↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「姉だから」シリーズ

欲しがり妹に婚約者を奪われ、家からも追放されました。本当に感謝しています♪

掲載日:2026/10/11

「お姉様! 私、そのネックレスが欲しい!」


 妹のアビータがそう言ったとき、メルヴィアは思わず胸元に手を当てた。


 銀細工の台座に、大粒の青い宝石が嵌め込まれたネックレス。


 祖母から母へ、そして母から自分へと受け継がれた品だった。


「……これを?」


「ええ! だって、とっても綺麗なんですもの!」


「でも、これはお母様の――」


「私には、お母様の思い出なんて一つもないのよ!」


 メルヴィアは言葉を失った。


 母が亡くなったのは、十五年前。アビータを産んだ直後だった。


 当時、メルヴィアは五歳。生まれたばかりのアビータには母の記憶がない。


「ずるいわ! お姉様ばかり!」


 いつものことだった。


 幼い頃から、アビータはメルヴィアのものを欲しがった。


 お気に入りの人形。


 誕生日にもらった髪飾り。


 初めて仕立ててもらった外出着。


 欲しいと言われれば、父は決まって同じことを言った。


 ――お前は姉なのだから。


 そして今回も。


「メルヴィア。妹に譲ってやりなさい」


「お父様……」


「アビータには母親の記憶がないのだ。形見の一つくらい、持たせてやってもよいだろう」


「ですが、これは……」


「何だ?」


 メルヴィアはネックレスを見下ろした。


 母の瞳と同じ、澄んだ青色の宝石。


 母は生前、これを肌身離さず身につけていたという。


 だからメルヴィアも、五歳の頃から一度も外したことがなかった。


 眠るときも、湯浴みのときも。


 これを着けていれば、母がそばにいてくれる気がしたから。


「……私にとっても、大切なものなのです」


「お前はもう二十歳だろう」


 父は呆れたようにため息をついた。


「いつまでも母親の形見に執着するものではない。それに、アビータの方が似合うではないか」


「お父様! 大好き!」


 アビータが父に抱きついた。


 メルヴィアは、病弱だった母の顔を思い出した。


 ――お前は母さんに似て、体が弱いな。


 昔から、父にはそう言われてきた。


 すぐに熱を出す。


 少し歩いただけで息が切れる。


 帳簿を一冊確認すれば、頭が割れるように痛む。


 母譲りの体質なのだと、ずっと思っていた。


「……分かりました。アビータに譲ります」


「本当!? ありがとう、お姉様!」


 メルヴィアは十五年ぶりに留め金を外し、妹にネックレスを手渡した。


 その瞬間。


「……あら?」


 ずっと背負っていた重い荷物を、突然下ろしたような感覚がした。


 呼吸が楽だった。


 胸の奥にあった鈍い痛みもない。


「お姉様、どうしたの?」


「……いいえ。何でもないわ」


 アビータは鏡の前で、嬉しそうにくるくると回っていた。


「素敵! やっぱり私の方が似合うわ!」


 いつもなら、何かを奪われるたびに胸が苦しくなった。


 けれど今日は、なぜかとても清々しかった。


     ◇


 三日後。


「メルヴィア。婚約を解消してほしい」


 婚約者のパラジーテがそう言った。


「……はい?」


「私はアビータを愛している」


 隣には、頬を赤らめた妹がいた。


「ごめんなさい、お姉様。でも、私たち、本当に愛し合っているの」


「……そう」


 パラジーテは子爵家の次男で、将来は伯爵家に婿入りする予定だった。


 ただ、彼には少々困ったところがあった。


「……パラジーテ様。先月、ご相談なく注文なさった新しい馬車の件ですが」


「……またその話か」


「今からでも注文を取り消すべきかと。以前の馬車はまだ使えますし、今年は領地の橋の修繕費も必要ですので……」


「君はいつも金の話ばかりだな!」


 パラジーテは不機嫌そうに言った。


「アビータは、私の望みを何でも叶えてくれると言っているぞ。君のように口うるさく言わないそうだ」


「承知しました。婚約は解消いたしましょう」


「……本当にいいのか?」


「ええ。お二人とも、お幸せに」


「ありがとう、お姉様!」


 また、胸が軽くなった。


「……ところで、メルヴィア」


 パラジーテが咳払いした。


「これまで君が管理していた、私の支出記録をアビータに渡してもらえるか?」


「ええ、もちろんです」


「それから、来月の支払いについても――」


「そちらは、今後アビータが管理するのでしょう?」


「……まあ、そうだが」


「では、よろしくお願いいたします」


