第88話 命令を継がない者たち
七人分の足音は、砕けた数珠を踏まないぎりぎりの位置で止まった。
安堵する時間は与えられなかった。
鐘楼側の通路から、黒衣の男が現れる。
ザレス・ハルドン。
学院側の権限を失っても、指には教会の聖印指輪が残っている。王都を逃げた時より頬はこけ、整えられていた黒衣の裾には泥がついていた。それでも、俺たちを見る目だけは以前と同じだった。
「やはり、ここへ来ましたか」
ザレスの後ろに六人の教会監督官が並ぶ。
「知識を開くと唱えながら、聖都へ忍び込み、教皇猊下の僕を破壊する。異端者の言葉は便利なものです」
「破壊されていません」
クラリス先生が立つ。
「レーネさんは、自分で命令線を外しました」
「道具が命令を拒むことを、意思とは呼びません」
石畳に座ったレーネが顔を上げた。
「では、あなたは命令を拒んだことがないのですか」
ザレスの眉が動く。
「黙りなさい。故障した人造体が」
「黙りません」
弱い声だった。
だからこそ、白い鐘の残響の中ではっきり聞こえた。
ザレスは聖印指輪を掲げる。
「大聖堂内環を閉鎖。対象八名および故障体一体を拘束せよ」
通路の前後に白い壁が立ち上がった。
足元の聖印線が格子状に光る。
【教会監督官権限を確認】
【根権限への接続を要求】
指輪の光が強くなる。
だが、壁は完成しない。
【上位基準と局所命令が不一致】
【局所権限を統合】
ザレスの顔に疑問が浮かんだ。
「統合を許可する。早く閉じなさい」
【許可を受理】
【教会監督官ザレス・ハルドンを根権限へ接続】
聖印指輪から伸びた光が、彼の腕へ食い込んだ。
「な――」
ザレスの身体が硬直する。
彼は壁を閉じる側に立ったつもりだった。
根権限は、彼を命令を実行する部品として取り込んだ。
【局所恐怖反応を検出】
【命令精度を阻害】
【抑制】
指輪が白熱した。
焼けた皮膚の匂いがする。
「外せ!」
ザレスが初めて敬語を失った。
監督官たちは動かない。上位基準が、ザレスの命令より優先されている。
白い壁が閉じ始める。
「放っておけば、閉鎖壁ごと反力を受けて倒れる」
リオネルが言う。
「先へ行くなら今だ」
正しい。
時間だけを考えれば。
俺はザレスへ走った。
「ユウマ!」
「敵を選ばない規則だ!」
指輪へ直接触れない。黒鉛楔を袖口と金属環の間へ差し込み、反力の逃げ先を作る。
「私に触れるな、異端者!」
「外してほしいのか、ほしくないのか、どちらです!」
ザレスは歯を食いしばった。
指輪がさらに焼ける。
「……外せ」
「誰の判断で」
「私の判断だ! 外せ!」
「記録しました」
ナタリアの声が後ろから飛ぶ。
第一段階、逃がす。
黒鉛楔へ反力を流す。楔が赤くなる。
第二段階、ほどく。
教会監督官署名と、根権限が付加した実行者署名の間へ半拍の遅延を入れる。クラリス先生の比較鍵で使ったΛの手順を、簡易的に再現する。
光が一瞬だけ分かれた。
第三段階、切る。
指輪を壊すのではない。根へ向かう細い内周線だけを、切離し爪で押し上げる。
ぱきん、と乾いた音がした。
指輪が床へ落ちる。
ザレスも倒れた。
白い壁は半分閉じたところで止まった。
エリシアが俺の襟を掴み、壁の隙間から引き戻す。その直後、未処理の反力が床を走り、石畳を砕いた。
監督官たちがようやく動く。
だが、俺たちへではない。
倒れたザレスを見て、互いに顔を見合わせている。
命令する者を失い、次に何をすべきか自分で決めなければならなくなったのだ。
「彼を治療院へ」
クラリス先生が言った。
「根への再接続は禁止。火傷を冷却し、本人の意識を確認してください」
一人の監督官が反射的に尋ねる。
「どの権限による命令です」
「命令ではありません。治療手順の提案です。あなたが患者を見て判断してください」
若い監督官はザレスの焼けた手を見た。
そして、自分の判断で杖を下ろした。
その杖へ、白い文字が浮いた。
【現場指揮者の応答なし】
【最上位の接続者へ権限を継承】
