第86話 閉ざされた聖都
黒い亀裂は、俺の腕を抜いた後も消えなかった。
白い障壁の表面に髪の毛ほどの細さで残り、上へ、左右へとゆっくり枝分かれしていく。割れているように見えるが、光が漏れているわけではない。亀裂の内側だけ、祈祷文も登録印も帝国符号も流れを避けていた。
世界規模の命令網に、何も書かれていない細い空白が生まれている。
【第三警告 準備状態】
【原因 大域基準の過剰固定】
【猶予 算出不能】
アークの表示を見て、リオネルが眉を寄せた。
「第三警告とは何だ。第二の次、では説明にならないぞ」
「分からない。少なくとも、良い知らせとして番号を増やしてはいない」
「なら、今の亀裂を使って入るべきでは?」
セリナが聖都の門と俺を交互に見た。
「あなた一人なら、障壁は認識できないのでしょう。内側から通行条件を書き換えられる可能性があります」
「可能性はある。でも、内側に停止手段がない」
俺は障壁から距離を取った。
亀裂が細くなる。完全には閉じない。
「俺が入って戻れなくなった場合、外から切れるのはアークとの低帯域通信だけだ。障壁の中で何を上書きされるかも分からない」
「非連結なのに、上書きされるの?」
ナタリアが訊く。
「血統層は上書きできなくても、聖都の空気、地脈、建物、食べ物、扉は全部つながっている。俺の身体まで非物質になるわけじゃない」
非連結は無敵ではない。
低魔力であることも変わらない。
世界の命令が俺を見つけられなくても、槍は刺さる。毒は回る。閉じた石室では息がなくなる。
エリシアが腕を組んだ。
「説明が終わったなら、別の入口を探しましょう」
「そうする」
「素直ね」
「君が物理遮断器に手を置く前に学習した」
「良い傾向だわ」
ダリオが街道から外れ、丘の斜面を見ていた。
「巡礼者が門へ入る前、水を汲んでいる」
指の先に、小さな石造りの水場がある。聖都の障壁から五十歩ほど外。巡礼者はそこで手と顔を洗い、空になった革袋を満たしてから門へ進んでいた。
水は障壁の内側から流れてくる。
「給水路か」
ミーナが立ち上がる。
「大きな町は、壁より先に水を作る。聖都が今の障壁を築いたのは古代じゃない。昔の水路まで全部、血統認証に作り直してるとは思えないわね」
俺たちは日が落ちるまで丘の陰で待った。
待つ間にも、聖都の鐘は同じ間隔で鳴った。音が空気を通るより先に、エリシアたちの血統印へ届く。耳で聞く鐘と、骨の内側に響く鐘が半拍ずれ、そのたびに彼女の肩が硬くなった。
「痛む?」
「痛みではないわ。次に何をすればいいか、身体が先に知っている感じ」
「何を命じられている」
「膝をつく。両手を組む。呼吸を四拍へそろえる」
「拒めるか」
エリシアは一度、目を閉じた。
鐘が鳴る。
右膝がわずかに落ちた。だが、彼女は焔紋の杖を地面へ突き、身体を支える。
「拒める。今は」
リオネルも風刃剣の柄を強く握っている。セリナは紫の光を抑えるようにこめかみへ指を当てていた。
接続者三人が、同じ命令を別々の感覚で受け取っている。
その違いが残っているうちに入らなければならない。
◇
夜になり、巡礼者が途切れた。
ミーナとダリオが先に水場へ降りる。俺たちは五十歩離れて待ち、異常があれば戻る手順を決めた。
半刻後、斜面の下で覆い布が二度揺れた。
経路あり。
俺たちは荷車を窪地へ隠し、必要な荷物だけを背負った。食料一日分。水。低出力探針。黒鉛負荷。切離し爪。記録板。治療具。持てるものには限界がある。
何を持つかは、何を捨てるかを決めることだった。
水場の石槽は、底板の一部が外れていた。
下には人ひとりが肩をすぼめて通れる空洞がある。水は別の陶管を流れ、空洞そのものは保守用の歩廊になっていた。
「聖都創建期の巡礼者用給水路」
ミーナが壁の刻印をなぞる。