「パラジーテ様! これからは私が何でもして差し上げますわ!」


「そうか。頼もしいな」


 二人を見送りながら、メルヴィアはふと思い出した。


 ――あの馬車の代金は金貨三十枚だったわね。


 支払いは来月。


 今ならまだ、注文を取り消せる。


 けれど、パラジーテは聞く耳を持たなかった。


     ◇


 翌日。


「メルヴィア。お前には家を出てもらう」


 父が言った。


「……家を?」


「パラジーテ殿には、アビータの婿として伯爵家に入ってもらう。あの子が望んでいるのだ」


 母を知らずに育った可哀想な娘。


 だから、何でも与えたい。何も我慢させたくない。


 父は、ずっとそう言ってきた。


 ――では、母を覚えている私は、何を失わなかったというのだろう。


「……では、私は?」


 父は机の上に小さな革袋を置いた。


「元婚約者と同じ屋敷に住むのは気まずかろう。伯爵家はアビータとパラジーテ殿が継ぐ」


 革袋の中には銀貨が数枚。


 二十年間、この家で暮らしてきた娘への手切れ金だった。


「……承知しました。お世話になりました」


 メルヴィアは革袋を受け取り、屋敷を出た。


「……あ」


 外の空気を吸った瞬間、思わず声が漏れた。


 こんなに空は青かっただろうか。


 こんなに風は心地よかっただろうか。


 胸が痛くない。頭も重くない。足取りまで軽かった。


 その日、メルヴィアは二十年間で初めて、自分の行き先を自分で決めた。


     ◇


 王都に着いて、三日が過ぎた。


 宿屋の鏡を覗き込んだメルヴィアは、目を見開いた。


「……私、こんな顔だったかしら」


 青白かった頬に血色が戻り、目の下の隈も薄くなっていた。


 昨夜は久しぶりにぐっすり眠れたし、今朝は階段を駆け上がっても息が切れなかった。


 食事も美味しい。頭も冴えている。


 伯爵家では、帳簿を一冊確認するだけで頭痛がしたのに。


「……三冊くらい、一度に確認できそうね」


     ◇


 王都の商業組合。


 メルヴィアが求人掲示板を眺めていると、近くの卓から声が聞こえた。


「今年も北部の村で小麦が不足する見込みです」


「南部には余剰があるはずだが、輸送費が高すぎる」


「では、税を上げて補填するしか……」


「……失礼ですが」


 メルヴィアは思わず声をかけた。


「北部へ運ぶ必要はないのでは?」


 卓の中央に座っていた銀髪の青年が顔を上げた。


「……どういうことでしょう?」


「南部の小麦を東の港で売り、その代金で北部の隣領から買い付ければ、輸送費を抑えられます。もちろん、相場の確認は必要ですが」


 青年はしばらく考え込んだ。


「……あなたは、どちらの商会の方ですか?」


「いいえ。ただの、求職者です」


「仕事を?」


「はい」


「申し遅れました。私はハーカイム・ヴェルナー。ヴェルナー侯爵家の嫡男です」


「こ、侯爵家の!?」


「実は、領地の経営を手伝ってくださる方を探していたところでして」


 ハーカイムは微笑んだ。


「ぜひ、お話を聞かせていただけませんか?」


 話は驚くほど早くまとまった。


「給与は月額金貨十二枚でいかがでしょう」


「……十二枚?」


「少ないでしょうか?」


「い、いいえ! そんなにいただいて、よろしいのですか?」


 伯爵家では、一度も給与などもらったことがなかった。


 ハーカイムは不思議そうに瞬いた。


「働いた対価ですから、当然でしょう?」


 その言葉に、メルヴィアはなぜか泣きそうになった。


     ◇


 一方、伯爵家では。


「……何よ、これ」


 アビータは鏡の前で眉をひそめた。


 目の下に薄い隈ができている。最近は体が重く、頭も痛い。


 首元では、姉から譲り受けた青い宝石が輝いていた。


「……アビータ。少し相談がある」


 パラジーテが顔を覗かせた。


「何ですの?」


「来月の支払いについてだ。金貨三十枚ほど用意してくれないか」


「……三十枚?」


「新しい馬車の代金だ」


「でも、先週も金貨二十枚を……」


「あれは新しい礼服の代金だろう? 婚約者なのだから、それくらい当然ではないか」


 パラジーテは首を傾げた。


「メルヴィアは、いつも何とかしてくれたぞ」


「……お姉様が?」


「ああ。私の支払いは、すべてあいつが管理していたからな」


「……分かりましたわ」


「助かるよ。やはり君は、メルヴィアとは違うな」


 お姉様より、自分の方が愛されている。


 そう思うと、少しだけ嬉しくなった。


 けれど三日後。


「アビータ。金貨十五枚ほど頼めないか。友人との会食があってね」


