欲しがり妹に婚約者を奪われ、家からも追放されました。本当に感謝しています♪
「お姉様! 私、そのネックレスが欲しい!」
妹のアビータがそう言ったとき、メルヴィアは思わず胸元に手を当てた。
銀細工の台座に、大粒の青い宝石が嵌め込まれたネックレス。
祖母から母へ、そして母から自分へと受け継がれた品だった。
「……これを?」
「ええ! だって、とっても綺麗なんですもの!」
「でも、これはお母様の――」
「私には、お母様の思い出なんて一つもないのよ!」
メルヴィアは言葉を失った。
母が亡くなったのは、十五年前。アビータを産んだ直後だった。
当時、メルヴィアは五歳。生まれたばかりのアビータには母の記憶がない。
「ずるいわ! お姉様ばかり!」
いつものことだった。
幼い頃から、アビータはメルヴィアのものを欲しがった。
お気に入りの人形。
誕生日にもらった髪飾り。
初めて仕立ててもらった外出着。
欲しいと言われれば、父は決まって同じことを言った。
――お前は姉なのだから。
そして今回も。
「メルヴィア。妹に譲ってやりなさい」
「お父様……」
「アビータには母親の記憶がないのだ。形見の一つくらい、持たせてやってもよいだろう」
「ですが、これは……」
「何だ?」
メルヴィアはネックレスを見下ろした。
母の瞳と同じ、澄んだ青色の宝石。
母は生前、これを肌身離さず身につけていたという。
だからメルヴィアも、五歳の頃から一度も外したことがなかった。
眠るときも、湯浴みのときも。
これを着けていれば、母がそばにいてくれる気がしたから。
「……私にとっても、大切なものなのです」
「お前はもう二十歳だろう」
父は呆れたようにため息をついた。
「いつまでも母親の形見に執着するものではない。それに、アビータの方が似合うではないか」
「お父様! 大好き!」
アビータが父に抱きついた。
メルヴィアは、病弱だった母の顔を思い出した。
――お前は母さんに似て、体が弱いな。
昔から、父にはそう言われてきた。
すぐに熱を出す。
少し歩いただけで息が切れる。
帳簿を一冊確認すれば、頭が割れるように痛む。
母譲りの体質なのだと、ずっと思っていた。
「……分かりました。アビータに譲ります」
「本当!? ありがとう、お姉様!」
メルヴィアは十五年ぶりに留め金を外し、妹にネックレスを手渡した。
その瞬間。
「……あら?」
ずっと背負っていた重い荷物を、突然下ろしたような感覚がした。
呼吸が楽だった。
胸の奥にあった鈍い痛みもない。
「お姉様、どうしたの?」
「……いいえ。何でもないわ」
アビータは鏡の前で、嬉しそうにくるくると回っていた。
「素敵! やっぱり私の方が似合うわ!」
いつもなら、何かを奪われるたびに胸が苦しくなった。
けれど今日は、なぜかとても清々しかった。
◇
三日後。
「メルヴィア。婚約を解消してほしい」
婚約者のパラジーテがそう言った。
「……はい?」
「私はアビータを愛している」
隣には、頬を赤らめた妹がいた。
「ごめんなさい、お姉様。でも、私たち、本当に愛し合っているの」
「……そう」
パラジーテは子爵家の次男で、将来は伯爵家に婿入りする予定だった。
ただ、彼には少々困ったところがあった。
「……パラジーテ様。先月、ご相談なく注文なさった新しい馬車の件ですが」
「……またその話か」
「今からでも注文を取り消すべきかと。以前の馬車はまだ使えますし、今年は領地の橋の修繕費も必要ですので……」
「君はいつも金の話ばかりだな!」
パラジーテは不機嫌そうに言った。
「アビータは、私の望みを何でも叶えてくれると言っているぞ。君のように口うるさく言わないそうだ」
「承知しました。婚約は解消いたしましょう」
「……本当にいいのか?」
「ええ。お二人とも、お幸せに」
「ありがとう、お姉様!」
また、胸が軽くなった。
「……ところで、メルヴィア」
パラジーテが咳払いした。
「これまで君が管理していた、私の支出記録をアビータに渡してもらえるか?」
「ええ、もちろんです」
「それから、来月の支払いについても――」
「そちらは、今後アビータが管理するのでしょう?」
「……まあ、そうだが」
「では、よろしくお願いいたします」
「パラジーテ様! これからは私が何でもして差し上げますわ!」
「そうか。頼もしいな」
二人を見送りながら、メルヴィアはふと思い出した。
――あの馬車の代金は金貨三十枚だったわね。
支払いは来月。
今ならまだ、注文を取り消せる。
