第19話 新たな理解者
放課後、俺は第一実技庭園へ向かうつもりだった。
エリシアの火を見る。
感覚を記録する。
閾値検出をモデル化する。
そのために、白衣の内側には簡易記録紙、炭筆、フィンが貸してくれた小型の振動針を入れてある。
だが、本棟の階段を降りようとしたところで、透き通った声に呼び止められた。
「天城ユウマさん」
振り向く。
クラリス=エルダーレン。
魔導理論の副教授。
灰色の髪を後ろでまとめ、透写羽ペンを胸元に差している。
穏やかな表情なのに、目だけが鋭い。
試験の時、俺の答案を“胃に悪い”ものとしてではなく、研究対象として見ていた人だ。
「少し、お時間をいただけますか」
「第一実技庭園で予定があるのですが」
「エリシアさんには、私から遅れると伝えてあります」
「手回しが早いですね」
「研究者は、観測機会を逃さないものです」
にこりと笑う。
柔らかい。
だが、逃げ道はない。
「分かりました」
俺は頷いた。
◇
クラリス先生の私室は、部屋というより小さな研究室だった。
壁一面の棚。
古い写本。
ルーン板。
水晶薄膜。
半分分解された干渉計。
床には、魔法陣ではなく、測定用の格子線が引かれている。
空気が落ち着く。
学院に来てから初めて、まともな実験室の匂いがした。
紙、金属、少し焦げた石英、乾いたインク。
前世の研究室とは違うのに、なぜか近い。
「座ってください。お茶は?」
「いただきます」
「砂糖は?」
「実験前なら少し」
「では、少し」
クラリス先生は手元の小さな湯沸かし板を起動した。
詠唱は短い。
しかし、標準詠唱とは違う。
余計な飾りがなく、音程が安定している。
(この人も削ってる)
(標準体系の中で、かなり理論寄りに)
湯気が上がる。
先生は茶を注ぎ、机の上に数枚の記録紙を並べた。
俺の試験結果。
第七環の発動ログ。
今日の火花の測定板写し。
さらに、食堂で俺が話した内容の一部まである。
「……食堂の会話も記録対象ですか」
「公的な監視記録ではありません。エリシアさんから概要を聞きました」
「彼女、仕事が早いですね」
「彼女は優秀です。自分の優秀さを、まだ半分しか理解していませんが」
クラリス先生は静かに言った。
「そして、あなたも同じです」
「俺は自分の低出力なら理解しています」
「出力の話ではありません」
先生は、今日の測定ログを指した。
「あなたは血紋スキル層を持たない。正確には、この世界の標準スキルネットワークに接続していない。だから、普通なら発動補正を受けられません」
「はい」
「けれどあなたは、補正を外部化した。短詠唱、媒体角度、散逸経路、整流板、停止条件。これらを組み合わせて、血紋スキルが内部で行う処理の一部を、手続きとして代替した」
「まだ一部です」
「その“一部”が重要です」
先生の羽ペンが、紙の上を走る。
【Skill Emulation Layer】
【疑似スキル互換層】
【低魔力者への外部化可能性】
英語の頭文字に近い表記を、彼女は迷いなく写した。
この世界の文字に置き換えられているのに、意味は通る。
「SEL。第三実技庭園で、あなたはそう呼びましたね」
「フィンが略しました」
「良い略称です。短く、誤解も少ない。少なくとも“無詠唱”よりは安全です」
「そこは同意します」
先生は顔を上げた。
「研究計画を見せてください」
直球だった。
「まだ草案です」
「草案で構いません。研究は、粗い仮説から始まります」
俺は白衣の内側から、折りたたんだ紙を取り出した。
昨夜、宿舎の硬いベッドの上で書いたものだ。
一、低出力火花の再現性確認。
二、媒体Q値と発動遅延の相関。
三、短詠唱周波数と干渉縞安定度の測定。
四、停止条件の標準化。
五、他者による再現試験。
クラリス先生は黙って読み進めた。
途中で一度、目を細める。
怒ってはいない。
むしろ、嬉しそうですらある。
「五番が入っているのですね」
「俺だけができても意味が薄いので」
「なぜ?」
「共有できなければ、技術ではなく芸になります」
先生の羽ペンが止まった。
「……良い答えです」
その声は、さっきまでより少しだけ低かった。
本音に近い温度。
「この学院では、多くの者が逆を考えます。自分だけができることに価値がある。家だけが持つ秘伝に価値がある。閉じられた知識こそ権威である、と」
「それは、短期的には正しいです」
「ええ。だから厄介です」
先生は窓の外を見た。
王都の空は夕方の色に沈み、魔導街灯が一つずつ灯り始めている。
「天城さん。あなたの研究は、学問的には価値があります。ですが、政治的には危険です」
「分かっています」
「本当に?」
問いが鋭くなる。
「低魔力者でも、媒体と手順で魔法に届く。無籍でも、スキル層なしで現象を起こせる。それを証明すれば、貴族の血統優位は揺らぎます。学院の免許制度も、教会の正統解釈も、工房ギルドの媒体独占も、すべて影響を受ける」
「はい」
「それでも進めますか」
俺は茶に映る自分の顔を見た。
前世の実験室。
止まらなかった装置。
届かなかった非常停止ボタン。
共有されなかった失敗。
“安全第一”と書かれた壁。
そして、白い閃光。
「進めます」
声は、思ったより静かだった。