 さらに翌週。


「アビータ。新しい剣を買いたいんだ」


「……パラジーテ様。少し、お金を使いすぎでは……」


「君は、私を愛していないのか?」


「そ、そんなこと!」


「メルヴィアは、いつも何とかしてくれたぞ。君は姉より私を愛しているのだろう?」


「……もちろんですわ」


「なら、頼んだよ」


 アビータは震える手で財布を開いた。


 ――こんなはずじゃなかった。


 どうして私ばかり、お金を払わなければならないの?


     ◇


 侯爵家で働き始めて、一か月。


「メルヴィア様! 北部の村で、また橋が壊れまして!」


 領地の代官が駆け込んできた。


「昨年も修理したばかりなのですが……」


「でしたら、今回は架け直しましょう。毎年修理するより、長い目で見れば安く済みます」


 メルヴィアは帳簿をめくった。


「それから、南部の小麦の件ですが、東の港での取引が成立しました。北部への食糧も、予定より早く届くはずです」


「……さすがメルヴィア様!」


 仕事は予定より二時間も早く終わった。


「……どうしましょう」


 まだ夕方にもなっていないのに、やることがない。


「メルヴィア。もう仕事は終わりましたか?」


 ハーカイムだった。


「はい。ですが、まだ何かできることがあれば――」


「ありません。今日はもう休んでください」


「……え?」


「たまには、自分のために時間を使ってみてはいかがですか?」


「……自分のために?」


 メルヴィアはしばらく迷った。


「……では、お庭を散歩してもよろしいでしょうか」


 ハーカイムは目を瞬き、優しく笑った。


「もちろんです」


「ありがとうございます!」


     ◇


 初めての給料日。


「……これが、私のお給料」


 金貨十二枚。


 自分が働いて得たお金だった。


 メルヴィアは王都の店を歩いた。


 綺麗なドレス。


 美味しそうなお菓子。


 可愛らしい髪飾り。


 どれも、自由に買っていい。


 結局、選んだのは小さな青い花の髪飾りだった。


 子どもの頃、誕生日にもらった髪飾りを、アビータに譲ったことを思い出した。


 母の瞳と同じ青色。


 けれど、今度は自分で選んだもの。


 メルヴィアは初めて、自分のために金貨を差し出した。


 翌朝。


「メルヴィア。その髪飾り、よくお似合いです」


 ハーカイムが微笑んだ。


「き、気づいてくださったのですか?」


「もちろん。とても綺麗ですよ」


 メルヴィアの頬が赤くなった。


「……ありがとうございます」


 その日は、いつもより少しだけ仕事が楽しかった。


     ◇


 伯爵家では、アビータの体調がますます悪くなっていた。


「……このネックレス、重いのかしら」


 ある夜、アビータは留め金を外した。


 首元がすっと軽くなる。


「やっぱり。これのせいで肩が凝っていたのね」


 その瞬間。


 屋敷のどこかで、大きな音がした。


「アビータお嬢様! 大変です! 厨房で火が!」


「……え?」


 翌日。


「アビータお嬢様! 今度は馬車が!」


「馬車?」


「昨日届いたばかりの、パラジーテ様の新しい馬車です! 車軸が折れてしまいました!」


「嘘でしょう!?」


「その馬車、昨日届いたときに金貨三十枚も払ったばかりなのよ!?」


 さらに翌日、領地の穀物倉庫が崩れた。


「いったい何が起きている!」


 父が怒鳴ると、老執事が青ざめた顔で口を開いた。


「旦那様。奥様の形見のネックレスは、今どちらに」


「アビータが持っているが、それがどうした」


「お嬢様は、近頃それを外しておられませんか」


「……何が言いたい」


「奥様がご存命の頃、あれを外して休まれた夜には、決まって屋敷で何かが起きたのです。小火であったり、馬が暴れたり……」


「……馬鹿な」


「私も偶然だと思っておりました。メルヴィアお嬢様は、一度も外されたことがありませんでしたから」


 父は答えられなかった。


     ◇


「……呪いのネックレス、ですか?」


 侯爵家の書斎で、メルヴィアは目を瞬いた。


 ハーカイムが古い魔導書を開いていた。


「あなたの体調が急に回復した理由が気になりまして。以前、母君の形見を妹君に譲ったとおっしゃっていましたね」


「はい」


「おそらく、《災厄の首飾り》と呼ばれる呪物です」


 ハーカイムは頁を指でなぞった。


「所有者の生命力を少しずつ奪い、身につけている間だけ家に降りかかる災厄を封じる。外せば封じた災厄が少しずつ漏れ出し、正式に譲渡されると呪いは新しい持ち主に移ります。前の持ち主には二度と戻りません」


