一、起きる
子どもの頃から運動神経が悪かった。
生まれてこのかた、足の速さで誰にも勝ったことがない。中学二年の体育祭で、五人一組で徒競走をするとき、そのうちの一人が俺を見て「ラッキー」と笑った。最下位という恥から自分がまぬがれると確信しての台詞だった。顔から火が出る思いとはこのことだ。翌年の体育祭では腹を壊したと嘘をつき、全ての競技をさぼった。
ジャンプをすれば足がもつれて着地に失敗する。段差のないところで転ぶ。ボールを投げようとして、自分の足元に叩きつける。いつもこんな調子だった。クラスメイトとサッカーをして遊ぶはずが、俺のボールを蹴る動作があまりにも間抜けなので、みんなが腹を抱えて笑い出した。酸欠になる者もいた。そして最後には「お願いだから、俺たちにサッカーをさせてくれ」と懇願されたのだった。
歩くだけで馬鹿にされる日々にはうんざりしていた。魔法によって自分の運動神経を補えるのではないかと思いついたのは、高校一年生のときだ。人間には『シン』と呼ばれる体内エネルギーがある。魔法とは、シンをコントロールすることだ。
国立図書館で見つけた初心者向けの魔法入門書を手始めに、ありとあらゆる関連書籍を読んだ。運動はさっぱりだけれど、勉強は得意だった。毎日、朝から晩まで魔法の練習に時間を費やして、ほぼ独学で基礎を身につけた。自分の中にあるシンを感じ取る、という段階で一生かかる人もいるというから、おそらく素質があったのだろう。『疾走』という魔法で速く走れるようになった。『跳躍』で誰よりも高くジャンプできるようになった。『投球』と『制御』で、ボールがおかしな方向に飛んでいくハプニングとはおさらばだ。『サッカー』を自分のものにしてからは、サッカー部が他校との試合をするたび、俺は助っ人として駆り出された。
魔法に不可能はない。
とある解説書にあった一文だ。魔法を極めれば何でもできる、とその本はうたっていた。砂漠に水を湧かせる。リンゴの実を作る。人間を生き返らせることさえも。
高校卒業後は国立魔法学校に入学し、首席で卒業した。教員として母校の教壇に立ったとき、俺の運動音痴を笑う人間はもう一人もいなかった。
◆ ◇ ◆
「う、う~ん……」
気持ちが悪い。吐きそうだ。胸のあたりの不快感で俺は目覚めた。
自分がどこにいるのか分からない。
何となく、自宅のベッドではないという気がする。もうろうとする視界で目をこらす。板目の天井が見えた。大きな天窓も。そこから真っ白い光が差し込んでいる。まぶしい。開きかけていたまぶたをきつく閉じた。
寝返りをしようにも体が動かない。うんと時間をかけて、首を少しだけ横に向けるのに成功した。俺はベッドの上にいる。手が届くところに木でできた古そうなキャビネットがあり、ベッドの足元の方には、これまた渋いデザインの木製の机と椅子が置かれている。ログハウスの一室といったところか。ここはどこだ?
「あっ!」突然、耳をつんざくような金切り声。「起きた!」
マットレスが弾んだ。誰かがベッドのふちに乗っかろうとしている。
「起きた!」
再び、耳元での大声。頭がぐわんぐわんとしてきた。
「ちょ、ちょっと」静かにして、と言いたいが、うまく口が回らない。
「おねえちゃ~ん!」
キンキン声はそう叫ぶと、俺から離れ、どたどたと足音を立てながらドアの向こうに走っていった。俺はベッドの上でじっとしていた。どうか『お姉ちゃん』が妹ほどには騒々しくありませんように、と祈りながら。
やがて静かな足音が部屋に入ってきた。その人物はベッドの近くに歩み寄ると、俺の肩に手の平全体でそうっと触れた。あっ、優しい。
「だいじょうぶ。わたしたちは味方です。気分はどうですか?」
今の今まで最悪だったけれど、あなたの登場でずいぶんとマシになったよ。と、カッコつける余裕はなかった。相変わらず目はよく見えないし、体は重い。胸はムカムカとしていて、ちょっとした拍子でも「おえっ」となりそうだ。
「ゆっくり休んでください」
泥水に沈んでいくような心境だったが、彼女のもの静かないたわりのおかげで、体調がやわらいでいくような気がした。
「こ、ここは」声が出るようになってきた。「ここはどこ?」
答えたのは妹の方だった。「わたしたちの家だよ」
「君たちは誰?」
「この子はカリン」と姉が言った。「わたしは姉のトー。あなたは森の中で倒れていたんです。……心配しないで。まずは元気を取り戻しましょう」
危機感よりも眠気が勝った。トーの言葉に甘えて、俺は再び目を閉じた。
「あの、眠る前に一つだけ」これはトーの声か。「名前を教えてください」
ししろ、と俺はつぶやくように答えた。「獅子路、陽介(ししろようすけ)」
「えっ?」
「本物だよ。魔法学校の……電話、番号を、今から……言うから、電話をかけて、迎えを呼ん、で、……くれ。今は、自分で魔法を使う余裕が、ない……から」
勤務先の電話番号の、最後の一けたを言い終わると同時に気を失った。
(2014/4/29)