けれど、パラジーテは聞く耳を持たなかった。
◇
翌日。
「メルヴィア。お前には家を出てもらう」
父が言った。
「……家を?」
「パラジーテ殿には、アビータの婿として伯爵家に入ってもらう。あの子が望んでいるのだ」
母を知らずに育った可哀想な娘。
だから、何でも与えたい。何も我慢させたくない。
父は、ずっとそう言ってきた。
――では、母を覚えている私は、何を失わなかったというのだろう。
「……では、私は?」
父は机の上に小さな革袋を置いた。
「元婚約者と同じ屋敷に住むのは気まずかろう。伯爵家はアビータとパラジーテ殿が継ぐ」
革袋の中には銀貨が数枚。
二十年間、この家で暮らしてきた娘への手切れ金だった。
「……承知しました。お世話になりました」
メルヴィアは革袋を受け取り、屋敷を出た。
「……あ」
外の空気を吸った瞬間、思わず声が漏れた。
こんなに空は青かっただろうか。
こんなに風は心地よかっただろうか。
胸が痛くない。頭も重くない。足取りまで軽かった。
その日、メルヴィアは二十年間で初めて、自分の行き先を自分で決めた。
◇
王都に着いて、三日が過ぎた。
宿屋の鏡を覗き込んだメルヴィアは、目を見開いた。
「……私、こんな顔だったかしら」
青白かった頬に血色が戻り、目の下の隈も薄くなっていた。
昨夜は久しぶりにぐっすり眠れたし、今朝は階段を駆け上がっても息が切れなかった。
食事も美味しい。頭も冴えている。
伯爵家では、帳簿を一冊確認するだけで頭痛がしたのに。
「……三冊くらい、一度に確認できそうね」
◇
王都の商業組合。
メルヴィアが求人掲示板を眺めていると、近くの卓から声が聞こえた。
「今年も北部の村で小麦が不足する見込みです」
「南部には余剰があるはずだが、輸送費が高すぎる」
「では、税を上げて補填するしか……」
「……失礼ですが」
メルヴィアは思わず声をかけた。
「北部へ運ぶ必要はないのでは?」
卓の中央に座っていた銀髪の青年が顔を上げた。
「……どういうことでしょう?」
「南部の小麦を東の港で売り、その代金で北部の隣領から買い付ければ、輸送費を抑えられます。もちろん、相場の確認は必要ですが」
青年はしばらく考え込んだ。
「……あなたは、どちらの商会の方ですか?」
「いいえ。ただの、求職者です」
「仕事を?」
「はい」
「申し遅れました。私はハーカイム・ヴェルナー。ヴェルナー侯爵家の嫡男です」
「こ、侯爵家の!?」
「実は、領地の経営を手伝ってくださる方を探していたところでして」
ハーカイムは微笑んだ。
「ぜひ、お話を聞かせていただけませんか?」
話は驚くほど早くまとまった。
「給与は月額金貨十二枚でいかがでしょう」
「……十二枚?」
「少ないでしょうか?」
「い、いいえ! そんなにいただいて、よろしいのですか?」
伯爵家では、一度も給与などもらったことがなかった。
ハーカイムは不思議そうに瞬いた。
「働いた対価ですから、当然でしょう?」
その言葉に、メルヴィアはなぜか泣きそうになった。
◇
一方、伯爵家では。
「……何よ、これ」
アビータは鏡の前で眉をひそめた。
目の下に薄い隈ができている。最近は体が重く、頭も痛い。
首元では、姉から譲り受けた青い宝石が輝いていた。
「……アビータ。少し相談がある」
パラジーテが顔を覗かせた。
「何ですの?」
「来月の支払いについてだ。金貨三十枚ほど用意してくれないか」
「……三十枚?」
「新しい馬車の代金だ」
「でも、先週も金貨二十枚を……」
「あれは新しい礼服の代金だろう? 婚約者なのだから、それくらい当然ではないか」
パラジーテは首を傾げた。
「メルヴィアは、いつも何とかしてくれたぞ」
「……お姉様が?」
「ああ。私の支払いは、すべてあいつが管理していたからな」
「……分かりましたわ」
「助かるよ。やはり君は、メルヴィアとは違うな」
お姉様より、自分の方が愛されている。
そう思うと、少しだけ嬉しくなった。
けれど三日後。
「アビータ。金貨十五枚ほど頼めないか。友人との会食があってね」
さらに翌週。
「アビータ。新しい剣を買いたいんだ」
「……パラジーテ様。少し、お金を使いすぎでは……」
「君は、私を愛していないのか?」
「そ、そんなこと!」
「メルヴィアは、いつも何とかしてくれたぞ。君は姉より私を愛しているのだろう?」
「……もちろんですわ」
「なら、頼んだよ」
アビータは震える手で財布を開いた。
――こんなはずじゃなかった。
どうして私ばかり、お金を払わなければならないの?
