幸せの青いバラ
ここはオランダのロッテルダム郊外にある小さな病院の一室。
椅子に座って窓から外の景色を眺める白髪の老人と、ニット帽を被った小さな少年がいた。
老人は真っ赤なスーツに身を包み、浅黒く濁った空を見つめながら右の手で左の手を握っていた。
少年は老人に話をかける。
「ねえ、おじいさん。」
「なんだい? ぼうや。」
「おじいさんには、愛している人がいるの?」
「そうだね…、とっても愛してる人がいるんだよ。」
「それは、とてもとても愛してる人なの?」
「ああ、世界で一番にね。」
「その人はどこにいるの?」
「どのにいるんだろうね。ただ、遠くへ行ってしまったんだよ。」
老人は何か寂しそうな顔をしながら右の手を左の手から話す。
空の黒さは増して行き、一粒の雨が窓を叩いた。
「ねえ、おじいさん。」
「なんだい? ぼうや。」
「それ、左手。綺麗な指輪だね。愛してる人から貰ったの?」
「そうだとも。これはいまは遠くへ行ってしまった一人の女性がくれたものなんだ。」
「そっか。 僕と一緒なんだね。」
少年の胸元には金色に輝く小さなロケットが飾られていた。
「おじいさんの愛してる人の話。聞かせてくれないかな?」
「そうだね…、では一つ、話を聞かせてあげよう。」
「これは、とある一人の若い男と、優しい女性の話だ。」
☆★☆★☆★☆★☆★
あれは、ちょうど今日のような雨の日だった。
男は仕事の帰りに花屋により、母の誕生日のために大好きなバラの花を買ったんだ。
店には少し歳のいった店員しかいなかった。
そして男が花屋を後にしようとすると、そこに一人の若い女が駆け込んできた。
「バラはありますか? 真っ赤なバラは。」
「申し訳ありません。ちょうどいまバラは出払ったところなんです。」
「本当ですか? 困ったわ。ほんとうに、どうしてかしらね。ここ最近、どうしてもこう、不幸が続くの…。」
女性は困っているようだった。
それは演技でもなんでもなく、心の底から。
男の良心は揺らいだ。
この人は困っている。
男は正直な者だった。そしてその若い男は正義に満ち溢れていた。
困っている女性を助けないという選択肢は彼には選べなかった。
「お嬢さん。顔をあげてください。」
「ええ、ただ涙でお化粧が。みっともないわ、こんな顔。」
「どうしても真っ赤なバラが? いったいどうしたと言うのですか。」
「母が、危篤なんです。もう長くは続かないと言われました。せめて最期に、母が大好きな真っ赤なバラを見せてあげたいのです。」
「そうですか。しかし今日は雨だ。あなたは傘も持たずここまで走ってきて、それにもかかわらずバラもない。どれ、傘を貸しましょう。 ついでに私は傘と一緒にこの真っ赤なバラを置いていきましょう。」
「でも…、いいのですか?」
「ええ、もちろんですとも。私の母はピンピンしています。当分死ぬこともない。来年も誕生日は無事迎えることでしょう。しかし、あなたは違う。あなたがもし私だったら…、考えただけでも恐ろしいです。さぁ、遠慮なさらず。」
「ありがとう!本当に、ありがとうございます!」
女性は傘と真っ赤なバラを受け取り、もと来た道を急いで走って行った。
男はその後ろ姿を見守っていた。
すると、彼女が後ろを振り向いてこう言ったのだ。
「この先の道を三ブロックほど行った突き当たりを左へ! マーメイド通りにある黄色い屋根の家よ!」
女は走り去っていった。
男がその家を訪れたのはその七日後だった。
二人が恋に落ちるのにそう時間はかからなかった。
彼女の名前はエレナ=キャンベル。
二人は幸せな日々を過ごし、出会ってから七年後に結婚した。エレナの姓はマクラーレンになった。
それは、真っ赤なバラの咲く季節だった。
☆★☆★☆★☆★☆
二十年後。
一人の痩せ細った女性が病院のベッドに横たわっていた。
その隣にはスーツを着た白髪混じりの男性が一人、左の手を右の手で触っていた。
その日は朝から大雨だった。
「やぁエレナ。気分はどうだい?」
「そうね。悪くは無いわね。」
「そうかい。それはよかった。」
「あら、あなた、泣いてるの?」
「泣いてなんかいないさ。バカなことを言わないでくれ。」
「そうね。そうよね。」
雨は一層強くなった。
「あなた。私がいなくなったらどうする?」
「そうだな。君の墓は小高い丘の上に建てるよ。そうだな。そこに毎日遊びに行こう。二人分のサンドウィッチを作るよ。」
「そうね。丘の上、いいわね。けど、ただ遊びにくるだけじゃだめよ?」
「さぁ、どうすればいいんだい?」
「それは、あなたが決めることよ。」
「たしかに、それはそうだ。」
「ねえ、あなた。悲しい?」
「もちろんだとも。君について行ってはだめかな。」
「それはダメよ。」
「それはまた。なぜだい。」
「悲しまないで。きっとまた会えるから、そのときまでは幸せに生きてください。人に幸せを与えられる人でいて。そうすればその人たちはきっとあなたに幸せをもたらしてくれるわ。」
「ああ、わかったよ。それが君の望みならね。」
「ありがとう。ダニエル。」
「いいんだ。エレナ。」
「おやすみ。」
雨は止んだ。
いつのまにか雲の隙間から日の光が差し込み、辺りを輝かせていた。
☆★☆★☆★☆★☆