六人のうち、最も高い教会階位を持つ年長の監督官へ光が集まる。
彼は反射的に手を差し出した。
「待ってください」
若い監督官が、その腕を掴む。
「受け取れば、この壁を閉じる命令も継ぐことになります」
「では、誰が指示を出す。負傷者も、侵入者もいるのだぞ」
「必要なことを分けましょう。負傷者の搬送。通路の安全確認。証拠の保全。侵入者への対応は、そのあとでいい」
「お前が決めるのか」
若い監督官は、しばらく答えられなかった。
やがて首を横へ振る。
「いいえ。私が搬送を選びます。あなたは安全確認を選んでください。証拠保全は、記録官へ頼みます」
一つの役職を奪い合うのではなく、目の前の作業を分ける。
年長の監督官は、伸ばしかけた手を握った。
継承光は彼の指先を追う。
「権限継承を拒否する」
【拒否理由を入力】
「負傷者の治療と、通路の安全確保に最上位権限は不要」
光が一度強くなる。
【理由を不適合と判定】
「不適合でも記録しろ!」
彼は杖の石英核を抜いた。
白い表示が消える。
六人はようやく、それぞれ動き始めた。
二人がザレスの担架を作る。
一人が砕けた床へ危険札を立てる。
一人はレーネの散った珠を証拠袋へ入れようとして、本人へ許可を訊き直す。
残る二人は、俺たちを警戒したまま杖を向けた。味方になったわけではない。通してよいと判断したわけでもない。
それでいい。
上位命令が消えた瞬間、全員が同じ答えへ変わる方が不自然だ。
「あなた方を信じたわけではありません」
年長の監督官が言う。
「ただ、負傷者を焼きながら閉じる壁を、正しいとは扱えない」
「その判断も記録してください」
ナタリアが板を差し出す。
監督官は躊躇し、自分の名を書いた。
賛同ではなく異議として。
根に受理されなくても、その場にいた人々が読める場所へ。
◇
レーネは、まだ一人では歩けなかった。
ダリオが肩を貸そうとすると、彼女は首を振る。
「少し、待ってください」
右足を前へ出す。
震えながら、靴底が石畳へ着く。
次に左足。
命令補助があった時より遅い。人の視線で追える。
それでも、自分で選んだ方向へ進んでいる。
「大聖堂地下への道を知っています」
「案内を頼んでいいですか」
俺が訊くと、レーネは頷いた。
「はい。命令ではなく、私が引き受ける依頼として受けます」
彼女は壁際まで歩き、並んだ聖句板の一枚へ手をかけた。
表面には、殉教者が天へ迎えられる場面が彫られている。
レーネは殉教者の左目を押し込み、続いて足元の文字を右から三つなぞった。石板の一部が外れ、その奥から錆びた鉄製のレバーが現れる。
「魔力認証ではないのですか」
クラリス先生が訊いた。
「大聖堂で火災や地脈暴走が起きた際、聖遺物を運び出すための退避路です。現在の管理網が作られるより古いため、開閉には歯車と重りしか使われていません」
レーネがレバーを引く。
壁の内側で、長く使われていなかった歯車が軋んだ。
聖句板を含む石壁がゆっくり奥へ沈み、人ひとりが通れる暗い階段が現れる。湿った空気と、古い蝋の匂いが流れ出した。
「この先が、すぐ大聖堂なのですか」
ナタリアが記録板を構えながら訊く。
「いいえ。ここはまだ大聖堂外周の下です。退避路は聖都の内環を半周し、地下水路と納骨回廊を抜けて、祭壇裏の管理区画へ続いています」
急いでも、距離はある。
俺たちは隊列を組み直した。
ダリオが先頭で罠と崩落を確認し、そのすぐ後ろをレーネが進む。俺とエリシアが続き、クラリス先生、ナタリア、ミーナを中央へ置く。リオネルとセリナが後方を警戒した。
階段は狭く、四十三段あった。
七段ごとに高さがわずかに変わる。暗闇の中で勢いよく駆け下りれば、確実に足を取られる造りだ。
「次の段は低いです」
レーネが一段ずつ伝える。
命令補助を失った彼女の足取りは遅い。
二十段を過ぎたところで右膝が揺れ、身体が壁へ傾いた。
ダリオが手を伸ばしかけ、途中で止める。
「肩を貸すか」
レーネは自分の脚を見下ろし、短く考えた。
