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第5話:塩の嵐、義の刃

第5話:塩の嵐、義の刃

 夜明けの法螺貝が、戦の始まりを告げた。

 朝靄の向こう、赤穂・湊屋の紋を染め抜いた帆が、ひとつ、またひとつと姿を現す。

 十数隻の船団が、まるで潮の意志に導かれるように港口を塞ぎ、備前屋の船の出港を封じた。

「な、なんだ、あの船団は!?」

 横流しの塩を積み出そうとしていた備前屋の手下たちが、蒼ざめた顔で叫ぶ。

 だが、混乱はまだ始まりにすぎなかった。

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 赤穂の湊屋が、極上の塩をお届けにあがりましたよ!」

 町の広場に、お蝶さんの威勢のよい声が響き渡る。

 夜通しで用意した荷台の上には、湊屋から融通してもらった塩俵が山と積まれていた。

 その脇に掲げられた木札には、墨痕鮮やかにこう記されている。

 ――『備前屋様の半値にて、ご奉仕』

 一人が塩を買えば、次の瞬間には、堰を切った奔流のように人々が押し寄せた。

 歓声と笑い声が渦を巻き、町はまるで祭りのような熱気に包まれていく。

 虐げられてきた民たちが、塩俵を掲げ、銭を握りしめ、笑顔で叫ぶ。

 それは商いではなく、義の蜂起だった。

 だが、その嵐を黙って見ているほど、備前屋は甘くない。

 怒声とともに、通りの向こうから十人あまりの浪人衆が雪崩れ込んできた。

 鎧の胸板に刻まれた備前屋の印が、朝日にぎらりと光る。

「湊屋のまわし者どもを斬れぇ! 女も容赦するな!」

 群衆が悲鳴を上げ、子どもを抱えた母親が逃げ惑う。

 塩俵が転がり、銭が砂塵に散った。

「惣兵衛さん!」

 私の声と同時に、惣兵衛さんの巨体が動いた。

 槍の穂先が閃き、最前列の浪人をなぎ倒す。

 続く者の刃が彼の肩をかすめ、血がひと筋走った。

 惣兵衛さんは眉ひとつ動かさず、そのまま槍を地に叩きつけ、敵を薙ぎ払う。

 お蝶さんが背後から回り込み、二人目の浪人の腕を払った。

「蓮! 帳場の裏だ、吾平が逃げる!」

 私は頷き、裏通りへと駆ける。

 店の裏口から飛び出した備前屋・吾平が、商館の壁際に追い詰められていた。

 汗に濡れた顔、震える唇。

「たかが旅芸人と流れ者が……この町の理を乱すとは、命知らずめ!」

 彼が顎をしゃくる。

 剣閃が走り、殺気が空気を裂いた。

 だが――その刃の前に、ひとつの影が静かに立ちはだかる。

「――そこを、退け」

 惣兵衛さんの低い声が、地鳴りのように響く。

 次の瞬間、彼の槍が閃光を放ち、三人の用心棒が宙を舞った。

 その巨体が動くたびに、風が唸り、敵が崩れる。

 お蝶さんがその隙を突き、浪人の懐へと踊り込む。

 白刃が交わり、金属音が弾けた。

 一呼吸の後、浪人の刀が宙を回転して地面に突き刺さる。

 勝負は――一瞬だった。

 広場は静寂に包まれた。

 鬼神と舞姫の前に、用心棒たちは剣を捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 吾平は、膝をつき、力なく顔を歪める。

 私は群衆をかき分け、一歩前へ出た。

 泥と汗にまみれた手で、懐から裏帳簿を掲げる。

「備前屋・吾平殿。塩の味は、もともとしょっぱいものです。

 けれど――あなたの塩は、民の涙で、あまりにも辛すぎます」

 ざわめく群衆の中、私は帳簿を開き、歪んだ数字を指し示す。

「この銭勘定は、理を外れています。人の道を、外れています」

 そして、懐から取り出した天秤銭を、夕陽に透かして掲げた。

「師・瓶田蓮次郎の名において――その歪み、正させていただきます」

 私の言葉が、凪いだ港町に深く沁み込んでいく。

 静寂の後、人々の間から、すすり泣きと拍手が生まれた。

 しかし、歓声の中で私は、胸の奥に冷たい影を感じていた。

 勝ったはずなのに、どこかが満たされない。

(師匠……私は、あなたの理を継いだのに。なぜ、心が痛むのでしょう)

 銭は正義をも形づくる。だが、それだけで人は救われるのか――。

 その疑問が、潮のように胸に打ち寄せていた。

【エピローグ】

 備前屋と癒着していた役人は、湊屋の手によりお上へ突き出された。

 裏帳簿という動かぬ証拠の前に、いかなる詭弁も通じなかった。

 町には、嘘のように穏やかな潮風と、人々の笑い声が戻る。

 私たちが町を去る朝、おふじとその主人が見送りに来た。

「お嬢さん……本当に、ありがとうございました。このご恩は、一生忘れません」

 おふじの瞳に、もう怯えの影はなかった。

 私は微笑み、その涙をそっと拭った。

「この町の塩は、少しだけ、温かい味を取り戻しましたね。

 ……私たちは、特別なことをしたわけではありません。

 ただ、歪んだ環を、あるべき形に戻しただけです」

 潮風が、私の頬を撫でる。

 その音に紛れて、お蝶さんが小声で言った。

「けど、蓮。あんたが理を正しても、天下はそう簡単に変わらないよ」

 惣兵衛さんが、遠く海を見やりながら応える。

「……この国の潮も、いつかは干くる。だが、誰がその潮を引かせるのか、まだ見えん」

 私は懐の一枚銭をそっと握った。

 西の空に沈む陽が、瀬戸内の海を朱に染めている。

(師匠。あなたの教えは、人の心を確かに温めました。

 けれど――私の心はまだ、晴れません)

 三年前のあの夜、理不尽に奪われた命。

 なぜ、正しい人ほど先に逝くのか。

 その答えを見つけるまで、私の旅は終わらない。

 潮騒が、夕暮れの丘にやさしく響いていた。

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