 メルヴィアは息を呑んだ。


「……体質では、なかったのですね」


「ええ。よく今まで耐えてこられました」


「母の形見でしたから」


 そう答えて、ふと気づいた。


「……ハーカイム様。母も、ずっと病弱だったのです。私と同じように顔色が悪くて、あのネックレスを肌身離さず着けていて……」


「……」


「お母様も……?」


 ハーカイムは、すぐには答えなかった。


「……可能性は、高いと思います」


 母は、妹を産んだ直後に亡くなった。


 もともと病弱だったからだと、ずっと聞かされてきた。


 けれど、もしあのネックレスが母の命を削っていたのなら。


 ――アビータが生まれたせいでは、なかったのだ。


「……お母様」


 涙がこぼれた。


 ハーカイムが、そっとハンカチを差し出した。


「母君は、あなたを苦しめようとしたわけではありません。大切なものを遺したかったのでしょう」


「……はい。ありがとうございます」


     ◇


 時を同じくして、伯爵家にも魔導師が呼ばれた。


「これは……《災厄の首飾り》!」


 魔導師は青ざめた。


「なぜ、こんなものを娘さんに!?」


「知らん! 姉が着けていたものを、妹に譲っただけだ!」


 父は、はっと顔を上げた。


「……そうだ。ならばメルヴィアに返せばいい! 呼び戻して、またあれに着けさせれば――」


「残念ですが、正式に譲渡された呪物は、以前の持ち主には戻せません」


「呪いを解く方法はないのか!」


「あります。ただし、これまで封じられてきた災厄を、すべて清算しなければなりません」


「清算?」


「首飾りを外せば災厄が少しずつ漏れ出しますが、砕けば残りが一斉に解放されます。橋は落ち、倉庫は崩れ、屋敷にも被害が出るでしょう」


「……そんな」


「人々の暮らしを守るには、修繕と避難の準備が必要です。相当な費用がかかります」


「いくらだ」


 魔導師が告げた金額に、父は絶句した。


「そんな金、どこにある!」


「領地の大半を売却するしかないでしょう」


 父は椅子に崩れ落ちた。


 そこへ、アビータが駆け込んできた。


「お父様! パラジーテ様が、またお金を!」


「今はそれどころではない!」


 父はネックレスをつかみ、アビータに押しつけた。


「着けろ。今すぐだ」


「嫌よ! だって、これを着けていると体が――」


「領地の倉庫が三つも潰れたのだぞ!」


 父は初めて末娘を怒鳴った。


「お前が欲しいと言ったものだろう! 伯爵家の娘なら、家のために我慢しろ!」


 アビータは目を見開いた。


 お前は姉なのだから。


 お前は伯爵家の娘なのだから。


 父の口から出たその言葉を、生まれて初めて自分に向けられた。


 震える指で留め金を留めると、屋敷の軋む音がぴたりと止んだ。


「……お姉様を呼んで」


 アビータは泣きながら言った。


「お姉様を呼んでよ!」


     ◇


 侯爵家に、伯爵家から手紙が届いた。


『至急帰宅せよ』


「どうなさいますか?」


 ハーカイムが尋ねた。


「……帰りません。私はもう、あの家の人間ではありませんから」


「では、明日もよろしくお願いします」


「はい!」


 翌日、二通目の手紙が届いた。


『アビータが倒れた。すぐ戻れ』


 少しだけ胸が痛んだ。


 けれど、首飾りはもう自分には戻せない。


『お医者様と魔導師様を、お呼びになってください』


 メルヴィアはそう返事を書いた。


 さらに翌日、三通目。


『パラジーテ殿との婚約を元に戻す。帰ってこい』


「……あら?」


 婚約を解消したのは、パラジーテ自身だったはずだ。


 父が欲しいのは娘ではなく、領地の帳簿とパラジーテの支払いを管理する働き手なのだろう。


 メルヴィアは丁寧に返事を書いた。


『婚約解消は正式に成立しております。再婚約の意思はございません』


     ◇


 ある日の夕暮れ。


「メルヴィア。今日はもう終わりにしましょう」


 ハーカイムが執務室を訪れた。


「ですが、まだ帳簿が――」


「帳簿は明日でも逃げません」


「……そうでしょうか」


「逃げませんよ。ですが、今夜の夕食の席は逃げてしまうかもしれません」


「……夕食?」


 ハーカイムは少しだけ目を逸らした。


「あなたを誘おうと、三日も機会をうかがっていたんです。仕事の話は抜きで、ご一緒していただけませんか?」