「危険だからこそ、隠すべきではない。手順化しない技術は、事故を個人のせいにします。才能が足りなかった、祈りが足りなかった、身分が低かった。そう言えば、構造は責任を逃れられる」
クラリス先生は黙って聞いている。
「でも、事故には条件があります。失敗にもパターンがあります。測れば、止められるものがある。共有すれば、助かる人がいる。俺は、それを証明したい」
言ってから、少しだけ息が詰まった。
これは理論の話だ。
でも、それだけじゃない。
俺はまだ、あの爆発を終わらせられていないのだと思う。
クラリス先生は、ゆっくり頷いた。
「では、証明を重ねなさい」
その言葉は、命令ではなかった。
祈りでもない。
研究者が研究者へ渡す、最も重い許可だった。
「一度の成功は偶然。二度の成功は兆候。十度の成功で傾向。百度の成功で、ようやく制度に喧嘩を売れます」
「喧嘩前提ですか」
「あなたはもう売っています」
「否定できないですね」
クラリス先生は、俺の研究計画をもう一度見下ろした。
「ただし、条件があります」
「……何でしょう」
「一つ。すべて記録すること。成功も失敗も、省略しない」
「はい」
「二つ。停止条件を必ず先に書くこと」
「当然です」
「三つ。あなた一人で閉じないこと」
「……閉じない?」
クラリス先生は、机の上に置かれた研究計画の五番目を指で軽く叩いた。
「あなたの草案には、“他者による再現試験”が入っています。とても良い項目です。ですが、それを本当に行うなら、最初から異なる観測者を入れた方がいい」
「異なる観測者」
「ええ。あなたは理論で見る。フィンさんは道具の手触りで見る。エリシアさんは火の感覚で見る。三人の観測は、同じ現象を別の角度から切り取れるはずです」
俺は少し考えた。
理論。
道具。
感覚。
確かに、三つ揃えば補完できる。
俺が見落とす物理的な手触りを、フィンが拾う。
俺が数値化する前の危険な熱を、エリシアが感じる。
そして俺が、それらを手順に落とす。
「つまり、二人に研究協力を頼むべきだ、ということですか?」
「そうです。ただし、あくまでも“巻き込む”ような形にはしないこと。重要なのは、“頼む”ことです」
クラリス先生は、そこだけ少し強く言った。
「研究は、同意の上で行うものです。ましてあなたの研究は、学問的には価値があり、政治的には危険です。エリシアさんにもフィンさんにも、それを知った上で選ぶ権利があります」
「……確かに」
俺は頷いた。
危うく、また一人で先に進むところだった。
手順を共有すると言いながら、共有する相手の意思を確認しないのでは、本末転倒だ。
「では、第一実技庭園での観測後に話します」
「それがよいでしょう」
クラリス先生は満足そうに頷いた。
「エリシアさんとの約束は流しません。むしろ重要です。彼女の火を観察し、感覚と干渉縞がどう対応するのかを見る。その場にフィンさんも呼びなさい。機材補助という名目なら、自然でしょう」
「フィンには、まだ共同研究の話はしない?」
「観測を終えてからで構いません。先に役割を体験した方が、言葉だけで説明するより伝わります」
「なるほど。先に現象を見せる」
「ええ。学問は説得ではなく、観測から始まります」
先生は机の端に置かれていた古い小型干渉計を、両手で丁寧に持ち上げた。
金属枠はくすみ、水晶薄膜には細かな傷がある。
だが、構造は美しい。
余計な装飾がなく、測るためだけに作られている。
「これを貸しましょう。古いですが、あなたの第七環の整流板よりは正確です。今日の第一実技庭園で使うには十分でしょう」
「ありがとうございます。かなり助かります」
「扱いには気をつけてください。薄膜は古い。強い火には近づけすぎないこと」
「了解しました」
俺は小型干渉計を受け取り、白衣の内側へ慎重にしまった。
クラリス先生は、最後に小さな銀の鍵を見せた。
持ち手に、古いルーンが刻まれている。
「それと、観測が終わり、二人が同意したなら、旧東棟の地下へ来なさい。使われていない小実験室があります。正式な高等術式実験には使えませんが、低出力の干渉測定なら十分です」
「許可されているのですか」
「私には、低危険度研究設備の裁量権があります」
「かなり攻めた解釈では?」
「学問には、適切な解釈が必要です」
穏やかな顔で言う。
この人、思ったより強い。
「監視記録は私が管理します。ただし、二人が同意しなければ今日は使いません。そこを省略してはいけません」
「はい」
予定は消えていない。
順番が変わっただけだ。
第一実技庭園で、エリシアの火を見る。
フィンには機材補助として来てもらう。
そこで得た問いをもとに、共同研究として続けるかどうかを二人に頼む。
二人が同意すれば、旧東棟の小実験室へ行く。
手順は明確になった。
研究班。
その言葉は、まだ仮の名前だ。
エリシアも、フィンも、まだ知らない。
けれどもし、二人が同じ現象を見て、同じ問いを持てるなら。
今度こそ俺は、一人で実験室に籠もらずに済むのかもしれない。
「では、行ってきます」
「ええ。よい観測を」
クラリス先生の声に背中を押され、俺は私室を出た。
廊下の向こう、夕暮れの光が第一実技庭園の方角を赤く染めていた。




