第6話:篝火と残影
第6話:篝火と残影
片上湊での嵐のような一日が過ぎ、私たちは静かな丘の上で夜を迎えていた。
眼下には、穏やかな瀬戸内の海が月光を浴びて銀色に輝いている。あれほど重く澱んでいた港町の空気は、今はもうない。遠くから聞こえる人々の賑わいの声が、潮風に乗ってここまで届いていた。
「はい、お蝶さん。さっき麓で分けてもらった薬草です。傷によく効くそうですよ」
「おや、気が利くじゃないか。……けど、あんたが一番無茶してたんだからね。まず自分を労わりな」
焚き火の前で、私は煎じた薬草を布に浸し、お蝶さんの腕の切り傷を手当てしていた。艶のある声で軽口を叩きながらも、その瞳は姉のように優しい。
その隣では、石動惣兵衛さんが黙々と槍を手入れしている。その槍が、今日一日でどれほどの悪を打ち払ったことか。彼は何も語らないが、その背中が「これで良かったのだ」と告げているようだった。
穏やかな時間が流れる。
手当てを終え、私は焚き火のそばに座り込んだ。ぱちぱちと火の粉が爆ぜる音が、やけに心地良い。
懐に忍ばせた、師匠の形見の一枚銭をそっと握りしめる。
(師匠……あなたの教えは、正しかった。銭の環を正せば、こうして人の笑顔を取り戻せるのですね)
片上湊の一件で得た確かな手応えが、私の心を温かい充足感で満たしていた。
だが、その充足感と同時に、一つの大きな疑問が、再び私の胸に暗い影を落とす。
(正しいことをしていたはずのあなたが、なぜ……)
不意に、惣兵衛さんが燃えさしを崩した。
ぱちん、と一際大きな火の粉が舞い上がり、炎が一瞬、ごう、と音を立てて燃え盛った。
――その、闇に浮かんだ一瞬の赤い光。
途端に、私の喉がひゅっ、と鳴った。
潮の香りではない。
煙と、肉の焼ける、あの匂い。
穏やかな焚き火の音が、遠ざかっていく。代わりに耳の奥で鳴り響くのは、人々の絶叫と、建物が崩れ落ちる轟音。
「……蓮?」
お蝶さんの、怪訝な声が聞こえない。
だめだ。思い出しては、だめだ。前に、進むと決めたのに。
私は両手で耳を塞いだ。だが、あの音は、あの光景は、瞼の裏に焼き付いて消えない。
私の記憶は、意思に反して、あの炎の夜へと引きずり戻されていく。
ごう、という轟音。
三年前、堺の『和市』商館。帳場の入口が、内側から吹き飛んだのだ。
武装した役人たちに混じり、どう見てもごろつきにしか見えない連中が、獣のような雄叫びを上げてなだれ込んでくる。
「命惜しさに魂を売るな! 帳簿を燃やせ! 全て灰にして、仲間を守れ!」
師、瓶田蓮次郎様の怒声が飛んだ。彼は刀を抜き、迫る役人の一人を斬り伏せる。
炎と煙が渦巻く中、物陰に隠れた十三歳の私は、ただ震えることしかできなかった。
崩れ落ちてきた梁から、師が私を庇うように突き飛ばす。燃えさしが師の背中に降り注いだ。
「行けと言っている!」
彼は、まだ傍を離れようとしない私を、脇にあった小さな窓から外へと突き飛ばした。燃え盛る商館の裏手、暗い路地へ。私は泥水の中に叩きつけられる。
窓の向こう、炎の中に、師のシルエットが浮かび上がった。
彼は満足そうに頷くと、私の方へ向き直り、最後の力を振り絞って叫んだ。
「――俺の理想は、ここで燃え尽きる。だがな、銭の環は、決して絶えん…!」
次の瞬間、天井が、巨大な炎の塊となって崩落した。
ごおおおおおん、という地響きと共に、師の姿も、残った敵も、全てが業火と瓦礫の中に飲み込まれていった。
「―――いやあああああああああああああああああっ!!!!」
魂が引き裂かれるような私の絶叫は、轟音に掻き消された。
「――蓮ッ!!」
お蝶さんの鋭い声が、悪夢の底にいた私の意識を無理やり引き上げた。
気づけば、私は肩で荒い息をし、全身から脂汗を噴き出していた。お蝶さんが私の肩を強く掴み、惣兵衛さんが心配そうに私を覗き込んでいる。
「……また、あの夜の夢かい」
お蝶さんの声に、私はこく、と頷くことしかできない。
惣兵衛さんが、無言で水の入った椀を差し出してくれた。その無骨な優しさに、張り詰めていたものが切れ、私の瞳から涙が一筋、頬を伝った。
「どうして……師匠は、死ななければならなかったのでしょう……」
三年経っても、分からない。
正しいことをしていたはずの人が、なぜあんな風に、全てを焼き尽くして死ななければならなかったのか。
「……それは、あの人がただの商人ではなかったからさ」
お蝶さんは、焚き火の炎を見つめながら、静かに言った。
「あの人は、銭で天下を動かそうとした。織田信長や、今の豊臣秀吉と同じようにね。……天に手を伸ばせば、その分、闇も深くなる。そういうもんさ」
「…………」
「だが」
今まで黙っていた惣兵衛さんが、重々しく口を開いた。
「瓶田殿の理想は、潰えてはいない。……お嬢の中に、こうして生きている」
惣兵衛さんの言葉が、震える私の心を温かいもので満たしていく。
そうだ。私は一人じゃない。
師が最後に残してくれた、お蝶さんと惣兵衛さんという二つの宝物が、今もこうして私の傍にいてくれる。
私は涙を拭うと、焚き火の向こうに広がる闇を、まっすぐに見据えた。
師の死の真相は、まだこの闇の向こうにある。豊臣秀吉が統べるこの世の、光が届かぬどこか深い場所に。
「……行きましょう」
私は、静かに、だが力強く言った。
「師が理想に燃えた始まりへ。そして、その理想が潰えた最期へ。この旅の果てに、きっとそこに答えはあるはずです」
私の決意に、お蝶さんは微笑み、惣兵衛さんは無言で頷いた。
篝火の火は静かに小さくなり、夜風が灰を舞い上げる。
――炎が瞼の裏に滲んで、やがて雪のように白く融けていった。
(師匠……あなたは、どこで、その理を見出したのですか)
問いとともに、私は静かにまどろみの底へ落ちていった。