「病人や子どもへ水を運ぶため、外からも弁を開けられるようにしてある。教会が今の認証網を作るより古い」
「封鎖は?」
「内側に鉄格子が二枚。一本目は錆。二本目には新しい聖印線。そこまでは行ってみないと分からない」
ダリオを先頭に、一列で入る。
水の匂い。
湿った石。
天井は低く、ナタリアの記録箱が何度も擦れた。足元には浅い流れがあり、冷たい水が靴へ入る。
障壁の下を通過した瞬間は、音で分かった。
外で鳴っていた虫の声が消えたのだ。
代わりに、聖都の鐘が水路の石を通じて響く。
一打。
音が骨まで染み込み、エリシアの呼吸を一定の四拍へ引き込もうとする。彼女の胸が途中で止まり、次の息を鐘の合図まで待ちかけた。
「鐘の四拍を数えるな。俺の足音を基準にしろ」
俺が言うと、エリシアが苦しそうに息を吐いた。
「足音を?」
「鐘は四拍周期で血統印へ補正を送ってる。呼吸や歩調まで同じ周期にそろえば、身体が次の命令を受け入れやすくなる。俺は非連結だから、その補正に引かれない。別の周期を作る」
俺は靴底で、新しい歩調を刻んだ。
三歩進み、二拍止まる。
四歩進み、二拍止まる。
「全部で十一拍。鐘の四拍とは、重なる位置が一巡ごとにずれる。この歩調を追って」
先頭のダリオが速度を合わせる。
エリシアは俺の足音へ意識を集中し、鐘に止められかけていた呼吸を自分の意思で吐き出した。リオネルとセリナも、十一拍の歩調へ続く。
三歩。
二拍の停止。
四歩。
もう一度、二拍だけ止まる。
教皇の鐘に比べれば、靴音などあまりに小さい。
それでも、誰の拍を基準にして進むのかは、まだ自分たちで選ぶことができた。
◇
一枚目の鉄格子は、音を立てずに外せた。
蝶番の錆をリオネルの風で払い、エリシアが石壁側だけを温める。膨張差で隙間を作り、ダリオが格子を持ち上げた。
二枚目は新しかった。
銀線が格子の交点を走り、中央の聖印へ集まっている。
【保守通路封鎖】
【解除権限 聖都水務司祭】
壊せば警報が出る。
解除を待てば、ここで終わる。
俺が線を追っていると、格子の向こうで小さな灯りが点いた。
人影が一つ。
白い下衣に灰色の前掛け。腰には弁回しと短い工具束。武器はない。
中年の男がこちらを見ていた。
「外部観測者か」
声は水音に紛れるほど低かった。
ダリオが刀の柄へ手を置く。
「名を」
「聖都第三水務院、保守司祭ヨハン。名簿上は、今も勤務中だ」
「なぜ待っていた」
「障壁に黒い線が入った。古い水路の圧力が一度だけ変わった。根の命令を受けていない経路は、ここしかない」
ヨハンは聖印へ手を当てた。
「開ければ私の名が残る」
「残さず開ける手段はある」
ミーナが言う。
ヨハンは首を振った。
「残す。後で、誰があなたたちを入れたか分からなくなれば、別の者が罪を着せられる」
クラリス先生が一歩前へ出た。
「開ける理由を聞いても?」
「今朝、治療院の温水槽が止まらなくなった。患者が熱いと訴えた。根は、治癒に必要な温度だと答えた」
男の声がわずかに震える。
「温度を決めたのは患者ではない。治療師でもない。だから弁を閉じた。私は今も教皇猊下へ祈っている。だが、患者を煮る命令に祈るつもりはない」
ヨハンが解除句を唱える。
聖印線が彼の血統署名を読み、白から青へ変わった。
【解除理由を入力】
「患者および市民の退避経路確保」
【上位承認を要求】
表示が止まる。
ヨハンは待たなかった。
腰の工具束から鉄の鍵を抜き、格子脇の小穴へ差し込む。
「認証ができる前から、この格子はあった」
機械式の錠が外れる。
彼は自分の名を記録板へ刻み、その下に時刻と理由を書いた。
格子が開く。
「ようこそ、聖都ハルモニアへ」
歓迎の言葉なのに、ヨハンの顔には笑みがなかった。
◇
地上へ出ると、治療院裏の洗濯室だった。
窓の外に聖都の夜がある。
白い。