「お願いします。右側を」
「分かった」
ダリオは彼女が指定した側へ回り、体重を受け止めた。
助けられることも、助けられ方も、今度はレーネ自身が選んでいた。
階段の先には、天井の低い石造りの回廊が延びていた。
右側の壁の向こうから水音が聞こえる。左側には古い納骨室が並び、名の消えかけた石板が暗闇の奥まで続いている。
頭上から、微かな聖歌が降ってきた。
大聖堂の礼拝堂で、今も祈りが続いている。
何百人もの声が石の天井を震わせ、そのさらに奥で、世界を一つの拍へそろえようとする低い脈動が響いていた。
回廊の途中で、壁の継ぎ目が白く光った。
「止まってください」
レーネの声に、全員が足を止める。
四拍後、白い光の帯が通路を横切った。
光がエリシアたちの血統印へ触れ、位置を照合しようとする。
「巡察光です。接続者を検出すると、内環守備隊へ通知します」
「この狭さでは避けられないぞ」
リオネルが周囲を見る。
レーネは床に一定間隔で埋め込まれた灰色の石を指した。
「その石の上へ。退避路の地脈遮断材です」
エリシア、リオネル、セリナが、それぞれ灰色の石へ足を置く。
血統印の光が弱くなった。
白い巡察光が三人の身体を通過する。
一瞬、エリシアの手首が反応しかけたが、床の灰色石が漏れた位相を吸収し、壁の奥へ逃がした。
【接続署名 検出不能】
【巡察継続】
白い光が遠ざかる。
「昔の人間は、ちゃんと管理網から逃げられる場所を作ってたのね」
ミーナが灰色石を靴先で叩く。
「それを隠して、存在しないことにしたのが今の教会か」
「この道を知る者は、教皇直属の執行者だけです」
レーネが答えた。
「私は以前、この道を何度も通りました」
短い沈黙が落ちる。
「何を運んだのですか」
ナタリアが静かに訊いた。
「人です。公開の裁判へ出してはならないと判断された人たちを、大聖堂の地下へ運びました」
「何人?」
「公式の名簿から消された人数と同じです」
レーネは前を向いた。
「だから、私は忘れません」
回廊は三つに分かれていた。
正面の道には白い聖句が並び、右の道には金色の灯りが点っている。左の道だけが暗く、案内も紋章もない。
レーネは迷わず左へ曲がった。
「正面は守備隊の詰所、右は礼拝堂です。大聖堂地下へ続く本当の道には、侵入者を導く表示を置きません」
暗い通路を進むにつれ、頭上の聖歌が近くなる。
香の匂い。
溶けた蝋の熱。
大勢の人間が床を踏む振動。
俺たちは今、大聖堂の真下を歩いている。
やがて前方に、半円形の石門が現れた。
門には取っ手も鍵穴もない。左右の壁に、離れて二本の鉄製レバーが埋め込まれている。
「二本を同時に引かなければ開きません」
レーネはダリオの肩から離れ、右側のレバーへ手をかけた。
「右は私が引きます」
「身体は大丈夫ですか」
「強い命令を実行する力は失いました。でも、このレバーを引くかどうかは、私が決められます」
俺は反対側のレバーを握った。
「では、合図も頼みます」
レーネは一度呼吸を整えた。
「三つ数えます。一、二――三」
二本のレバーを同時に引く。
壁の奥で巨大な重りが落ちた。
歯車の回転音が地下へ響き、半円形の石門が中央から左右へ分かれていく。
門の隙間から、金、白、黒の三色の光が流れ出した。
俺たちは一人ずつ境界を越える。
最後尾のセリナが通過すると、石門が背後で閉じた。
そこは、大聖堂の祭壇よりもさらに深い場所に造られた、円形の管理室だった。
中央に三つの座席がある。
金の座には、王冠をかぶった男の投影。
白の座には、赤い帽子の枢機卿。
黒の座には、金属の右腕を持つ軍人。
レナード王。
枢機卿ヴァレン。
エドガー=ブラッドフォード。
三人の上で、誰も座っていないはずの第四の椅子だけが、眩しい白光を放っていた。
俺たちが管理室の中央へ足を踏み入れると、第四の椅子から教皇の声が降りる。
『ようこそ、世界の外にいた子よ』
三つの王座を支配する空席が、ゆっくりこちらを向いた。