◇
侯爵家で働き始めて、一か月。
「メルヴィア様! 北部の村で、また橋が壊れまして!」
領地の代官が駆け込んできた。
「昨年も修理したばかりなのですが……」
「でしたら、今回は架け直しましょう。毎年修理するより、長い目で見れば安く済みます」
メルヴィアは帳簿をめくった。
「それから、南部の小麦の件ですが、東の港での取引が成立しました。北部への食糧も、予定より早く届くはずです」
「……さすがメルヴィア様!」
仕事は予定より二時間も早く終わった。
「……どうしましょう」
まだ夕方にもなっていないのに、やることがない。
「メルヴィア。もう仕事は終わりましたか?」
ハーカイムだった。
「はい。ですが、まだ何かできることがあれば――」
「ありません。今日はもう休んでください」
「……え?」
「たまには、自分のために時間を使ってみてはいかがですか?」
「……自分のために?」
メルヴィアはしばらく迷った。
「……では、お庭を散歩してもよろしいでしょうか」
ハーカイムは目を瞬き、優しく笑った。
「もちろんです」
「ありがとうございます!」
◇
初めての給料日。
「……これが、私のお給料」
金貨十二枚。
自分が働いて得たお金だった。
メルヴィアは王都の店を歩いた。
綺麗なドレス。
美味しそうなお菓子。
可愛らしい髪飾り。
どれも、自由に買っていい。
結局、選んだのは小さな青い花の髪飾りだった。
子どもの頃、誕生日にもらった髪飾りを、アビータに譲ったことを思い出した。
母の瞳と同じ青色。
けれど、今度は自分で選んだもの。
メルヴィアは初めて、自分のために金貨を差し出した。
翌朝。
「メルヴィア。その髪飾り、よくお似合いです」
ハーカイムが微笑んだ。
「き、気づいてくださったのですか?」
「もちろん。とても綺麗ですよ」
メルヴィアの頬が赤くなった。
「……ありがとうございます」
その日は、いつもより少しだけ仕事が楽しかった。
◇
伯爵家では、アビータの体調がますます悪くなっていた。
「……このネックレス、重いのかしら」
ある夜、アビータは留め金を外した。
首元がすっと軽くなる。
「やっぱり。これのせいで肩が凝っていたのね」
その瞬間。
屋敷のどこかで、大きな音がした。
「アビータお嬢様! 大変です! 厨房で火が!」
「……え?」
翌日。
「アビータお嬢様! 今度は馬車が!」
「馬車?」
「昨日届いたばかりの、パラジーテ様の新しい馬車です! 車軸が折れてしまいました!」
「嘘でしょう!?」
「その馬車、昨日届いたときに金貨三十枚も払ったばかりなのよ!?」
さらに翌日、領地の穀物倉庫が崩れた。
「いったい何が起きている!」
父が怒鳴ると、老執事が青ざめた顔で口を開いた。
「旦那様。奥様の形見のネックレスは、今どちらに」
「アビータが持っているが、それがどうした」
「お嬢様は、近頃それを外しておられませんか」
「……何が言いたい」
「奥様がご存命の頃、あれを外して休まれた夜には、決まって屋敷で何かが起きたのです。小火であったり、馬が暴れたり……」
「……馬鹿な」
「私も偶然だと思っておりました。メルヴィアお嬢様は、一度も外されたことがありませんでしたから」
父は答えられなかった。
◇
「……呪いのネックレス、ですか?」
侯爵家の書斎で、メルヴィアは目を瞬いた。
ハーカイムが古い魔導書を開いていた。
「あなたの体調が急に回復した理由が気になりまして。以前、母君の形見を妹君に譲ったとおっしゃっていましたね」
「はい」
「おそらく、《災厄の首飾り》と呼ばれる呪物です」
ハーカイムは頁を指でなぞった。
「所有者の生命力を少しずつ奪い、身につけている間だけ家に降りかかる災厄を封じる。外せば封じた災厄が少しずつ漏れ出し、正式に譲渡されると呪いは新しい持ち主に移ります。前の持ち主には二度と戻りません」
メルヴィアは息を呑んだ。
「……体質では、なかったのですね」