男は丘の上に立っていた。
一歩歩いては止まり、一歩歩いては止まり、それでも男は確実に歩みを進めていく。
緑の広がる大自然の中、白髪交じりの髪を風になびかせながら空を眺めていた。
「エレナ、君のあとを追いたい。すまない。」
男は丘の上に立っていた。
男の目の前には大きな崖があった。
あと一歩。あと一歩を踏み出せば、エレナのところへ行ける。
男に迷いはなかった。
彼女に会いたい、ただそれだけだった。
「ずるいねえ、あんた。」
ふと、後ろから声が聞こえた。
男が後ろを振り向くと、そこには1人の老婆が立っていた。
不思議な雰囲気の人だった。
「ずるいねえ、あんた。それで彼女が喜ぶと思ってるのかい?思ってないくせに、ずるいねえ…。」
男は、自分の考えはすべてこの老婆にお見通しなんだなと思った。
「ずるいのです、わたしは。でも…、これしか考えられないのです。」
「バカを言うんじゃないよ!彼女との約束はどうしたんだい!たくさんの人に幸せを与えられる人になるんじゃないのかい!」
「そんなこと言ったって!どうしたらいいって言うんだ!!!」
男は自分でも驚いた。おそらく、男がここまで声を荒げたのはこれが人生で初めてだったからだ。
男は観念したように言った。
「もう、どうしたらいいのかわからないんです…。彼女の事しか考えられないんです。どうにか彼女との約束を果たしたい、けど、なにも考えることができないんです!どうしたら…、どうしたらいいんでしょうか…?」
老婆は少し考え込むようなそぶりを見せたあと、こう言った。
「永遠に枯れることのない幸せの青いバラを1000本集めなさい。」
その言葉は、まるで男の中に染み渡るかのような言葉だった。
「1本集めるたびに彼女の墓に供え、そのバラの物語を語るのです。」
一言一言が体に溶け込んでいく、そのように感じた。
「そうすればきっと、彼女と共に…。」
空はただ青く輝いていた。
丘はいつも通り緑に輝いていた。
まるで風の中に消えるかのように、いつのまにか老婆の姿は消えていた。
1本の青いバラを残して…。
風は、いつもより少し強く吹いていたように思えた。
しかし、少し暖かかった。
☆★☆★☆★☆★☆
老人はそれを話し終えると少年の方に顔を向けた。
少年はどこか悲しそうな目をしながら老人を見つめていた。
「お爺さん、その人はそのあとどうなったの?」
「その人はね、実はそのあと事故にあうんだ。丘から帰るときにね、不注意に足を踏み外して崖から落ちてしまうんだ。」
少年の目の悲しみの色はさらに深くなった。
「泣かないでおくれ、大丈夫だ。男は死んでない。」
「そーなの?」
「ああ、男は死ななかった、いや、死ねなかったんだ。たぶん老婆のせいだろうね。男は死ねない体になってしまったんだ。」
「永遠に?」
「いや、1000本の青いバラを集めるまでは、だよ。」
少年はなにか納得したように嬉しそうな顔をすると、目を閉じた。
「その男の人はいま、幸せなのかな?」
「もちろん…、幸せだとも。」
ふと老人が外を見ると、雨は少し勢いを失ってきたようだった。
「おじいさん、僕、お父さんとお母さんに会いたいよ…。」
少年が首に下げているロケットを開けると、そこには一枚の写真が入っていた。
「いつ会えるかもわからない、なにを話せばいいのかも、僕にはわからないんだ。」
「なに、じきに会えるさ。もし会ったなら、今日わたしが君にした話を聞かせてあげるといい。」
「青いバラの話を?」
老人はそっと頷いた。
少年は満足したように柔らかい笑みを浮かべた。
「僕、なんだか眠くなってきちゃったよ…」
「ああ、寝るといい。きっといい夢をみるだろう。夢の中ではお父さんもお母さんもいて、三人で楽しくすごすんだ。」
「なんでだろう。僕もそんな気がするよ…」
「……おやすみ」
「おやすみ、お爺さん。幸せな話を聞かせてくれて、ありがとう…。」
少年の目から一粒の涙が零れ、床に落ちた。
少年はそれっきり目を覚まさなかった。
いつのまにか雨は止んでいた。
真っ赤に燃える太陽が辺り一面を輝かせていた。
床の、少年の涙が落ちたまさにそこには、一本のバラが落ちていた。
それは青いバラだった。
「こちらこそ、幸せをありがとう。」
青いを手にとると、少年の手を左の手で握ったあと、老人はその病室を後にした。
☆★☆★☆★☆★☆
やぁ、エレナ。
最後にここに来たのはもう五年は前だったかな?
わたしはある少年に会ってて、彼は若くして父と母を亡くし、自分も不治の病にかかっていまったんだ。
だけど、彼は強かった。辛さを見せなかった。優しかった。そして、幸せだったよ。
これは、彼から貰ったんだ。
これを君に贈るよ。
君の母も、君も大好きだったバラだ。
とびきり綺麗な青いバラだ。
これがちょうど1000本目だ。
約束は果たしたよ。
わたしもそろそろ、君と共に…。
☆★☆★☆★☆★☆
ここは、オランダの田舎町にある小高い丘の上。
そこは地元では有名な場所だった。
ここには、ある1人の女性の墓がある。
彼女の名前はエレナ=マクラーレン。
彼女の墓の前には1000本の青いバラと。
1本の真っ赤なバラが供えられていた。
そのバラは永遠に枯れることはなかったそうだ。