第113話 帰る場所、開く扉
タリヤは、翌朝になっても水と火を一緒にしなかった。
ガルドの工房へ入ると、試験台の火口には木皮も石英片も置かれていない。代わりに、タリヤが大きな紙へ水の皿、火口、黒鉛箱を描いていた。
「今日は火をつけないの?」
俺が訊くと、タリヤは少し不満そうに頷いた。
「ガルドじいに、湯気がどっちへ行くか先に描けって言われた」
火で水を温めれば、湯気が出る。皿を火口へ近づけすぎれば、突然沸いて熱い滴が飛ぶかもしれない。昨日、彼女が書き出した危険条件のうち、まだ確かめていないものだ。
「最初は、火を使わずにやる。ガルドじいが沸かしたお湯を少しだけ皿へ入れて、湯気の向きを見るの」
「湯はもう冷ましてある」
ガルドが炉の向こうから言った。
「手を近づけて熱いかどうかを確かめてからだ。蒸気の話をするために、先に火傷してどうする」
「分かってる!」
タリヤは頬を膨らませながらも、皿の横に置いた温度板を指した。
試験台の前には、丸、波線、四角で囲った点の木片が並んでいる。その隣に、細い曲線を三本重ねた新しい図があった。
「これは?」
「湯気の印。でも、まだ試験台には付けない」
「どうして?」
「ガルドじいに見せたら、煙と見分けがつかないって」
「実際、儂には分からん」
ガルドはきっぱり言った。
タリヤは曲線の先へ、皿を表す丸を描き足した。
「これなら?」
「皿の横に置けば読める。壁の札にしたら、まだ分からんな」
「じゃあ、もう少し考える」
彼女は紙を消さなかった。図の横へ【まだ使わない】と書き、湯の入った皿を黄色い線の外へ戻す。
俺は思わず口を開きかけた。湯気の流れを調べるなら、窓を開ける幅と室内の風を揃えた方がいい。
けれど、タリヤはちょうど窓へ目を向けていた。
「朝と夕方で風が違うから、今日は窓を閉めてみる」
「理由は?」
ガルドが訊く。
「窓の風まで変わったら、何で湯気が動いたのか分からなくなる」
「やってみろ」
俺は椅子を引いて、二人の作業を見た。
教えたいことを黙っているのは、思ったより難しい。必要になれば言うつもりで、紙の空白を眺める。だがタリヤは、先にガルドへ自分の考えを説明し始めた。
昨日、俺がしたのは彼女の火を観測することだった。
今日は、その続きを彼女自身が進めている。
◇
昼前、エリシアが王都へ向かう荷車の支度を終えた。
聖都からガレオン村へ向かう途中で話したとおり、彼女には家との対話が残っている。ヴァーミリオン家の炎のどこまでが血統印による補助で、どこからが他の人も学べる技術なのか。その違いを調べるには、家に保管された試験記録を見て、自分でも測り直さなければならない。
エリシアは杖と着替えのほかに、タリヤの試験記録を入れるための平たい木箱を荷台へ載せていた。
「街道の分岐まで送るよ」
「あなたは研究所へ戻る支度をしたの?」
「白衣と書類をまとめた。あとはアーク」
『私は荷物に分類されますか』
胸元から声がした。
「運ぶ時だけ」
『条件付きの分類として記録します』
エリシアが笑う。
ガルドは荷車の下へ潜り、車軸を一周調べてから、緩んだ金具を締め直した。
「行く先が王都でも鉱山でも、車輪が外れりゃ同じだ」
「ありがとうございます」
エリシアが頭を下げる。
タリヤは昨夜の火の記録を木箱へ入れた。
「王都の人にも見せていいよ。でも、最初につかなかったところを抜かないでね」
「ええ。一度目に熱が届いたことも、二度止めたことも、まとめて見せるわ」
「うん」
タリヤは満足そうに蓋を閉めた。
工房を出る前、俺は三枚の木片をもう一度見た。煤が染みつき、角は丸い。昨日タリヤへ返したものだ。
ガレオン村に初めて来た頃、俺は発動しない火の理由を一人で探していた。今は、その失敗を使って、タリヤが次の子に停止を教えている。
研究所へ持ち帰るのは木片ではない。彼女が記録した手順の写しだけでいい。
◇
村外れで、街道は二つに分かれた。
一方は王都へ。もう一方は山を越え、グレインベルへ続く。二人で歩いたのはそこまでだった。
「王都での話、一度では終わらないと思う」
エリシアが荷車の横で言った。
「家の人も、古い記録を全部すぐに開くとは言わないでしょうね」
「急がせるつもりはないよ」
