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第9話:銭神の影

第9話:銭神の影

 ――『和市』が生まれたあの夜、海風は熱を孕んでいた。

 貧民も浪人も職人も、盃を掲げて叫んだ。

 「巡らぬ富は腐る!」――その声は堺の路地を駆け抜け、翌朝には、誰もが噂していた。

 「瓶田蓮次郎という若き商人が、新しい市を興した」と。

 あれから幾月。

 その風は、嵐となった。

 瓶田蓮次郎が掲げた「銭の連環れんかん」の理は、乾いた大地に降る慈雨のように、堺の隅々へと沁み渡っていった。

 会合衆の支配に喘ぐ中小の商人、腕を奪われた職人、世の理不尽に絶望した浪人たち――。

 彼らは皆、『和市』という旗の下に集い、新たな秩序の胎動となった。

 堺の町から、飢えが消え、不条理が減った。

 路地の孤児には温かな粥が配られ、病に伏す老人には薬が届いた。

 ――もはや『和市』は一商会ではなかった。

 それは堺の中に芽吹いた、もう一つの国。

 人々は畏敬とわずかな恐怖を込めて、彼をこう呼んだ。

 「銭神ぜにがみ」――と。

***

 商館の奥。

 黒檀の天秤が鎮座していた。

 片方には堺の富、もう片方には蓮次郎の理念。

 その釣り合いを保つために、彼は夜を徹して帳簿に向かっていた。

 雪原で灯したはずの温もりは、今や、誰も近づけぬ孤独の火へと変わっていた。

(これでいい。俺は間違ってはいない――)

 己にそう言い聞かせねば、心が崩れる。

 夢に見るのはいつも同じ光景。飢えた群衆が、金切り声を上げ、銭を求めて押し寄せる。

 情に流されれば、天秤は傾き、万人が飢える。

 冷徹な理こそ、最大の慈悲。

 ――そう信じることでしか、彼は心の均衡を保てなかった。

***

 その日、商館の門を、一人の娘が叩いた。

 亜麻色の衣、冬の陽を湛えた黒い瞳。

 蓮次郎の胸が静かに震える。

 ――蓮。

 雪原で救ったあの少女が、美濃の寺から訪ねてきたのだ。

 十三歳の春。八年の歳月が、少女を瑞々しく育てていた。

「師匠。私も、あなたの側で働かせてください」

 真っ直ぐな声。澄んだ眼差し。

「あなたが雪の中で私を救ってくれたように、今度は私が、誰かを救いたいのです」

 蓮次郎の胸に、あの日の雪が蘇った。

 あの粥の温もり、あの小さな手の震え――そして、理想の原点。

 だが、今彼が握るのは、温もりではなく秩序の鎖。

 蓮を帳場に置いたのは、己への戒めだった。

 この少女だけは、『和市』の闇に染めてはならぬ、と。

 けれども、彼女の眼はすべてを見通していた。

***

 帳場に積まれた帳簿の山。

 数字は冷たく、人の顔を失っていた。

 「組織のため」とうそぶく男たちは、己の派閥と利権を守るために争っている。

 理想の旗は高く掲げられながら、その下では欲と猜疑が渦を巻いていた。

 蓮は見てしまった。そして、かつて憧れた師の背が、あまりにも遠く、孤独に見えた。

 ある昼下がり。

 蓮が帳簿を届けに廊下を歩いていると、妖艶な香が流れた。

 豊満な肢体、人を食ったような笑み。

 ――お蝶。

 すれ違う瞬間、女の視線が蓮を射抜いた。その瞳が、憐れむように、そして何かを懐かしむように、一瞬だけ揺らめいたのを蓮は見逃さなかった。

 女はそのまま、師の私室へと吸い込まれていった。

***

 私室の中では、幹部の甚兵衛が苦々しく言葉を投げていた。

「瓶田殿。施薬院への銭の投入は過大です。あれは銭を生まぬ穴だ」

「甚兵衛。俺たちの商いは、弱き者を支えるために銭を巡らせるのだ。それが『和市』の理だ」

 甚兵衛は口を噤む。

 その入れ違いに、香の気配。お蝶が姿を現した。

 壁際に控える惣兵衛を一瞥し、扇で口元を隠して囁く。

「さっきの娘……雪の中で拾った子だってね。ずいぶん可愛らしくなったじゃないか」

「お前には関係ない」

「あら、つれないねぇ。理想は育ちすぎると、己を喰らう毒になるよ。あの子も巻き込まなきゃ、いいけどね」

 その声音には皮肉と憐憫が入り混じっていた。

 蓮次郎は感じていた。金のためだけに生きるこの女の奥底にも、自分と同じ孤独の影があることを。

 お蝶が去った後、蓮次郎は静かに惣兵衛に目をやった。

 寡黙に義を貫くこの男こそ、今や彼が唯一、信じられる人間だった。

***

 ある月夜。

 蓮は、独りで酒をあおる蓮次郎に声をかけた。

「師匠。八年前にいただいた銭は、粥の味がしました。とても、温かかった。でも――」

 懐から一枚の和市銭を取り出し、帳場に置く。

 精緻に鋳られたその銭は、完璧で、冷たい。

「今の銭は……鉄の味がします」

 その一言が、音もなく蓮次郎の胸を裂いた。

 ――鉄の味。

 そうだ。今の『和市』の銭は、粥ではなく鎖だ。

 人を救うはずの理念が、人を縛る制度に変わっていた。

 少女の澄んだ瞳に、自分はいかに映っているのだろう。

 雪原の英雄か、それとも――権力に魂を売った男か。

 蓮次郎はゆっくりと顔を上げた。

 その目はもはや、「銭神」と呼ばれた男のそれではなかった。

 ただ、己の理想の死を、愛弟子に宣告された一人の人間の目だった。

***

 ――救うための銭が、いつしか人を縛る鎖となっていた。

 ――温かな血潮であるはずの理念が、冷たい鉄の律へと変わっていた。

 蓮次郎は悟った。

 己が築いた『和市』が、もはや理想ではなく、一人の手に余る怪物となったことを。

 頂点に立ったその瞬間、彼の孤独は始まった。

 そして、その怪物に目をつけた者がいた。

 ――天下の魔王、織田信長。

 夜の堺に、鉄の足音が忍び寄る。

 黒檀の天秤が、静かに揺れた。

 理想の夜明けを告げた男に、試練の夜が訪れようとしていた。

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