「ええ。よく今まで耐えてこられました」
「母の形見でしたから」
そう答えて、ふと気づいた。
「……ハーカイム様。母も、ずっと病弱だったのです。私と同じように顔色が悪くて、あのネックレスを肌身離さず着けていて……」
「……」
「お母様も……?」
ハーカイムは、すぐには答えなかった。
「……可能性は、高いと思います」
母は、妹を産んだ直後に亡くなった。
もともと病弱だったからだと、ずっと聞かされてきた。
けれど、もしあのネックレスが母の命を削っていたのなら。
――アビータが生まれたせいでは、なかったのだ。
「……お母様」
涙がこぼれた。
ハーカイムが、そっとハンカチを差し出した。
「母君は、あなたを苦しめようとしたわけではありません。大切なものを遺したかったのでしょう」
「……はい。ありがとうございます」
◇
時を同じくして、伯爵家にも魔導師が呼ばれた。
「これは……《災厄の首飾り》!」
魔導師は青ざめた。
「なぜ、こんなものを娘さんに!?」
「知らん! 姉が着けていたものを、妹に譲っただけだ!」
父は、はっと顔を上げた。
「……そうだ。ならばメルヴィアに返せばいい! 呼び戻して、またあれに着けさせれば――」
「残念ですが、正式に譲渡された呪物は、以前の持ち主には戻せません」
「呪いを解く方法はないのか!」
「あります。ただし、これまで封じられてきた災厄を、すべて清算しなければなりません」
「清算?」
「首飾りを外せば災厄が少しずつ漏れ出しますが、砕けば残りが一斉に解放されます。橋は落ち、倉庫は崩れ、屋敷にも被害が出るでしょう」
「……そんな」
「人々の暮らしを守るには、修繕と避難の準備が必要です。相当な費用がかかります」
「いくらだ」
魔導師が告げた金額に、父は絶句した。
「そんな金、どこにある!」
「領地の大半を売却するしかないでしょう」
父は椅子に崩れ落ちた。
そこへ、アビータが駆け込んできた。
「お父様! パラジーテ様が、またお金を!」
「今はそれどころではない!」
父はネックレスをつかみ、アビータに押しつけた。
「着けろ。今すぐだ」
「嫌よ! だって、これを着けていると体が――」
「領地の倉庫が三つも潰れたのだぞ!」
父は初めて末娘を怒鳴った。
「お前が欲しいと言ったものだろう! 伯爵家の娘なら、家のために我慢しろ!」
アビータは目を見開いた。
お前は姉なのだから。
お前は伯爵家の娘なのだから。
父の口から出たその言葉を、生まれて初めて自分に向けられた。
震える指で留め金を留めると、屋敷の軋む音がぴたりと止んだ。
「……お姉様を呼んで」
アビータは泣きながら言った。
「お姉様を呼んでよ!」
◇
侯爵家に、伯爵家から手紙が届いた。
『至急帰宅せよ』
「どうなさいますか?」
ハーカイムが尋ねた。
「……帰りません。私はもう、あの家の人間ではありませんから」
「では、明日もよろしくお願いします」
「はい!」
翌日、二通目の手紙が届いた。
『アビータが倒れた。すぐ戻れ』
少しだけ胸が痛んだ。
けれど、首飾りはもう自分には戻せない。
『お医者様と魔導師様を、お呼びになってください』
メルヴィアはそう返事を書いた。
さらに翌日、三通目。
『パラジーテ殿との婚約を元に戻す。帰ってこい』
「……あら?」
婚約を解消したのは、パラジーテ自身だったはずだ。
父が欲しいのは娘ではなく、領地の帳簿とパラジーテの支払いを管理する働き手なのだろう。
メルヴィアは丁寧に返事を書いた。
『婚約解消は正式に成立しております。再婚約の意思はございません』
◇
ある日の夕暮れ。
「メルヴィア。今日はもう終わりにしましょう」
ハーカイムが執務室を訪れた。
「ですが、まだ帳簿が――」
「帳簿は明日でも逃げません」
「……そうでしょうか」
「逃げませんよ。ですが、今夜の夕食の席は逃げてしまうかもしれません」
「……夕食?」
ハーカイムは少しだけ目を逸らした。