「でも、調べることはやめないわ。私が自分で測った結果も持って、また研究所へ行く」
「待ってる」
「あなたの講義を聞きに行くだけじゃないのよ。私の試験方法にも意見を言って」
「厳しく見ていいか?」
「もちろん。私もあなたの図を直すから」
言い終えて、二人とも少し黙った。
聖都の記録室で俺が前の世界のことを話した夜から、エリシアは時々、続きを訊く。研究室には誰がいたのか。事故の直前、何を考えていたのか。答えが分からない問いもある。
話し始めたからといって、隠していた年月が一晩で消えるわけではない。彼女はそう言っていた。それでも、訊くことをやめなかった。
「気をつけて」
俺が言うと、エリシアが手を伸ばした。
握り返す。
帰還線を保つためではない。鼓動を照合するためでもない。しばらく会えなくなる前に、彼女の手を握っていたかった。
「あなたも。研究所へ着いたら、まず休んで」
「着くのはまだ先だよ」
「今のうちに言っておかないと、忘れるでしょう」
「フィンにも言われそうだ」
「彼には先に手紙を送っておくわ」
「そこまでする?」
「ええ」
彼女は笑い、ゆっくり手を離した。
荷車が王都への道を進む。俺は曲がり角で姿が見えなくなるまで見送った。
『エリシアの到着予定時刻を推定しますか』
アークが訊いた。
「道中の天候も、本人が立ち寄る場所も分からない。今はいい」
『では、到着後の連絡を待ちます』
「ああ」
俺もグレインベルへの道を歩き出した。
山から吹く風に、湿った鉄の匂いが混じっている。
◇
グレインベルへ着いたのは、村を出て五日後の夕方だった。
途中で工房の荷車に乗せてもらい、最後の坂は歩いた。山の斜面に、何度も修理された反力塔と三本の煙突が見える。
黒い山。三本煙。
王都を追われた頃、ミーナがフィンたちへ送った合流の目印だ。あの時は、ここで長く研究を続けられるかも分からなかった。
研究所の外壁には、古い看板が残っていた。
【山岳測量器修理所】
その下に、新しい板が増えている。
【辺境研究所】
【設備修理・安全試験・公開講習】
【危険物の持込みは受付で申告】
「修理所の看板、まだあるんだな」
『撤去の提案はありませんでした』
アークが答える。
「最初は隠れるためだったけど、本当に修理をしてたからな」
壊れた地脈探針を直し、鉱山組合から代金を受け取った。そこで得た黒鉛と石英を使って、最初の停止箱を作った。
偽りだった看板にも、本当の仕事が残っている。
扉を開けると、フィンが床に座っていた。
膝の間には分解した水門弁。銀線の端を工具で起こしている。俺を一度見上げ、それから弁へ目を戻した。
「帰ったか」
「ただいま」
「そこ、研磨粉が散ってる。手を洗ってから触れ」
「最初にそれか?」
「先に『よく戻った』と言ってほしいのか」
「少しは」
フィンは工具を置き、俺を見た。
「よく戻った。で、手を洗え」
「分かった」
工房の奥で槌が鳴る。誰も仕事を止めない。
少し寂しいと感じて、自分で驚いた。聖都を離れても研究所が動いていることを、望んでいたはずなのに。
「何だ、その顔」
フィンが訊く。
「俺がいない間も進んでるんだな」
「止める理由がないだろ」
彼は水門弁を持ち上げた。
「ただ、これだけはお前の持ってきた記録を待ってた。ガレオン村へ行く途中で、井戸が止まった町があったんだろ」
「ああ。型式番号は同じでも、改修で信号の順番が変わっていた」
「この弁も旧式だ。構造は別物かもしれないが、型式だけを信じるとまずいってことは分かる。現地の改修記録を見せてくれ」
俺は鞄から、井戸の革弁の寸法と、動作確認の順番を書いた紙を出した。
フィンはすぐ弁へ取り付けなかった。二枚を並べ、違う箇所へ印を付ける。
「同じ部品かどうかも、これから調べる」
その言葉に安心した。
記録室では、ノエルが各地から届いた試験結果を整理していた。書類は地域と設備ごとに分けられ、失敗例の頁には赤い札が付いている。
「戻られたんですね、ユウマさん」
「ただいま。ずいぶん増えたな」
「旧式の治療具と生活設備が多いです。使っている土地ごとに改修が違うので、同じ型式の報告も一緒にはできません」
廊下ではルカが、壁の低い位置へ停止札を取り付けていた。
「ユウマさん、おかえりなさい」
「ただいま。高さを変えたのか」
