第7話:雪に咲く理
第7話:雪に咲く理
――蓮の夢の中で、すべてを焼き尽くす炎がゆっくりと形を変えていく。
燃えさかる業火の轟きは、やがて時を超えて、凍てついた風の唸りへと変わった。
熱が冷え、破壊が静寂へと転じる。
そこにあったのは、ただ白い無音の世界だった。
***
時は天文。戦乱が国を裂き、人の命が銭より軽かった時代。
瓶田蓮次郎は、美濃の山中を独り歩いていた。
足もとを噛む雪は深く、風は針のように肌を刺す。背の荷駄は重く、懐の和銭は、わずか数枚。
行く先は、凍てついた死の街道であった。
道端には、戦の残滓が転がっている。
半ば雪に埋もれた骸。凍りついた手を、野犬が貪っていた。
人の死が風景の一部となり、恐怖も哀れみも、とうに感覚の底で凍えていた。
(……心が、死んでいく)
彼は思った。
それでも、記憶の底で父の声が微かに響く。
『銭とは、己のために掴むものではない。人を繋ぎ、世を温める血潮にしてこそ、生きるのだ』
その言葉を思い出すたび、胸の奥が痛んだ。
現実は、あまりに醜い。銭は血を呼び、血は欲を呼ぶ。
銭とは、人を獣に堕とす呪具ではないか――。
「父上……あんたの理想は、夢だったのかもしれない」
懐に忍ばせた天秤の紋の和銭を握ると、氷のような冷たさが指先を刺した。
見上げれば、雲は鉛のように重く垂れこめ、空の色まで死んでいた。
そのとき――雪の陰に、かすかな人影が見えた。
古びた荷駄の傍らで、五つほどの少女がうずくまり、雪に埋もれている。
その瞳は、光を失った硝子玉のようだった。
蓮次郎は一瞬、目を逸らした。
あの目を知っている。
あれは、飢えで死んだ妹の目だった。
(……関わるな。助けたところで、明日にはまた別の誰かが死ぬ)
そう思い、背を向けた。
雪を踏みしめる音が、やけに重く響く。
――だが、足が動かない。
妹が最期に見せた、助けを乞う瞳が、氷のように彼の足を縫いとめた。
「……ちくしょうっ!」
叫びは、吹雪に呑まれた。
それでも彼は、己の迷いを断ち切るように駆け出した。
懐の銭を握りしめ、村へ走る。粥一杯の代価として、全てを差し出した。
再び少女のもとへ戻ると、蓮次郎は自らの羽織を脱ぎ、冷たい体を包み込んだ。
粥をすくい、木匙を少女の唇へ――。
「食え。生きるんだ」
少女は首を振り、唇を固く閉ざした。
「食えと言っている!」
蓮次郎は声を荒げ、匙を押し込んだ。
――その瞬間、少女の身体が震えた。
温かさが、凍りついた体を貫く。
それは、“生きている味”だった。
少女は涙と粥とを一緒に飲み込みながら、獣のように椀に食らいついた。
涙の塩気と、米の甘さ。
それは、“生”の味。
蓮次郎は、その光景をただ見つめていた。
一匙の粥が、一つの命を呼び戻す奇跡。
彼の掌から少女の身体へ、温もりが確かに伝わっていく。
その温もりは、少女の体だけでなく、凍てついていた蓮次郎自身の心をも、ゆっくりと溶かしていった。
(……これだ)
父の言葉が、いま血となり肉となって甦る。
銭が粥に変わり、人を繋ぎ、命を温める。
これこそが、本当の「富」だ。
粥を食べ終えた少女は、安らかな寝息を立てた。
蓮次郎は懐から天秤銭を一枚取り出し、その手に握らせる。
「銭は、命を奪う刃にもなる。だが、使いようによっては、命を繋ぐ匙にもなる。俺は――この国の銭の理を変えてみせる」
彼は静かに微笑んだ。
「お前の名は、蓮だ。泥の中でも、清らかに咲く花の名だ」
***
翌朝。
蓮次郎は、蓮を寺の門前に抱いて立っていた。
老僧が現れ、少女の手の天秤銭を見て、すべてを悟ったように言った。
「お主、その子のためにすべてを差し出したな。その銭は、お主の命そのものではないか」
「俺一人の命など、安いものです。この子が生きれば、それでいい」
僧は微かに笑んだ。
「いや――お主は、一人を救って終える男ではあるまい」
蓮次郎は答えず、ただ一礼して吹雪の中へ消えた。
足跡はすぐに雪に埋もれたが、その胸の炎だけは、決して消えなかった。
個の情が、理念へと変わる瞬間。
それは、この国の“倫理の貨幣史”の、最初の一頁であった。