 メルヴィアは、そっと帳簿を閉じた。


「……はい」


 その夜、ハーカイムが尋ねたのは、仕事ではなくメルヴィア自身のことだった。


 好きな料理。子どもの頃の思い出。いつか見てみたい景色。


「……海を、見てみたいです」


 メルヴィアがそう言うと、ハーカイムは嬉しそうに頷いた。


 帳簿のことを考えずに笑ったのは、いつ以来だろう。


     ◇


 季節が変わった。


 メルヴィアは侯爵家で、すっかり頼られる存在になっていた。


 無駄な支出を減らし、橋を架け直し、領民からは感謝の声が届いた。


 そして、彼女自身も気づいていた。


 ハーカイムと話す時間が、何より楽しみになっていることに。


 ある日の夕暮れ。庭園で、ハーカイムが足を止めた。


「メルヴィア。あなたに、お伝えしたいことがあります」


 彼は少し緊張していた。


「最初は、あなたの手腕に驚きました。次に、数字の向こうにいる人々の暮らしを見ていることを知りました。そして、仕事が早く終わって困っているあなたを見たとき……」


 ハーカイムは小さく笑った。


「もっと自分のための時間を使ってほしいと思ったのです」


「……ハーカイム様」


「……あなたを愛しています。私と、結婚していただけませんか?」


 メルヴィアの目から涙がこぼれた。


「……私で、よろしいのですか?」


「あなたがいいんです」


「……はい! 喜んで!」


     ◇


「お姉様!」


 婚約の噂を聞きつけ、アビータが侯爵家を訪ねてきた。


 顔色は悪く、目の下には濃い隈ができていた。


 首元には、あの青い宝石が揺れている。


「どうして! どうしてお姉様ばかり幸せなの!?」


「アビータ……」


「私はこんなに苦しいのに! お父様は外すなって言うし、パラジーテ様はお金のことしか言わないし!」


「……お医者様には?」


「そんなことどうでもいい!」


 アビータはハーカイムを指差した。


「その人、侯爵家の跡取りなんでしょう!?」


「ええ」


「だったら! お姉様! 私、その人が欲しい!」


 メルヴィアは妹を見つめた。


 人形も。髪飾りも。ネックレスも。婚約者も。


 妹が欲しいと言えば、何でも譲ってきた。


 けれど。


「……ごめんなさい、アビータ。それだけは、譲れないわ」


「どうして!?」


「私が、愛しているから」


 初めてだった。


 自分の欲しいものを、欲しいと言ったのは。


「お父様に言いつけてやる!」


「どうぞ」


「お姉様なんか、もう知らない!」


「ええ」


 メルヴィアは静かに言った。


「アビータ。その首飾りのことは、お父様に魔導師様ときちんと相談するよう伝えて。あなたまでお母様と同じにならないで」


「……っ」


 ハーカイムが一歩前に出た。


「アビータ嬢。私はメルヴィアを愛しています。あなたが何を欲しがろうと、私の気持ちは変わりません」


「……そんな」


「それから、一つだけお礼を申し上げたい」


「……お礼?」


 彼はメルヴィアの手を取った。


「あなたが彼女から婚約者を奪い、家を追い出してくれたおかげで、私は彼女と出会えました。本当に、ありがとうございます」


 アビータは口を開けたまま固まった。


 メルヴィアは思わず吹き出してしまった。


     ◇


 数日後、今度はパラジーテが訪ねてきた。


「メルヴィア! やはり、私には君が必要だ!」


「……そうですか」


「アビータは金の管理も、支払いの手配もできない! 君なら、すべて上手くやってくれただろう! もう一度、私の婚約者になってくれ!」


「パラジーテ様。必要なのは私ではなく、私が管理していたお金なのでは?」


「……!」


「申し訳ありません。再婚約するつもりはございません」


「だ、だが!」


 メルヴィアは、隣のハーカイムを見上げた。


「私には、愛する人がおりますから」


「お引き取りください、パラジーテ殿」


 ハーカイムの穏やかな声に、パラジーテは何も言い返せなかった。


     ◇


 結婚式の前日。


 伯爵家の老執事が侯爵家を訪ねてきた。


「……爺や?」


「ご無沙汰しております、メルヴィアお嬢様」


「伯爵家は、首飾りの清算に備えて領地の大半を手放しました。魔導師様による解呪の準備も整ったそうです。私もお暇をいただきまして」