「前の札は、荷車を置くと手が届きにくかったんです。こっちは文字を読まなくても、触れば停止位置が分かるようにしています」
札には、タリヤの木片に似た図が刻まれていた。
「この波線、本人に見てもらった?」
「写しを送りました。『矢印が足りない』って返事でした」
「もう返事が来たのか」
「ガレオン村からなら、ユウマさんが歩いて帰るより通信の方が早いです」
「それはそうだ」
ジークは奥の負荷槽から出てきて、俺の肩を軽く叩いた。
「飯は食ったか」
「昼に」
「なら、また食え。夜の点検までに休め」
「俺も点検へ?」
「今日は記録を読め。疲れた人間に負荷槽は開かせん」
俺は言い返さず、食堂へ向かった。
壁には研究所の規則が掛かっている。
一人で開かない。
止め方を先に作る。
逃げ道を塞がない。
対価を曖昧にしない。
人体への適用には審査を要する。
記録は消さず、秘匿時も検証可能にする。
Ωへ無条件に接続しない。
発動補助より停止補助を優先する。
その下へ、見慣れない欄が加わっていた。
【規則の変更提案は、ここへ】
小さな紙が何枚も差し込まれている。
【休息も作業予定に入れる】
【初めて使う人が停止位置を見つけられるまで講習を始めない】
【子供向けの図は、子供に読んでもらう】
どれも俺の字ではなかった。
ジークに休めと言われた理由が、少し分かった。
◇
翌朝、受付には各地から届いた包みが積まれていた。
旧式治療具の部品、手動弁の試作品、共同井戸の図。どの袋にも、送り主が知りたいことと、現地で既に調べたことが書いてある。
「全部ここで試すのか」
俺が訊くと、ノエルは首を振った。
「危険度を見て決めます。現地の設備から離すと測れないものもあります。そういう場合は、測る位置や止め方を相談して、向こうで試してもらいます」
「研究所が答えを持つ場所にならないためにも?」
「はい。それに、現場の改修を知らないまま試して、間違った答えを送る方が怖いです」
アークが机の上へ通信一覧を開く。
王都の治療所。帝国東部の防寒炉。雪原の暖房環。島の灯台。
地点ごとに、採用、修正、拒否、保留が並んでいた。雪原は旧式暖房環の試験を続けるため、移行を保留している。
「保留に期限がある」
『現地が冬季の確認期間を指定しています。その期間中、遅延とは表示しません』
保留には理由がある。寒さの中で人を守る炉を、短い試験だけで替えるわけにはいかない。
窓際には、俺の机も残っていた。上には封筒と講習用試験台の図面が置かれている。
封筒の差出人は暫定七席。大域仕様の常任設計責任者について、職務と撤回条件を書いた再提案だ。ガレオン村でエリシアと話したとおり、内容を読んでから正式に返事をするつもりだった。
「その書状の前に、講習の図面を見てもらえますか」
ノエルが言った。
「来週、工房見習いと各地の学習者が来ます」
図面には、低出力の石英片、別室の黒鉛負荷槽、魔法の制御と繋がらない手動停止レバーが描かれていた。ガレオン村の台を参考にしているが、同じ部品をそのまま使ってはいない。
「最初の講師は?」
「一時間ほど、ユウマさんにお願いします。その後は、参加者が持ってきた失敗記録を皆で読みます」
「講師の説明におかしいところがあったら?」
「その場で指摘してもらいます」
ノエルが真顔で答え、フィンが横で笑った。
俺は図面を閉じる。
「分かった。最初に見せる記録は決めてある」
鞄から、タリヤの試験記録の写しを出す。
一度目は火がつかなかった。石英へ熱は届いていた。木皮が湿っていると気づき、残留熱を逃がしてから燃料を替えた。二度目に火がつき、温度が上がる前に自分で止めた。
「成功した二度目だけを見せないんだな」
フィンが言った。
「うん。火がつかなかった時に、どこまでできていたかも見てもらう」
窓の外で、鉱山の昼鐘が鳴った。
聖都の強制同期が続いていた頃は、炉まで同じ拍へ揃えられそうになった。今は一号炉だけが煙を上げ、二号炉は修理中、三号炉は別の負荷試験を待っている。
鐘が鳴っても、全員が同じ作業を始めるわけではない。
俺は講習用の紙を引き寄せ、最初の行を書いた。
【失敗ログから始めよう】
その下に何を足すかは、来週ここへ来る人たちの問いを聞いてから決めたかった。