「あなたを誘おうと、三日も機会をうかがっていたんです。仕事の話は抜きで、ご一緒していただけませんか?」
メルヴィアは、そっと帳簿を閉じた。
「……はい」
その夜、ハーカイムが尋ねたのは、仕事ではなくメルヴィア自身のことだった。
好きな料理。子どもの頃の思い出。いつか見てみたい景色。
「……海を、見てみたいです」
メルヴィアがそう言うと、ハーカイムは嬉しそうに頷いた。
帳簿のことを考えずに笑ったのは、いつ以来だろう。
◇
季節が変わった。
メルヴィアは侯爵家で、すっかり頼られる存在になっていた。
無駄な支出を減らし、橋を架け直し、領民からは感謝の声が届いた。
そして、彼女自身も気づいていた。
ハーカイムと話す時間が、何より楽しみになっていることに。
ある日の夕暮れ。庭園で、ハーカイムが足を止めた。
「メルヴィア。あなたに、お伝えしたいことがあります」
彼は少し緊張していた。
「最初は、あなたの手腕に驚きました。次に、数字の向こうにいる人々の暮らしを見ていることを知りました。そして、仕事が早く終わって困っているあなたを見たとき……」
ハーカイムは小さく笑った。
「もっと自分のための時間を使ってほしいと思ったのです」
「……ハーカイム様」
「……あなたを愛しています。私と、結婚していただけませんか?」
メルヴィアの目から涙がこぼれた。
「……私で、よろしいのですか?」
「あなたがいいんです」
「……はい! 喜んで!」
◇
「お姉様!」
婚約の噂を聞きつけ、アビータが侯爵家を訪ねてきた。
顔色は悪く、目の下には濃い隈ができていた。
首元には、あの青い宝石が揺れている。
「どうして! どうしてお姉様ばかり幸せなの!?」
「アビータ……」
「私はこんなに苦しいのに! お父様は外すなって言うし、パラジーテ様はお金のことしか言わないし!」
「……お医者様には?」
「そんなことどうでもいい!」
アビータはハーカイムを指差した。
「その人、侯爵家の跡取りなんでしょう!?」
「ええ」
「だったら! お姉様! 私、その人が欲しい!」
メルヴィアは妹を見つめた。
人形も。髪飾りも。ネックレスも。婚約者も。
妹が欲しいと言えば、何でも譲ってきた。
けれど。
「……ごめんなさい、アビータ。それだけは、譲れないわ」
「どうして!?」
「私が、愛しているから」
初めてだった。
自分の欲しいものを、欲しいと言ったのは。
「お父様に言いつけてやる!」
「どうぞ」
「お姉様なんか、もう知らない!」
「ええ」
メルヴィアは静かに言った。
「アビータ。その首飾りのことは、お父様に魔導師様ときちんと相談するよう伝えて。あなたまでお母様と同じにならないで」
「……っ」
ハーカイムが一歩前に出た。
「アビータ嬢。私はメルヴィアを愛しています。あなたが何を欲しがろうと、私の気持ちは変わりません」
「……そんな」
「それから、一つだけお礼を申し上げたい」
「……お礼?」
彼はメルヴィアの手を取った。
「あなたが彼女から婚約者を奪い、家を追い出してくれたおかげで、私は彼女と出会えました。本当に、ありがとうございます」
アビータは口を開けたまま固まった。
メルヴィアは思わず吹き出してしまった。
◇
数日後、今度はパラジーテが訪ねてきた。
「メルヴィア! やはり、私には君が必要だ!」
「……そうですか」
「アビータは金の管理も、支払いの手配もできない! 君なら、すべて上手くやってくれただろう! もう一度、私の婚約者になってくれ!」
「パラジーテ様。必要なのは私ではなく、私が管理していたお金なのでは?」
「……!」
「申し訳ありません。再婚約するつもりはございません」
「だ、だが!」
メルヴィアは、隣のハーカイムを見上げた。
「私には、愛する人がおりますから」
「お引き取りください、パラジーテ殿」
ハーカイムの穏やかな声に、パラジーテは何も言い返せなかった。
◇
結婚式の前日。
伯爵家の老執事が侯爵家を訪ねてきた。
「……爺や?」