街灯も、家々の窓も、尖塔の頂も、すべて同じ色で光っている。明るいのに影が薄く、奥行きがない。人々は大通りを静かに歩き、鐘が鳴るたび同じ方向へ顔を向けた。
市場の露店は閉じられていない。パンも布も薬草も並んでいる。だが、売る者と買う者の会話がない。価格表示は根権限が決め、支払いも登録印が自動で処理する。間違いも値切りも起きない代わりに、誰も何も決めていなかった。
「これが、争いのない町?」
ナタリアが囁く。
「記者としては最悪ね。誰も嘘をつかないんじゃない。自分の言葉を使ってない」
ヨハンから大聖堂までの経路を聞く。
大通りは避ける。鐘楼の監視像が接続者の歩調を照合している。裏通りも三本に一本は封鎖。安全なのは、治療院から古い施療修道院、そこから鐘楼下を通る保守路だった。
「根の部屋は大聖堂地下です」
ヨハンが地図へ印をつける。
「三日前から、王国の冠片と帝国の黒い心臓が運び込まれた。枢機卿ヴァレンが輸送を監督し、帝国の男が調整していた」
「エドガーか」
「名は知りません。右腕が黒い金属だった」
間違いない。
「教皇は?」
「昨日から礼拝堂へ姿を見せていません。ただ、声は前より近い」
ヨハンは胸を押さえた。
「耳ではなく、ここから聞こえる」
血統印。
身体の内側を礼拝堂にされている。
その時、洗濯室の外で足音が止まった。
同時に十人。
速さも、靴底の鳴り方も同じ。
ヨハンの顔が強張る。
「監視聖兵です。水路の解除記録が上へ届いた」
ダリオが扉脇へ立つ。
「出口は」
「奥の乾燥室から屋根へ。ただし負傷者棟の上を通る」
「火は使えない」
エリシアが即答する。
扉が白く光った。
【保守司祭ヨハン】
【規定外解除を確認】
【扉を開け、両手を見える位置へ】
ヨハンが震える手を上げかけた。
俺は止めない。
「どうしたいですか」
訊く。
「私が出れば、患者は」
「尋問される。戻れない可能性もある」
「逃げれば、家族に疑いが向く」
クラリス先生が地図を見た。
「ここに残り、通常の保守点検だったと説明する選択もあります。私たちの経路は別に作れます」
ヨハンは扉を見た。
外から二度目の命令が来る。
【開扉まで五拍】
五。
男は工具束を握った。
四。
「私は残ります」
三。
「ただし、従うためではありません。患者を逃がす時間を作ります」
二。
ヨハンは乾燥室の扉を開き、俺たちを押し込んだ。
「鐘楼下の赤い弁を探してください。そこだけは、まだ手で回せます」
一。
洗濯室の扉が開いた。
俺たちは乾燥布の間を走る。
背後でヨハンが、堂々と名乗る声が聞こえた。
「第三水務院保守司祭、ヨハン。患者の過熱を止めるため、私の判断で格子を開きました」
聖兵の命令が重なる。
それでも彼は、同じ言葉を繰り返した。
自分の判断で。
その言葉だけは、鐘の拍へそろわなかった。
◇
屋根へ出る。
白い聖都が眼下に広がった。
大聖堂までは七百歩ほど。だが、その間に三つの鐘楼と二本の大通りがある。
乾燥室の警報を受け、周囲の聖兵が一斉にこちらへ顔を向けた。
杖が上がる。
白い光弾が、別々の場所から同時に放たれた。
「伏せろ!」
リオネルの風が屋根瓦の上を走る。光弾を正面から止めず、その外皮だけを横へ押す。最初の三発が逸れ、煙突を削った。
残る四発は、逸らされた三発の軌道を見て自動補正した。
「学習してる!」
エリシアが焔紋の杖を振る。
火球ではない。屋根と光弾の間に、薄い熱の層を三枚置く。空気の密度差で光の位相が屈折し、四発が上下へ割れた。
一発が足元へ落ちる。
俺は束縛膜を斜めに張った。
受け止めない。
膜の表面を滑らせ、空へ返す。
反力が腕へ来る。
肩の古い傷が熱を持った。
「ユウマ!」
「問題ない。続けてくれ!」
ダリオが先頭で隣の屋根へ跳ぶ。セリナが幻惑を広げ、俺たちの影を五方向へ分けた。
