Phase1
28年1月1日
通知は、午前零時ちょうどに届いた。
【Lythraen/実験区限定】
本日より、Phase1を開始します。
本地域では、政策評価が一定条件下で制度に反映されます。
あなたの選択は、記録されます。
湊は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
“記録されます。”
それは監視の響きではなかった。
むしろ逆だった。
――消えない、ということだ。
カーテンの隙間から朝の光が差し込む。
街はいつも通りだ。
通勤電車は混み、ニュースは芸能人の話題を流している。
国家は、静かな顔をしている。
だが、何かが始まっている。
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霞ヶ関。
まだ人の少ない廊下を、低い声が滑っていく。
「本当にやるのか。」
「限定地域です。法的にも問題はない。」
「問題は法ではない。前例だ。」
会議室のモニターには、実験区の地図が映し出されている。
小さな色付きの点が、参加世帯数を示している。
増えている。
「参加率、初動で二八%。」
「想定より高いな。」
「珍しいものは、触る。」
誰かが言う。
「……慣れたらどうなる。」
沈黙。
Phase1は革命ではない。
中央の権限は変わらない。
予算総額も動かない。
ただ、配分の一部が可視化され、
一定範囲で住民の評価が次期調整に影響する。
仕組みは地味だ。
だからこそ、扱いづらい。
⸻
実験区――北国の地方都市。
除雪費の再配分案がアプリに表示されている。
A案:高齢者世帯優先除雪強化
B案:通学路の重点除雪
C案:商店街周辺の迅速対応
数字は明確だ。
予算の移動が、視覚化されている。
市役所の若手職員が画面を見つめる。
「これ、本当に反映されるんですよね。」
上司は答える。
「一定の閾値を超えればな。」
「怖くないですか。」
「怖いよ。」
だが、その声はどこか柔らかい。
これまで“内部調整”で決まっていたものが、
初めて外に開かれる。
決める側と、決められる側の境界が、
少しだけ曖昧になる。
⸻
東京。
証券会社のフロア。
「Phase1って何だ?」
「限定自治の実験らしい。」
「市場に影響あるか?」
「直接はない。ただ……」
「ただ?」
「政策決定の予測モデルが少し変わる。」
アルゴリズム担当が眉を寄せる。
「不確実性が増える?」
「短期的には。」
「長期は?」
「……参加率次第だな。」
市場は予測可能性を好む。
だが、完全に読める政治は、
時に急激な反動を生む。
少しの揺らぎは、
むしろ緩衝材になるのかもしれない。
⸻
湊はアプリを開いた。
表示されているのは、
自分の暮らす地域の教育予算配分案だった。
A案:ICT設備更新を優先
B案:少人数学級の拡充
C案:地域講師の増員
それぞれに、効果予測とリスクが記されている。
彼はB案を選び、指を止めた。
「……これでいいのか。」
父の声が脳裏に浮かぶ。
――国家は制御系だ。
だが今、制御は単線ではない。
送信。
画面がわずかに明滅する。
ありがとうございました。
あなたの選択は、次回調整に反映される可能性があります。
“可能性”。
確定ではない。
だが、無視でもない。
湊は小さく息を吐いた。
国家が、遠くない。
それは温かさではない。
だが冷たさもない。
関与という感触。
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夜。
家庭の食卓。
母親がスマートフォンを見せる。
「これ、やった?」
高校生の娘がのぞき込む。
「うちの地域も対象なんだ。」
「どう思う?」
娘は少し考える。
「……選べるの、ちょっと怖いね。」
「なんで?」
「今までは“誰か”が決めてたから。」
母は笑う。
「その“誰か”の一部になるってことね。」
娘は画面に触れる。
その指は、少しだけ震えている。
⸻
深夜。
霞ヶ関。
モニターの数字がまた増える。
参加率三六%。
誰かが呟く。
「止めるなら、今だ。」
別の声。
「止めたら、どう説明する。」
沈黙。
ログは静かに積み上がる。
選択の痕跡が、数値になる。
数値が、次の制度をわずかに動かす。
揺れているのは国家か、
それとも人の意識か。
まだ、誰にもわからない。
Phase1は、始まったばかりだ。