「ご無沙汰しております、メルヴィアお嬢様」
「伯爵家は、首飾りの清算に備えて領地の大半を手放しました。魔導師様による解呪の準備も整ったそうです。私もお暇をいただきまして」
「……そうだったの」
「本日は、お届けものがございます」
差し出されたのは、色褪せた封筒だった。
「奥様からお預かりしていたものです。『あの子がお嫁に行く日が来たら、渡してちょうだい』と」
「十五年、ずっと……?」
「はい。ようやくお役目を果たせます」
◇
その夜、メルヴィアは封を開けた。
『メルヴィアへ』
懐かしい筆跡だった。
『あなたがこの手紙を読む頃、私はもうそばにいないかもしれません』
『お腹の子が生まれる前に、どうしても書いておきたかったの』
『私は体が弱くて、あなたと思うように遊んであげられなかったね。ごめんなさい』
『あなたには、お祖母様から受け継いだ首飾りを遺します。私がずっと大切にしてきた宝物です』
『でも、本当に遺したいものは、宝石ではありません』
『あなたには、私よりずっと元気に、そして幸せに生きてほしい』
『たくさん笑って、たくさん恋をして』
『自分の欲しいものを、欲しいと言える人になってね』
涙が頬を伝った。
『それから、生まれてくる妹か弟のことも、どうかよろしくね』
『でも、あなたが我慢ばかりする必要はないのよ』
『あなたが心から愛する人と出会えたなら、どうか、その幸せを大切にしてください』
メルヴィアは手紙を胸に抱いた。
母は知らなかったのだ。
自分の命を削っていたものを、大切な宝物だと信じていた。
けれど、本当に遺したかったのは首飾りではなかった。
「……お母様」
メルヴィアは涙を拭い、微笑んだ。
「私、まだまだ幸せになります」
◇
一年後。
メルヴィアは侯爵家の庭園で、夫とお茶を飲んでいた。
「そういえば、妹さんの件ですが」
ハーカイムが言った。
「アビータが?」
「ええ。伯爵はようやく解呪を決断したそうです。首飾りは砕かれ、呪いも解けたと」
「……そうですか」
「パラジーテ殿との婚約は、借金が明るみに出て破談に。妹君は自ら望んで、今は修道院で静かに暮らしているそうです。伯爵も、爵位こそ残りましたが、屋敷を手放したとか」
「……元気なら、それでいいのです」
もう、妹を憎んではいない。
ただ、二度と自分の人生を譲るつもりもなかった。
「ところで、メルヴィア。今度の休日、海へ行きませんか?」
「海?」
「あなたが以前、見てみたいとおっしゃっていたでしょう」
「覚えていてくださったのですね!」
「もちろん。あなたの欲しいものは、できる限り叶えたいと思っています」
「……では、一つだけ」
「何でしょう?」
メルヴィアは夫の手を握った。
「これからも、ずっと一緒にいてください」
「喜んで」
春の風が庭園を吹き抜けた。
ネックレスを奪われた。
婚約者も奪われた。
家からも追い出された。
けれどそのおかげで、健康になった。
自由になった。
仕事を見つけた。
愛する人に出会った。
「……ふふ」
「どうしました?」
「私、妹には感謝しているんです」
夫の肩に、そっと寄り添う。
「あの子が何もかも欲しがってくれたおかげで、私は本当に欲しいものを見つけられましたから」
ハーカイムは彼女を抱き寄せた。
「では、これからも幸せになりましょう」
「はい!」
もう、誰にも遠慮する必要はない。
だって。
私のハッピーは、まだまだ止まりそうにないのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
何もかも欲しがる妹のおかげで、ようやく自分の幸せを見つけられたメルヴィア。
彼女の「本当にありがとうございます♪」を楽しんでいただけましたら、ぜひ下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです。
ブックマークも、今後の創作の大きな励みになります。




