第16話 差別と孤立
学院の朝は、鐘で始まる。
低く、長く、白石の校舎全体を震わせる音。
村の朝にあった鶏の声も、工房の炉が息を始める音も、ここにはない。
代わりにあるのは、整列した足音、制服の布擦れ、遠くを滑る浮遊廊下の低い唸り、そして――誰がどの家の出身かを測る視線だった。
(音まで階級制か)
仮宿舎から本棟へ向かう回廊を歩きながら、俺は学生証を指先で確かめた。
銀縁の薄い板。
名前、所属、仮等級。
そして、薄く赤く光る注意表示。
《監視付き理論特待生》
《血紋応答:なし》
《実技使用:教員承認下に限る》
便利な札だ。
俺が何か言う前に、周囲へ「こいつは面倒です」と告知してくれる。
前世なら入館証に「危険物」って書かれているようなものだ。
いや、研究室には似たようなラベルが貼られていた気もする。
違うのは、ここではラベルが人間に貼られることだった。
「おい、見ろよ。あれが例の無籍だ」
「監視付きって、本当に光るんだな」
「危険物扱いじゃないか」
「ヴァーミリオン様が推薦したんだろ? 何を考えてるんだか」
声は小さい。
けれど、小さくする気があるだけで、聞かせる気はある。
人間の悪意にも、なかなか繊細な調整機構があるらしい。
俺は足を止めずに歩いた。
止まれば、観測対象としての俺の反応が増える。
反応が増えれば、相手は次の入力を探す。
だから、無反応。
負帰還。
ノイズ抑制。
「ユウマ!」
後ろから明るい声が飛んできた。
フィン=クロードが、工具袋を肩に引っ掛けて走ってくる。
制服は着ているが、袖口から工具の紐がはみ出している。学院の白と青の上品な色合いに、工房区の煤っぽさが混ざっていて、本人だけ別の仕様書で作られたみたいだった。
「おはよう。朝から顔色悪いな」
「周囲のノイズレベルが高い」
「それ、悪口言われてるって意味?」
「かなり近い」
「じゃあ普通にそう言えよ。解析しなくていいとこまで解析すんな」
「癖だ」
フィンは呆れたように笑って、俺の学生証を覗き込んだ。
「うわ、本当に赤く光ってる。かっこいいな」
「どの辺が?」
「限定品っぽい」
「評価関数が独特すぎる」
そう言うと、少しだけ気が緩んだ。
学院で初めてできた友人が、差別の構造を全部理解していなくても、横で笑ってくれるのは助かる。
温度計では測れないが、こういうものも安定化要素だ。
◇
最初の授業は、実技基礎だった。
場所は第三実技庭園。
芝生の下に薄いルーン回路が敷かれ、周囲には低い白石の柱が並ぶ。
中央側には地脈の流れが均一に整えられた区画。
外周側には、古い結界石と、魔力の揺れが大きい不安定区画。
(中央ほど条件がいい)
(外周ほどノイズが多い)
(つまり、席順だけで結果が変わる)
俺がそれに気づいたのと、実技担当の教師が名簿を読み上げたのはほぼ同時だった。
「エリシア=ヴァーミリオン、第一環」
「リオネル=グレイ、第一環」
「セリナ=アークロウ、第二環」
「フィン=クロード、第四環」
「天城ユウマ――第七環」
庭園がざわついた。
第七環。
最外周。
実質、劣等席。
芝生の色も少し悪い。足元のルーンは摩耗し、柱の一つは欠けている。
地脈の流れは中央の半分以下で、しかも周期的に乱れる。
精密な制御を試すには最悪だ。
ただ、失敗したときの被害が少ないという意味では、管理側にとって都合がいい。
「安全措置だ」
教師は俺の方を見ずに言った。
「監視対象者には、規定により外周使用を命じる。異議は認めない」
俺は一度、足元を見た。
芝生。
欠けた柱。
摩耗したルーン。
風向き。
結界石の亀裂。
「異議はありません」
答えると、周囲で小さな笑いが起きた。
「素直じゃないか」
「最下位の場所が似合う」
「理論で地脈でも直すつもりか?」
俺はしゃがみ込み、足元のルーンを指でなぞった。
銀粉が落ちかけている。
線幅が均一ではない。
これでは、場の位相が跳ねる。
(第七環は劣等席じゃない)
(劣悪な実験環境だ)
(なら、環境補正のデータが取れる)
笑われているのに、少しだけ気分が上がった。
よくない傾向だ。
実験条件が悪いほど燃えるのは、前世からの悪癖である。
「おい、天城」
中央側から声がした。
リオネル=グレイ。
風属性の名門。
青銀の制服に鷹の徽章。背筋は伸び、視線はまっすぐだ。
まっすぐすぎて、こちらを測線で切ってくるみたいだった。
「その席で何を観察している?」
「ノイズ源」
「自分のことか?」
周囲が笑った。
リオネルは笑わない。
彼の挑発は、雑な嘲笑ではない。試験問題に近い。
俺がどう返すか、それを見ている。
