ご近所さんたちが何ごとかと外へ出てきたのでちょっとした騒ぎになった。我が家の裏手に住む家族などは発砲事件と思ったらしく、もう少しで警察を呼ぶところだったという。
それがきっかけで俺はシンを自覚した。お腹のあたりに精神のたまり場があって、それが全身に巡っていく感じ、というのだろうか? この感覚を口で説明するのは難しい。実際に体験しなければ理解できないだろう。シンの扱いに苦戦している生徒に出会ったとき、俺は「気合いみたいなもんだ」と言っていた。これが一番ニュアンスとして近いような気がする。ともあれ、ある日突然分かるのだ。これが自分のシンなのだと。
今朝、あのときと同じ感覚がよみがえってきた。ベッドから起き上がってすぐに確信した。シンが戻った。時計は朝の六時半をさしている。この時間なら、あいつはまだ出勤してきていないはずだ。俺は『空間移動』の魔法を発動した。
目の前の景色が一変した。
俺はとあるオフィスにいた。大量の書類と本で埋め尽くされたぐちゃぐちゃの部屋だ。机の上には大きな三台のパソコン画面が並んでいて、そのふちにはびっしりとポストイットが貼ってある。本棚もありとあらゆる物でごった返していた。魔法関連書をはじめとする書籍やプリントの山はもちろん、ティッシュ箱、地球儀、小型扇風機、写真立て……。壁際にあるホワイトボードにはこれ以上書き込むスペースが見当たらない。ホワイトボードのすみには、今月のスケジュールと思われる記載がある。これは達筆なので秘書のものだろう。この部屋主のはミミズがのたくっているような文字だ。慣れた者でなければまず読めない。
ホワイトボードのすぐ上には魔法学校の教員免許証が入った額がかけられている。俺はそこに記された名前を確認した。古代紫(こだいむらさき)。高校時代の同級生であり、現在、というか俺が死ぬまでは魔法学校での同僚だった男だ。
『空間移動』とは離れた場所に瞬間的に移動する魔法のことだ。テレポーテーションと言いかえたりもする。自分のシンそのもの、もしくはシンを込めた物がある場所になら、地球の果てからでもすぐに行ける。古代のオフィスで言えば、五年ほど前に彼に貸したきりになっている俺の定規だ。このめちゃくちゃな部屋のどこかに埋まっているはずだ。見つけ出すには部屋ごとひっくり返さなければならない。定規に込められたシンをたどるだけなので、実を言うと俺にはたやすいことなのだがあえてそのままにしている。仕事上、内線電話をかけるよりも面と向かって話した方が効率的な場合がある。すぐ相手に会えて好都合だ。
『空間移動』で古代のオフィスに来られた。それは俺が獅子路陽介であるというれっきとした証明だった。俺は窓に近づいて外を見た。空が白み始めている。もうすぐ日が昇るのだろう。視線を下ろすと、見慣れた校内の中庭が目に入った。そう言えば俺のオフィスはどうなったのだろうか。
再び室内を見て、あれっと思った。この椅子はかつて俺が愛用していた高級品だ。シャープなデザインかつ座り心地が最高なので、古代がしきりに羨ましがっていた。あいつ、俺が死んだからってちゃっかり自分のものにしていやがる。
ふと室内に人の気配を感じた。しまった。と思ったが遅かった。部屋の中央には大きなソファが置かれている。そこからむくりと上半身を起こしたのは古代だった。
「……」
「……」
お互いに黙って見つめ合った。古代の出勤時間はだいたい八時前後のはずだ。こんなに早く校内にいるとは思いもしなかった。泊り込んだのだろう。ワイシャツはしわくしゃで、よれよれになったネクタイは今にもほどけそうだ。目をしばたたかせながら古代はにやにやと笑っている。こいつは余裕ぶった男で、いつもこんな風に意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「よう、古代」
相手は怪訝な顔だ。急に現れた赤毛の少年に見覚えがあるはずがない。『空間移動』は俺が独自に編み出した魔法だ。知る限り、ほかに使える魔法使いはいない。世間的には獅子路陽介が死んでいる現在、目の前にいる少年がどうやってこの場にやってきたのか、古代にははかりかねているようだった。
「どこのクラスだ? ノックしろよ」
彼は、俺が魔法学校の生徒だという結論に達したようだ。
「お前さあ」と俺。「持ち主が死んだからって、椅子パクんなよな~」
古代はますます眉をひそめた。でもすぐに何のことか分かったようだ。
「あれはね、獅子路先生の遺言で俺が譲り受けたものなんだよ」
まったくもって嘘だ。廊下から誰かの足音が聞こえてきた。
「いつか返せよ」
そう告げると、俺はただちにトーの家に戻った。
「わっ」
カリンの声だ。俺に驚いてベッドの足元で引っくり返っている。俺はカリンの手を取ってその場に立たせた。顔がにやつくのをおさえるのに苦労した。
「カリン、いいものを見せてやるよ」
(2014/5/1)