キミの名は
28/5/10
午前の演習。
教室はいつもの空気だった。
数式の走るホワイトボード。
キーボードを叩く音。
眠気を誤魔化すような静けさ。
「金城、ここの式どうなった?」
斜め後ろから声が飛ぶ。
湊は振り向かず、ノートを少し横にずらす。
「行列の対角化。そこ、基底変換忘れてる。」
「あー、そこか。サンキュ。」
軽いやり取り。
五年目のクラスだ。
苗字で呼ばれるのは当たり前だった。
その流れで、前の席の男子がふと思い出したように言う。
「そういえばさ、金城ってさ。」
湊はペンを止めない。
「京大の金城修一って知ってる?」
教室の何人かが顔を上げる。
「ああ、なんか数学の……」
「フィールズ賞だっけ?」
「テレビ出てた人?」
空気が少しだけ動く。
湊は静かにペンを置く。
間。
ほんの一秒。
「……知ってるよ。」
それだけ。
否定しない。
肯定もしない。
だが十分だった。
「あ、親戚とか?」
誰かが冗談めかして聞く。
湊は視線を落としたまま言う。
「父親。」
静寂。
笑いが消える。
「え、マジで?」
「え、あの金城?」
教員が黒板の前で振り向く。
「……金城?」
書類に目を落とし、苗字を確認する。
「ああ。そうか。」
それ以上は言わない。
教室はすぐに元の演習に戻る。
だが、どこか空気が変わった。
湊は何も言わない。
ただノートを閉じる。
その動作が、妙に重く感じられた。
⸻
夕方。
研究室。
高城、凛、そしてもう一人。
三人がモニターを囲んでいる。
画面には、Lythraenの解析断片。
静かな波形。
収束しかけた思考ログ。
凛が小さく言う。
「これ……偶然だと思う?」
誰も答えない。
だが、三人とも同じことを考えている。
不自然な最適化回避。
収束直前での逸脱。
高城がゆっくり言う。
「Lythraenの思想設計に、数学的反収束モデルが入ってる。」
凛が頷く。
「金城修一の論文と、似てる。」
静かな確信。
三人は互いを見る。
「……湊、知ってる?」
モニターの波形が微かに揺れる。
収束しかけて、止まる。
閉じない。
まるで、誰かの意志のように。
高城が小さく呟く。
「もし関与してるなら……」
そこまで言って、止める。
研究室は静まり返る。
そして画面の奥で、Lythraenの演算が続いている。
まだ知られていない対立が、
静かに形を取り始めていた。
⸻
寮の机に向かう湊。
ノートを開く。
新しいページ。
ただ一行。
「収束しない系の設計。」
ペン先が止まる。
そして続ける。
「完全解を拒否する構造。」
静かな決意。
父とは違う道かもしれない。
だが、逃げない。
湊は新しいシステムに着手する。
夜は深い。
思考は、まだ閉じない。