「俺自身も含む。観測系に観測者が与える影響は無視できないからな」
「……相変わらず、君の返答は不愉快なほど遠回りだ」
「褒めてる?」
「半分も褒めていない」
どこかで聞いた比率だ。
リオネルは杖を軽く持ち上げた。
風が彼の周囲で薄く回る。
自動補正の綺麗な流れ。
血紋スキル層が、呼吸するだけで場を整えている。
「今日の基礎実技は、初等風圧と初等火花だ。君が理論でどこまで這い上がれるか、見せてもらおう」
「這い上がるには、まず地面の高さを測らないとな」
「君は、本当に――」
リオネルが言いかけたところで、第一環のさらに内側から視線を感じた。
エリシア=ヴァーミリオン。
紅のリボン。
整った横顔。
彼女は何も言わない。
嘲笑もしない。
止めもしない。
ただ、見ていた。
観察者の目だ。
村で俺の火を見たときと同じ目。
けれど今日は、そこに少しだけ違う色が混じっている。
感情を隠そうとしている人間の、わずかな硬さ。
(助け舟は出さない、か)
それでいい。
彼女がここで俺を庇えば、「ヴァーミリオン家に守られた無籍」というラベルが補強される。
観察に徹するのは、合理的だ。
合理的なのに、胸の奥が少しだけ冷える。
孤立とは、誰もいないことではない。
誰もが見ているのに、誰も同じ場所に立っていないことだ。
◇
実技基礎は、血統魔法のために作られていた。
教師が杖を掲げ、標準詠唱を示す。
「火の種よ、掌に灯れ」
第一環の学生たちが同じ言葉を唱える。
杖先に小さな火花が灯る。
簡単そうに見える。
実際、彼らにとっては簡単なのだろう。
詠唱が初期条件を入れる。
血紋スキル層が位相を整える。
杖の媒体が不足分を補う。
結果、火が出る。
自動車のアクセルを踏めば進むのと同じだ。
エンジンの燃焼サイクルを知らなくても、車は動く。
「天城ユウマ」
教師が名を呼んだ。
「同じ術式を実行せよ。ただし、出力は最低。許可なく応用を加えるな」
「了解しました」
俺は監視封印付きの仮杖を握った。
ガルド製の杖は、学院側で封印札を追加されている。
石英片の根元に、小さな赤い札。
出力が規定値を超えると、回路が遮断される仕組みだ。
(雑なヒューズだな)
(でも、あるだけマシか)
俺は杖を構えた。
「火の種よ、掌に灯れ」
唱える。
何も起きない。
分かっていた。
標準詠唱は、血紋スキル層への命令を含んでいる。
俺には、そのポートがない。
周囲から笑いが漏れた。
「やっぱり」
「詠唱しても無理か」
「下位判定ならそんなものだろ」
教師は淡々と言う。
「再試行」
「はい」
もう一度。
「火の種よ、掌に灯れ」
何も起きない。
ただし、今度は見えた。
杖先の石英片に入ったマナ場の揺れ。
標準詠唱が起こす微小な周波数帯。
封印札が余計なノイズを出している。
第七環の地脈揺らぎが、ちょうど火花の成立帯を横切っている。
(なるほど)
(失敗条件が揃いすぎてる)
(これ、逆にきれいなデータだ)
「三回目」
教師の声に、周囲の笑いが少し大きくなる。
俺は深く息を吸った。
標準詠唱をそのまま唱えても無駄だ。
だが、今日は初日。
応用は禁止。
なら、禁止されていない範囲を探す。
詠唱文は変えない。
杖も変えない。
出力も上げない。
変えるのは――呼吸のタイミングと、杖先の角度。
「火の種よ、掌に灯れ」
声の高さを、ほんの少し落とす。
母音を短く切る。
杖先を欠けた柱から三度だけずらし、地脈ノイズの谷に合わせる。
石英片の周囲に、薄い干渉縞が一本だけ浮いた。
火は、出ない。
だが、火が出る直前の赤い点が、半拍だけ残った。
笑いが、少し止まる。
教師の眉が動いた。
「今のは何だ」
「成立直前の熱核です。標準術式では起動しませんでしたが、入力帯は確認できました」
「火を出せと言った」
「はい。なので、次は出します」
周囲がまたざわつく。
リオネルの目が細くなる。
エリシアの指が、紅のリボンに一瞬だけ触れた。
教師はしばらく俺を見ていたが、短く言った。
「許可する。ただし、標準詠唱の範囲内だ」
「分かりました」
俺は杖を握り直した。
(今日やることは決まった)
(劣等席を、観測席に変える)
笑いたければ笑えばいい。
最下位扱いでいい。
外周でいい。
法則は、席順を読まない。
必要なのは、条件だ。
条件が見えれば、次は設計できる。
俺は足元のルーンを見下ろし、小さく呟いた。
「まずは、この最悪な環境を校正する」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
けれど、エリシアだけは。
なぜか、その言葉を聞いたように、わずかに目を伏せた。