だが、聖兵の杖は影を追わなかった。
血統署名のある三人――エリシア、リオネル、セリナだけを正確に狙う。
「私の幻惑を見ていない」
セリナの声に、初めて焦りが混じる。
「視覚じゃない。登録層で追ってる!」
俺とミーナ、ダリオ、ナタリア、クラリス先生は照合上存在しないか、非戦闘対象に分類されている。接続者だけが、逃れられない標的になっている。
「ユウマ! 俺たちの血統署名を、一時的に消せるか?」
飛来した二本の光弾を風で上空へ逸らしながら、リオネルが俺に叫んだ。
「一時的にならできる! だが、署名層を落とせば、そこから受けている血統補正も失う。今ここで風術が不安定になれば、屋根から落ちるぞ!」
俺が答えると、リオネルは即座に判断を変えた。
「なら、消す必要はない。逆に俺の署名だけを強くする!」
「何をするつもりだ!」
「こいつらは血統署名を追っている。だったら、俺が全部引きつける。お前たちは鐘楼へ走れ!」
リオネルは屋根の端へ踏み出した。
風刃剣を高く掲げ、柄を握る右手の血統印へ意図的に魔力を集中させる。青白い紋様が腕から肩まで走り、夜の屋根の上で燃え上がるように輝いた。
それまでエリシア、リオネル、セリナの三人へ分散していた光弾の照準が外れる。
次の瞬間、すべての光弾が、囮となったリオネルへ一斉に集中した。
「待ちなさい、リオネル!」
セリナが叫ぶ。
「大丈夫だ。切るための風じゃない!」
彼は剣を振り下ろした。
屋根と屋根の間に、太い上昇気流が生まれる。飛び込んだ光弾は風の筒を上へ走り、夜空で互いに衝突した。
白い閃光。
衝撃が聖都へ広がる。
リオネルの膝が落ちた。
出力では負けていない。だが、彼の風は根権限から補正を受けるたび、聖兵の基準拍へ近づいていく。使えば使うほど、敵と同じ命令へ接続される。
「短く使え! 維持するな!」
「分かっている!」
エリシアがリオネルの腕を取り、屋根の陰へ引く。
俺たちは鐘楼の根元へ飛び降りた。
赤い弁がある。
ヨハンの言った、手動保守弁。
ミーナとダリオが同時に飛びつき、左右の留め具を外す。俺が中央の圧力表示を見る。
「一気に回すな。鐘楼の反力がどこへ行くか――」
言い終える前に、鐘が鳴った。
至近距離の一打が、身体を貫く。
エリシアとリオネル、セリナがその場で膝をついた。
街中の人々も同時に膝をつく。
聖兵の杖が再び上がる。
俺は赤い弁の先を見た。
鐘を鳴らす駆動線ではない。
地下へ伸びる太い黒鉛管。
「反力逃がしだ。開けろ!」
ダリオが弁を回す。
固い。
ミーナが工具を噛ませる。
二人で押す。
弁が開いた瞬間、鐘楼の白い光が地下へ落ちた。
次の鐘が鳴らない。
聖兵の杖先が一斉に揺れた。
基準拍を一つ失い、自動補正が照合先を探している。
「今だ!」
立ち上がったエリシアが、屋根の上ではなく石畳へ火を走らせた。薄い熱の線が聖兵と俺たちの間を横切り、空気だけを膨張させる。
轟音。
誰も焼かない衝撃が聖兵を押し戻す。
リオネルの風がその衝撃を横へ広げ、退避路を作る。
俺たちは大聖堂側の細道へ飛び込んだ。
鐘楼の陰を抜ける。
その先に、白い法衣の人影が立っていた。
細い身体。
祈り数珠。
袖口から覗く刃。
シスター・レーネ。
彼女は俺たちではなく、大聖堂の尖塔を見上げていた。
横顔は裁きの塔で別れた時と同じ無表情だった。
だが、口元だけが微かに動いている。
「停止を、要求します」
一度。
「停止を、要求します」
二度。
そのたびに祈り数珠が白く光り、彼女の言葉を拒絶する。
レーネがこちらを向いた。
瞳の奥で、白い命令光と、弱い青い光が激しく衝突している。
「ユウマ」
初めて、彼女は俺を対象ではなく、名前で呼んだ。
「次の命令が届く前に、私を止めてください」
その袖口で、二本の刃が音もなく開いた。