「……そうだったの」


「本日は、お届けものがございます」


 差し出されたのは、色褪せた封筒だった。


「奥様からお預かりしていたものです。『あの子がお嫁に行く日が来たら、渡してちょうだい』と」


「十五年、ずっと……?」


「はい。ようやくお役目を果たせます」


     ◇


 その夜、メルヴィアは封を開けた。


『メルヴィアへ』


 懐かしい筆跡だった。


『あなたがこの手紙を読む頃、私はもうそばにいないかもしれません』


『お腹の子が生まれる前に、どうしても書いておきたかったの』


『私は体が弱くて、あなたと思うように遊んであげられなかったね。ごめんなさい』


『あなたには、お祖母様から受け継いだ首飾りを遺します。私がずっと大切にしてきた宝物です』


『でも、本当に遺したいものは、宝石ではありません』


『あなたには、私よりずっと元気に、そして幸せに生きてほしい』


『たくさん笑って、たくさん恋をして』


『自分の欲しいものを、欲しいと言える人になってね』


 涙が頬を伝った。


『それから、生まれてくる妹か弟のことも、どうかよろしくね』


『でも、あなたが我慢ばかりする必要はないのよ』


『あなたが心から愛する人と出会えたなら、どうか、その幸せを大切にしてください』


 メルヴィアは手紙を胸に抱いた。


 母は知らなかったのだ。


 自分の命を削っていたものを、大切な宝物だと信じていた。


 けれど、本当に遺したかったのは首飾りではなかった。


「……お母様」


 メルヴィアは涙を拭い、微笑んだ。


「私、まだまだ幸せになります」


     ◇


 一年後。


 メルヴィアは侯爵家の庭園で、夫とお茶を飲んでいた。


「そういえば、妹さんの件ですが」


 ハーカイムが言った。


「アビータが?」


「ええ。伯爵はようやく解呪を決断したそうです。首飾りは砕かれ、呪いも解けたと」


「……そうですか」


「パラジーテ殿との婚約は、借金が明るみに出て破談に。妹君は自ら望んで、今は修道院で静かに暮らしているそうです。伯爵も、爵位こそ残りましたが、屋敷を手放したとか」


「……元気なら、それでいいのです」


 もう、妹を憎んではいない。


 ただ、二度と自分の人生を譲るつもりもなかった。


「ところで、メルヴィア。今度の休日、海へ行きませんか?」


「海?」


「あなたが以前、見てみたいとおっしゃっていたでしょう」


「覚えていてくださったのですね!」


「もちろん。あなたの欲しいものは、できる限り叶えたいと思っています」


「……では、一つだけ」


「何でしょう?」


 メルヴィアは夫の手を握った。


「これからも、ずっと一緒にいてください」


「喜んで」


 春の風が庭園を吹き抜けた。


 ネックレスを奪われた。


 婚約者も奪われた。


 家からも追い出された。


 けれどそのおかげで、健康になった。


 自由になった。


 仕事を見つけた。


 愛する人に出会った。


「……ふふ」


「どうしました?」


「私、妹には感謝しているんです」


 夫の肩に、そっと寄り添う。


「あの子が何もかも欲しがってくれたおかげで、私は本当に欲しいものを見つけられましたから」


 ハーカイムは彼女を抱き寄せた。


「では、これからも幸せになりましょう」


「はい!」


 もう、誰にも遠慮する必要はない。


 だって。


 私のハッピーは、まだまだ止まりそうにないのだから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


何もかも欲しがる妹のおかげで、ようやく自分の幸せを見つけられたメルヴィア。


彼女の「本当にありがとうございます♪」を楽しんでいただけましたら、ぜひ下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると嬉しいです。


ブックマークも、今後の創作の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
妹は散財するしか能がない、お金の価値もわからないパッパラパーな男のどこが魅力的に見えたんだ?(・д・`;)そしてそんなパッパラパーを婿にしようとした父親は同じく頭沸いてるんだな(・д・`;)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。